プロローグ 後
意識が途絶えたはずのオレが目を覚ましたのは、木と土の匂いがする何かの建物の中のようだった。
あんまり開いてない視界から見えた世界は、どうにもぼやけていて判然としない。
ただ、なんとなく……どうしてそう思ったのかはわからないけど、ここは今までオレがいた世界ではないような気がした。
根拠はない。
それでも、ぼやけた視界から見えた世界は、煩雑で残酷なあの世界じゃないんだと、そう思う事が出来た。
それがなんだか嬉しくて。
ようやく解放されたんだと喜ばしくて。
だけど、同僚に申し訳がなくなって。
オレは、泣いた。
◆
やがて月日が流れ、オレは、本格的に自分が異世界転生したんだと気付いた。
いや、気付かされたと言った方が正しいかも知れない。
オレが転生したのは、コルコッタ村という村に住む夫婦のところで、新たな名前はアッシュと言った。
家族構成は両親とオレ、そして妹の四人。
祖父母はいないのかと思ったが、残念ながら既に土の中だった。
このコルコッタ村はクレイン王国という国の中にあり、辺境の田舎村ではあるが、住民はみんな逞しく暮らしている。
村のそばには森と川があって、村の住民は、川で釣りをするか、森に入って獣を狩る事で生活をしていた。
コルコッタ村の大人達は森の奥に行く事を禁じていた。
というのも、その森……魔女の森と言うらしいのだが、その奥には、村1番の年長者である村長の、その祖父が幼い頃から魔女が住んでいて、当時の契約で、森の奥に入ったならばコルコッタ村が魔女によって燃やされてしまうのだとか。
元々コルコッタ村はその魔女の領域の一部を間借りして興したのが始まりらしく、『絶対に森の奥には行くな。行けば魔女の怒りに触れる』と村の大人達は耳にタコが出来るくらい言ってきた。
その時の顔が妙に真剣で。
オレと一緒に話を聞いていた村のガキ大将ベントと、その腰巾着のカロン、子供衆のマドンナであるアレッサとその妹のメリッサは、絶対に森の奥には近付かないようにしようと誓い合ったのだった。
それは、オレことアッシュが4歳の時だった。
◆
それから更に1年が過ぎて、オレも5歳になった。
その日は、オレは1人で森を探検しに行き、野うさぎみたいな小動物を観察したり、おやつにと生っている木の実を食べたりして過ごしていた。
1年前にした誓いを守って、絶対に森の奥には行かないように気を付けながら。
勝手知ったる他人の家ならぬ、勝手知ったる近所の森。
森の浅い場所にもはや知らない場所などは無かったが、それでも、1日過ぎるごとに森は別の顔を見せてくれ、それが妙に楽しくて、オレは毎日、夕暮れまで森に入り浸っていた。
もちろん今日もそうだ。
浅い場所を探検していると楽しい時間はあっという間で、やがて空がオレンジ色に染まっていく。
「んー……今日もそろそろかな」
森の木々の隙間から見えるオレンジ色の空を見上げて独り言ちる。
オレはまだ5歳だから狩りは出来ないけど、こっちの世界での両親は、オレが森での話をするといつも笑顔で聞いてくれる。
それが、我ながら妙に嬉しくて。
ここ半年ほどは、夕食の時に森での話を両親にするのが日課のようになっていた。
今日も今日とて、早く帰って森での話を聞かせてあげようと村の方に走り――森を抜けたところで、愕然とした。
「……なん、で……?」
空のオレンジ色がそのまま落ちてきたかのように、村は一面、炎に包まれていた。
黒い煙が巻き上がり、家々は燃え上がっている。
小麦を育てていたはずの畑には収穫間近だったはずの小麦の姿形はなく、ただ黒い何かがあるだけだった。
生き物の気配はなく、村の誰かの声も聞こえないから、きっともう、誰も生きてはいないのだろう。
……なぜ?
どうして村が燃えているんだ?
転生して……この村に生まれてまだ5年しか経っていないのに、その5年の間に積み上げたなけなしの楽しい思い出が、炎に包まれ、消えてなくなっていく。
「――おや? 生き残りがいたのか」
不意に、そんな声が聞こえてきた。
その方に顔を向けると、そこには、前世ではそれなりに慣れ親しんだ白衣を纏った黒髪紅眼の女性が立っていた。
歳は若く、20代半ばくらいの見た目だ。
美人で、白衣の下には、上がチューブトップのようになった膝上丈の黒のタイトワンピースを着ている。
「君は、この村の子……だね?」
「あ、ああ……」
「そっか。……んん? ふぅん。面白いもの、見つけちゃったな」
女性はオレの顔をじっくりと見つめると、急にニヤニヤとし始め、そんな事を言った。
面白いもの?
なんだ? オレの事、なのか?
「ねえ、君。どうせ行くところが無いなら、私のところに来ないかい? この炎じゃ、きっと生き残りは君くらいだろうし……どうかな?」
確かに、この女性の言う通り、コルコッタ村が燃えてしまった以上、もうオレに他に行くところは無い。
父さんも母さんも、まだ幼い妹も、他の村民も、もう生きてはいないだろう。
それなら、せっかくの申し出なんだし、この女性についていってもいいかも知れない。
いや、他に選択肢はない。
オレは、この世界ではまだ5歳なんだ。
生きるためには、彼女についていくしかない。
「……わかった。ついてく」
「そうかい! それは何よりだ!」
提案を承諾すると、女性はぱぁっと華が咲いたように笑顔になって、手を打った。
「よぉし。そうと決まれば早速行こうか。……えぇと……君、名前は?」
「アッシュ。コルコッタ村のアッシュ」
「そうか! 私はクオリア。クオリア・レンドゲートだ。よろしくね、アッシュ!」
「よろしく」
クオリアが差し出した右手を取ると、そのままぐいっと持ち上げられた。
そのままクオリアは、握手の形で繋がれた手を軽く振って『いやぁ、いい拾い物をしたよ』などと言っていたが……なんの事だかサッパリだ。
「じゃあ、早速行こうか。これから君が住む事になる家に」
そう言ってクオリアはにっこりと笑った。
炎の灯りに照らされたその顔はとても綺麗で、思わずどきりと心臓が跳ねた。
が、それを悟られないようにどうにか抑えて、こちらも笑みを返す。
これが、オレと、最愛の人クオリア・レンドゲートとの出会いだった。