四、鴻門の会・遁走
ひとまず命の危険を脱し、劉邦はホッと一息つきます。
【原文】沛公已出、項王使都尉陳平召沛公。沛公曰、「今者出、未辭也、為之奈何?」樊噲曰、「大行不顧細謹、大禮不辭小讓。如今人方為刀俎、我為魚肉、何辭為。」於是遂去。乃令張良留謝。良問曰、「大王來何操?」曰、「我持白璧一雙、欲獻項王、玉斗一雙、欲與亞父、會其怒、不敢獻。公為我獻之」張良曰、「謹諾。」當是時、項王軍在鴻門下、沛公軍在霸上、相去四十里。沛公則置車騎、脫身獨騎、與樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人持劍盾歩走、從酈山下、道芷陽閒行。沛公謂張良曰、「從此道至吾軍、不過二十里。度我至軍中、公乃入。」
【訓読】沛公已に出ずれば、項王 都尉陳平をして沛公を召さしむ。沛公曰く、「今出でて、未だ辭せざるなり。之を奈何せん?」と。樊噲曰く、「大行は細謹を顧みず、大禮は小讓を辞せず。今、人 方に刀俎と為り、我 魚肉と為るが如し。何をか為に辭さん。」と。是に於いて遂に去る。乃ち張良をして留めて謝せしむ。良問いて曰く、「大王來たるに何をか操るや?」と。曰く、「我 白璧一雙を持し、項王に献ぜんと欲す。玉斗一雙は、亞父に與えんと欲するも、其の怒りに會い、敢えて獻ぜず。公 我が為に之を獻ぜよ」と。張良曰く、「謹しんで諾せり」と。是の時に当たりて、項王の軍 鴻門下に在り。沛公の軍は霸上に在り、相い去ること四十里。沛公則ち車騎を置き、身を脱して獨り騎し、樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信ら四人は剣盾を持して歩走し、酈山の下従り、芷陽の閒道り行く。沛公 張良に謂いて曰く、「此の道従りすれば吾が軍に至るまで、二十里を過ぎざるのみ。我 軍中に至るを度り、公乃ち入れ」と。
劉邦が出て行った後、項羽は都尉の陳平に劉邦を呼びに行かせます。――この時点で、陳平はまだ、項羽に仕えていたのですね。劉邦は樊噲に相談します。
「今、とりあえず出てきたけど、ちゃんと挨拶してない。どうしよう」
「大きなことをするときは、細部を気にしない、大事な礼を行う時は、ちょっとした遠慮なんてしない。今、相手はまさにまな板と包丁で、俺たちゃ魚みたいなもんっすよ。魚が逃げる前に挨拶しますか?しねぇっしょ」
と言って、そのまま逃げることにしました。張良もまた宴会を抜けてきたので、残って代わりに挨拶するように言います。……結構ひどいです。自分はとっとと逃げて、張良に後始末を押し付けるなんて。それとも張良は美少年だし項伯が死ぬ気で庇うから、絶対殺されないだろう、という予測の上なのでしょうか。張良の方も、項伯兄さんもいるし、項羽も僕の美貌にメロメロだし、絶対大丈夫、とでも思っているのでしょうか、落ち着いたものです。
「何か、お土産をお持ちですか?」
「白璧一対を項王に、玉斗一対を亜父に持ってきたけど、亜父がすごい怒っててまだ献上できてない。わしの代わりに献上しておいてくれ」
「承知いたしました」
お土産持ってきたけど、怒ってるから怖くて渡せてない、って劉邦、ヘタレすぎ(笑)。なお、中国では伝統的に偶数を尊ぶので、お土産も一対なんですね。
当時、偉い人のトイレは時間がかかるものでした。いちいち、服を全部脱ぐからだそうで、前漢の武帝はトイレタイムにお着換え要員として連れていった衛子夫(後の衛皇后)をトイレで押し倒して、お持ち帰りした、という記録が残っています。が、戦時中からそんな暢気なトイレタイムだったのか。さらに、「呼んで来い」と言われ、突然スポット出演の陳平ですが、その後登場しません。司馬遷の観劇メモが適当だったせいでしょうか。もしかしたら司馬遷自身もトイレに行っていたのかもしれませんね。そんな疑いを抱いてしまうくらい、記述が雑です。
