十五年後の空
「どういうことだ、これは……?」
ラムゼーが、うめくように言った。
その、薄暗い円筒形の房内に見えるのは、黒々と横たわる水、そして光石灯の明かりだけ。モニターを抱くように、それこそ鼻がふれるほどの距離で凝視するその目には、そこにいるはずの子どもたちの姿が、ひとりとして映らない。
カメラの死角にいるのか。いや、そんな場所はない。
「……逃げた」
「ハ……」
「逃げた!」
真っ青になった騎士たちが確認のために飛び出していくのを、広場のブルーノたちは茫然と見送った。
そう、ブルーノたちは状況をつかみきれないのではない。混乱しているのだ。もうこの世界では、『逃げた』という言葉から、実感やリアルさというものが抜け落ちてしまっていたのだ。
しかし、腹を押さえて座りこんだアレサンドロの胸ぐらを、ぐ、とつかみ上げたラムゼーにしてみれば、これほどおそれ、日々聞かないことを祈り続けた言葉はないだろう。
「アレサンドロ、こいつはどうしたことだ」
ささやくようなその声には、いらだちと焦燥、憎しみが、混沌としているようだった。
「さっきまでは確かにいたな」
「……ああ」
「それが、いまはいない」
「みてえだな」
「なぜだ」
「……てめえが、目を離したせいだ」
アレサンドロは、口にたまった血の塊を、つばとともに吐き出した。
「感謝してるぜ……てめえは、俺たちに三十分もくれた」
「チッ……生意気を、抜かすな!」
ラムゼーの強烈な右拳を頬に受けながらも、アレサンドロの気分は当然よかった。
時間をかせげと、海鳥を介したハサンの指令を受け取っただけで、実際この『盗み』がどのようにおこなわれたのかについては、さっぱりとわからない。わからないが、そんなことはどうでもいいことだ。
現実に子どもは消えた。助かったのだ。
「ハ、ハ」
思わずもれた笑いとともに自然と振り上がった拳が、今度はラムゼーの鼻っ柱にめりこみ、
「げう」
つぶれたカエルのような声を出して、その身体は壇の下へ転げ落ちた。
「……さあ、行こうぜ」
ブルーノたちは、まだ動こうとしない。
「今度は、俺たちがここを出る番だ」
と、言葉優しく語りかけるアレサンドロを、快晴の空の下、数百の瞳がまぶしげに見つめている。
「俺たちはいままで、奴隷だ、人間を裏切ったクズだと言われてきた。……故郷(くに)を捨て、ようやくたどり着いた場所まで壊されて、いまはもう、この世界に俺たちの居場所はねえのかもしれねえ」
誰かの喉が、ごくりと鳴る音まではっきりと聞こえる。
「……でもよ、死んだ気になるのはまだ早ぇ。俺たちにはまだ……」
と、見上げた空には、力強く翼を振る十五年前の輝き。
N・Sカラス。N・Sクジャク。
「そうだ……まだ、行ける空があるはずだ」
わぁっと、津波のような歓声がわき起こった。
抱き合う者。諸手を上げ涙する者。広場は歓喜に包まれ、全員でその感動を分かち合う。
「アレサンドロ」
「……ああ」
壇上へ這い上がったブルーノもまた、よごれた顔に涙のすじをつけ、まだ立ち上がれずにいるアレサンドロを、その太い腕で抱きしめてきた。
「おまえってやつは、本当によ……」
と、丸まった広い背が震えている。
「俺は……俺は臆病もんだったよな」
「いや……そんなことはねえさ」
「あいつらのことは、責めねえでやってくれ。悪気はねえんだ。俺たちは、もうあきらめてた」
「ああ……わかってる」
「ア、アレサンドロ……!」
ふたりはそのまま、想いを声にするのを惜しむかのように口をつぐみ、抱き合う腕に力をこめあった。
と、そのときだ。
「危ない!」
女の叫びに振り向いたブルーノが、あっと小さく叫んで、アレサンドロを突き飛ばした。
「ううッ!」
「ブルーノ!」
肉づきのいい巨体が尻もちをつき、とっさに差し出したアレサンドロの腕へ倒れかかってくる。
左の腹から出血。刺されたのだ。
「ラムゼー、てめえ!」
「ハン! 同じ言葉を返してやる。貴様が目を離したせいだ!」
鼻血を顔にこびりつけ、醜いまでに形相の変わったラムゼーは、剣を振りまわし、あの絞首刑にされかかった少年をかつぎ上げるや、身をひるがえして逃げていった。
「ラムゼー!」
アレサンドロはこれを追おうとして、追えなかった。
「ブルーノ、しっかりしろ。いいか、横にするぜ」
「う、く、うう、う……」
遠くで、L・Jの出撃音が聞こえる。
