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ランドスケープ・アゲート  作者: 紅亜真探
【四】 奮闘 -アレサンドロの未来・中編-
170/268

私に構うな

「……あ」

「ディ、ディディ……?」

 それはブルーノの妻、ディディである。

 どうしてここに、というのは相手にとっても同様で、ディディはこの予想外の遭遇に驚愕し、一瞬、身をすくませた。

 そして、どこか幼さを残しながらも、ふたりの子を持つ親にふさわしい、健やかな美しさをたたえた顔へ困惑をにじませ、薄暗い室内をかえりみた。

 ここで、まさかハサンと、などと邪推してはいけない。

 ディディの手にはトレーが握られており、空のコップと、手つかずのピザトーストが乗せられている。

 医者であるアレサンドロはやはり、ハサンの病を疑った。

「ディディ」

「あの……」

 なにか言いかけたディディだが、その言葉を呑みこみ、

「すみません、これを持っていていただけますか」

 と、アレサンドロにトレーを預け、エプロンのポケットから探り出した鍵で、そっと、ドアに錠をかけた。

「向こうで……」

 声をひそめたディディが先に立ち、ふたりは、第一階段の踊り場へと場所を移動した。

 そこでは、ふたりの年寄りが、昨日張りかえたばかりの『踊り場ギャラリー』を前に談笑している。

 壁一面を彩る、大小様々な絵のすべてが子どもたちの手によるもので、どうやら互いの孫自慢をしていたらしい。

 年寄りたちは、ふたりの姿を認めると小さく会釈をし、にこやかに階下へ去っていった。

 アレサンドロとディディもまた、何事もなかったかのように、これを見送った。

「……で。こいつはいったい、どういうことだ?」

「はい、それが……」

「あいつは、どこか、具合が?」

「いいえ、それが私にもわからなくて」

「うん?」

「おとといの、朝食の仕込みをしているときです。私を呼んで言われました、頼みがあると」

「頼み?」

「はい」

 ディディはトレーのトーストに目を落とすと、小さなため息をはいた。

「実は、このことは秘密にするようにと言われているんです。でも聞いてください。私もあのかたのことがもう、心配で……」

「ああ、わかった。聞くぜ。聞かせてくれ」

 胸をなで下ろしたディディは階段のステップにトレーを仮置きし、はっきりとした口調で語りはじめた。



 実は……。

 ディディが頼まれたというのは、日に一度、いまの時間帯に飲み物と食事を運んできてもらいたい、と、それだけのことであった。

 出入りのための鍵を差し出すハサンに、ディディはもちろん、なぜかと聞いた。真意を探ると言うよりは、つい自然に出た問いかけだったと言っていい。

 その答えは、

「ゆっくりと眠りたい」

 アレサンドロは唖然とした。

「寝たい? 二日、いや三日もか?」

「はい。私もまさか、ここまでとは思わなくて」

「それでどうなんだ。あいつは本当に寝てんのか?」

 ディディは、首をかしげるようにうなずいた。

「でも、食事はほとんど。今日やっとジュースを飲んでくださって、少し安心していたんです」

「そう、か」

「ご病気ではない、とは、思いますけれど……」

 同じように寝ているようでも、病魔に侵された人間とそうでない人間とでは、はく息、吸う息だけでも違いが現れるものだ。特に母親であるディディならば、その点に関する感覚は鋭いはず。

