大事な日
それから毎日毎日、ユウは調査のために出て行った。
ときにはぬれねずみの姿で、またときには飲めないはずの酒のにおいをさせ、宿へ戻ってもわずかな食事ばかりを取って、すぐまた窓から出て行ってしまう。
髪は灰色に薄よごれ、目は人生に疲れたようで、馬小屋にでも寝泊まりをしているのか、近づけば、すんと馬糞くさい。
あまつさえ、
「お湯もらってこようか?」
「いや」
「着替えは?」
「いらない」
「……」
「ララ」
「なに?」
「いや、なんでもない」
と、この調子なので、ララは、それ以上のことを言わなくなった。構って欲しいというもやもやは、いつ口から飛び出してもおかしくないほどふくらんでいたが、口をしっかり閉じることで我慢をした。
そう、いまは待たなきゃ……。
モチの言うとおり、ユウはいつかきっと、自分を必要としてくれる。
ララは小さくなったままで、その日を待ち続けた。
だが……。
そうすると、つのってくるのが、例の仇に対する憎しみである。腹が立って仕方がない。
大事なユウの心を独占しているというのが、やはりひとつ。
ここで自分に、無駄とも言える時間をすごさせているというのがひとつ。
考えれば考えるほど、つれなくされればされるほど、もやもやがイライラに変換されていく。
そして、ユウの単独行動が十日にもなったとき、ララは拳を握りしめて、猛然と決意した。
絶対に一発殴ってやる!
もし、それがかなわなくても、ユウがとどめを刺す瞬間には絶対に立ち会ってやる!
ユウより先に動くのでなければ、きっと問題ないはずだ!
すると、『目標』の力は偉大なもので、その計画を練るようになってから、胸の内が、すうと、軽くなったのである。
殊勝な顔をして階下の食堂へ行き、『病にふせる兄』のために食事を整えてもらうことも、日に一度は必ず戻ってきてくれるユウのために、鏡の前で笑顔の練習をすることも、日がな一日、鼻歌を歌いながら借り本を読んですごすことも、すべてその目標達成のため。
そう思って行動すると、驚くほど自分が軽くなったのである。
まるでお嫁さんみたい。
そんな幼い空想まで、ララは思いつくようになった。
ユウ、今日はいつ帰ってくるのかな。
その夜も、そんなことを思って、早めにベッドに入った。
「……ララ」
「ん……」
「ララ」
「……う」
鼻先に突きつけられた光石ランタンがまぶしくて、ララは強く目をつむった。
「あ、悪い」
「ううん、ごめんね。帰ってるの、気づかなくて」
「いや」
「ごはん?」
「いや」
「お金?」
「いや、違う」
ぎし、と、ベッドが傾いた。
ララが半身を起こすと、尻をベッドの端に乗せたユウが、いわく言いがたい顔で、こちら見つめ返してきた。
あれ……?
なんだか、すっきりとしている。
田舎の若者が街へ出て行くときのような一張羅を着て、髪は黒々、顔には一片のよごれもついていない。
熱に浮かされたようだった目には優しさが戻り、眉間のあたりに少しだけ、緊張の色を映していた。
「ユウ……」
ララの予感を肯定して、ユウはうなずいた。
「これから行ってくる」
ララは息が詰まりそうになった。
とうとう来た!
