折衝
ユウがエディンの顔を見るのは、これが二度目だ。
最初は、あの凧上げの日に見ている。
しかし、それは物かげから盗み見たのであり、エディン・ナイデルはこちらの顔を知らない。
ユウはそう思っていた。
そして、エディンは自分に対して、なんの興味も持っていない。そう思っていた。
だからこそ、こうしてエディンが自分をたずねてきた、などということも、にわかには信じられなかった。
「ヒュー君、いや、カウフマン君?」
エディンはまるで、野良犬に餌をやるときにするような、
「自分は怖いものではないよ」
という態度、手ぶりで、ユウに歩み寄ってきた。
「来るな!」
飛びのいたユウを、エディンは笑った。
「う、ふふ、ふふ」
「なにがおかしい」
「いや、君が、あんまりかわいいものだから」
「だまれ!」
すると、この声を聞きつけたらしいマーコット神官が、
「カウ……モールトン准神官?」
と、階段の上から、こちらをうかがい見るような声をかけてきた。
もちろんユウとしては、あの親切な婦人をこれ以上巻きこむような真似はしたくない。目の前にいるのが、命をどうとも思わないこの男ならば、なおさらだ。
「……なんでもありません」
「でも……」
「本当になんでもありません、神官様」
エディンが、ユウの言葉を引き取って応えた。
「私と彼の間では、よくあることです。この程度のいさかいは」
言いながらその赤い唇は、にや、と、笑いかけてくる。
「命がけの戦いをしていれば、しばしば、ね」
「……そう。なら、いいのですけれど」
「マーコット神官。祭室をお借りします」
「ええ、どうぞ」
ユウはエディンを目顔で誘い、祭壇わきの、カーテンに隠された扉へ鍵を差した。
重苦しい、いかにも古風な響きが感触となって手のひらに伝わり、ユウは、その扉を押し開いた。
「……へぇ」
エディンのような人間は、入るどころか、こういった部屋があることさえ知らなかったに違いない。
祭室とは文字どおり祭事をとりおこなう場所であり、神官が神徒たちの悩みを聞き、なぐさめる場所だ。
部屋の広さは神殿によって差があるが、ここは宿坊の一室よりもせまく、ひなびた風合いの木の机と、それをはさんで向かい合わせに置かれた木の椅子が二脚。そして、壁にかけられたメイサの神聖画と、それだけであった。
しかし、ユウは、この土のむき出しになった洞穴のような場所へ一歩足を踏み入れた瞬間、どれほど心落ち着いたか知れない。
ユウはその、メイサ女神が、幾千幾万の宝石を大地へ放つ様を描いた神聖画を前にして、額と胸にふれた。
……どうか、この胸に勇気が、この頭にハサンの知恵が宿りますように。
ユウは、いままさに、自分が鋼の戦士となったような心持ちがした。
「ねぇ、カウフマン君」
猫なで声を出したエディンが、耳もとに熱い吐息を吹きかけてきても、ユウの心は動じなかった。
「ねぇ、カウフマン君。君はどうして彼といるの」
「彼?」
「アレサンドロ・バッジョ」
ユウは、フンと鼻を鳴らしただけで、答えてやろうとはしなかった。
こちらの意見を言うのは、もう少し、相手の出かたを見てからだ。
「ねぇ、そうだろう? 君の身体には、きっと赤い三日月はない。命令されなければなにもできない、あの馬鹿な奴隷たちとは違う」
「……随分な言いかたをするんだな」
「だって、それが真実だから」
うふふ、といつもの含み笑いを見せたエディンは、糖蜜のような、ねったりとした動作でユウから離れ、椅子に腰を下ろした。
「ねぇ、カウフマン君。いや……カウフマン。君が教えてくれないのなら、当てて見せようか。どうして君が、あの男に手を貸しているのか」
ユウは、再び心を落ち着かせるため、額と胸にふれた。
「それは……復讐。帝国への復讐」
「フフン」
知らず、ハサンと同じ笑いが口をついて出た。
「だったらなんだ。同じ目的なら、自分についたほうが得だとでも言うのか」
「まさに、ね」
「冗談じゃない」
「なら、あの男と行けば、復讐は達成されるのかい?」
「え……?」
「あの男には、君の望むような復讐をする気はない。そうだろう?」
ユウはこのとき、エディンがアレサンドロの目的をはかりかねているらしいことに気がついた。
そうだ。すべて知っているような口ぶりであっても、誘導尋問で探りを入れようという、所詮はこの程度なのだ。自身の感情を斬り捨てる冷静さも、洞察力も、到底ハサンにはおよばない。
ユウの胸に、めらめらと熱い炎がわき起こった。
それは、自信という名の炎だった。
「ねぇ、カウフマン。私に協力してくれるなら、君の復讐に手を貸してもいい」
「協力……」
「そう、簡単な話。あの男から、オオカミを奪ってくるだけ」
立ち上がったエディンの指が、いまだメイサの神聖画から視線を離さないユウの、左手を取った。
そしてさらに、そのなめらかな指先でN・Sの指輪にふれ、
「これは、カラス」
などと物知り顔に言う。
ユウは特にあらがいもせず、またフンと笑ってやった。