 アレサンドロはディディの直感を信用したが、やはり自分でみるまではと、ここで早呑みこみはしないことにした。

 ディディもそれがわかったのか、ハサンから預けられた部屋の鍵を、申し訳なさそうに差し出した。

「とりあえず、このことはクジャクにも黙っててくれ。大ごとになりそうなら俺から伝える」

「わかりました」

「あんたには、世話をかけちまったな」

「いいえ、とんでもない。でもこれでようやく、肩の荷が下りました」

「あとでブリッジの連中にも、なにか腹に詰めるものを差し入れてやってくれ」

「はい」

「じゃあ、な」

 アレサンドロとディディは、ここで別れた。

 そしてアレサンドロの足は、そのままハサンの寝室へと向いた。

 それにしても……。

 こうしたことがあるものだろうか。

 ただただ眠り続けて二日と半日。ろくに食事も取らず、昏々と。

 それが以前からの重病人ならばともかく、つい先日別れたそのときには、まったく異常が見られなかったのである。

 ……いや。

 アレサンドロの足が、ドアを前にして、ぴたりと止まった。

 見られなかったんじゃねえ、そう、見せていなかっただけ、か。

 アレサンドロは鋭く舌打ちし、手の中でもてあそんでいた鍵を、鍵穴に差しこんだ。



 室内は暗かった。

 空気がよどみ、蒸し暑く、普段の倍も重苦しく感じられた。

 鼻をくすぐるこのにおいは、ディディの残していった新しいピザトーストだろうか。左手奥の空間で、香気がさびしげにわだかまっている。

 壁に指を這わせ、すぐに探り当てた下スイッチをひねると、暖色のフットライトがぼわんとともった。

 机、椅子、鎧戸の下りた窓。右手には、ふくらんだベッド。

 頭から毛布を引きかぶったハサンは、アレサンドロから見て奥側、部屋の角に頭を向けて眠っているようだった。

「ハサン……?」

 アレサンドロは足音を忍ばせて近寄り、呼びかけた。

 普段ならばこれで起こすに十分だろうが、返事はない。

 重ねられた毛布が、わずかに上下している。

「ハサン?」

 肩と思われる場所に手を置き、アレサンドロは一拍置いて、毛布の端を、持ち上げた。

 転瞬。

 ひゅ、という風鳴りとともに走った光芒が、薄闇の中、弧を描いた。

「う……」

 気づけば、半歩身を引いた自分の右の首すじに、レイピアの冷たい刃がぴたり、押しつけられている。

 片ひじ突いて身を起こしたハサンの目は炯々とこちらをにらみすえ、

「指一本でも動かせば命はない」

 おそらく凶暴な山犬に対しても、そう悟らせたことだろう。

 髪は乱れてどこか薄よごれ、痩せ落ちた頬とあごのあたりには、無精ひげが散らばっていた。

「……ああ、おまえか」

「あんた、寝起きはいつもこんな調子か?」

「なに? ……ああ、待て」

 ハサンは不機嫌そうにレイピアを放り捨て、両の耳から黄色い物体をほじり出した。耳栓である。

「それで」

「あんた、随分眠そうだな」

「それがわかっているなら出て行け」

「おい、ちょっと待て。寝るな」

「……今日は何日だ」

「う、うん?」

「時間は」

 アレサンドロが、しどろもどろになりながら答えると、ハサンは顔をしかめ、深いため息をもらした。

 そして、

「あと二時間」

 と、取りつくしまもなく言い捨て、寝巻き姿のその身体は、またしても毛布をかき集めるようにして、ベッドへ横たわってしまった。

「……チッ」

 この態度、アレサンドロとしては面白くない。

 しかし、あきらめて帰るか、と言われれば、答えは否だ。ここで眠らせてしまっては、おそらく二度とハサンの診察をする機会はない。

 アレサンドロはのしかかるようにしてベッドへ上がり、汗でしめった毛布のひだの中から、ハサンの左手首をつかみ出した。

「ああ、やめろ」

 ハサンは、むずがる子どものような声を上げた。

「やめろ、寝させてくれ」

「駄目だ。早く寝たけりゃ、じっとしてな」

「いらん。いまは医者はいらん。眠りをくれ」

「こら、動くんじゃねえ。脈をみるだけだ」

「脈もいらん、いらん」

「チッ、なに言ってる」

「あ、あ、あ、アーレサンドロー」

「うるせえ」

「うるさいのは……おまえだ!」

「う、お!」

 アレサンドロは突如起き上がったハサンに跳ね飛ばされ、ベッドの上へ尻もちをついてしまった。

 続けてハサンは振り乱した髪をかきむしり、

「アレサンドロ、私は心底おまえを愛しているが、これだけは許せん。おまえは、他人に、干渉しすぎる!」

「なに?」

 心配するのが干渉なのか。

 なら勝手にしろ、と、アレサンドロは言いかけたが、そこは、ぐっとこらえる。

「私は熱もない、脈も平常だ、健康そのもの!」

「素人がなに言ってやがる」

「いいや、おまえにこそなにがわかる。私はこうしている間にも働いてしまう。おまえにわかるか?」

「?」

「ピザトーストがにおう。階段の踊り場で子どもたちが話している。ああ、ピザトーストのサラミは五枚か。鉄機兵団はどうなった。もうそろそろ、自分の生まれ故郷を見に行きたいなどと言い出す者が出るころだ。それを許すか、許さないか、アレサンドロは迷うはずだ!」

