取材女優
22時を過ぎた頃合い。超は付かないが高級ホテルの一室は1人が宿泊するには寥廓たる様だ。
普段泊まるビジネスホテルの10室分でも足りないほどかと吟味する私の前に姿を見せるー。
庚涼子。40を超えて円熟味を帯びてきたこの女優に私は特別な思いを潜めている。彼女は10代の頃にアイドル顔負けの美貌と天真爛漫な姿で、男性だけでなく女性からも多大なる支持を集めていた。歌やグラビア…バラエティ番組への出演と観ない日はないほど、多方面に活躍をした彼女の拘りは…演技だった。
寥廓たる室内において、上質ではあるが細やかにすら感じる椅子に掛け、机を挟む格好になった。ローブを纏う彼女は艶やかで、綺麗に伸びた白くも麗美な艶を持つ脚は意識せずとも視線をなぞらせてしまうほどの危うさと魅力を兼ねている。目を上げよう。化粧を解いた顔は画面越しに観る姿とは違うが、返って10代のあどけなさを呼び起こす皺一つない…しかし、次の瞬間
ごめんなさいね。化粧をしない時間も、美容のために必要なの。
言葉には艶やかさが乗る。あどけなさに吸い込まれるのは誘惑に屈するも同義と自制する。そんな立場にない。私は言葉を発せずにペンを走らせた。本来なら世辞も込めてーそんなことないです。とてもお綺麗ですー。とでも言うのだろう。だが、ノートの右側へ書き留めることにした。私の本音はこの右側へ書く癖がある。私はしがないライターだ。
彼女との縁は、彼女の人気が絶頂を迎える少し前の頃、客演として出演した映画のレビューを書いた際に、印象的であった彼女の演技を良く評価したのだが、彼女がそのレビューを見て気に入ってくれたのだ。その後、爆発的なブレイクを迎えた彼女を多くの媒体が褒め称えたが、容姿や外側の情報だけのもので、演技の並々ならぬ拘りを見抜いたものはなかった。一層、彼女に一目置かれるようになった。
ねえ、今度の新作なんだけど…
時間を忘れ、私はノートと彼女を何度も往復して見た。先日放映された映画の出来、役柄等ー。その取材を此処で行う。そう、仕事だ。お互いに。彼女の役は主演ではなかった。輝かしいキャリアで言えば端役とも言えるヒロインへの意地悪をする小悪党のような役柄だ。実際に観て私は出番の少なさに驚いた。さらに、その出番でもヒロインへの憎悪と嫉妬、自信の過去の自己賛美を織り交ぜたような、複雑な人物像を見せつける怪演だった。しかし、出番が少なすぎて、彼女をメインに記事を残すのは困難である。この映画の品評は、ヒロインの容姿やお世辞の演技への称賛で溢れている。私もそこに倣うが、必ず彼女を取り上げる部分を残す。その品評こそが彼女の証となるのだから。
確かな演技力を持ち、拘り続ける彼女がなぜ端役に甘んじるのか。1件のスキャンダルを皮切りに、世間の評価は堕落するばかりとなった。妻帯者である映画監督との深夜の密会をスクープされた。当時、私は彼女に一目置かれ何度か取材も受けてくれる半、専属のような状態であったから、密会していることは知っていた。だが、彼女がスクープの弁明も何を言うか預言者のように分かっていたので記事にしなかった。結果、他社に出し抜かれてしまい、彼女を追っていながらスクープを出し抜かれたと当時勤めていた出版社をクビになった。
会っていたのは事実。1本でも多く良い作品の映画に出たいし、そもそも愛とか略奪なんてないの。映画で女優として生きたいだけー。
裏切られたとファンは激怒した。そして、業界関係者からもこの反論は反感や彼女を避ける事態を加速させてしまった。その後も、大御所の俳優やアイドルとも密会や、あろうことか薬物の使用などでっち上げ等。その全てが彼女を否定的に表現してこき下ろした。今までと世界が180℃変わってしまったかのように、変わらないものがあるとすれば、演技への嘱望とプライバシーへの侵害である。ネットの発達に伴い、彼女の住居は特定され投石や落書き、不適切な郵便物の中には誰とでも寝る女だと男性の体液すらあった程だ。
業界の中では若干の同情心と、当時ファンであった気持ちと、彼女を抱ける邪さが、彼女を未だ芸能人であり、望む役でなくとも映画に出演させる位置に留まらせ、彼女も演技のためにと甘んじて受け入れ、しがみついた。
気丈に振舞ったりもしたが、世間は厚顔無恥とした。言われなきバッシングに彼女は悲哀に満ち、哀哭…どちらも彼女は演技した。私には演技と素面の境目がもう分からなくなっていた。作品に悲劇はありふれている。その中の1シーンも彼女は最高の演技で務めあげたのだろう。
どんなにボロボロでも、有頂天でも…演技、演技なの。演じることで私は満ちるの
そう。舞台でなくとも、彼女は演技を楽しむ。今この瞬間、しがないフリーのライターとのやり取りすら、彼女の演技という手練手管により、ノートに彼女の望むままを書き連ねているのかも知れない。ペンはまだ走る。彼女の言葉と表情をノートへ…
…もうこんな時間ね。遅くまで付き合ってくれてありがとう。明日も現場でね…。ふふ、私は先に休むわ。変な真似しないなら、この広い部屋であなたも休んでいいわ。
時計を見る。2時を迎えようとしている。私は小さく相槌を打つと広げたノートを水を掬う様に眼前に置く。最後に1度彼女を見遣ってから白地と文字が残るページをゆっくりと閉じる。ノートを机に置き顔を上げる。
この広い部屋を最後にどう過ごそう。1人では、あまりに広い。