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一、BL史劇「鴻門の会」について

わりと真面目な内容です。

 「鴻門の会」、と言えば漢文の教科書などでもお馴染みの、楚漢戦争中、屈指の名場面。お読みになっている方も多いと思います。もう忘れたよ、という方のために、以下に簡単に概略を記します。


【鴻門の会・概略】


 秦の暴政に対して兵を挙げた項羽と劉邦は、名目的ながら盟主であった楚の懐王の、「先に関中に入った者を関中王とする」という約束を得て、それぞれ東から秦の都・咸陽かんようを目指した。劉邦は南側の地味な武関から関中に一番乗りし、あっさりと咸陽を落としてしまう。秦王子嬰(もはや皇帝とは名乗らなかった)の降伏を受け、咸陽の財宝や美女には手を付けず封印すると、覇上はじょうに陣を敷いた。一方のライバル項羽は、強敵とまともに当たりながら表玄関とも言うべき、難攻不落の函谷関かんこくかんにやってきてみると、なんと劉邦の命令で関所が閉まっている! 先を越された! 正攻法を採ったおかげで遅れを取った項羽は大激怒。明日にも四十万の圧倒的兵力で、十万の劉邦軍を蹴散らそうと計画を練っている。まともに当たったら劉邦軍に勝ち目はない。


 この時、項羽の末の叔父・項伯という男が、劉邦の幕下に仕える旧知の張良を救うために、項羽軍のある鴻門から、張良のいる覇上まで夜に馬を飛ばした。鴻門と覇上の間の距離は40里、漢代の1里は約400メートル、つまりおよそ16キロメートル。

 項伯は張良に、一緒に逃げようと言うが、張良はそれを不義として断り、劉邦に事情を話して、項伯の仲立ちで翌日、項羽のもとに謝罪に行くことにし、項伯も承知して再び40里を馬で帰っていく。

 翌日、劉邦は張良、樊噲はんかいらとわずか100騎の護衛に守られ、項羽の陣のある鴻門へと向かう。項羽はひとまず謝罪を受け入れ、仲直りの宴会となるものの、項羽の軍師・范増はんぞうは、この機会に劉邦を殺してしまえと項羽にけしかける。宴会の最中も何度も決断を迫る范増は、動かない項羽に業を煮やし、項羽の従弟・項荘に命じて、剣舞の最中に劉邦を殺させようとする。その意図に気づいた項伯が剣舞の相手を務めながら劉邦を守る、危うし劉邦!


 そこに乱入した巨魁・樊噲が項羽と睨み合い、生の豚肉をむしゃむしゃ食べながら劉邦を弁護し、劉邦は厠に託けて中座して難を逃れることができた。

 

 宴の後、残った張良から献上された玉製の柄杓ひしゃくを砕いて、范増が叫ぶ。「ああ、項羽の天下を奪うのは劉邦に違いない!」




***********



 『史記』の中でも有数の、緊迫した、そして臨場感に溢れた、名場面中の名場面。まるで見てきたかのような生き生きとした記述ですが、私はこの場面、司馬遷は本当に「見た」ままを書いたのではないかと、考えています。


 司馬遷の生きたのは前漢の武帝時代。彼はちょうど、武帝と同じ年頃で、ほぼ同じころに亡くなったのではと、推定されています。『史記』の成立がだいたい、紀元前100年くらい。鴻門の会は紀元前206年。ほぼ100年ほど隔たっています。司馬遷が鴻門の会の現場に立ち会うことはあり得ません。


 では、司馬遷は何を「見て」書いたのか。

 それは、「劇」です。


 司馬遷が『史記』を書くにあたって基づいた材料の中には、宮廷に残された古代からの記録だけでなく、民間の説話や伝承が含まれているのは、よく言われていることです。司馬遷は若い頃には『史記』の材料を求めて各地を旅行し、その地の長老を訪ねては、多くの口碑を集めて回ったのです。


 『史記』項羽本紀に採録された「鴻門の会」の部分について、宮崎市定は「これは全段が身振りを伴って話された語り物であったにちがいない」(宮崎市定「身振りと文学―史記成立についての一試論―」『宮崎市定全集』5 史記、210頁)と断じています。宮崎市定が言う「語り物」とは、現代で言うところの講談、あるいは落語のようなもので、しかも落語のように座布団に座ったまま語るのではなく、ある程度広さのある場所を移動しながら、実際に座る動作などを実演し、物語を語っていく芸能を想定しているのかと思われます。


