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蒼天の大地  作者: 水割り
2/2

王佐の夢2



 ◇



 古代中国に、誕生日、という概念は浸透していない。年が明ければ人は歳を取るものだ、と考えられていたのである。だから、例え7月に生まれようとも、正月を迎えれば1つ歳を取る。生まれた時から1歳と考える数え年の方式であったから、小康は春を迎えて19歳になっていた。岳管が漢中を去り、新たに王統が加わって、その翌年、郊昔が涼州へ旅立った。南鄭自警団は規模の縮小を強いられ苦境に立たされていた、そんな時期である。冬を越した小康は、王統を引き連れて宿舎に向かっていた。


「来たか。まあ畏まらず、座りなさい」


 最近、自警団の司令官である岳斯の体調が思わしくない。御歳今年で51。流行病などは起きてはいないが、大事を取って静養する事も多くなった。岳斯が抜けたときに自警団を指揮するのは田壮である。迎え出たのが田壮であったから、嗚呼、また岳司令は寝込んでいるのか、と小康は胸に切なさを覚えた。

 自警団は活動範囲を拡げている。昨年届いた漢中郡の南・巴郡からの救援要請に応えたのが事の始まりで、今では、北は秦嶺山脈から南は大巴連峰の向こう側まで、郡と郡との境界線を越えて活躍していた。

 しかし、状況は芳しくない。圧倒的な人材不足が現状である。長安から孫靖が帰省して助力を快諾してくれたはいいものの、岳管・田文・郊昔と言った若い優秀な指揮官の不在と体調不良の岳斯の穴はそう易々と埋まるものではない。現在総指揮を任せれている田壮に、騎馬兵を束ねる馬騰、疾風の如き疾さを誇る小康、兵法の天才孫靖の4人が全体を支えているに過ぎないのだ。王統は小康の下で働いており、馬丙はまだ自立する力量に達していないなど、組織としての薄さが露呈してしまっている。

 そこで、一応であるが、人材補強を図ってみてはいる。馬騰は旧知である賈【言羽】(かく)という男や同族の者に手紙を出し、田壮は商人仲間を通じて優秀な人材の噂を掻き集めさせた。王統は元谷豹賊の熟練した行軍技術を持つ者と連絡を取り、岳斯も漢王朝に仕えていた経験のある旧知の者に手紙を出した。が、冬が明けても、朗報は1つも無い。結局、面倒を見切れない兵士たちは解散させるしか道が無かった、と言うのが現状である。自警団の総兵力は、この時3千を少し超えた程度でしかない。


「やはり、蓬文。お前に1千の兵を率いてもらうしかない」

?

 馬騰は義理の息子にそう言い放った。小康は確かに煌く用兵術を持っている。が、最大でも3百の兵しか率いた事が無いのもまた事実。それは、小康に素質が無いというわけでなく、彼が常に少数の兵を率いる事を望んできたからである。


「しかし、義父上。わたしは兵の扱いが粗暴なゆえ、多くの兵士は着いてこれないかと何度も申し上げましたが」


 それは、自分の理想を追い求めた結果であった。大軍を以て勝つのではなく、寡兵を以て策を成す。それが小康の描く理想の役回りであり、その存在が自警団に数々の勝利を呼び込んできたのだ。しかし人材不足のこの中で我が儘は言えぬか、と半ば諦めていた小康であるが、最後に一度だけ反論を試みた。勿論、この反論が受け入れられなければ、渋々ではあるが、任を受ける覚悟も出来ている。


「いや、まあ聴け。お前にわたしの率いる騎兵1千を授けるが、夏までにその数を訓練で削れ。それにお前の率いていた百を合わし、最速の騎兵団を組む」


 この馬騰の言葉を、小康は予想していなかった。


「鬼教官から離脱した兵士はわたしと馬丙の下に再編成する。どれほどの部隊が生まれるか楽しみなのだが、どうか」


 みれば、呆然と立ち尽くす小康を田壮が笑みを浮かべながら見つめている。この男が馬騰に吹き込んだであろう事は、小康の後ろに立っていた王統からしてみれば一目瞭然だった。

