少年皇帝(1)
はあ……!
はあ、はあ……!
ここはいったい、どのあたりだろうか。
重い甲冑を揺らして走りながら、マリア・レオーネは考えた。
城内の一区画。まだ後宮の中にいることは間違いない。なぜならば、普段マリア・レオーネたちが出入りしている城の中とは明らかに景色が違う。
ひとことで言えば、金の宮殿だ。
金色に飾られた金満的な世界だ。
たとえば、いつもの城内はというと、平坦な灰色一色の天井に実用性重視の照明、立っているのは近衛騎士ぐらいなものだろう。それが、高さのあるアーチ天井には極彩色の花鳥画が踊り、シャンデリアが大きなふさをたらし、片肌脱ぎの女人像が列になって微笑みを投げている。
質実剛健。帝国の奨励するその気風が、たかが扉数枚をへだてただけでこうも消えてしまうとは。
マリア・レオーネがこの場所に踏み入ったのは今日がはじめてであったが、数十分前のそのときに感じた強い戸惑いと失望が再び胸にわき起こり、激しい舌打ちとなって表に現れた。
ああ……それにしても。
マリア・レオーネは精神的にも、深い迷宮に迷いこんでいたのだった。
「あ……!」
足がもつれて手をついた。女仕立てとはいえ、戦時用の鎧はかなり重量がある。
どうする……。
マリア・レオーネは、いっそこの重い枷を脱ぎ捨ててしまおうかとも考えた。
ベルトに手をかけるところまでして、しかしそれは、と、思いとどまった。
将軍としての使命感。いいや、違う。マリア・レオーネは身を守るものがなくなってしまうのが恐ろしいのだ。
誰から身を守るかというと、それは皇帝だ。
……リドラー……。
「!」
リードラー……。
マリア・レオーネは反射的に駆け出していた。
自分を呼ぶ声はすぐに、陽を浴びた霧のように溶けて遠くなった。
ああ、なぜ逃げる。
なぜ私は逃げる。
あれは、陛下のお声ではないか。
私は陛下のおそばにいるべき者ではないのか。
「……く」
そうは思っても足が止まらない。
陛下に捕まれば、今度こそ私は!
マリア・レオーネは、ひとつ歳を重ねて十三歳になった少年皇帝が、つい先ほど見せた目の色を思い出して身震いした。
星が散るほど強烈に張られた左の頬が、まだじりじりと痛んでいた。
「ばあ!」
「あ、ああ!」
突如、わきの通路から飛び出てきた影に驚いて、マリア・レオーネは飛びのいた。
まずい、と、思ったときにはもう遅い。甲冑の重みに振りまわされている。
人の気配のない大廊下に、尻もちをついた派手な金属音が響き渡った。
「ア、ハ、ハ、ハ、ハ」
「へ、陛下……!」
くの字にのけぞって笑い転げているのは、確かに皇帝ユルブレヒト四世。
結った長髪で隠されているが、盆の窪にはビーズのような赤い小玉がきらりと貼りついている。
それを知らないマリア・レオーネは這いつくばったまま、絶望の目で主君をながめ上げた。
「どうした。なぜ逃げるのだ、リドラー?」
皇帝は、ねっとりとした言いかたをした。
「余を守ってくれるのではなかったのか?」
「そ、それは……」
後宮へ逃げようと言い出したのは、もちろん、この皇帝であった。
先帝時代はまだにぎやかだったろう城内のこの区画も、いまはまったくのがらんどうで、すでに専属の警備隊も解散をしている。しかし当然、警護自体はしやすい場所であったので、マリア・レオーネも反対をしなかった。
後宮への扉をくぐった当初、皇帝は普段の凛々しさからは想像もつかないほど怖い怖いとおびえ、レッドアンバーの刺客から余を守ってくれ、助けてくれと、腕にからみつき腰にからみつき、それはもうマリア・レオーネが閉口するほどであったのだが……。
「し、しかし、あのようなことを」
「あのような……あのようなとは、いったいなんだ?」
「それは……」
