第83話 諏訪湖の戦い(前編)
諏訪湖は長野県の中央にある大きな湖だ。
日本アルプスから流れ出る清涼な水と冷涼な気候。
明治時代は紡績工場、戦後は精密器機の工場が出来て、意外にも工業が盛んな土地だ。
だが、今、俺が眺めている戦国時代の諏訪湖畔に工場はなく、湖畔の平地にへばりつくように田畑があり、奥にはうっそうとした森が広がっている。
森はすぐに平地から斜面へと変化し、山が多い信州らしい風景を見せる。
科という字は、斜面に木が沢山生えている様子を表す文字らしい。
長野県に『科』がつく名字の人がいるのもうなずける。
(……と、まあ、戦のわりにノンビリだよなぁ)
俺は本陣でやることがない。
主攻の飯富虎昌、真田幸隆殿、諏訪頼重殿は、既に出発した。
主攻の軍は諏訪湖を右回りで移動し、敵長尾軍と正面からぶつかる。
諏訪湖の外周は十六キロ弱あり、かなり大きな湖だ。
接敵は昼過ぎになるだろう。
助攻の村上義清殿も進発した。
助攻の軍は諏訪湖を左回りで移動し、敵の背後を突く。
敵長尾軍は、現在の岡谷市に布陣している。
岡谷市から北西へ進めば、松本市に出る。
松本市に出れば、新潟へ進むことが可能だ。
つまり長尾軍としては、俺たち諏訪・武田連合軍と一戦交えるが、新潟、現在の越後への退路は確保しているのだ。
(挟み撃ちで長尾為景を討ち取ってくれればありがたい)
長尾為景は越後で下剋上を果たした強キャラだ。
正直、手強い。
だから俺は甲斐武田家の戦略として、越後長尾家と構えることになる北進策はとらなかった。
俺は胸元から歴史本を取り出す。
ネット通販『風林火山』で買った歴史本だ。
この本によれば、長尾為景の死後、越後は混乱する。
後継者争い、国人衆の離反など、メタメタになるのだ。
(飯富虎昌が長尾為景を倒してくれないかなあ。そうしたら、焼き肉食べ放題に高級アイス一年分を付けても良い!)
そんなことを考えていると、遠くの方で鬨の声が上がった。
「始まったか!」
俺は床几から立ち上がり、様子を見ようと陣幕の外に出た。
本陣は上原城から少し前に出た位置、湖水近くに設営した。
ここからは諏訪湖対岸の様子を見ることが出来る。
陣幕の外に出ると武田軍の兵士たちが対岸の様子を見ていた。
俺は近くにいた兵士に声を掛けた。
「どうだ?」
「始まりました! 押し合いです!」
兵士は戦況を見るのに夢中になっていて、俺の方を見ようともしない。
俺は苦笑いして、ネット通販『風林火山』で買った双眼鏡を手にした。
長尾軍はゆるい斜面に陣取っており、諏訪・武田連合軍は、ゆるい斜面を上りながら攻撃をかけている。
俺の側に世話役の諏訪家老臣がやって来た。
俺が手に持つ双眼鏡を不思議そうに見ている。
あげないぞ!
「地元の人は、戦の様子をどう見ますか?」
諏訪家老臣は、ボソボソとした口調で解説を始めた。
「長尾軍は良い場所に布陣したずら。もっと湖水の近くなら、平地で騎馬も生かせたずら」
「なるほど。上り坂だから騎馬の勢いが殺されるし、足軽も坂を上りながら攻めるからシンドイと?」
「そうずらで」
諏訪家老臣は、訛りがかなり強い。
先ほどの『そうずらで』は、『そうですね』なのかな?