 小康は何故寡兵しか率いないのか。それは小康理想の戦い方でありながら、多くの兵士がその戦いについていけないことが大きな要因でもある。小康の指揮は無謀と言うより無茶そのものだ。敵陣を真っ二つに切り裂いたり、山岳行軍を騎乗したまま行ったり、常識では考えられない軌道を描く。それが鬼才として発揮される条件として、その用兵についていけるだけの兵士たちの存在が必要不可欠である。小康は特に錬兵に力を注ぐ。陣形・連携以前に、兵士一人一人に体力・胆力・精神力を求めるのだ。そんなこんなで、3千前後の自警団の中で、小康の率いる百程度の兵士は一際屈強な者が揃っている。彼の戦い方からして、そうでなくてはならなかった。

 今回、田壮は、果たして小康の用兵についていける兵士が自警団に何人いるのか、と言うのを興味本位であるが調べたくなった。この考えを深めていくと、これがまた現状を打開する手に成り得るのだから、人の思いつきというものは侮れない。そもそも、小康の率いる兵は、王統を代表するように外部からやってきた流れ者が多い。小康本人が流れ者であるからか、それらの心を上手く掴み、上手く使う。これを考えれば、馬騰の率いる騎兵団も流れ者である。涼州の馬賊侵攻を生き延びた精兵達であり、もしかしたら、これらは鬼教官の訓練に耐えられるのではあるまいか。そうすれば、自警団の戦略の幅が飛躍的に広がる。これを利用しない事に、今の危機的状況を切り抜ける活路は無い。なんとしてでも、という気持ちを胸に田壮は、義理とはいえ息子の用兵に理解を示していた馬騰を説き伏せた。この時、馬騰は小康を擁護する立場にありながら、田壮の意見に難色を示さなかった。やはり心中の何処かに、やむなし、という想いがあったのかもしれない。同じく活路を探っていた馬騰は、田壮の意見を呑んだ。


「……錬兵により、屈強な兵士たちを選りすぐれ、ということですか」

「そうだ。お前の用兵についていける兵が8百もいれば、或いは万の賊徒ですら突き破りかねない。小康、兵士の出来次第では、お前の部隊を主軸に布陣を編むぞ」


 義父の通達に、小康は静かに目を伏せた。何ともいえない感動に身を包まれたからかもしれない。大役である。自らの義父や師匠の部隊を片翼に担うなど、果たして想像もし得なかった事態だ。

(わたしは、認められたのか)

 義父に、師匠に。それだけの実力があるのか、と、小康は自問しようとして、ふと後ろを振り返った。自分の下に就きながら自分よりも秘めた実力を持つ王統の顔が見えて、答えなど出すまでも無い、と気を引き締める。事態は自分を認めるような甘いものではなく、自分如きが動くしかないほど危機的状況にあるのだと再認識したのだ。せめて他者を評価しない郊昔がこの場に居れば、お前程度が、と笑ってくれたろうに。小康の胸に哀愁が浮かんだ。


「では早速、その様に。訓練は10日に4回から7回に増やしますが、構いませんか」

「指揮権は君に委ねられた。好きに使ってくれ、小康」


 田壮の言葉に胸を弾ませたのは、小康ではなく、小康が率いていた部隊を指揮することになる王統だった。自分を苦しめた兵士を指揮するとはなんとも皮肉であるが、王統の場合、むしろこの機会を望んでいた。肩を並べてみたからこそ初めて解ったその強さ。敵として迎え撃つ経験もしている事から、王統は小康をよく知る人物でもあった。

 戦場で怒号を発する小康からは俄かに想像できないほど、普段の小康は穏やかである。言葉を発することも少なく、例え友人に囲まれようが、それから一歩距離を置くような立場を崩さない。時折何かを考える様な仕草を見せるが、そんな時は大抵軍事について思案を深めていたりして、それを邪魔されると静かに怒る。その行動基準は礼に基づいているのだが、決して真の感情を表に出さないので、近くに居るだけで妙な威圧感すら感じてしまう。

(敵として相対したからこそ、この人の恐ろしさが判る)

 戦場での休まぬ指揮。絶え間なく陣形を入れ替え、兵法の妙を駆使するその用兵からはどうも懸け離れた人物像で、小康と始めて顔を合わせた王統は驚きを隠せなかった。能在る鷹は爪を隠す、というが、この人はそれに倣って行動している風ではない。王統は小康に、王者の素質を感じ取っていた。だからこそ、仕えるに申し分無い、として、自警団にではなく小康という一個人に仕官したのだ。いわば、王統にとっての主君は、小康蓬文という一農民の身分に過ぎない庶民である。

