誰も知らない物語
ひとりの少年が、痩せた男の手を引いて駆けていた。
歳は、八つか、九つか、十か。そして男は五十過ぎ。
父と子のようでもあり、祖父と孫のようでもあり、教師と生徒のようでもあり……。実際、男はメイサの神官衣をかっちりと身につけていて、その清潔な微笑みと子に対する態度は、
お父さん。
と、呼ばれていても、血のつながり以外の、なにか美談によって生まれ育まれた関係を想像させた。
お父さん、早く早く。
少年は体重をうんとかけて、男の腕を引いていった。
お待ち、ダニエル、お待ち。
男はいかにも走り慣れていない様子で、ふうふうと息を切らせながらついていった。
少年と男が、神殿から少し離れた我が家の裏手にまわると、林の中の木は何本も横倒しになっていた。昨夜の、時ならぬ嵐のせいだった。
お父さん、ここよ、ここよ!
エプロンを巻いたままの娘が、手を振って呼んでいた。それが、隣の木にもたれかかるようにして倒れかかった木の近くだったので、男は強い言葉でしかりつけた。
そこは危ない。セイラ、離れなさい!
いいから来て、お父さん。急いでるの。
男は仕方なく、娘のそばへと寄っていった。
あれよ。
ああ、カラスだね。
もたれかかられたほうの木に営巣していたのだろう。木の間にはさまって黒い翼がたれていた。
お父さん、こっちも見て。
今度は足もとだと言うので男が腰を曲げてやると、娘はそこに広げてあったハンカチを取りのけた。
短い小枝の集まりの中に、ばらばらの割れかすと、ひとつだけしっかりと残った、青いまだらの卵があった。
あのカラスのだよ。
少年が泣きそうに言った。
まだ生きているかもしれないわ。
娘が上目づかいに言った。
温めてみたいのかい?
男は父親の顔になった。
子どもたちは、ふたりしてこっくりした。
うん、これもなにかの縁だろう。メイサに感謝を。そして、加護がありますように。
………………。
あ、割れた!
出てきたよ、出てきたよ!
………………アー。
お父さん。
ヒューってば、セイラじゃないと逃げるんだよ。
ずるいや、ずるいや。
………………アーアー!
ねえ、お父さん。
どうやったらヒューは飛べるようになるのかしら。
今日も空へ投げてみたのだけど、落ちてきちゃうのよ。
………………アー。
ねえ、お父さん。
ヒューってば神歌が好きなんだね。
いっつも、うっとりして聞いてるし、この前なんか一緒に歌ってたんだ。本当だよ。
きっとご加護があるね。
いい子だね。
………………。
ねえ、お父さん。指輪を知らない?
ちょっとはずしていたら、なくなっちゃったのよ。
あたし、今度、あれを売ろうと思ってるの。こんなに実りが悪いんじゃ、お金を借りに来る人だって増えるだろうし。なんだか世の中、物騒になってきたし。
あ、あった。
ヒュー、やっぱりあんたが隠してたのね。
きらきらしたものばっかりベッドに入れて。
ホントに悪い子なんだから。
なに?
取るなって言うの?
まあ、お父さんまで味方して!
ううん、そうね。まあ、いいわ。
あんたにあげる。
大事にしてね。
………………アー?
ねえ、ヒュー。
お父さんもセイラも屋根裏に隠れてろって言ったけど、僕、ちょっと外を見てくるよ。
おまえはここにいるんだよ。
いいね。
出たらいけないからね。
………………アー!
なんだこのカラスは!
ええい、やめろ、やめ、やめろ!
ぎゃあ!
目が、目が!
この、鳥め!
………………ああ。
降る降る、黒い雪が。
真っ黒な灰と、真っ黒い羽根が。
………………。
土にまみれた少年の手に、温かい手が重なった。
少年がぼんやり顔を上げると、それは見たこともない男だった。
そうか。
おまえが約束の子か。
男はそう言って、少年の頭をなでた。
カラスだった少年は、そのまま男の弟子になった。
そして……。