皇帝の剣
時は少しさかのぼり、真昼の帝都クリスベンに眼を移す。
メイドや侍従、文官が行きかう帝城の回廊を、誰からも敬意を持って礼を捧げられる漆黒の騎士が、従者をともなって歩いていた。
堂々たる体躯を全身甲冑で固め、マントを羽織ったその背には、長大かつ、並の三倍は身の厚いグレートソード。数十キロにもおよぶだろう、それら鉄の塊に覆われながら、歩は悠然として揺るがない。
顔を見れば、いかにも武人らしいあごひげと太い眉。しかし、優しげな瞳をしたこの男。
そう、ジークベルト・ラッツィンガー、帝国筆頭将軍である。
「将軍」
呼びかける声に振り向いたそこには、あの『スピードスター・ホーク』、デューイ・ホーキンスの姿があった。
「ホーキンスか。いつ戻った」
「さっきです。冷や汗ものでしたが、どうにか大事な戦艦を落とさずにすみました」
「陛下には?」
「いま、ご報告に。随分と、にらまれましてね」
今日は、パーソナルカラーである白と橙の甲冑に身を固めたホークが、頭をかきかき苦笑した。
聖石を奪われた上に、帝国軍の象徴たる飛行戦艦オルカーンまで傷つけられ、これはもう面目丸つぶれといったところだろう。
ラッツィンガーは静かにうなずき、
「ご苦労だったな」
ホークの労をねぎらった。
「将軍も、これから出陣ですか」
「うむ……」
「やつら、ホーガンを襲ったとか。本来なら俺たちが出るところでしょうが……申し訳ない」
「いや、おまえばかりを責められまい。ときに……黒の魔女とは会ったか」
「ええ。中身は、ヒュー・カウフマンという別人でしたが、確かに」
「ヒュー・カウフマン……」
「まっすぐで、ちょいと見所のありそうな……あ、こいつは失敬。将軍にとっては息子さんの……」
「いや……ジラルドのことはもういいのだ」
「では、他になにか」
問われたラッツィンガーは薄笑いで言葉を流し、これ以上は聞くなと言うように、ホークの肩を軽く叩いた。
「それはそうとホーキンス、少し話せるか」
「ええ、構いませんが」
「ならば……コッセル」
「はい、ここはおまかせください」
ラッツィンガーが赤子であった時分から、そのかたわらに付き従って半世紀。背後にひかえていた老紋章官エルンスト・コッセルは、品のいい白髪頭を下げ、広大な中庭へ出て行くラッツィンガーとホークのうしろ姿を見送った。
会話が耳に入らぬ距離から主の身辺を見守りつつ、さりげなく人払いをする。無駄な言葉をかわさなくとも、コッセルは心得ているのである。
ラッツィンガーとホークは、昨夜からの雪が薄く降り積もった石畳の上を進み、いまは水の止まった、噴水のふちへと腰を下ろした。
目の前に立てかけられたグレートソードの迫力に、見慣れているホークでさえ、ひゅう、と口笛を鳴らした。
「しかし、しばらく見ない間に、帝都もすっかり冬らしくなりましたな」
「今年は特に冷えこむようだ。この歳になると、夏も冬もつらい」
「ハ、ハ、また、そんな心細いことを。将軍には、あと二十年は前線に立ってもらわにゃなりません」
「ふふ、とてもそこまでは持たん」
「……で、話とは?」
「うむ」
ラッツィンガーはひざを進めた。
「私はこれから、メイサ大神殿へ行かねばならん」
「メイサ……カジャディール大祭主に、なにか」
「いや、そうではないのだが、猊下はいま、ディアナ大祭主猊下を神殿に招いておられてな」
「なるほど、それを連れてこいと」
「うむ。メーテルの月例祭も近い。メイサの神徒である私ならば、カジャディール猊下もわがままは申されまいということだろう」
「ハ、ハ、わがままはいいですな! ……とと、失敬。メイサよ、お許しください」
あわてて額と胸にふれるホークに、ラッツィンガーは微笑した。
「しかし、無礼を承知で言わせてもらいますが、自分は、陛下が将軍の忠義を試しておられるように思えてなりません。最近の陛下は、自分の目から見ても……」
「ホーキンス」
「は……?」
「だとしても、それはやはり、私の不徳の致すところだ。主君に忠義を疑われる、それだけで騎士にとっては恥ずべきこと。……違うか?」