「あの部屋には、いざというときのために隠し通路がもうけてあると言ったではないか」
「い、いえ!」
「では、なんだ?」
マリア・レオーネは、羞恥の唇を噛んだ。
黒薔薇色の天蓋に覆われたベッドに引きずりこまれ、散々にねぶられた唇であった。
それだけではない。
皇帝はそれ以上の無体をも働こうとしたのだ。
年齢のわりにウブな娘のうなじが、ぼおっと紅潮するのを見下ろして、少年はにんまりと舌なめずりをした。
「リドラー、こちらを見よ」
「は……?」
皇帝の、剣を握ったこともないような、か弱げな指が、自身のえんじ色の半ズボンをゆるめようとしていた。それがなにを意味するのかまでわからないマリア・レオーネではない。
「お、お許しを……!」
もたもたと立ち上がりかけて転がって、四つん這いになって逃げ出したうしろから、
「今度はお馬遊びをしてくれるのか?」
などと、無邪気で残忍な声がかかる。
「リドラー、ほら、もっと速く」
「う、うう」
「追いついてしまうぞ。手も足も、もっと上手く動かせ」
「く……」
「こら、馬が立とうとしてどうする。だいたいそんなものにつかまっては危ないではないか」
マリア・レオーネは片肌脱ぎの女人像のひとつにすがり、立ち上がろうとした。
そしてそれについては、どうにか上手くいった。
だがまさか、
「あ!」
用をたすまではどれほどの重量をかけてもびくともしなかった白亜の像が、突然生きたもののように腕をぐるりと伸ばして、自分を胴締めにしようとは。
「ア、ハ、ハ、ハ」
皇帝はまた、けたたましく笑った。
「ほら、言ったではないか。危ないぞ、と」
「へ、陛下、これはいったい!」
「新しい警備隊だ。余もいずれは妻を……いや、『妻たち』をここに置かねばならぬからな。ハ、ハハ!」
マリア・レオーネは、視界に入っているだけのすべての女人像が、いっせいに柔和な微笑をこちらに振り向けたのを見て、ぞおっと震え上がらずにはいられなかった。
「どうだ、リドラー。この像の肌は意外に柔いであろう。そなたたちの戦った、天使たちの技術が取り入れてある」
「て、天使……」
「いまはまだケーブルを引きずってしか動けぬが、光炉の小型化のめどもついておる」
音もなく集まってきた幾体かの女人像の手によって、マリア・レオーネの腰の剣と鎧は、散り散りにはぎ取られてしまった。
やめろといくらもがいても、剛力の前になすすべもない。
「安心せい、リドラー」
「は……!」
「すぐに法悦の中よ」
「やめ……!」
「おお、よいにおいがする。騎士の女ははじめてだが、どれ……」
「や……やめて!」
む、と、ひと声上げて少年は跳びすさり、石にのみを入れたような音がマリア・レオーネの耳もとで立った。
ぼとり。
女人像の首が落ち、マリア・レオーネはくずおれる。周囲の女人像の視線が一点にそそがれる。
それらの首も次々と落ち、這いつくばったマリア・レオーネの身体を力強く抱き起こしたのは……、
「ササ・メス……!」
いかにも、眉をいからせた紋章官。
沈黙の行を自らに課したこの男は言葉を発さない。そのかわり目にものを言わせて、主人をきつく叱責した。
なぜこうなる前に自分を呼ばなかったか、と。
「ああ、ササ・メス!」
マリア・レオーネは突き動かされるように、その胸へとしがみついた。
「ササ・メェス!」
と、これは少年皇帝の叫びであった。
マリア・レオーネはおののき、ササ・メスは鋭い眼光を皇帝へと向けた。少年の手には、マリア・レオーネの帯びていた剣が抜き身の状態で握られていた。
ササ・メスは手にしたナギナタの石突きで、どんと床をひと突きした。
「待て、ササ・メス。相手は陛下だぞ。駄目だ」
マリア・レオーネの訴えは、無言のままにしりぞけられてしまった。
「駄目だ、やめないか、ササ・メス!」