法官とオレンジジュース
その同じ夜。同時刻。
これは確かに偶然に、ハサンの姿が、大河聖ドルフをはさんだ対岸の町、アーカンにあった。
「寝言は寝て言え、泣き言は、やるべきことをやったのちに言え」
「い、いやいやいや、待って、待ってよ。ねぇ、そんなのはいいから買いに行かせてよ。どうせ俺たち、帝国を一周するわけでしょ? シューティング・スターの弾がないと、俺たちみんなが困るわけだしさ」
「フン」
「ああ、そりゃわかるよ? 俺が出て行くためには、誰かに運んでもらわなくちゃならない。クーさんか、ララちゃんにね。それでここが手薄になるのが怖いんでしょ」
「おお、お利口だな、テリー」
「だけど、鉄機兵団が怖いから出て行くな、でも鉄機兵団と戦えじゃあ、こりゃ無理だよ」
「テーリー」
「ななな、なに? 怖いなぁ」
「私は生来、謙虚なたちで、人に意見することなど滅多にないのだが……」
「いやいやいや」
「すでに手は打ってある。おまえはドーナツでもしゃぶりながら、銃身でも磨いていることだな」
……と。
このようなやりとりがマンタにおいてかわされたことが、このハサンの単独行動の理由であるわけだが、もちろんユウは、そのことを知らない。知るはずもなければ、気づきもしない。
ましてや、思うところがあってここへ来たはずのハサンが、悠々とグラスを傾けているなどと、どうして思うだろうか。
アーカンは万事においてモダンを取り入れた街であり、なるほど、酒場であっても垢抜けたものだ。大衆酒場と呼ぶにふさわしい他の町のそれと比べると、いかにも都会的で上品である。
店員のしつけも行き届き、ドアベルを鳴らして訪れる客たちも、
「よう、いつもの」
などという幻滅をさせず、どこか大人を演じるような、ままごと的な気取りかたで席に着く。
店内の品格をこの上もなく高らしめているもののひとつに調度品があるが、ハサンはその中でも、テーブルわきに置かれた、高さ三十センチほどの光石ランプが気に入った。ブロンズ製の乙女が、はいどうぞ、と光球を差し出す。そのような意匠のランプだ。
その精緻な薄衣の表現。ララにも似た乙女の、小生意気そうな目もと口もと。
「フフン……」
思わず、右目が細まった。
「お気に召されましたか」
と、カウンターの向こうでマスターが微笑む。にごりのない、美しい標準語である。
「結構だな」
ロマンスグレーのマスターは、軽く会釈した。
さてそのとき。
再び、ドアベルが涼やかな音を立てて、客の来店を告げた。
それは男のふたり連れで、しいて言うならば、巡業中の拳闘士のように見える。しかし粗雑さは微塵もなく、身なりも悪くない。
男たちはハサンの隣をひとつ空けてカウンター席に座り、肩を寄せ合うようにしてビールを飲みはじめた。
ハサンはすぐに興味を失い、奥のテーブルで言いかわされる、男女の睦言に気をやった。
……チリンチリン。
またしても客だ。
今度はハサンも振り向かず、ひとり分のぬれた靴音がする、程度に捉えた。
靴音は店内を見まわしているふうに立ち止まり、
「よろしいですか」
「ンン、どうぞ」
ハサンの横に、腰を下ろした。
ふわ、と年寄りじみた、しかし品のよいコロンの香りがにおい立ち、そこではじめて、ハサンはその男の顔を見た。
……ほぅ。
いい年寄りぶりだ。ハサンは思った。
先ほどのが拳闘士ならば、こちらは法官。自分自身を律する厳しさを持ちながら、その顔からは懐の深さもにじみ出ている。
やや着古された上下とベストは、厚い布地のオーダーメイド。北部の織で、これは値が張る。
えてしてブランドというものは着る者次第で下品になるものだが、その着こなし、コーディネート、どこを取っても隙がない。まるで、一本の紫檀から彫り出されたかのような、完璧な紳士だ。
ハサンは滅多に感じることのない羨望を、称賛の言葉に代えて捧げたい気分になった。
そして十年後の自分もまた、このようにありたいと願った。
「……ジュースですか」
「ンン?」
コートをたたんだ老紳士は、さも意外そうに、ハサンのグラスを指さした。
確かにそれには、ロックアイスの肩までオレンジジュースがそそがれている。
「これからまだ商談でな」
「それはそれは」
老紳士は眉尻を下げ、正真正銘気の毒がった。