 主君の鍛えた兵を率いる。敵として戦い、肩を並べて戦った経緯があるからこそ、王統はこの事実に胸を躍らさざるを得なかった。

 そんな部下の気持ちなぞ露知らず。小康は分け与えられる兵が終結しているという南鄭東の演習場へと向かうため、放心状態のまま突っ立っていた王統を無言で引き摺りながら退室していった。








  ◇




 馬騰には危惧がある。

 危惧、というには、身の危険、ともとれるが、馬騰の危惧はそうではない。義理の息子である小康の事である。

 小康は時折、繁盛している南鄭の大通りに腰を下ろしては、その風景を恨めしそうに眺めている事がある。その表情は切なさに溢れていた。

(郷里を想うているのか)

 漢中郡南鄭は小康の郷里ではない。彼は涼州武威郡の生まれである。漢という国の版図から遠く離れた涼州で育ち、荒れた荒野を遊び場に持った一種の野生児、という本質。礼節を弁え、学門に通じてはいるものの、小康のそれは塗り固められた外壁に過ぎない。彼は馬を駆る狩猟民族なのである。その証拠に、若干11歳で自警団に入団した身でありながら、当時から騎射に通じており、野営にも困惑する様子すら見せなかった。根底から埋め込まれた日常生活の一部でしかなかったからである。

 武威の悲劇、と、馬賊の侵略から生き延びた住民が語る惨劇は、西暦172年に起きた。この侵略に対し、朝廷は何一つ対抗策を講じていない。漢王朝は涼州に住まう民を軽視している部分があり、また、宦官が政庁を仕切っていたという要素が重なり、この異民族の侵略は皇帝の耳にすら入っていないという有り様だった。当時の宦官の中で、皇帝の特に近くに仕える者を『中常侍(ちゅうじょうじ)』と言い、その中でも最も力の在った者達を、時の人は『十常侍(じゅうじょうじ)』と呼んで恐れていた。皇帝はこの十常侍の傀儡人形でしかなかったとも言える。彼らは涼州の馬賊侵攻を重視せず、この二年後、馬賊が長安の北・安定郡に侵攻する、というところでようやく討伐軍を編成し、これを撃退した。勿論、皇帝はこの討伐劇の事すらも知らない。

討伐の勢いに乗り、退却する馬賊を徹底的に叩いた人物がいる。後に異民族を討伐する立場として西涼太守の任を受け、独り朝廷を不気味に睨む大男・董卓(とうたく)がそれである。西暦180年現在、涼州武威郡は董卓が治めていた。

 そういえば、と、馬騰は最近になって思う事がある。

 小康の祖父は、西暦143年、漢王朝の名の下に涼州に跋扈していた羌族を討伐した武将の一人であり、馬騰の記憶にあるところ、討伐軍の総大将であった趙沖という将軍が無念の戦死を遂げた後に、彼の意向を継いで羌族討伐を遂行した偉業の人である。そのまま軍を離れ、涼州は敦煌郡に身を置いて羌族の娘と結婚し、そして生まれたのが小康の父親・小奉(しょうほう)であった。

 小奉は成人する前から各地を旅して周り、数々の人物と友好があったという。その代表が馬騰であり、そしてその下に賈【言羽】・董卓といった人物の名が続く。彼には不思議な魅力があった、と、馬騰は昔を懐古して想う。そして、漢王朝に並々ならぬ憎しみを抱いていた。

 西暦160年。小奉は母親と妹と共に武威郡へ移住した。この時、既に父親は亡い。官職に就きたいと思っていた小奉は、必死に農作業をこなしていた。当時の官職とは、率直に言って『買う』ものである。お金を払って、初めて役職に就けるのだ。勿論、始まりがそうであるから、昇格にも当然お金が必要である。お金さえあれば能力は要らない、という官職であるから、それに就いた者たちの多くは仕事の仕方を知らない。国が腐る理由がよく分かる制度であるが、これは漢王朝腐敗の原因、その一角に過ぎなかった。