「あ……」

「ああ、休ませてくれアレサンドロ。私の脳と五感を、休ませてくれ……!」

 ……そういうことか。

 アレサンドロはここに至ってようやく、ハサンがこうまでして睡眠を欲する、その理由を悟った。

 それはやはり、疲労だ。

 否応なく、十手先、二十手先を読んでしまう脳。わずかな変化にも敏感に反応してしまう五感。個々の性能が優秀すぎるからこそ、ただの人間であるハサンには負担がかかる。

 でありながら、現実は鉄機兵団と赤い三日月戦線を相手にしての逃亡と防衛の日々だ。ここに至るまで、いったいどれだけの休息が取れただろうか。

「ハサン」

 アレサンドロは、顔を覆ってうずくまってしまったハサンの肩をなで、

「……悪かったな」

 ハサンは、深く深く、ため息をはいた。

 それは、自己嫌悪のため息らしかった。

「外は、いまのところ問題ねえ。ユウたちからはまだ連絡がねえが、こっちもまあ、上手くやってるだろ」

「……」

「邪魔したな」

「待て」

 ハサンの指が、行きかける白衣のすそを捕らえた。

「……みていけ」

「見る? なにを」

「私の身体だ。それをみにきたのだろう」

「……まあな」

「ならばみていけ。好きにしろ」

 今度はアレサンドロがため息を返し、ハサンはベッドの上へ、大の字に転がった。


「……ここは痛むか?」

「いや」

「ここは?」

「なんともない」

 肌を脱いだ上半身に丁寧な触診を受けつつ、ハサンは、なんとも、おもはゆげに眉をひそめた。

 どうにかこうにか医師として様になっているアレサンドロだが、そこはなんといっても経験不足だ。自分が確信を持てるまでは幾度も同じ箇所にふれるし、探るような手つきになる。元来が過敏であるハサンの触覚に、これはつらい。

 しかしハサンは文句ひとつ言わず、時折、細く息をはいた。

「あんた、いままでにも、こんなことが?」

 問われたハサンは目蓋を閉じたまま、小さくうなずいた。

 ここで言うこんなこと、とは、言うまでもなく外界をシャットダウンしての長期睡眠のことである。ハサンはこれを、『復旧』と呼んでいる。

「三年か、二年に一度はな」

「なら、ユウは知ってるってわけだ」

「ンン」

「あいつも言ったんじゃねえか? 医者にみてもらえってよ」

「……フフン」

 ハサンは口もとを、わずかにゆるめた。

「あれの一番の長所は物わかりのよさだ。一度こういうものだと教えておけば、二度目からはなにも言わなくなった。金さえ与えておけば、手を貸さなくとも三日は生きられた」

「悪い師匠だな」

「フン……ならばどうする。食い扶持を自分で稼がせるか」

 ある程度の歳になっていればそれもよかっただろうが、幼い時分のユウならばどうだ。

 よくて残飯あさり。悪くて置き引き、スリ、コソ泥。

「キレイ事で腹はふくれん。道徳よりも一枚の硬貨だ。道徳を守らせたければ、まず硬貨だ」

「……」

「まったく、あれはよく育った」

「……みてえだな」

「それで、どうだ、先生……?」

「ああ、まず、問題ねえようだ」

「それは結構」

 言ったハサンの全身から、力という力が抜け落ちた。

「また寝るか?」

「……服を着せてくれ。腕を上げるのもおっくうだ」

「チッ、仕方がねえな」

「あと二時間で起きる」

「ああ、好きにしな」

「おまえも好きにやれ。尻ぬぐいは、してやる……」

「ハサン?」

 ……と。もう、眠っている。

 それきりハサンはどのようにあつかわれようと目を覚ますことはなく、アレサンドロはその、競走馬のようになめらかで引き締まった肉体を寝巻きで包みなおし、毛布をかけて部屋を出た。

 それから、きっかり二時間後。

 当初はジーナス山ということであった旅の目的地を変更し、東西南北、帝国内すべての領土をまわると決定したアレサンドロの隣には、普段どおり、ハサンの姿が戻っていた。

 しかし、ハサンが足かけ四日もの間行方知れずになっていた、などということはディディ以外の誰も気づいていなかったため、これは食事時の話題にものぼらなかった。

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