「ララ?」
「う、うん、そっか」
「……」
「なに?」
「なにも言わないんだな」
「え?」
「ララはなにも聞かない」
「そ、それは、ユウが、言わないから……」
ララは自分で自分が恥ずかしくなるほど、うろたえてしまった。まさかこのような展開になるとは思ってもいなかったのである。
たぶん出て行くときも、じゃあ……ぐらいの素っ気なさなのだろう。
あとのことはモチにでも頼んでいくのだろうと、その程度に考えていたのである。
ララの計画では、そのときはなに食わぬ顔をして別れ、その実、あとをつけていくつもりだった。
押しかけ女房ならぬ、押しかけ見物人として。
「や、やめてよ、そんな、見ないで」
「ああ」
「早く行ってよ」
すべてを見透かすような視線が嫌で、ララはユウの肩をぐいと押した。
ユウは、ああ、と、煮え切らない返事をして、腰を上げた。
「ララ、もしかしたら、今日というわけにはいかないかもしれない。それでも、二、三日のことだと思う。あそこに金を出しておいた」
「持ってきたやつ?」
「ああ」
使いやすいようにと、細かく崩した一万フォンス。
「行動を起こす前に、モチをここへよこす。そしたら、あれを、ここに置いたまま窓から逃げるんだ。できるか?」
「置いてくの?」
「宿代をまだ払ってない。大きなことをするときほど身のまわりはきれいにする。どうせいいだろうと、小さな罪まで重ねるのは駄目だ」
「って、ハサンが?」
「ああ。迷惑料を入れても、ちょうどいいくらいだと思う」
「わかった」
「……じゃあ」
「ねぇ、ユウ。一緒に行っちゃダメ?」
あきらめかけていた言葉が、ついつい口をついて出た。
「あたし、行きたい。ユウのこと手伝いたい。ダメ?」
「ララ」
「お願い。連れてって」
小さくすそを引かれたユウは、弱った顔をして首を振った。
「駄目だ。こっちの段取りもあるし、外は、寒いし」
「平気」
「平気じゃない。絶対に駄目だ」
そうして、ララはまたひとり、寒い部屋に残された。
いっつも置いていかれるなぁと、ひがんでしまうのは仕方ない。心のどこか奥底に、刺さって抜けない記憶がある。
古い古い、捨てられた記憶が。
「……で、も!」
今日は違う。
追いかけていく自由がある。
ララはベッドから飛び出して、準備に取りかかった。
まずはとにかく着替えよう。
「あ……そういえば」
先ほどユウは、ドアから出て行った。これは、いままでになかったことだ。
計画どおりなのか、間違えたのか。
まあいっか。
ララは、ロンドランド刺繍の入った古着のワンピースを肌着の上から勢いよくかぶった。布地の色は紅茶色。好きな色。
髪をおさげに結いなおし、
「ユウはどこまで行ったかな」
と、思ったところで、ぎょっとなった。急にドアが開いたのだ。
「なぁんだ、びっくりした」
それは、息を切らせたユウであった。
「あ、やっぱり窓から出てくつもりだったんでしょ」
ララが笑うと、ユウは居心地悪そうに視線を泳がせた。
「あ、これは、ほら、あれだからね。は、早く準備しとこうと思って着替えてるだけだから」
「……」
「なに? ユウ、怖い顔……いたッ!」
両肩を強烈につかまれ、ララは身をこわばらせた。
このときのユウの、険しい目と熱い深呼吸を、ララは一生、忘れることはないだろう。
「だ、だって、ユウ、逃げろって……」
と、伝えかけた言葉は、
あっ!
と言う間に、余裕のない、必死な唇によって吸い取られていた。
あ、あ、ああ……ああ!
躍り上がった心臓が、じんじん、じんじん熱くなる。
これ、キス……キス、キス、キス……!
ララの指はほとんど無意識的に、広い背中をつかみしめていた。
たくましい腕はララの頭をかき抱き、ふたつの身体はぴたりと密着した。
す、すごい……。
ユウの唇の、しわの一本一本までもがはっきりとわかる。
熱い。
身体中が、熱い。
頭……爆発しちゃう……。
「ララ、ララ!」
「……う、うん?」
大きな手が、優しく頬を叩いていた。
どうも地面に寝転がっているらしいという以外は、右も左もわからない。
ただ、唇がさびしい。
「よかった、死んだかと思った。いきなり気絶するから」
「きぜつ?」
ララは心配そうな、そして、ほっとしたような男の顔を見返した。
「……ユウ」
ユウだ。
ユウと……。
「あ」
また心臓が炉のように燃えはじめた。
またたく間に血が沸騰して、いま、自分の顔からは、その湯気がしゅうしゅうと上がっているのに違いない。
「あ、あの、えと」
やだ、恥ずかしい……!
キスのあとはこんな気持ちになるのかと、ララは床の上を転がって顔を覆った。
おまけに気絶って、自分のバカ!
そういえば、キスしてる間もずっと、目を開けたままだった、バカ!
「ララ」
耳もとで聞こえたユウの声は、燃料に等しかった。
「悪かった」
「な、なにが、ていうか、こ、こっちこそ」
「もう、行かないと」
「う、うん、行って。大事な日だもんね」
「ララ」
「うん」
「好きだ」
「!」
「行く前に言いたかった。好きだ」
「……バカ」
頭のうしろに、温かいなにかがふれた。
またキスをされたのだな、と思うと、目から幸せがあふれ出た。
あたしやっぱり、ユウが好き。
大好き。
「帰ってきたら、全部教えてね。家族のこととか、いっぱい」
「ああ……行ってくる」
ユウは応えてくれた。