メイサの縁(1)
アレサンドロは無事に逃げられただろうか。
朦朧とする意識の片隅で、ユウは思った。
あれから一昼夜を走り続け、いまようやくに陽がのぼろうとしている。
八体のL・Jを斬ったカラスだが、自身もまた、わき腹に深い傷を負っていた。
本来ならば、ここでN・Sを降り、修復を待つべきなのだろう。
しかし、ユウにはできなかった。
立ち止まることさえ、はばかられた。
恐ろしかったのだ。
鉄機兵団は、すぐそこまでせまっているかもしれない。
もし、修復の途中で追いつかれでもしたら。もし、うっかり、眠ってしまったら……。
冗談ではなかった。
それではアレサンドロに申し訳が立たない。なさけない。
アレサンドロにはああ言ったが、もとよりカラスを置いて逃げることなどできるユウではないのだ。
『ッ……!』
わき腹の激痛と疲労は、容赦なく、ユウを苦しめる。
デローシスへ行く。その使命感だけがいま、足を進ませていた。
『……?』
ふと、かすかな旋律が、ユウの耳をかすめた。
幻聴だろうか。
周囲を見まわすが、そこにあるのは木々ばかりだ。
……豊かなれ……。
『!』
永遠なる母……。
違う。
『伸びよ……我、さきわいの地に……』
ユウは歌に合わせて口ずさむ。
そうだ。間違えるはずもない。
この響きは……、
『メイサの、神歌』
神官であった父が、朝な夕な祭壇に捧げていた、あの歌。
ユウの足が我知らず、歌の方角へ向いた。
そして……、
「きゃあ!」
『あ……』
気づいたときには、もう遅い。
あれほど警戒心もあらわだったものが、それこそなんの考えもなしに、天幕を張る一団の中へ、フラフラと進み出てしまっていたのである。
四、五十人からなるその集団は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
叫ぶ者。灯明台につまづき、ひっくり返る者。ほうほうの体で天幕へ転がりこむ者。
その様子を、ひとつの天幕から歩み出た長身の老人がぐるりながめ、
「なんと……」
眉をしかめた。
ハクトウワシを思わせる、その眼光と威厳は、ただの年寄りのものではない。
「皆を鎮めよ。神兵はなにをしておる」
老人は、かたわらでオロオロと目を泳がせている随身官にたずねた。
「は、は、皆……」
「それどころではない?」
「は、申し訳もなく……」
老人は舌打ちした。
「大祭主様も、どうか天幕へお戻りを、お戻りを……」
袂をつかみ、いまにも泣き出さんばかりの随身官を、しかし、老人は静かにしかりつけた。
「たわけ。ならば、わしが動かねばなるまいが」
「あ、な、なりません! 大祭主様! 猊下! お戻りを!」
まったく臆する様子もなくN・Sカラスへ向かう大祭主を、随身官はしばし身を揉んで見つめていたが、覚悟を決めたか、そのあとを追いかけていった。
当のユウは、驚きと混乱で、ただただ立ちすくむばかりだった。
どうにかしなければならないのはわかっている。が、どうすればいいのかわからない。
逃げるべきか? 黙らせるべきか?
どちらも正しいとは思えなかった。
「これ」
天幕のひとつが燃え上がる。
「これ」
『あ……』
そこでようやく、ユウは足もとの人影に気づいた。
白い、豊かな頭髪とひげを蓄えた、老人。
なんといっても神官の息子である。旅装ではあるが、それが位の高い人物であることはひと目で見て取れた。
「そなた、魔人か?」
大祭主の声は、喧騒の中でもよく通った。
『いや……』
「では、その巨人、N・Sではない?」
『いや……』
ユウは困った。魔人ではないが、N・Sである。
大祭主も首をかしげた。
「ふむ、とにかくも、いたずらに人心を騒がすものではない。用があるならば降りるがよい」
『……いや……』
「いつまでもそれでは話にならぬぞ、魔人よ」
さすがにこれではいけない。ユウは思った。
『俺は、魔人じゃない。あなたたちにも用はない』
「なんと?」
『迷惑をかけたことは謝る。悪気はなかった』
「む」
息を詰め、頭を下げるカラスのわき腹が深々と切り裂かれているのを、このときはじめて大祭主の目がとらえた。
そしてすべてを看破した。
「……戦屋め。まだ足りぬと言うか……」
忌々しげに唇を噛み、
「若者よ!」
立ち去りかけたユウを、呼び止めた。
「どこへ行くかは聞くまい。だがその近程まで、我らが送り届けよう」
『え……?』