 話が逸れた。兎に角、官吏に就きたい、と思っても、それには莫大な資金が必要となる。大きな商家に知り合いを持たなかった小奉は、自らが資金を稼ぐ必要があったのである。その為、家に帰る間を惜しんで働いた。それが悲劇を生んだ。母と妹が裁判にかけられ、処刑されてしまったのである。妹の美貌に惚れた太守が婚姻を申し込んだところ断られ、それに逆上した太守が権力を使役して家族を捕らえ、罪を擦り付け見せしめに首を刎ねた。それだけの理由で、小奉の母親と妹は殺されてしまったのである。小奉は憤慨し、涙を流して友人に訴え、仇をとった。太守を待ち伏せ、夜襲したのである。この事が小奉の声明を高めることとなるが、逆に漢朝との対立を深める事ともなった。新任の太守が、小奉の敵討ちは不当だとして逮捕令を発したのである。これに反発した小奉は、友人であった董卓と馬騰に相談。太守の送り込んできた刺客を全て討ち取り、3人で太守の家へ押し上がり、討ち取った刺客の首を床に転がして太守を脅した。


「もう2度とわたしに拘るな」


 この言葉こそが、小奉と漢王朝の決別、その確固たる証拠である。結局、彼は漢王朝の気まぐれによって人生を狂わされたに等しかった。

 そんな彼も、翌年には結婚し、子供を授かる。それが小康であった。

(小奉は、漢王朝を憎んでいた)

 だと言うのに、その息子は、漢王朝に仕えたいと夢見ている。亡き親友の息子を義子として持つ馬騰の心中は複雑である。

 嘗て馬騰は、小奉・董卓・賈【言羽】などといった面々が一同に会した際、酒を交わしたことがある。その酒席で、小奉は次のように洩らした。


「わたしは漢という国を愛している。だが、どうしても、今のような腐敗しきった朝廷は好きになれない。崩せられるものなら、わたしは崩してみたいと思う」


 朝廷への叛旗、その本心。そもそも涼州というこの土地は、漢王朝と時の歩み様がまるで異なる。荒々しい気候が育むのは、『覇気』という王者の感情であった。小奉はその覇気を胸に、集まった全ての人物の胸に想いをぶつけたのである。西方の小さな土地で、王者たる者が生まれようとしている。馬騰は小奉に全てを捧げる決意を固めた人物の一人となった。

 しかし、その5年後。小奉は、馬賊侵攻に晒された武威郡の民を守るため勇敢に矛を取り、処刑された。武威に駐屯していた部隊は木っ端微塵に寸断され、民は踏み躙られ、そしてあろう事か、漢はその地を見捨てた。これは如何なる事か。小康を保護した馬騰は近者に情報を集めさせたが、その真相に憤慨したのは言うまでも無い。

(これが朝廷のやり方か!)

 馬騰もまた、亡き小奉の志を継いだ男である。民を見捨てるような国は、果たして正しいのか。否、断じて否である。

(朝廷とは、決別する)

 馬騰は決意を新たに、官吏の職を辞し、漢王朝の支配権が届かぬ地に移住する事を決めた。その地がここ漢中なのである。朝廷の干渉など受けず、民が民同士で助け合い、支え合い、守り合うという素晴らしい生活。馬騰の望んでいた生活が、漢中にはあった。

(しかし、蓬文にとってはどうか)

 小康は大地を駆ける狩猟民族だ。時折懐かしむ様に北の方角の空を眺めている辺り、やはりこの地は彼にとって檻でしかないのか。反国家の象徴とも言える小奉の血を継ぐ青年が抱く夢といい、馬騰は、自分は小康の父として相応しいのか、と疑問すら抱くようになっていた。

 そして、今日も今日とて、錬兵を終えた小康は、南鄭城下大通りの一角に腰を下ろし、行き交う人々を眺めている。それを見つめる馬騰の瞳には、哀愁の念が灯っていた。

(もし、小奉が生きていたならば)

 8年前の悲劇。あの時もし、小奉が矛を持たずして馬賊に下り、更に羌族と結託して大規模な叛乱を起こしていたとしたら。息子の成長、軍隊の訓練、人材の発掘など多くの要素を満たして立ち上がる年は、紛れもなく今であった筈だ。