 ですが、私はこの「鴻門の会」の部分は、司馬遷は劇を見て忠実に、「見たまま」を描写したのではないか、と考えています。

 漢代、歴史物語を題材にした劇が存在したことは、漢墓の石室に描かれた画像石にも、当時の劇を描写したらしいものが見られることからもわかりますし、宮崎市定自身も、『史記』秦始皇本紀の二世三年八月条、いわゆる「鹿を指して馬と称す」の有名な場面について、


これは事実の記録として読むと、どうもおかしい。鹿を公卿満座の殿上に牽き出したならば、飛んだり跳ねたりして困りはすまいか。併しこれを喜劇の筋書として読めば甚だ秀逸である。鹿に扮した俳優が、頭に角をつけて飛んだり跳ねたりするのを見て、鹿だ、馬だと騒ぐ場面は抱腹絶倒だろうではないか。史記の描写中には屡々このような、劇中の一幕として相応しい場面を取って、そのまま史実のように扱った箇処が少なくない。しかもそういう所ほど描写が活き活きとして真に迫っているのである。(宮崎市定「史記を語る」『宮崎市定全集』5 史記・123頁)


と述べ、宮廷や市場などで上演された劇が、『史記』の中に取り込まれているのだとしています。私は「鴻門の会」は一人の話芸ではなくて、複数人で演じるかなり大掛かりな、剣舞あり殺陣タテあり、BLありの歴史物語劇だったのではないか、と考えているのです。




 いやいやいや、お前、真面目な話をしてるフリしてさりげなく変なもの混ぜてんじゃねーよ。と、思われるかもしれませんが、別に私は、腐女子脳によって歴史事実を勝手にBL化しているわけではありません。そもそも、私、普段BL読まないし。ただ、『史記』の「鴻門の会」は、その基づいた劇中にBL要素が含まれており、正しく読み解くためにはBL的な視点が必要である、とかなり真面目に考えております。


 どこかどうBLなのか。『史記』項羽本紀の原文を虚心坦懐に読めば、もはやBLとしか思えません。



【原文】項伯乃夜馳之沛公軍、私見張良、具告以事、欲呼張良與俱去、曰、「毋從俱死也。」


【訓読】項伯 すなわち夜馳せて沛公の軍にき、ひそかに張良にまみえ、つぶさに告ぐるに事を以てし、張良に呼ばわりてともともに去らんと欲し、曰く、「從いて俱に死ぬこと毋かれ」と。

 

【現代語訳】項伯はそこで夜に馬で駆けて沛公の軍に行き、こっそり張良を呼び出して事情を話し、張良に呼び掛けて、一緒に逃げようと言った。「沛公と一緒に死んだらだめだ!」と。



 

 私が「鴻門の会」を劇だと思うのも、この部分の「欲()張良與俱去」の「呼」の字、これは舞台上で項伯を演じる役者が、張良を演じる役者に向かって呼びかけている、そういう描写に見えるからです。舞台上で男が、もう一人の男に向かって叫ぶ。「子房(張良のあざな)! 俺と一緒に逃げよう!」


 命の恩人だとかなんとか説明されていますが、そんな義理人情じゃなくて、これはもう「愛」でしょう、「愛」。これがBLでなければなんだ。項伯×張良。きっと張良は美人受け。そうに違いない。


 そんな風に思っていた時期が私にもありました。


 但し。ここに現実の歴史が立ちはだかります。


 張良の伝記である『史記』留侯世家の記述より計算すると、張良は「鴻門の会」のあった紀元前206年当時、50歳くらいです。


 張良は戦国七雄の一つ、韓の貴族の出身で、祖父・開地、父・平とも五代の国王の宰相を務めた家柄の出です。韓の悼恵王の二十三年に父の平が死に、その二十年後に秦が韓を滅ぼしたとありますので、韓が滅んだ紀元前230年の時点で、張良は確実に二十歳を越えています。しかも、弟が死んでも葬式もせず、全財産を傾けて韓の仇を報じようとした、ともあるので、韓が滅んだ段階では二十代の半ば過ぎかそれ以上であった可能性が高い。

 紀元前230年の時点で30歳と仮定すると、紀元前206年には54歳。弟とは双子もしくは腹違いでで、張良が父の遺腹の子であったとしても、紀元前230年で20歳、紀元前206年は44歳です。……まごうかたなきオッサン、紀元前の世界ですから、下手すればジーサンの域に入っていたかもしれません。ついでに言うと、項羽本紀によれば、項伯は張良より年上とあるので、項伯もまたアラフィフです。歴史は非情です。ともにアラフィフの項伯×張良。こんなBLに果たして需要があるのでしょうか。