トイレに託けて逃げ帰る気満々の劉邦ですが、項羽軍のある鴻門と、劉邦軍のある覇上とで、だいたい四十里(16キロ)の距離。驪山の麓を回る山回りの裏道だと、覇上まで二十里(8キロ)もない、ということで、劉邦は乗ってきた馬車や騎馬の護衛を置き去りにして、こっそり抜け出し、一人だけ馬に騎乗し、樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信の四人が盾を持ち、覇上の陣まで歩いて向かいました。俺たちが着くころを見計らって、張良は中に入って上手く言い繕ってくれよ、というお気楽な命令を、張良は笑顔で了承します。
ところが――。
グーグルマップで確認してみたところ、鴻門の会の跡地から覇上まで、どう考えても16キロどころではありません。現在の高速道路経由で40キロ離れている、というブログも見つけましたし、直線距離で30キロ近くあります。それを一人だけ馬で、残りは走って帰るって、絶対途中で捕まるって! グーグルマップによれば、徒歩だと5時間36分かかるんですよ? いくらのんびりした古代でも、トイレ長すぎでしょって疑われると思う。
やはりこれもすべて、「劇」のなせる業なのか。『史記』は史実ではありますが、実際にその通りだったとは思えない、そんな記述の一つだと言えます。
【原文】沛公已去、閒至軍中、張良入謝、曰、「沛公不勝桮杓、不能辭。謹使臣良奉白璧一雙、再拜獻大王足下。玉斗一雙、再拜奉大將軍足下。」項王曰、「沛公安在?」良曰、「聞大王有意督過之、脱身獨去、已至軍矣。」項王則受璧、置之坐上。亞父受玉斗、置之地、拔劍撞而破之、曰、「唉!豎子不足與謀。奪項王天下者、必沛公也、吾屬今為之虜矣。」沛公至軍、立誅殺曹無傷。
【訓読】沛公已に去り、閒ま軍中に至るころ、張良入りて謝し、曰く、「沛公 桮杓に勝えず、辭する能わず。謹しみて臣良をして白璧一雙を奉らしむれば、再拜して大王の足下に献ぜん。玉斗一雙、再拜して大將軍の足下に献ぜん」と。項王曰く、「沛公 安くに在りや?」と。良曰く、「大王に之を督過するの意有るを聞き、脱身して獨り去り、已に軍に至れり」と。項王則ち璧を受け、之を坐上に置く。亞父玉斗を受けるも、之を地に置き、剣を抜いて撞きて之を破り、曰く、「唉!豎子与に謀るに足らず。項王の天下を奪う者は、必ず沛公ならん、吾が屬 今に之が為めに虜とせられん」と。沛公 軍に至れば、立ちどころに曹無傷を誅殺す。
劉邦が項羽の陣を去って、そろそろ覇上の陣に着くだろうと思われるころあいを見計らい、張良は天幕の内に入って項羽に詫びます。……五時間も項羽は劉邦の不在のまま飲み続けていたことになりますが、劇ですから細かいことを気にしてはいけません。
「沛公はすっかり酔っぱらってしまい、挨拶もできません。臣めをして白璧一対を奉るように言われておりますので、再拝して大王様のお足もとに献上させてくださいませ。玉の柄杓一対、再拝して范増将軍のお足もとに献上させてくださいませ」
「沛公はどうしている」
「どうやら大王様に譴責されたと思い、ひっそりとここを抜けて、すでに自陣に帰りついたころでしょう」
項羽は献上された白璧を自身の座る牀の上に置いたけれど、范増はもらった玉製の柄杓を地面に置くと、剣を抜いてこれを砕いて言いました。
「ああ! 項羽のような小僧っこは謀を巡らす甲斐のない! 項羽の天下を奪う者は、きっと沛公であろう。我らの仲間はみな、奴らの虜囚とされるに違いない」
これを項羽の視ている前でやったのだとしたら、いくら范増でも命知らず過ぎ。書いてはないけれど、項羽は先に舞台を出ていくのでしょう。その後に残った范増が劉邦を殺せなかった悔しさを込め、またその後の歴史を予言する発言が、舞台の締めることになります。
ちょうど同じころ、覇上の軍に到着した劉邦らは、即座に告げ口野郎、曹無傷を誅殺しました、というナレーションが入り、史劇「鴻門の会」は幕を閉じるのでした。