つまらない揺さぶりだと思いながら。
「俺はアレサンドロから離れない」
「……へぇ」
「オオカミが欲しいなら、勝手に的はずれな攻撃をすればいい。俺やハサンがどうしていつもそばにいるか、おまえは考えたこともないみたいだ」
「それはつまり……」
と、エディンの目があやしげに光り、
「この指輪がオオカミである、ということも……?」
「さあな」
あえて白々しく答えたユウは、エディンの手の中から、指を抜いた。
「話がそれだけなら帰ってくれ。神殿の手伝いをしたいんだ」
「待った」
「え……?」
「協力してくれないのだったら、こちらは、君の大切な人へ報復をする。そう言ったら?」
「ラ……!」
ユウは、喉から出かかった言葉を、やっとの思いで飲みこんだ。
これはブラフだ。はったりだ。
ハサンとN・Sがあるかぎり、あちらは安全。マンムート二号車も精鋭がそろっている。
「……やれるものなら、やってみろ」
「なら手はじめに、先ほどの女神官様を」
「おまえはそれでも人間か!」
「それは違う。私こそ人間だ。君たちこそ、そうではないのだ」
エディンは、自分におぼれたものがよくするように、我が言葉は真理なり、とばかりに、諸手を天へ差し伸べて言った。
「この世界には、正しい人間のみが残ればいい。正しい道を知った、正しい者による、正しい者のための国。私が目指しているのはそれだよ、カウフマン」
「そんなものは詭弁だ」
「いいや、理想だ。現実の有象無象に足を取られて理想も口にできない人間に、世界は変えられない」
「なにを!」
「だから、ねぇ、カウフマン。私はオオカミが欲しい。正しい国に神はいらない。ただ、玉座に、あの人の器が欲しい……!」
「勝手にしろ。俺は、絶対に協力しない」
ユウは毅然として言い放った。
「どうしてもと言うなら、神官じゃなく、俺を人質に使え。アレサンドロの前で、舌を噛み切ってやる」
「へぇ」
「さあ、どうした、やってみろ。おまえの語る正しさなんてそんなものだと、俺が証明してやる」
するとエディンはユウの鼻先に顔を近づけ、甘い狂気をはらんだ目を皿のようにして、まじまじと見た。
そして、くすりと笑い、
「君は、私と同じだ」
「え……?」
「まるで、殉教者」
と、今度は、声を出して笑った。
「わかった、君はあきらめる。だけれども、あの女神官に君ほどの覚悟があるか、どうか」
「あの人には手を出すな。俺はひとつ、おまえの欲しがる情報を持ってる」
「へぇ、それは?」
「それは……」
「それは?」
「オオカミが、生きているかもしれない」
ユウは、どうしてこんなことを口にしてしまったのか、自分でもわけがわからなかった。
しかし、目の前のエディンは最愛の人物をダシに使われたことで、明らかに不快感をもよおしている。
このままたたみかければ、最悪の結果を回避する道がどこかに見えるかもしれない。ユウは思った。
「そう、彼は生きている。私の血肉に、深く息づいて」
「そういうことじゃない。現実の話だ」
「まさか」
「だったら、おまえはオオカミの死体を見たのか。その手で確認したのか」
「そ、れは……」
「彼が生きていることを証明する手段、いまはない。でも俺は、そうじゃないかと思ってる」
「……理由は」
ユウは落ち着けと、自らに言い聞かせた。
「以前、俺にそう思わせる情報をくれた人がいた」
「誰」
「メーテル神殿、ディアナ大祭主様」
「ディアナ……」
「でも、これ以上の情報をおまえが手にすることはない。神殿を破壊し、神官を殺すというのならば、俺はもちろん、あの人だって口を開くものか。拉致や脅しや、それ以上のどんな手を使っても、絶対にだ」
「それで私に、どうしろと?」
「今後一切、神殿と神官には危害を加えないこと。俺たちについても、マンムートへ戻るまで手出しをしないこと。それだけを守れば、俺が間に入ってもいい」
「う、ふふふ……」
笑ったエディンはくるりと身を返し、ユウに背を向けた。
そして、ぽきん、ぽきんと、小さくなにかを弾くような音が、聞くともなしに耳に入った。
これは、爪を噛み切る音だ。
エディンは惑乱している。
「どうする、エディン・ナイデル。俺は別に、おまえが断ろうと構わない。そのときは、ここで殺してやる」
「へぇ、神の前で?」
「そうだ。メイサだって許してくださる」
「……そう、神はいつだって君たちに甘い。この世で最も人を殺しているのは、敬けんな神徒たちだというのに」
「おまえと神について語る気はない」
「う、ふふ、ふ……まぁ、いい。君の提案に乗ろう。ただし……」
「誓いは守る」
「誓い! へぇ! 神前の誓いなんて、まるで結婚だ!」
エディンは、やけに甲高い声を立てた。
「でもいい、私も誓おう、カウフマン。もし君が約束を違えたら、全国の神殿を標的に加える」
「……ッ」
「君たちがあの戦車に戻ったら、また、こちらから」
「……わかった」
「では……そういうことで」