 世の中には「おっさん受け」という性癖もあるらしいのですが、私自身はオッサン同士のBLに全く萌えを感じません。


*注……「おっさん受け」とは中年男性に人気爆発の意味ではありません。BLの受け、つまり掘られる方がおっさんという意味です。


 しかし、ここで私は気づきます。「鴻門の会」の劇中のキャストは、史実の年齢通りでない可能性もある、と。劇には劇の「都合」というものがあります。劇団の都合、と言ってもいいかもしれません。たとえば、初期のシェークスピア劇では、女性は少年が女装して演じていました。一座の花形役者の年齢や得意な役回り、あるいは当時の社会に広く受け入れられていたその人物のイメージに応じて、キャストの年齢を動かす可能性は十分にあり得ます。


 「鴻門の会」に登場する人物の、歴史上の年齢を考えてみましょう。


(歴史書より推定される実際の年齢)

沛公・劉邦  紀元前247年もしくは256年生まれ→40代から50代

張良     紀元前250年以前生まれ→アラフィフ    

項伯     張良より年上

樊噲     劉邦より少し年下?

項羽     紀元前232年生まれ→26歳

項荘     項羽と同世代か、20代  

亜父あほ・范増  爺さん


 主なキャストとしてはこんなものでしょうか。史実通りの年齢構成だとすれば、圧倒的に華が足りません。何しろ、劉邦と張良、項伯がほぼ同年代で、かつ初老に差し掛かっている。さらに、劇中の最大の見せ場でもある項荘と項伯の剣舞ですが、20代マッチョとオッサンでは、少々オッサンに分が悪い。

   

 ここで、項羽本紀が項伯のことをわざわざ、「季父」(末の叔父)と呼んでいることに注目しましょう。叔父と言っても前近代の中国は大家族制ですから、父親の兄弟とは限りません。父親の従弟など、同族のうち、父と同世代の者をひっくるめて「族父」と呼びますが、「季父」とはその中で最も年下だという意味です。兄弟の多い家族だと、叔父さんが甥っ子と同じ年とか、甥っ子の方が年上だったりとか、そういうことも十分、有り得るわけです。

 つまり、わざわざ「季父」と述べているのは、劇中の項伯が項羽の叔父の割には若いから、という推測が可能になります。

 

 一般に項羽と劉邦と言えば、鬼神の如き強さを誇る青年貴族・項羽と、特に異能があるわけでもない中年の、田舎ヤクザ・劉邦という、正反対な二人という構図が浮かびます。実際の年齢差もそうですが、20代半ばの若々しい項羽と、どこか草臥れた中年の劉邦、というイメージは固定されていたでしょう。

 となれば、その項羽の「季父」である項伯は項羽と同じ年頃、20代半ばかそれ以下、せいぜい上に見積もっても30そこそこであったはず。あえて「季父」と述べるからには、劇中の項伯はかなり若いのです。仮に今、項羽の実年齢26歳と同じ年頃とすれば、その項伯より年下の設定の張良は、さらに若く二十代の前半以下の、ほとんど少年とも言うべき風貌でなければなりません。


 劇中における項伯と張良が劉邦よりもはるかに若く設定されていることは、『史記』項羽本紀の以下の会話からも裏付けられます。



【原文】沛公曰、「君安與項伯有故?」張良曰、「秦時與臣游、項伯殺人、臣活之。今事有急、故幸來告良。」沛公曰「孰與君少長?」良曰、「長於臣。」沛公曰「君為我呼入、吾得兄事之。」


【訓読】沛公曰く、「君 いずくんぞ項伯とゆえ有るか?」と。張良曰く、「秦時、臣と与に游びしに、項伯人を殺し、臣之を活かす。今、事の急なる有り、故に幸いにも來たりて良に告ぐ」と。沛公曰く「いずれか君と少長たるや?」と。良曰く、「臣より長じたり」と。沛公曰く「君 我が為に呼び入れよ、吾れ之に兄事するを得ん」と。


【現代語訳】沛公が「君はどうして項伯と知り合いなのか?」と問えば、張良が言いました。「秦の時、私と付き合いがあり、項伯が人を殺した時、私が窮地を救ったことがあるのです。今、危急の時に、この故に幸いにもわざわざ私のもとに知らせにきてくれました」と。沛公が「君とどちらが年上なのか?」と問えば、「私より年上です」と答え、沛公は「君が私のために呼び入れてくれ。私も彼を兄として扱おう」と言った。