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司馬遷が『史記』を書くにあたって材料に用いたものとしては、もちろん経書、諸子百家の書、秦以来の宮中の記録群、つまり「書かれた記録」が重要だったのは間違いありません。しかし、こと、楚漢戦争の説話となると、司馬遷の時代からまだ60年から100年ほどしか隔たっていない自国の建国史で、いわば現代史ですから、「書かれた記録」がそれほどあったわけではありません。書かれていないもの、古老のお話や噂話のようなものも、司馬遷は材料として利用しているのです。
「鴻門の会」の外にも、元ネタは劇だったのでは、と思われるエピソードがいくつかあります。突然、歌い出したり、踊り出したりするのはかなりクサいと思っていいです。例えば有名な「覇王別姫」の場面。四方から項羽の故郷、楚の歌が聞こえてくるのを耳にして、「ああなんと、楚の人の多いことか」と項羽が戦意を喪失する場面。諦め早すぎじゃね? と思ったのは私だけではないはず。だいたい戦場で、四方が同じ楚の歌を歌い始めるとか、嘘くさすぎる。対抗して斉の歌を歌う奴とか、秦の歌を歌う奴とか出てきて、あっちもこっちも勝手な故郷のど自慢大会が始まり、もう何が何だかわかんなくなっちゃう、とかが関の山ではあるまいか。極めつけは項羽本人が「力は山を抜き~」と歌い始め、虞美人まで歌い踊る。どう見てもミュージカルです。
この他、その時の状況が、実際にあったと考えれば些か不自然なもの、だがもし劇中だったと考えれば、非常に滑稽であるもの、などは、司馬遷が見た劇を取り入れていると疑ってもよいかもしれません。例えば、『史記』淮陰侯列伝、つまり韓信伝の、韓信が斉の「仮王」になりたいと使者を送ってきた場面。劉邦が、「わしがこんなに苦労しておるのに、仮の王になりたいだとぉー!」と激怒すると、劉邦の両側にいた張良と陳平が咄嗟に両側から足を踏み、「韓信が自立したらどうするのですか」と小声で諫められて、瞬時に理解した劉邦が、「大の男なら真王になりたいと言え、何が仮王だー!」と心にもないことを叫ぶシーン。
使者の前でいきなり両側から家来に足を踏まれるとかありえないですが、使者からは劉邦の足元は見えないけれど、観客には足元は丸見えで、「なんだとぉー!」と怒った劉邦の足を、左右から張良と陳平が同時にグリグリっと踏んで、痛みに「ンゴォ!」となる劉邦、しかも咄嗟に状況を理解して、全く正反対のことを言い出すというのは、喜劇としてはかなり笑える場面ではないでしょうか。
こうした劇中における張良、陳平といったそれぞれのキャラクターの印象が、『史記』の記述にも影響を及ぼしていると考えなければなりません。
最初の、第一話で検証したとおり、『史記』の留侯世家から推定する張良の実年齢は、劉邦と同じかもしくは年上、紀元前206年現在でおそらく50歳前くらいです。しかし、『史記』を読んで何となく思い描く張良の年齢はもっと若く、少なくとも劉邦よりは年下だろうと思わせる。それはおそらく、様々なエピソードで語られる張良が何となく若々しいからです。
例えば、『史記』留侯世家、張良が潜伏先で不思議な老人・黄石公から「太公兵書」を授けられる有名な場面です。
【原文】良嘗閒從容歩游下邳圯上。有一老父、衣褐、至良所、直墮其履圯下、顧謂良曰、「孺子、下取履!」良鄂然、欲毆之。為其老、彊忍、下取履。父曰、「履我!」良業為取履、因長跪履之。
【訓読】良 嘗て閒に從容として下邳の圯上に歩游す。一老父有り、褐を衣、良の所に至り、直だ其の履を圯下に堕とし、顧りみて良に謂いて曰く、「孺子、下りて履を取れ!」と。良 鄂然とし、之を毆らんと欲する も、其の老いたるが為に彊いて忍び、下りて履を取る。父曰く、「我に履かしめよ!」と。良 業わざ為めに履を取り、因りて長跪して之に履かしむ。
(訳)張良は昔、暇にあかせて下邳の街の橋の上をそぞろ歩いていた。一人の老人が、褐という貧しい衣服を着て、良のところにやってくると、いきなり自身の履を橋の下に落とし、良に振り向いて言った。「小僧、下りて拾ってこい」と。張良はびっくりして、殴りつけてやろうかと思ったけれど、相手は老人であるからと強いて耐え忍び、橋の下に降りて履を拾ってきた。すると老人は、「わしに履かせよ」と言うので、良はうやうやしく履を捧げ持ち、前に跪いて履を履かせてやった。
