第94話 Have You Ever Seen The Rain
長尾為景は悩む。
退くべきか、戦うべきか……。
宇佐美定満は、長尾為景の思考が堂々巡りをしていることを察して話を変えた。
「そういえば、虎千代様が鹵獲した布をご覧になりましたか?」
「……」
虎千代の名を聞くと、長尾為景の表情が一瞬で険しくなった。
長尾為景は、嫡男の長尾晴景を可愛がり、四男の虎千代を疎んじていた。
長男晴景は正室の子であり、四男虎千代は側室の子であった。
晴景は芸事に明るく、戦は苦手な大人しい若者だった。
おまけに病弱でもある。
戦国武将としては欠点が多い晴景であったが、父である長尾為景の言うことをよく聞き、病弱な点も長尾為景の庇護欲を刺激した。
長尾為景は、自分とは違うタイプの晴景を大いに気に入っていた。
一代で成り上がった社長が、息子を良い大学に入れ、自分とは違う人生を歩ませようとするのに似ている。
もちろん、そのことが息子のためになるかは、また別のことではあるが……。
一方の虎千代は『無口な悪ガキ』だ。
春日山城内での評判も悪かったし、長尾為景も乱暴者の息子を嫌っていた。
虎千代は、側室の子として生まれたたこと、長尾家の家督をつげないこと、ナヨナヨした兄の下につかねばならないことが不満だった。
そしてなにより、父の愛情が自分に注がれないことに寂しさを覚えていた。
虎千代は、まだ子供で、自分の内にある不満や寂しさを、上手く表現し他人に伝えることが出来なかった。
不満や寂しさを紛らわせることも出来ず、悶々とした気持ちを抱え、外に対して攻撃的になっていたのだ。
宇佐美定満は虎千代の気持ちを理解し、虎千代の持つ軍事的才能を見抜いていた。
この戦で何とか長尾為景に虎千代を認めてもらいたい。
宇佐美定満は、そんな気持ちで元服前の虎千代を軍に同行させた。
だが、父長尾為景や長尾家家中の者から見ると、虎千代は困った四男坊でしかなかった。
宇佐美定満が虎千代の話を出したことで、長尾為景の機嫌は悪くなり、高梨政頼は巻き込まれるのを恐れてそっぽを向いた。
「虎千代様が持ち帰った武田軍の布は不思議な布でしてな。水を通さぬのです」
「水を通さぬ? 宇佐美。どういうことだ?」
虎千代は、先日の戦いで武田軍本陣を奇襲した。
引き上げる際に、上原城近くにあったテントを鹵獲したのだ。
長尾為景は虎千代の話題は不快だったが、『水を通さない布』に興味を持った。
宇佐美定満は、長尾為景が興味を示したことに喜びながらも、表面は冷静さを取り繕って話を続ける。
「その布は水を弾くのです。武田軍は兵士の野営に、この布を使わせているようです」
宇佐美定満の言葉に高梨政頼が食いつく。
「宇佐美殿。つまり雨風をしのげる布であると?」
「左様です。高梨殿」
「それは凄いですな! 我が軍でも使いたい! 武田のやつばらは、その布をどこで手に入れたのでしょうか?」
「さて、それはわかりませんが……。どうです、武田が使っている布をご覧になりませんか?」
「是非!」
宇佐美定満が床几から腰を上げると、高梨政頼も腰を上げた。
長尾為景は二人の様子を見て、軽くため息をつくと仕方なしに立ち上がった。
三人は長尾軍本陣を出て少し歩く。
すると見慣れぬ物体が見えてきた。
宿泊場所として借りている寺の境内にドーム型のテントが設営されているのだ。
「なんじゃ! あれは?」
「むお!」
長尾為景と高梨政頼が驚き声を上げる。
するとドーム型テントの中から、少年が這い出てきた。
虎千代、後の上杉謙信である。
虎千代の姿を見ると、長尾為景は露骨に嫌そうな顔をした。
虎千代は父を見てグッと眉間にシワを寄せ黙ってしまう。
父が自分を嫌っていることが、子供ながらにわかるのだ。
そんな虎千代の態度は、父長尾為景からは反抗的な態度に見えてしまう。