「なに、ご老体は好きなものを頼むといい」
「左様ですか、では……」
ひととおり酒瓶の棚に目を通した老紳士は、結局、ハサンと同じオレンジジュースをオーダーした。
「ご老体」
「いえいえ、この歳になると、旅先では酒よりも、気の置けない会話が楽しみになるもので」
「今夜のお相手には私を選ばれたのかな?」
「お邪魔でなければ」
「いや、喜んで」
ふたりは微笑し、グラスのふちを、チン、と合わせた。
「……それにしても、帝国も物騒になったものです。ご存知ですか、今度は、空を飛ぶエイだとか」
「ほぅ……?」
「私は帝都から参った者ですが、いまから東へ逃げる者の多いこと。東領の宿はどこも空きがないと、知人がこぼしておりました」
「なるほど、誇り高き帝都民も落ちたものだ。そこへ行くと、我々のような戦を知る世代は強い」
「そのとおり」
「しかし、ご老体。その逃亡はむしろ、赤い三日月戦線とやらをおそれてのことではないかな?」
「ええ、いかにもそうでしょう。彼らはおそれを知らず、先日は民間の食糧庫を焼き討ちに。鉄機兵団の出城も、いくつか落とされていると聞きます」
「……ふむ」
「帝国は私の祖国です。祖国に仇なす者は、誰であろうと……憎い」
「ンッフフフ、まあ、そう熱くならず」
「あ、これは、失礼を……」
「ご老体は、その、赤い三日月戦線の目的をどのようにお考えかな?」
「国家の転覆です」
「ンッフフフ、これは、はっきりと言われるな」
「あなたはどう思われますか」
「ふむ、私もまぁ、同感だ」
「では……空飛ぶエイの一団は?」
そこでハサンはフンと鼻を鳴らし、カメオ彫のガラス皿から、スナックをひとつ取り上げた。
それを指先でもてあそんで、
「共生」
と、口に放りこむと、塩味がよくきいている。
「つまり、魔人と人間……?」
「そして、人と人」
老紳士は喉の奥でうなった。
「それができん法はあるまい、ご老体」
「……ええ、いかにも」
「納得の答えが得られたかな?」
「おかげさまで」
「ああ君、もう一杯、同じものを」
「かしこまりました」
新しいジュースが供されるまでの間、ふたりは歳相応の、寒さがつらい、という話題に興じ、互いに一度ずつ、手洗いに立った。
そうして第二幕となると、すかさず今度は、老紳士の手から手帳のようなものが差し出された。
「これは?」
「年寄りの手なぐさみ。さて、ご覧いただきたいのは……」
と、老紳士は、ペンのはさまった中ほどのページをめくり、
「どうぞ」
ハサンは、それを手に取った。
……ほほう。
それは、マンタが帝都に攻め入った場合の戦略図のようなものである。
ただし、書きこまれているのはL・Jの配置のみ。斥候部隊やコマンド・カーゴ、トラップのたぐいは書かれていない。
「お手並みを拝見」
「フフン」
ハサンはすぐにペンを取り、特に思い迷うでもなく、ささっと、なにかを書きつけた。
手振りをつけて押し返された、その解答を確認した老紳士は、一瞬顔を曇らせたのち、ほがらかに微笑した。
「あなたの勝ちです」
老紳士は懐から、まったく、くやしさ卑しさのない動作で角金貨を取り出し、ハサンの前に置いた。一千フォンスである。
「ここは私が」
「もう帰られるのかな」
「ええ。ご商談前の貴重なお時間をいただきまして」
「いやなに」
「では、失礼を」
「ああ、ご老体」
「はい?」
「よき旅を」
老紳士は目を細めて頭を下げ、ドアベルの心よい響きを残して去っていった。
ふたりの拳闘士が席を立ったのも、それからすぐあとのことであった。
「紋章官様……」
老紳士、エルンスト・コッセルが酒場『浮雲亭』から出たところ、壮年の男がひとり、それとは気づかれぬように身を寄せてきた。
コッセルは一瞥するや、すぐにそれが伝令であることを見抜いたが、まだまだ宵の口ということもあってメインストリートの人出は少なくない。
ふたりはつかず離れずのまま路地へと切れこみ、その後追いついてきた拳闘士、もとい、ボディガード役の騎士ふたりが、立ち話を装い、その出入り口を封鎖した。
「閣下から、なにか」
「いえ、ディアナ大祭主猊下が発見されました」
「猊下が! それはよかった」
「現在は、バーテの、地方騎士団詰め所に」
「バーテ? ではすぐに向かいましょう。船の用意は」