この事件は、張良が博浪沙で始皇帝の暗殺に失敗し、姓名を偽って下邳に潜伏している時代のこととして描かれています。博浪沙で巡幸途中の始皇帝に、重さ百二十斤(約30キログラム)の鉄堆をぶつけて殺そうして失敗したのは、始皇帝の二十九年、西暦紀元前218年のことですから、韓が滅んで12年後のことです。張良は韓が滅んだ時に20歳以上30歳以下と推測されますので、博浪沙事件の時は32歳から42歳くらいだったはずです。張良はこの潜伏期間に項伯を匿ったりと、いっぱしのヤクザとしての人脈を築いていますから、仮に35歳だったと仮定しても、相当のオッサンに育っていたはずなのです。
にもかかわらず、老人には「孺子」(小僧)と呼びつけられ、発作的に殴ってやろうと思ったりと、なんとも若いイメージで描かれています。この黄石老との邂逅の物語も、日本で能『張良』として演劇になっているので、本場中国で舞台化されていないはずはない。それら舞台の上の張良像はきっと、いついかなる時も若く聡明で、女性と見まごうばかりの美少年だったのでしょう。
さて、小論において、私はタイトルにあえて、「『史記』「鴻門の会」をBLとして読み直す」としました。司馬遷が『史記』を書くにあたって集めた材料の中には、楚漢戦争を題材とした歴史劇がたくさんあって、そこに登場する張良像は実際の年齢よりもはるかに若く、おそらくは二十歳前くらいの美少年として描かれ、項伯や周囲の男たちの間で、一種のマドンナのような扱いだったのではと言いたかったのです。
「鴻門の会」は『漢書』にもあります。しかし、『漢書』の記述は整っているのですが、現場の、ナマのものを見て書いたのではなく、『史記』の文章を見て書いているのがわかる。そもそも班固は司馬遷と違い、市で行われる史劇を、そのまま歴史書に書こうなんて、考えもしなかったのかもしれません。そう言う意味で、『漢書』の記述から、元ネタの史劇を再現するのはちょっと難しいのです。
『史記』の作者・司馬遷は前漢の半ばごろの人、『漢書』の作者・班固は後漢の前半、章帝時代の人です。だいたい前漢の末から後漢の初期にかけて、中国の学問というのは口伝を中心にした学問から、文字に書かれたテキストに基づく学問へと、大きく転換します。
現代の我々にとって、歴史とは「書かれたもの」です。中国には『春秋』に代表されるように文字に書かれた歴史書は古くからありましたし、「書かれたもの」そのものを意味する『書』(『尚書』・『書経』とも)は、儒教の経典の一つとして、漢以前から伝わり、非常に尊重されてきました。秦の史官であった司馬遷の家には、先祖代々受け継いできた門外不出の「古い記録」が残っていたでしょう。
しかし、歴史を伝えてきたのはこれらの「書かれたもの」だけではない。古代においては、語り物、劇、古老の言い伝えなどの、「書かれてないもの」もまた、歴史を伝える重要な一部でした。
たとえば魯の国の歴史書『春秋』ですが、これは「書かれたもの」ではありますが、年表みたいなもので、これだけ読んでも全然、歴史はわからない、というシロモノです。で、これは要するにこういうことなんだよ、という注釈が、最初は口伝で伝えられていました。そして漢代に入ってようやく、文字として書物に記されることになります。それを、「竹帛に著ける」、と言います。そうして前漢の末から後漢の初め頃にようやく、「書かれたもの」に基づいた学問が起こり、やがてテキスト中心主義が確立されていく。司馬遷と班固の間には、「書かれた歴史」と「書かれていない歴史」に対する、大きな認識の違いがあるのです。
『史記』の中のさまざまなエピソード、もしかしたら劇だったり、講談のような語り物だったかも……と少しばかり想像の羽を広げてみると、また違った歴史が見えてくるかもししれません。