予想外の幸、不幸
湖に入ってみると、水は思ったほど冷たくもなかった。
深さはせいぜい、腰まで届くかどうか。
底を踏み進む自分たちの足がはっきり見えるところをみると、どこかで水の出入りがあるのだろう。
飲み水にもなりそうだった。
「歩くにはおっくう、泳ぐには微妙。やれやれ、面倒くせえ深さだな」
アレサンドロは指で水を弾いて言った。
やはり心中おだやかでないのだろう。
N・Sに近づくにつれ、落ち着きのない行動が増えている。
「そういや、親父さん。神官だったって言ってたな」
「ああ」
「過去形ってことは、やっぱりあれか?」
「ああ、亡くなった」
「他は?」
「他?」
「おふくろさんや、兄弟、とかよ」
「それもみんな」
「そうか」
「だから、気にしなくていい」
「うん?」
「もしもN・Sのことでひと悶着あったとしても、面倒をかける人はいない」
アレサンドロはなにか言いたげに口を開いたが、
「お見通しか。かわいくねえな」
結局は、ばつが悪そうに首をかいたのだった。
「ハハ」
「ハ、ハ」
ふたりは笑い、笑いながら顔を上げた。
アレサンドロが、細く、長く、息をはき出した。
それは、全高にして、およそ十五メートル。
右に、深黒の鎧を身にまとい、背には翼、腰には長く尾羽をたらした、黒紫のN・S、カラス。
左に、白々と輝く鎧、ふわりとした尾も美しい、白銀のN・S、オオカミ。
顔こそ機械じみているが、その生物的な美しさは、誰の目をも釘づけにするに違いない。
互いの剣が互いの胸部を深々と貫き通すそのさまも、裏に隠された殺意をかけらも感じさせない、ある種荘厳な神聖画を思わせた。
「なんだ……」
アレサンドロの口から、つぶやきがもれた。
「俺はこいつを目の前にしたら、もっと取り乱しちまうと思ってた……。案外、平気なもんだな」
そう眉を寄せ、薄情だよな、と、さびしく笑うその肩を、ユウは静かにさする。
「十五年だ……十五年」
「……ああ」
「でもよ……いまでも……」
と、唇を噛み、言葉を呑みこんだアレサンドロは、両の手のひらで自分の顔を張った。
ぱぁん、ぱぁん、と、音が響いた。
「いや、なんでもねえ。女々しいだけだ。……よし、ちょっと見てくる」
「大丈夫か」
「ああ、こいつも、早く楽にしてやらねえとな」
言うが早いかアレサンドロは、前かがみで低くなったカラスのふくらはぎにひょいと飛び移り、サルを思わせる身軽さで、左翼まで這い上がっていった。
「よっ……」
腰のホルダーから光石灯をはずし、ぶら下がるように傷口をのぞきこむと、
「……頚椎、胸椎……修復は進んでる……光炉は軽症ってことか……」
「どうだ?」
「意外に悪くねえな。手伝ってくれ」
「ああ」
視線もくれずに手招きするアレサンドロに応え、ユウも同じ手順で、カラスをよじのぼった。
しかし、これがなかなかの重労働である。
線が細く、丸みを帯びたカラスの身体は、すべりやすい上に安定感も悪い。
装甲の隙間を探り探り、カラスの左肩にたどり着いたころには、額からは、かなりの汗が吹き出ていた。
「大丈夫か?」
アレサンドロが、くすりと笑う。
「問題ない」
ユウは額をぬぐった。
「前にまわれるか?」
「ああ」
「喉の下だ」
三十センチ角程度のプレートが見える。
「ナイフでこじ開けろ。問題ねえ、多少傷ついてもすぐ治る」
「わかった」
ユウはカラスの胸部装甲へ飛び移った。
短剣を抜き、くぼんだプレートの溝に押し当てる。
と……。
「……ッ!」
ユウの視界が、突如、暗転した。