夜空に舞う
「邪魔するぜ」
堂々と押し入ってきたふたりを、ハサンは、ぎょっとした目つきで見た。
「あんたでも、そんな顔するんだな」
ユウがうしろ手に施錠すると、
「……フフン」
ハサンはパイプを口に運び、美味そうに煙をはく。
「この世には、驚愕に値する出来事が少なすぎるだけだろう」
さすがにその声からは、もはや、わずかな動揺さえ感じ取ることはできなかった。
「オッサン、窓から離れて、そこへ座りな」
と、アレサンドロが示したのは、寝室への扉からも遠い、ひじかけ椅子である。
ハサンは素直に従い、オットマンに足を乗せた。
「後学のためにひとつ。なぜ、私に追いつけた?」
アレサンドロはユウを指さし、
「神様のお導きさ」
「……なるほど」
ユウは、口から出かかった文句を呑みこんだ。
浮き上がったレンガを踏み鳴らし、窓の外を、荷馬車が通りすぎていった。
「さて……それで?」
「それで? とぼけるんじゃねえ。指輪を返しな」
「ほぅ、どちらの」
「……俺は、返せ、と言ったんだぜ」
「ンンッ、フ、フ、フ」
ひじをつき、手のひらにあごを乗せたハサンが、笑った。
「賢い男だ。無駄な情報を与えんよう、上手く言葉を選んでいる」
「そいつはどうも」
「それに免じて、単刀直入にいこう」
「ああ、結構だな」
「いまでも、カラスにほれているな」
「……!」
心臓に打ちこまれた杭を確かめるように、アレサンドロは胸を押さえた。
「そういうのは、ちょっと、卑怯なんじゃねえか?」
「フフン、この歳になると、他人の驚く顔を見るのがなにより楽しみになる」
「……悪趣味だぜ」
アレサンドロは、つばを飲みこんだ。
この男はどこまで知っている? どこまで気づかれた?
アレサンドロの脳が回転したが、答えが見つかるはずもない。
むしろ考えれば考えるほど、次に発せられる言葉が恐ろしくなった。
ギュンターのミザールと対峙した、あのときに抱いた感情とは違う。これは、トラウマをえぐられる恐怖だ。
「アレサンドロ」
ユウが、その腕を握った。
「ハサンは、N・Sの正体に気づいただけだ」
「愚かだな、ユウ。なぜ、そう決めつけられる」
射すくめるハサンの目が、ふ、と細められたのを見て、アレサンドロは半歩、あとずさった。
「わかっているぞ。おまえが魔人の奴隷であったことも、医者の下についていたことも、盗掘なぞしていた理由もな」
「ただの推理だ。あんたに人の心なんか読めやしない」
「いいや、読めるとも」
ハサンは視線をはずさぬまま、手もとにあったステッキを取り、もてあそんだ。
「なんなら、もっと深く暴いてやろうか」
「やめろ!」
ユウは叫んでいた。
「これ以上、惑わせるな!」
そして、はっとした。
ここで腹を立てては、ハサンの思うつぼだ。
ユウは、深く息を吸い、太刀を抜いた。
「……俺たちは、話をしにきたんじゃない。あんたは……カラスを返せばいいんだ」
「フフン、そうだ。はじめからそうして、力に訴えておけばよかったものを」
ハサンが立ち上がった。
「だが、おまえに、私が斬れるか?」
「ああ……斬る」
「いいや、斬れんな。おまえは優しい子だ……」
ぴゅっ、と光芒が走った。
甲高い金属音を響かせ、噛み合ったのは、アレサンドロの長剣と、ハサンのステッキである。
「なら、俺が斬ってやる」
「……なるほど。ふたり同時にあつかうのは、やはり難しい」
にやりと笑ったハサンは身体を回転させ、ステッキに仕込んだレイピアを抜き払った。
長剣とまともにかち合えば、細身のレイピアなど簡単に折れる。
しかし、ハサンは巧みなステップと剣さばきで斬撃をことごとく受け流し、対するアレサンドロも、刺突をまじえながらくり出される俊敏な攻撃に、実に柔軟に対処した。
ユウに、切りこむ隙は与えられなかった。
「なかなかの腕だ」
ハサンの賞賛にもアレサンドロは答えず、突き出されたレイピアをあご先にかわし、のけぞりざま、中身のないハサンの右そでをつかむ。
が、ハサンは腕をまわし、そでをアレサンドロの手首にからませると、関節にひじを入れ、背側へそれをねじり上げた。
ひざ裏を蹴られたアレサンドロは、
「くっ!」
ひざまずく格好となった。
「おまえの動きには覚えがあるぞ」
「……なに?」
「カラスだ」
助けに入ろうとしたユウは、切っ先を向けられ、足を止めた。
「いい女だった。気高く、賢く、慈愛に満ち、誰よりも美しい。流れるように剣を使った」
「……ッ」
「粗いが、おまえの動きはまさにそれだ。あの女に教えを乞うたか」
「だったらどうした!」
「いいや? 特に意味はない」
「クッ……このっ!」
アレサンドロは剣を逆手に持ちかえ、背後を突いた。
体を開き、かわしたハサンは、その刃に右そでを斬らせ、アレサンドロを蹴る反動で、絨毯を転がった。
「チッ!」
「アレサンドロ!」
「いいから、あいつを追え!」
すでにハサンは、バルコニーから隣家の屋根へ飛び移っている。
ユウも、そのあとを飛んだ。
ハサンの身は軽い。
次から次へと飛び移っていくうしろ姿を、ユウはひたすら、追いかけることしかできなかった。
「なつかしいな、ユウ! あのころのようだ!」
こうしたときのハサンの言葉が、本心なのか、惑わすための甘言なのか、いまだによくわからない。
だがユウは、
「そうだな」
小さく答えた。
十二年と半年である。
ハサンは十年と言ったが、出会ってから別れまで、それだけの時間をともにすごしてきた。
いま、目の前にある背中を、追い続けた年月だった。
それは実際、家族との生活よりも長い。
様々な想いが去来して、ユウの胸が熱くなった。
「どうした! 泣いているのか!」
「違う!」
憎らしい、と、ユウは思った。
そうしている間にも、ハサンは石造りの平屋根を、駆けては飛び、また駆けていく。
「しつこいやつだ!」
「あんたこそ、あきらめろ!」
「フン、誰にものを言っている!」
方向転換したハサンの身体が、ふわりと夜空に舞った、そのときだった。
タァン!
胸を反らせ、ハサンの身体が跳ねた。
羽根のように、ゆっくりと回転しながら、
「フ、フ……、そうか……。今日がその、十日目、だったか……」
はるか彼方の、一点を見やったハサンの背と胸に、みるみる鮮血が広がった。