いや、むしろ、このときまで聞こえなかったのが奇跡といってもいいくらいだろう。クジャクが、全員桟橋へ向かうよう指示している。
ブルーノの傷は思ったよりも浅く、血を出し続けさえしなければ問題ないとアレサンドロは見た。
先ほど叫んだらしい女が走り寄ってきて、まだ二十代も前半に見える、細く優しげな顔を真っ青にしながら、ブルーノの大きな手を取った。
「奥さんか?」
「はい……はい!」
「おいブルーノ、美人だな」
「へ、へ……」
「よし、ここを押さえてろ、しっかりだ」
アレサンドロは薄い白衣のすそを裂き、傷口に押し当てた。
「おい、誰か手を貸してくれ!」
と、呼びかけると、すぐに若い男四人が壇上へ駆け上がり、ブルーノの身体を、まるでみこしのようにかつぎ上げた。
「あまり揺らさねえように運んでやってくれ。俺が行くまで無理はさせるな。いいな?」
「お、おまえは……?」
「さっきのチビを助けに行く。なに心配すんな、必ず戻る。……さあ、ガキが待ってるぜ!」
ブルーノたちはひとかたまりとなって、桟橋へ続く道を小走りに駆けていった。
『アレサンドロ、おまえも行け。桟橋へ船が来る』
「いや、俺はまだ行かなきゃならねえ。クジャク、あんたは診療所に行ってくれ」
ベッドには、まだ八人の傷病者がいる。だが、どれも動かして差しつかえないように手をつくしてきた。
『……わかった。死ぬなよ』
N・Sクジャクもまた、すべるように診療所へ飛んでいった。
「……よし」
ひと息ついたアレサンドロは、走り出した。
身体は痛み、喉も渇くが、こうなれば百人力だ。自然と足は軽くなる。
ひとつ疑問が残ったのは、一足先に桟橋へ向かったらしいN・Sカラスが、先ほど、ひとことも口をきかなかったこと。普段のユウやモチならば、大丈夫か、のひとことくらいかけてきそうなものである。
カラスを演じるためか……そのほうがいいかもしれねえ。
アレサンドロは、漠然とそう思った。
いまの自分を見てもわかる。赤い月の入れ墨を入れた者にとって、N・Sと魔人から受ける影響は、それが良いものであれ悪いものであれ、はかり知れないものがある。
カラス本人でないと知られたところで、いまさら残りたいと言い出す者はいないだろうが、いざというときのひと押しができるか、どうか。
それを考えると、ここを無事に出るまでは、カラスはあのころのままのカラスでいたほうがいいはずだ。
見上げた空を飛ぶL・Jが突如爆発を起こして墜落したのは、テリーのL・J、シューティング・スターの仕業だと、アレサンドロにはすぐにわかった。
ラムゼーと子どもの姿は見えなかったが、薄く降り積もった雪に残る足跡は、島の南へ続いている。
南といえば、このホーガン島においても特になにもない場所で、海との境は切り立った崖が続く。
なだらかな斜面をのぼりきると、ぽつんとひとつ監視塔を兼ねた灯台があり、そこからは、遠く北の桟橋に群れ集まったL・Jが、接岸した巨大な船を取りかこんでいるのがよく見えた。
「来たな、英雄」
ラムゼーは灯台の入り口にもたれ、幽鬼のごとく立っていた。
「まったく、おまえは最高の野郎だ。最高にハッピーで、最高にムカつかせてくれる」
「……あのチビはどうした」
「ハァン、わかりきったことを聞くな、この中だよ。ついでに言えば、ちょっと細工をしてきた」
「細工……?」
「爆弾だ」
ラムゼーの顔の血はぬぐわれていたが、目の光が尋常でない。手には、ふた振りの剣が握られている。
ラムゼーは、その内一本を放ってよこすと、残りの一本を抜いた。
「決着をつけようじゃないか、アレサンドロ。おまえもそのつもりで来たんだろう?」
「その前に、ガキを逃がしな」
「駄目だ。言っただろう。俺は爆薬を仕掛けてきた。こんな灯台ぐらい粉々に吹っ飛ぶ量だ」
「……それで」
「爆弾は時限式。気絶したガキは、手錠でつながれている。鍵は、これだ。もうわかるな?」
「時間以内に、その鍵を奪えば俺の勝ち……」
「違ぁう。時間以内に俺を殺せばおまえの勝ちだ。俺はおまえと殺し合いがしたいんだよ、アレサンドロ。おまえには、その価値がある」
と、なんとラムゼーは、その小さな鍵を舌に乗せ、ぺろり、口に含んだのである。
「……冗談だ。出すときのことを考えるとぞっとする。ほら、ここに入れておくぞ」
ラムゼーは吐き出したそれを、左の胸ポケットへと落としこんだ。
「さあ。俺かおまえか、生き残るのはふたりにひとりだ」
「チッ……」
アレサンドロもまたゆっくりと、剣を抜いた。