「これは……失言でした」
ホークは、パッと立ち上がり、深々と頭をたれた。
「聖騎士団が聖鉄機兵団と名を変えて、もう十年にもなる。L・Jに親しみ、自らを軍人と呼ぶおまえの心もわかるが、忠誠心を忘れ、愛国心のみに心傾ければどうなる。この国の礎を揺るがすことにもなりかねん」
「は……まったく、赤面の至りです」
「説教は柄ではないが、おまえだからこそ言っておくぞ、次期筆頭将軍」
「と、とと、とんでもない! 自分には無理です!」
「ふふ、私もかつては、同じことを言った」
「い、いや……まいりましたな」
直立不動のまま、ホークは冷や汗にまみれた襟足をぬぐった。
「ま、座れ」
「は、で、では……」
「そう硬くなるな。話が少々それてしまったが、私が頼みたいのも、その、陛下のことだ」
「……と、言いますと?」
「私が留守の間、陛下のそばから離れずにいてもらいたい。いや、なぜとは聞くな。すべては……陛下の御身をお守りするためだ」
……それだけで、ホークにはすべてが呑みこめた。
ここ数ヶ月で、別人のごとく人を変えた、幼い皇帝。それが人為的な操作によるものならば、忠義にあつい筆頭将軍が帝都を離れることで、その影にいる何者かが行動を起こすかもしれない。
あるいは、ラッツィンガーの前では決して見せないようなミスを犯すことも。
「幸い、と言っていいかわからんが、オルカーンの修理は……」
「早くて二週間。それまで本隊の出撃もできません。たとえご命令があっても、断る理由になります」
「うむ。いかに遅くとも、それまでには私も戻る」
と……ここで、ふと顔をゆがませたラッツィンガーの歯が、ぎりりと鳴った。
「わかってくれるな、ホーキンス。たとえどのようなお心の働きがあられたにせよ、陛下ご自身の発せられたお言葉は絶対だ。……いや。いまでも私は、そのご下命のすべてが、陛下ご自身のご決断によるものだったと信じたい。だからこそ、私を不忠者とおっしゃるならば、いくらでもこの首叩き落して、心中に反意なしと示してご覧に入れよう。シュワブとの戦を望まれるならば、喜んで前線にも立とう。しかし……しかしな……」
「ええ、わかります。自分も……騎士の端くれです」
もし、主君が何者かにたぶらかされているならば。
もし、望まぬ形で道を踏みはずそうとしているならば、自らが、その足もとに身を投げ出してでも救わねばならない。
他国に汚名を流そうとも、救わねばならない。
そして、その結果がどのようなものになろうと……ラッツィンガーは命をもってあがなうのだろうと、このときホークは確信した。
疑ってはならぬ忠誠心が、一方で主君を疑わせる。その狭間で胸を痛めているのは、誰あろう、この不器用な筆頭将軍なのだ。
「……どうしてですかね、将軍」
「む……?」
「いまの陛下は先帝様にそっくりだと、もっぱらの噂です。自分もそう思いますが……どこか違う」
「……うむ」
ラッツィンガーは、深くうなずいた。
「確かに先帝陛下は、そのご生涯の多くを戦場ですごされた。いまと同様、軍備へ続々と資金を投入され、この国の中には、いまだに悪帝、暴帝とささやく者も多い」
「ええ。自分の田舎も、正直昔はそうでした」
「しかし、先帝陛下は、我々に夢を見せてくださった。それまで誰もなし得なかった半島の平定、統一国家という夢だ」
「……なるほど」
「先帝陛下におかれても、お父君より引き継がれたご宿願であられたが、あの一時代の熱狂……この歳になっても忘れられん」
「その夢が、シュワブ攻略には見えない」
「……ふ」
再び言葉をにごしたラッツィンガーは、グレートソードを手もとに引き寄せた。
その無骨な鉄の塊は、灰色の陽光を、鈍く反射した。
「行きますか」
「うむ。陛下のこと、頼む」
「まかせてください。陛下のために、全力をつくします」
「……うむ」
このとき、ラッツィンガーが見せた笑顔。
それは、どこか哀しげな影を宿しながらも誇らしげな笑みで、不意にホークは、亡き父の姿を思い出した。
「将軍! ……お気をつけて」
ふたりはどちらからともなく敬礼をかわし、何事もなかったかのように別れた。