「整っております」
「結構」
「あ、紋章官様、あの男の監視は……」
「もう結構」
「は……」
「全隊に通達。作戦を取り消し、バーテへ移るように」
「了解いたしました」
さて……。
その後またひとり、ちびりちびりとジュースをなめはじめたハサンのもとへ、来訪者があった。
実はこれこそが例の商談相手というやつで、男はドアベルの音が消えるその前に、ハサンを探し当て、近寄ってきた。
「やあ、魔術師」
長く伸びた縮れ毛を、無造作にたばねた褐色の男である。
実際の年齢は三十を超えているのだろうが、くりくりと輝く目は純真そのもの。男女を問わずウィークポイントとなりがちな出っ歯も、この男の場合は愛嬌に変わる。
常に満面に浮かべた笑顔は心底人生を楽しんでいるようで、とにかく、少年のような男であった。
「オレンジジュース」
言った男は狐の襟巻きを投げ捨て、ジャケットに雪を乗せたまま、ハサンと親愛の抱擁をかわした。
そして、ひょろりと長い手足を折りたたむようにして、先ほどまで老紳士の座っていた席に腰を下ろした。
「まずは乾杯」
「ンン」
「これは美味い、さすがアーカン」
「……尾けられたな、デンティッソ」
これが、男の名である。
「知ってる。相手は知らない」
「エルンスト・コッセル」
「ひゅーう」
デンティッソは下手な口笛を吹いた。
「そりゃ大物だ」
「我々がおまえにつなぎをつけること、読んでいたようだな」
「でも最後には魔法をかけられて、おさらば退散」
「さて、魔法をかけられたのは私かもしれん」
「へへっ。……それで? 僕のお仕事は?」
「キンバリー研究所を知っているな」
「もちろん」
「そこで荷を受け取ってもらいたい。コンテナにして三台分」
「届け先は?」
「マンタ」
「空飛ぶエイ」
「そうだ。謝礼は百万」
そこでまたしてもデンティッソは口笛を吹き、ハサンがカウンターに置いたケースの中身を、うきうきとのぞき見た。
これほどの大仕事は滅多にないのだろう。ひと声、満足げなうなり声をもらし、それを自身の足もとに置く。つまり、承知した意に他ならない。
ふたりは再びグラスを合わせ、契約を完全なものとした。
このデンティッソのように『運び屋』を生業とする者は、実は全国的に見ても少なくない。
その手段としてL・Jを使う者もまたしかりで、聖鉄機兵団、地方騎士団、一部の神兵団以外に飛行型L・Jの所有を許可されているのは、この職種の者たちだけである。
なにしろ物流は、国力を見る上でも、国力を増強させる上でも重要なファクターであるから、安全かつ迅速な航空運送を、むしろ帝国としても奨励しているところなのだ。
とはいえ、旧来よりの馬車や人の足に頼った運送業者はともかく、飛行型L・Jに乗るためには認定証が必要で、俗に言う『運び屋ギルド』への登録が義務づけられている。
デンティッソも、もちろんこれに加入しているのだが、この男の場合、仕事と依頼主を選り好みをしない、というのが問題であった。
しかし、こうした非合法的な分野まで引き受ける合法業者の存在は、裏社会のみならず国家の中枢などからも需要があり、鉄機兵団としても、ある程度ならば見て見ぬふりという形を取っているのだった。
「なにか、愉快な話題はないかな、デンティッソ?」
すかさずハサンの懐から、もう一枚、小金貨が差し出された。
デンティッソは、それをポケットへ落としこみ、
「月の大祭主がさらわれた」
「赤い三日月戦線の仕業だな」
「ご名答」
「他には」
「スダレフ」
「ああ、知っている」
「なにか造ってるみたいだ」
「……ふむ」
これがユウならば、なにを、と、さらに問いただしたことだろう。
しかしハサンは、デンティッソが生来の素直な男で、物事をぼやかすことがないと知っている。この男がなにかと言うからには、よくわからない『なにか』なのだ。
「わかった」
と、笑いかけてやると、デンティッソもまた、うれしげに歯茎を見せた。
ハサンはもうひとつのケース、これは先ほどよりも大きなものだが、それをデンティッソの前へ押しやった。
「キンバリー研への代金だ。品物を受け取る際に渡してくれ」
「了解」
「我々はしばらく、帝国中の空をめぐるつもりだ。すまんが、そのつもりでな」