飲ろうか(5)
「さて、そのあとだが、私は牢へ戻った」
なぜということはない。盗人として処罰をされるためだ。
もういつ死んでもいい。これで皆のもとに帰れる。そうだ、騎士を呼んでやろうか。見たか、忠義の士がやってやったぞ、と、声高らかに叫んでやろうか。
ハサンは一瞬、そんなふうにも考えたのだという。
「だが、それではアルデンに迷惑がかかる。自然死に見せるのが一番だ」
そこで証拠をすべて消し、もとのとおりの牢へ、しれっと収まった。
明朝の騒ぎは愉快だった、と、ハサンは回想した。
「グライセンの城内は墓場に似ている。おまえも入ったからわかるだろうが、目に見えん力によって空気までもが支配されているような、一種不思議な重さがあるのだ」
ああ、確かに。アレサンドロはうなずいた。
「覇王への畏怖が成せる業か。とにかくあの朝はそれがなかった。表面上は上手く取りつくろっていたが、大わらわなのはすぐにわかった。なにも知らされんまま任務につかされていた看守たちの、困惑したあの目。アルデン万歳! 私は胸の中で叫んだ。アルデン万歳!」
そして、すべて狙ったとおりに事は運んだのだ。
ハサンに与えられた罰は断手刑。盗人へのお定まり。
「斧を使って、ドンときてポイだ」
「ひでえ言いかただな」
「かなり痛い」
「ああ、そりゃあ聞かなくてもわかるぜ」
「フフン、なら、そのあと私がどうなったかはわかるか?」
「ああ?」
「燃えつきた。それこそ、真っ白にな」
城の外へ放り出されたハサンを助けたのは、帝都の吸血鬼、ザ・バング。その手下たちだった。
帝都内のアジトのひとつにかつぎこまれ、治療を受け、やっとベッドの上で起き上がれるようになるまで三日だ。そして、その激痛の合間の浅い眠りの中で思ったことが、
「これからどうしようか」
であった。
「私は気づいたのだ。ユルブレヒトがなんであったのか。あれは、いかりだった。シャー・ハサン・アル・ファルドという幻の存在を現世につなぎ止めるためのいかりだった。そうだろう。私はやつの領地を荒らすためだけに盗人になったのだから」
「ああ……」
アレサンドロは、エメラルドの海の上に、黒い帆を立てた海賊船が浮かんでいるのを想像した。自分は桟橋に立っていて、その船と、カモメと、奥の岸壁をながめているのだった。
「そのいかりが切れて、ハサンという小舟は、帝国の岸を離れてしまった。アルデンに流れ着くことも、ないだろうと思った」
「……ああ」
「真っ白だ。真っ白」
ハサンは肩を震わせた。
それは、喉骨の隙間から哀切のため息をはく、骨船長を思わせる笑い声だった。
「で……どうした?」
「なんとかまた生きる動機を見つけようと、『魔術師らしい』盗みをくり返した。だが駄目だ」
いつもの高揚感は得られなかった。
「ユウも探した」
見つからなかった。
「女と酒」
時間つぶしにはなったが、それだけだった。
「そして、見るに見かねた吸血鬼が、とにかくやってみろと押しつけてきた仕事が、あれだ」
N・S、コウモリ。
アレサンドロは、あっ、となった。
「正直、気乗りのしない話ではあったな。そのころにはもう私の心身は萎えていた。五感が鈍っていた。素人の追跡を許すかもしれんし、バカの銃弾を浴びるかもしれん、と、思った」
「ぷ、はは」
「だが、受けてよかったな。こうしてこの胸の秘密と、命を預けられる友を得た。新しい主を得た。本当に、生きてきてよかった」
「……おう」
「人生、なにがどう転ぶかわからんな。とりあえず生きてみるものだ」
ここでアレサンドロは、いま言おうか……と、思った。
この男はもう知っているのかもしれない。いや、知っていようといまいと、ここで、笑ってはき出してやろう、と。