 劉邦が項伯に対して「兄事」するべきか否か、単純に年齢差の問題であれば、劉邦は「いずれか()と少長たるや?」ではなく「いずれか()と少長たるや?」(私と項伯とはどっちが年上なのか?)と聞くべきです。これは劉邦に比べて張良がはるかに年下である、という前提の上で、その張良が「兄」として接する相手であれば、自分(劉邦)もまた彼に「兄事」しよう、というように読めます。おそらく、劇中の劉邦は40代から50代の壮年の役者が演じていて、項伯よりも明らかに年上なのです。にもかかわらず、張良の縁で項伯に対して「兄事」する。若い項伯に対してへりくだる壮年の劉邦から、劉邦の謙虚さがより強調されることになります。


 つまり実際の年齢はともかく、劇中の張良は二十歳を超えるかどうか、という程度の少年で、張良の危機を知って救い出そうと、一人で敵陣に乗り込んできた項伯もまた、二十代半ばほどの青年が演じており(実際の役者の年齢はもっと上だったかもしれませんが、少なくとも観客が想定する年齢は若かった)、その彼ら二人にへりくだる形で、項羽へのとりなしを頼み込む中年の劉邦、という年齢構成だったのです。


 さらに、張良が女性と見まごうような外貌であったのは、『史記』留侯世家の最後にある、司馬遷自身の論賛、「太史公曰」の部分にはっきりと書いてあります。


【原文】余以為其人計魁梧奇偉、至見其圖、狀貌如婦人好女。


【訓読】余 以為おもえらく其の人の計は魁梧奇偉かいごきいなるも、其の圖を見るに至れば、状貌は婦人好女の如し。

 

(訳)私、司馬遷が思うに、その人の経略は壮大にして人を驚嘆せしむるものであったが、彼の絵姿を目にすると、姿形は美しい女性のようであった。


*注……一般的には前半部分の「魁梧奇偉」を司馬遷が想像していた張良の外貌として訳すことが多いですが、「其人()」とありますので、張良の立てた経略が「魁梧奇偉」だと、読むべきだと思います。『漢書』の張良伝の賛では「以為其()魁梧奇偉」となっているので、司馬遷が想像した張良の外貌は……と読むことが一般的になったのでしょうが、『史記』だけを素直に読めば私の訳になります。 



 司馬遷が目にした張良の絵は、まるで美しい女性のようでした。それが司馬遷の生きた前漢時代に広まっていた張良のイメージだとすれば、劇中でもそのイメージに添ったキャスティングが行われたはずです。いかつい爺さんを張良役に振り分けたりしたら、観客のブーイングを浴びてしまったことでしょう。張良が少年と言ってもいいくらいに若く、かつ女性と見まごうほど美しいとなれば、相当な美少年か、場合によっては、女優が男装して演じていたのかもしれません。美少年役を女優が演じることは、現代でもたまにあることですから。


 張良が絶世の美少年であった、と仮定すると、その張良を救うため、項羽の一族でありながら危険を冒して敵陣に一人乗り込み、さらに自軍の秘密を暴露するという、重大な裏切りを犯した項伯は、さながら恋人を救おうと一人奮闘するヒーローそのものです。おそらく一座の中でも、優男系二枚目が演じていたのではないでしょうか。


 張良と項伯のキャスティング、そして先に引いた「欲呼張良與俱去」というセリフ。司馬遷が目にしたであろう史劇「鴻門の会」は、そもそもBL風味の味付けが施されていたのです。


 古代の中国において、男性の同性愛はタブーでも何でもなかったようです。漢代の皇帝は当然のように、お気に入りの男性とベッドを共にしており、男の愛人やその家族に、莫大な金銭や高位の官職を惜しげもなくバラまきます。依怙贔屓えこひいきの行き過ぎを批判されても、同性愛そのもの対する批判はついぞ目にしたことはありません。男性の同性愛は非常に強い友情の結びつきの、その延長上に位置付けられていたようです。ですから史料を読んでいても、肉体関係のある同性愛関係なのか、単に暑苦しいほどの友情のあまり添い寝しているだけなのか、区別のつかないものが多い。この劇中における項伯のような、命の恩人でもある年下の友人に対する、一族や君主への裏切りをも辞さない過剰な()()は、当時の言葉では「義」とか「侠」とか表現されることが多いですが、それは現代の我々から見れば「愛」であり、つまりBL以外の何物でもないでしょう。


 くどいようですが、まとめておきましょう。『史記』項羽本紀にある「鴻門の会」は、司馬遷が実際に目にした劇に基づいて書かれたものであり、その劇中には項伯×張良のBL的な関係が暗示されていたと考えられます。


 次回からは私の勝手な推測を交えて、司馬遷が目にした史劇「鴻門の会」を復元しながら、『史記』項羽本紀・「鴻門の会」を読んでいくことにします。


 


参考文献

宮崎市定『宮崎市定全集』5 史記(岩波書店、1991) 

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