(わたしも蓬文も、漢帝国に叛いていただろう)

 この西暦180年こそ、歴史の転換期となっていた筈であるのに。そう想うと、馬騰は胸が苦しくなる。官軍相手に先陣を切る自分を想像し、その片翼を固める小康と共闘している自分を想像し、宿舎で本日の戦果を明主として仰ぐ小奉に報告する自分を想像すると、今の生活は虚しすぎる。ただ平和を守るためだけに戦い、それは確かに正しい行いではあるのだが、守るだけの故に発展が無い。その戦いに、何かを変えよう、という意思が無い。ただ虚しいだけの人殺しではないか。この想い、人々を眺める小康も、もしかしたら同じなのかもしれない。

 全ては、小蓬文という人物の父親が生きていたならば、という架空の話に過ぎない。だが、その架空の話が馬騰にとって理想過ぎて、ふと、彼は目頭が熱くなるのを感じた。


「泣いているのですか、義父上」


 小康を眺めていたはずであるのに、いつの間にか自分の隣に息子が立っている。馬騰は自分が上の空になってしまっていた事に気が付いた。


「歴史、というものを考えていた」

「……わたしの父の事ですか」


 今、小康はなんと答えたのか。馬騰はあまりの的確さに、ふと我を失いかけた。が、小康の瞳に穏やかさがあって、その安心感がゆとりを生み出してくれる。


「父が生きていれば、漢帝国に叛いていたでしょうか」

「……ああ、おそらくは、な」


 2人の背中から冷たい風が吹き抜けた。春になって間も無く、山間部に位置する漢中の雪はまだ溶けきっていない。この雪解けを待って、きっと兵を挙げたに違いない。


「わたしも、きっと父についたでしょう。誰も父を止める人はいない」


 小康の言葉は過ぎ去った歴史を語るかのように穏やかで、馬騰は静かに違和を感じた。まるで、その行為が過ちであったかのように。


「義父上。董卓という男から、手紙が届きました」


 その違和とは、或いは小康という一個人のものではなく、小康蓬文という個人を取り巻く環境によって生じたものなのかもしれない。涼州、叛気、王者の資質、屈強な軍隊。漢帝国に叛く、という小奉の志を継いだのは、何も自分だけではあるまい。馬騰はこの時になって、初めて自分の置かれた境遇を知った。言葉を発しながらも人ごみを見つめ続ける若き王佐は何を想うのか。馬騰は息子の言葉に、ふと、北の空を睨んだ。


 今でも血は熱い、か、董卓よ。

 

 嘗ての時代。同じく小奉を盟主として擁していた旧友に、馬騰の心は揺れ動いた。










  ◇



 漢中郡は南鄭城。その城下の片端を、小蓬文はゆったりと歩いていた。その表情は何かにとり憑かれた様に虚ろである。時折、行き交う人々を垣間見てはそれを憂う様な瞳の色を発し、総じて不気味に徘徊している。

 彼には悩みがあった。

 小康の父親・小奉は、漢王朝に母と妹を殺された。故に、漢という国を愛しながらもその国家体質を憎み、涼州において大規模な叛乱を企画するに至る。しかしその叛乱も、首謀者の死、という頓挫により、志半ばにして倒れた。

 思えば、考えすぎかもしれないが、漢帝国がいくら腐敗しているとはいえ、いくら遠方の叛乱とはいえ、朝廷がその情報を未然に察知できなかったものだろうか。あの馬賊侵攻、妙に馬賊側の手際が良かったのは気のせいであろうか。涼州の民と良好な関係にあった筈の馬賊が、何故その土地を侵し蹂躙したのか。まさか、裏で漢帝国が糸を引いて──

 最悪な妄想に過ぎない。しかし、朝廷が叛乱の芽を摘む為に馬賊を動かした、と推測すれば、何故朝廷が馬賊侵攻に対処しなかったのか、という疑問の答えにつながるではないか。あの時の馬賊は、漢帝国の手駒だった。ならば、それを討伐する意義は無い。漢帝国の意思に通じただけなのだから。だとしたら、父は、漢帝国によって殺されたことになる。