もう、秘密はいらないのだ。
「なあ、ハサン」
「ン?」
「あんたが力を貸してくれたのは、俺が、『アドルフ・デルカストロ』だからか?」
聞いてハサンは、にこっとした。
「騎士の世界にはこんな言葉がある。『アレサンドロを信用するな』」
「偽名が多い」
「そのとおり。なにしろ聖アレサンドロといえば、南部で非常に人気の高い聖人だ。その名をもらう男児もごまんといる。悪党に限らず、家出少年が名乗るにも、どうだ、格好の名ではないか」
「ハ」
「とにかくまあ、そこから私の邪推ははじまった」
アレサンドロが偽名だとして、はたして、その正体は何者か。
身分の高い家の息子で、南部出身。十数年前に行方不明。
「ひとりいた。まさに、アドルフ・デルカストロ。デルカストロ大公爵の嫡男にして、驚くではないか、この国の帝位継承権所有者のひとりだ」
「まわってくる目はねえけどな」
「そんなことは問題ではない。王の血を継いでいる。それこそが重要なのだ。私の目がふし穴でないことのなによりの証明になった」
ハサンは夢見るような顔で、自分の頬をぴたぴたと叩いた。
「だが勘違いをするなよ、アレサンドロ。確かにそれはひとつの裏づけにはなったが、私自身がまた表舞台に出ようという、その決め手にはならなかった。そこで、最初の話だ」
「最初?」
「そう、恋だ。カラスへの恋心」
うへえ。
またその話に戻るのか。
「いいか、恋と愛の違いとはなにか。愛は、なにとでも結ばれる」
たとえば。
酒を愛している。
家族を愛している。
あの山を愛している。
神を愛している。
「だが恋は違う。恋は、対等のものとしかできんのだ」
夢見る顔に、みるみる情熱の炎が加わった。
「カラスは最高の女性だ。メーテル、メイサ、マハ、それら女神にも等しい。奇跡を無条件に信じさせる力があった。それに恋したおまえにもまた、きっとその力がそなわっているのだろうと思った」
ハサンはひざを、ずいとにじり寄せ、
「私は正しかった」
「……」
「おまえは、いい王になる」
「……それは」
「おまえの作る国。おまえの作る世界。私は、それを見てみたい。そこに住んでみたい。そうとも、いい国になるだろう。美しい世界になるだろう。おそらく私は死の瞬間まで、その地を、新しい故郷と呼び続けるだろう」
「ハサン……」
「我々の積み重ねてきた過去は、無駄でも悲劇でもなかったな、アレサンドロ。しっかりと、ここへつながっていた。そして、この先の先へとな」
帝国との裏交渉のためにハサンがコルベルカウダを発ったのは、その翌日のことだった。
目を疑うほど堂々とやってきた運び屋、デンティッソのL・Jに便乗して行ったのだ。
はじめて見る魔人の浮城に気をよくしたデンティッソが、改造満載の操縦席から、
「行き先は?」
と、うきうき問うたが、ハサンは酔ったような顔をして、なかなかそれに答えない。
この男が何度も何度も思い返していたのは、昨夜のアレサンドロの微笑みと、
「そうだな」
という、ひとことだった。
……ああ、まったく。
『この帝国内に国を建て、皇帝に認めさせる』
ここまでアレサンドロと追ってきた夢の、なんと楽しかったことか。なんとまぶしかったことか。
殿下と同じ夢を語り合ったときは、仕方がないとはいえ、悲しいばかりだったがな……。
「魔術師」
「ン?」
「行き先は?」
「……エルンスト・コッセル」
「ひゅーう。ついに決闘だ」
デンティッソは歯茎を見せて笑った。
「決闘ですむなら簡単だがな」
と、ハサンもつられて笑い返した。
まあ、いずれはアルデンの皆に会えるのだ。少しくらい余生を楽しんでも構うまい、という気分であった。