「飯富殿が!」
「おおっ!」
「甲山の虎が動いたぞ!」
本陣の武田兵士たちが沸き立つ。
飯富虎昌の月星の馬印が、スーッと湖水沿いに動いた。
双眼鏡で見ると、飯富虎昌が槍を片手に騎馬隊を率いて湖水近くの平地を疾駆している。
回り込んで長尾軍の左側面を攻撃する狙いだ。
長尾軍としては、上り坂の地形で守りやすいとはいえ側面攻撃は痛い。
すぐに長尾軍の一隊が動いて、左側面に槍衾を敷いた。
弓隊からも矢が放たれて、飯富虎昌たち騎馬隊に高所から勢いのついた矢が降り注いだ。
飯富虎昌が何か怒鳴りながら槍を振り回すと、パラパラと矢が地面に落ちた。
飛んできた矢を槍で打ち払ったのか!
何かのスキルか!? それ!?
飯富虎昌は、馬上最強だな!
飯富虎昌たち騎馬隊が、長尾軍の左側面を脅かしたことで、長尾軍の一部が手薄になった。
手薄になった箇所に、武田軍足軽部隊が槍を揃えて突き込んだ。
六文銭の旗印が揺れる!
真田幸隆殿の指揮だ!
飯富虎昌が囮になって長尾軍の注意を引き、空いたところに足軽を率いた真田幸隆殿がドン!
即席とは思えないコンビネーションが炸裂した。
さすが真田!
観戦している本陣では、興奮した声が上がった。
「おお!」
「あれは真田の!」
「やるなあ!」
真田幸隆殿が、このまま長尾軍を崩すかと思われたが、一隊が真田幸隆殿の正面に立ちはだかった。
チェッカーフラッグに似た特徴のある石畳の旗印が、真っ正面から真田幸隆殿が率いる武田軍にぶつかる。
真田幸隆殿の突撃は、止められてしまう。
「高梨政頼か!」
高梨政頼は北信濃の有力国人で、武勇に優れた男だ。
長尾家の本拠地春日山城に近い場所に高梨家の領地があるので、北信濃の国人だが越後の長尾家に組みしている。
だが、真田幸隆殿は、高梨政頼に付き合わず、サッと引いて見せた。
高梨政頼が、真田幸隆殿の後退に引きずられるように前進し、長尾軍から不用意に突出した。
高梨隊にスキが出来た!
Uターンするように戻ってきた飯富虎昌が率いる騎馬隊が、高梨隊の土手っ腹に食い込む。
双眼鏡で見ると、飯富虎昌が槍をぶん回し高梨隊の雑兵が宙を舞っている。
このまま高梨隊を飯富虎昌が屠るかと思ったが、長尾為景本隊が救援に来た。
九曜巴の旗印が剽悍に動く。
長尾為景率いる本隊は、飯富虎昌率いる騎馬隊に横から矢を三度斉射すると、長槍を揃えて斜め後ろから追い払うように突っ込んできた。
これには飯富虎昌もたまらず、高梨隊をまっすぐ突っ切るようにして退却し、真田幸隆殿と合流した。
「武田様! あれを見るずら!」
諏訪家の老臣が、左を指さした。
諏訪湖の左側、湖岸近くで土埃が上がっている。
双眼鏡をのぞく。
村上義清殿率いる助攻部隊が、攻撃を受けていた。
敵は山側から村上義清殿たちに矢を打ちかけ投石を行い、騎馬隊の左斜め前から足軽を進ませ、騎馬隊の正面に立たない。
「チッ! 読まれていたか!」
俺は思わず舌打ちする。
俺たちの策を、長尾為景は読んでいて、助攻部隊に対して伏せ手を用意していたのだ。
おまけに、なかなか老練な用兵を見せている。
村上義清殿は完全に足止めされてしまった。
双眼鏡を動かして敵の大将を探す。
いた!
三つ盛り瓶子の旗印!
宇佐美定満!
越後の名将だ。
長尾景虎、後の上杉謙信の軍師ともいわれた人物だ。
宇佐美定満は、長尾為景とあまり仲が良くないはずだが、参戦していたのか……。
俺は長尾軍の手強さを感じていた。
攻める諏訪・武田連合軍と、のらりくらりと守る長尾軍。
戦いは膠着状態になり、日が暮れようとしていた。