最後のレッスン
さて、どうして、こうなったものか。
ひとことで言えば、N・S裏取引の情報が、ラッツィンガー軍の耳にも入っていたということだろう。
伯爵夫人は事実確認のため拘束。参加者は身元を聞き取られた上で帰宅が許されたが、ハサンは他の貴族同様、むっつりとした様子で馬車に乗りこみ、会場をあとにした。
ユウが知るかぎり、ハサンはじめての失敗だった。
「……ハサン」
ハサンは答えず、窓から、ずらり並んだラッツィンガー軍の騎乗兵をながめている。
空には、飛行型L・Jの哨戒灯がきらめいて見えた。
「もう一度やるなら、その……手を、貸してもいい」
「フン、随分と上から言うものだ」
「そんなつもりじゃない。俺だってくやしいんだ」
「私はくやしくなどない」
「嘘だ」
「ユーウー」
向きなおったハサンは、笑っている。
「くやしがる理由がどこにある?」
ユウの鼻先で、ハサンの左手が開いた。
「あっ!」
乗っていたのはまぎれもなく、あの、鈍色の指輪であった。
「いつの間に……!」
「ラッツィンガーを出迎えるため、奥方は我々のすぐ横を通った。忘れたか?」
「でも……俺たちが出るとき、指輪は将軍が……!」
伯爵夫人から証拠品として取り上げていたのを、ユウは目撃している。
「私が下調べもなしに盗みに入ると思うか? 偽物ぐらい用意してある。あの奥方程度の目なら見破れんだろう」
取調べにおいて、伯爵夫人が身の潔白を訴えることは間違いない。
証拠の指輪にしても、当然、N・Sなど出てこないわけで、誤情報であった、はじめからそんなものはなかった、という結論が出されることとなる。
放免となった伯爵夫人が偽物にすりかわっていると気づいても、結局は訴えられずに泣き寝入り。
たとえここであきらめきれずに犯人を割り出そうとしても、容疑者は客、使用人、聖鉄機兵団騎士と、それこそ数え上げればきりがない。
N・Sコウモリは、完全に幻と消える。
「完全犯罪とは、衆目の中でのみ生み出される芸術だ。その興奮も、またしかり」
ハサンは指輪に、情熱的なキスをした。
ちなみに。
ジークベルト・ラッツィンガー将軍に情報を流したのも、実はハサン自身であったと聞き、ユウはさらに驚いた。
理由のひとつは、犯人候補を増やすため。
もうひとつは、あの会場から安全に逃げるためである。
オークション後ならばいざ知らず、はじまる前の客は、聖鉄機兵団にとっては第三者。偽物とはいえ現物はあるため、所持品の検査もない。
しかも逃げたのではなく、追い出されたとなれば、ハサンとユウの印象は、かぎりなく薄い。
「そこまで計画ずみだったら、俺は必要なかっただろ」
ユウは、少しすねた。
「本当にそう思うか?」
と、機嫌を取るように頬をつつく指を払うと、今度はおもむろに襟をつかまれ、ぐいと引かれた。
ふたりの顔が、間近にせまり、
「おまえは、なにもわかっていない」
吸いこまれるような眼差しに、ユウのあらがいかけた手が、力を失った。
「おまえは必要だった。盗みのためではなく、私のために……」
ささやかれる優しい言葉が、ユウの耳をくすぐる。
「私をうらむか?」
ユウは、問いの意味もわからぬままに、ゆっくりと、首を横に振った。
「いい子だ」
と、微笑んだハサンの右目がさらに細まり、いつの間にか、ふたりの頬がふれ合っていた。
耳もとへ吹きかけられた息の熱さに、ユウは、ぞぞ、と、鳥肌を立てた。
「最後のレッスンだ」
「え……」
「盗みは奇術。盗まれる人間に、自分の意思で状況を作り出させることが肝要だ。その点、あの奥方は実によく動いてくれた。ラッツィンガーにおびえ、指輪をわざわざ、盗みやすい懐中に隠してくれた」
「……隠さなければ、盗まれなかった……」
「そうだ。堂々と指にはめていれば、盗まれることもなかった……」
「……ッ!」
ユウはハサンを突き飛ばし、距離を取った。
すぐに上着を探ったが、ない。
「探しているのはこれか?」
笑うハサンの指に、カラスの指輪が光っていた。
「ハサン!」
「偽物を用意していたと聞いた時点で、おまえは気づくべきだった。私が、この指輪の正体を知っているとな」
「ハサン! やめてくれ!」
「そして警戒するべきだった。レッドアンバー、カッサーノ、エルマンデル、白フクロウ。誰もが知っているとな」
「頼む! 返してくれ!」
「誰も信用するな! 教えたはずだぞ、ユウ!」
ユウは、ハサンにつかみかかった。
「それだけは駄目だ! 駄目なんだ!」
「フン、あの男も持っているだろう。半人前がふたり、N・Sはひとつで、十分だ!」
蹴り倒された勢いでドアが開き、疾走する馬車から、ユウは半身、外へ出る格好となった。
すぐ目の前で、車輪が回転している。
弾かれた小石が頬をかすめた。
「ユウ」
と、その襟首を取り、ハサンが優しげな声で言う。
「……さらばだ」
外へ投げ出されたユウの身体は、数十メートルも地面を転がり、止まった。
痛みを押し、顔を上げると、遠ざかる馬車の後方に、上等な布地でこしらえられた袋が落ちている。
中には使いやすいよう小金貨のみで、十万入っていた。