 ふう、と肩を落とすように溜め息をついた小康は、城壁の上に居た。

 空は蒼い。だというのに、何故東の空は薄黒く、そして北の空は荒々しく熱しているのだろうか。東には天下の中枢・洛陽が在り、北には西涼(※1)がある。小康の悩みというのは、北から送られてきた一通の手紙にある。


「我が息子よ」


 という書き下しから始まるその文章は、自らに対する推挙状であった。


「父の遺志を継ぐならば、我が下に来い」


 手紙の差出人を、董仲頴ちゅうえいという。

(何者か)

 という自問は、もとより愚問であった。一度だけ、その姿を見た事があるのである。それは、遠い昔の淡い思い出。父と並列して馬を歩かせ、世の中にこれ程大きく笑う男が居るのか、と思わせる破顔した横顔。大柄な体躯に似合った覇気を纏う豪快な男。その全てが、小康が確か10年前に顔を合わせた董仲頴という男の印象である。その隣で2人の談笑を見守るように歩調を合わせているのが、よく見慣れた若い頃の馬騰で、そして、その3人を後ろから見つめる小康の隣に立っている男が、賈【言羽】という父の友人。遠くに、いや、見渡す限りの荒野の中の、古い古い、たった一つの思い出。男衆4人で出掛けた狩りを出迎えに出た時の、小さな思い出である。

(あの時の男が、父の意志を)

 思えば、不思議だ。小康は城壁の上から平地を見下ろし、ふと笑みを零した。

 息子が生きているというのに、亡き父の意志を他人が継ぐ。これ程不可思議な事が世の中にあるだろうか。

 いや、あるか。と、小康は漢王朝の体質を責めた。民の喘ぎが皇帝に届かない。これ程捻じ曲がった世の中はそうそうないだろう。

(世の中そのものが捻じ曲がっている)

 それを、父は正そうとした。故に、父の起こそうとした乱は、正確には革命である。しかし、この自分を誘う董卓は、如何なる考えを持つのか。


 乱を以て乱を制す


 小康が思うに、対外的且つ迅速に世の中を変革しようとするならば、この言葉が最も相応しい。世の中そのものが乱れているならば、それを更に乱して統治する。被害は大きいかもしれないが、それでも、40年も掛からない内に国は正されるであろう。そう思っているが故に、父は行動を起こそうとした。しかし、失敗した。世の中は乱れているが故に、乱には敏感である。その芽をつぶさに摘み取るのは、政権を牛耳る宦官の狡猾な事よ。

(董卓、何を想う)

 小康の問いは、果たして誰に掛けられたものか。董卓か、或いはそれを問いかける自分か。

(董卓、何を考える)

 もしかすると、自分は興奮しているのかもしれない。小康は他人の覇気に身震いを覚える。それは初めての感覚で、だからだろうか、小康は無性に董仲頴という人物に憧れを抱き始めていた。

(董卓、何処へ往く)

 いつの間にか、小康の傍らに王統が立っていた。何か伝言を伝えに来たのであろうが、その表情は引きつっていて、何かに脅えている様にも見える。小康はこの時初めて、自分が笑っている事に気が付いた。


「蓬文様……」

「昂文、わたしは笑っているか」


 びくり、と王統は身体を震わせる。小康の声質が普段と異なるのは明らかで、それはまるで戦場に身を置いているかのような殺気があった。


「あ……はい。蓬文様、いったい何が……」

「わたしの父を知る者から、誘いがあった」


 誘い、という言葉に、推挙の意味があるとすぐさま察する王統には、やはり才気が有る。この者の五年後が愉しみだ、と愉快に感じる小康にはゆとりがあるのだが、対する王統はそうではなかった。


「まさか、誰かに仕官するのですか」


 王統は小蓬文という一個人に仕官したに等しい。それも、そもそも小康に王者の素質を感じたからであり、今でこそ義勇の部隊を率いているが、必ず一国の主になるだろうと見込んでの仕官なのだ。金銭欲や出世欲とは無縁の王統であるが、主に良く仕える忠臣であるから、主の活躍を大いに助けたい、という気持ちが強い。だから、王統からしてみれば、小康が何処の馬の骨とも知れないような輩に仕官するよりかは、もっと確実な朝廷仕官という道を選んで欲しいのだ。