長尾為景はますます不機嫌になった。
宇佐美定満は、二人の様子を見てため息をつきたくなったが、グッと堪えて話を進める。
「この布が水を通さない布です。触ってみると……ほれ! ツルツルとした手触りがしますぞ!」
高梨政頼がドーム型テントを触る。
「ほう! 絹とはまた違った感触ですな!」
「この中で寝泊まり出来るようです」
「なるほど……。これが沢山あれば、長く陣を構えても……」
「兵たちも快適に過ごせるでしょう。士気が落ちないでしょうな」
宇佐美定満と高梨政頼は、ドーム型テントを高く評価した。
長尾為景は面白くなさそうにドーム型テントを眺めていた。
うさんくさそうにテントの中をのぞき込む。
嫌いな虎千代が鹵獲したことが面白くないのだ。
お気に入りの長尾晴景がテントを持ち帰っていたら、手放しで褒めていただろう。
「ち、父上……」
「あ、なんじゃ?」
虎千代は、父長尾為景と上手く話すことが出来ない。
長尾為景の腰の辺りを押して、ドーム型テントに押し込もうとした。
「中に入れと言うのか?」
「は、はい……」
虎千代は不機嫌な父を恐れ、グッと歯を食いしばる。
長尾為景には、歯を食いしばった虎千代の顔が自分に反抗しているように見えた。
――気に食わない。
長尾為景の頭の中は、不快一色に染まった。
長尾為景がドーム型テントの中に腰を下ろすと、虎千代は井戸に走り水をくみ上げた。
虎千代はくみ上げた水が入った桶を持ってドーム型テントまで戻る。
そして、テントの上からバシャリと水をかけた。
長尾為景はドーム型テントの中から虎千代の様子を見ていたが、水をかけられたことで驚き怒鳴りつけた。
「何をするか!」
「お待ちを! この布は水を通しませぬ! この中にいれば濡れませぬぞ!」
怒る長尾為景を宇佐美定満が抑えた。
長尾為景は、テントの中で自分の体を見回しテントの天井を触った。
「本当に水を通さぬ……。そのことを知らせるために、水をかけたのか……。棘縄といい、この布といい、武田は珍しい物を持っている。一体どこから手に入れたのやら……」
長尾為景は、つぶやきながらドーム型テントから外に出た。
そして虎千代をにらみつけると、大声で怒鳴りつけた。
「虎千代! 貴様は乱暴過ぎる! 水をかけるなら、そう言わんか!」
「……」
虎千代は、長尾為景に大声で怒鳴られ頭の中が真っ白になった。
眉間にしわが寄る。
長尾為景は、その表情が反抗的に見え、カッとなった。
「親に向かってその態度は何だ!」
長尾為景の手が虎千代の頬を張る。
宇佐美定満が慌てて間に入り、長尾為景をなだめた。
「お待ち下さい! この布を持ち帰ったのは、虎千代様のお手柄ではございませんか! それを叩くなど――」
「何が手柄か! 勝手に出陣しおって!」
戦の最中、虎千代は宇佐美定満に預けられ戦を見るだけの予定だった。
しかし、虎千代が本陣奇襲を思いつき、宇佐美定満が精鋭の兵士を預け出陣させたのだった。
宇佐美定満は、必死に虎千代をかばう。
「虎千代様は武田の本陣を突き、一時は武田晴信を敗走させたのですぞ!」
「そのおかげで武田は用心して陣から出て来ぬ! この阿呆が本陣奇襲などするからだ!」
「そのおっしゃりようは、あまりにご無体!」
「知るか!」
長尾為景は言い捨てると、早足で本陣へ戻って行った。
慌てて後を追う宇佐美定満と高梨政頼。
虎千代だけがポツンと居残った。
拳を握りしめ、ジッと地面の石ころを見ている。
やがて、虎千代の目から涙がこぼれ落ちた。
「父上に褒めて欲しかっただけなのに……」
虎千代の小さなつぶやきは、父長尾為景に届かなかった。
◆――補足――◆
虎千代(後の上杉謙信)は、次男、三男、四男など諸説あります。本作では、四男としました。