「いや、わからん。だが……この男の下に行けば、天下が変わる日を間近で見られるかもしれん。どうしようか、とは思っている」


 天下を変える、という強い意志。その気迫が、文章を通して身に染みる。その事に小康は喜びを感じていた。だからこそ、王統は次の言葉を紡ぐ事は出来ない。自分以上にこの天才が興味を向いた、という嫉妬に似た感情もさることながら、その明確な変化を感じ取ったからである。一個人から、天下という大局へ。1人の才能から、天下という中華そのものへの視点変更。これが意味する事は勿論、小康自身が、その場に居合わせる、という強い気持ちを抱いた事に他ならない。

(そもそも、父の遺志とは何か)

 小康が思うに、それは国家再興である。国を正し再び立ち上げる、これに尽きるのではないか。しかし、その事は、今の小康の身分からして不可能に近い。

(董仲頴という男が、何をやるのか)

 小康の父に対する思いやりは、実はそう強くない。彼の人はよく家を空けていたし、どちらかといえばその背中を追った経験は少ない。母と過ごした日々の方が濃密である。しかし、嫌い、というわけではなかった。小奉という人物は涼州全体で人気だったからである。

(単純に、見てみたい。見届けたい)

 亡き父の為に何が出来るか。それは、小奉という人物が描いた遺志を達成する事に他ならないのではないか。ならば自分は、その人物の息子として、遺志の達成を見届ける必要があるのではないか。それが、小康蓬文という一個人に課せられた義務ではないのか。


「わたしは──」


 何なのか。その無限大の問いに意味は無い。ただ、漏れた。それだけである。それが、自分の迷いの正体だ、という事に、小康は少なからずではあるが気付いていた。父の死を見届ける事も出来ず、その遺志の真意を理解するにも至らず、浪々と日々を過ごしては、時折山賊との小競り合いで活躍し天才などと称される。この生活に意味があるのか。或いは、馬騰のところに赴かず、そのまま野垂れ死んでいれば、馬騰らが羌族と結託して大兵を挙げて漢に叛いていたのではないか。


「わたしはどうも、歴史の転換、というものと無縁ならしい」


 この言葉は虚しさの象徴である。漢中という平穏な地に足を踏み入れて早8年。自らが流す赤き血の熱は冷めてしまったのか。父の仇を討ちたい、という理由から漢王朝に仕官するという夢を見たが、今ではその理由が変わってしまっている。天下の民を救いたいなど途方も無い冷めた夢を見る、或いはそこまで死んだ実父という存在を忘れてしまっているのではあるまいか。

(これでいいのか)

 自らに問う問いは、日に日に重さを増している。この日ばかりは、流石に小康も項垂れた。


「わたしにとって、蓬文様は蓬文様でしかありません。それでは駄目なのですか」


 この自分より年下の青年は、時折鋭いところを突いてくる。小康は顔を上げ、王統に向き直った。


「わたしは、わたしでしかないか」


 そういえば、自分は何を悩んでいたのか。いくら悩もうが、いくら努力しようが、自分は他人になど成れる筈がないというのに。父の意志を継ごうが理解しようが、小奉という稀代の英雄になど成れないのである。小蓬文は小蓬文でしかなく、それ以外の何者でもないではないか。

 他愛も無く、というには重すぎた悩みも、たった一言の言葉で解消されるのだから、人間というものは難しい。それゆえに面白いのか。王統の見据える小康の瞳には、見たことの無い、


「よし、董卓に謁見してみよう」


 そう、例えるならば天下の色が広がっていた。

 歴史はまた1つ、歪な形で動き始める。






用語解説その1


・西涼


 擁州西部と涼州を纏めて、西涼、と当時は呼んでいた。地方の呼び名で、例えば日本でいう関西・九州などである。


・【 】について


 携帯執筆の限界、表記漢字が無い、という事態を打開する苦肉の策。【】内の漢字を合わせて一文字と考えて下さい。人名はさることながら、地名はほぼ全滅の様子です(汗)



・後書き


 今更ですが、小康や岳管たちはオリジナルの人物です。実在はしていませんよ?

 さて、ようやく出てきた魔王とまで謳われた暴虐の化身・董卓という男を如何に表現するか。その男の軌道に志はなかったのか。今後の課題は増えるばかりです。



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