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その少女、孤狼につき。  作者: 飯来をらく
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第一話「狼少女、来日する」

 誰もがそう思っていても誰にも言うことは無いものがあると思う。例えば自分はどこから来てどこへ行くのか。死んだ後の世界だとか誰しも一度は考えたことがあるはずだ。

 たまにそういうものが日常生活の中で気になってはぐだぐだと数時間考え込んだ後、結局は考えても無意味と知る。そういう時は決まって空腹だったりするのだ。

 日々の生活を満たすことさえできれば人は生きることに何のためらいもない。中には苦しみながら生きている人だっているんだろう。病気だとか、いじめだとか、どうしようもなく逃げ出したくなるような様々に圧迫されながら。自分はそういうものとは無縁だと思ってきた。そりゃあ、小さな障害は至る所にあってそれにつまづくこともある。でも振り返って長い目で見ればそれは見落とすほどの些細な障害であるのだ。


 平穏無事の中、毎日を生きている。悩みは受験の事とか将来の事とか。そういうものは悩みとは言わないのだ。なぜなら全員が同じ悩みを抱えながら生きているのだから。みんなと同じ道を歩むことができるのなら信号が何色だって気にも留めずに歩いて行けるのだ。


 そんなことを考えながら点滅する信号を帰宅時間の中進み始める。横に並んだ人たちは少しだけ足早に駆けだすから俺もそれに倣ってみる。駅前の交差点なのだから致し方あるまい。

 夕日は電車に乗っている間に地平線の向こうへ消えて、今は濃紺の空がたかだか数個の明かりを瞬かせて広がっている。ここから見える空は東京とは変わりないのだろう。


 家へと向かうその足取りはいつもよりも急いていた。心臓は余計なリズムを刻んで拍動している。まぁ、そりゃあ仕方ない。今日からわが家に居候がやってくるのだから。


 二週間前、母から話があった。母親の目の前に座るようかしこまって言われたので、仲睦まじかった両親にいつの前にか離婚の危機が訪れていたのかと思いもしたが、母の声は弾んでいた。


 お前は会ったことは無いと思うが、お前のいとこがこの家にしばらく住むことになったと言うのだ。というのも母の姉、つまりは俺の叔母は仕事先のアメリカで運命の人と巡り合いそこで暮らし始めた。俺が生まれる数年前の話である。残念ながら二人の間に子は産まれなかったが二人は養子をもらい、大切に育て始めたというのだ。

 もちろん叔母がアメリカにいることは知っていたのだがまさか養子までもらっていたとは知らなかったし、その養子が自分と同い年である女の子だとも知らなかった。叔母とその夫は一度仕事で日本に長期滞在することが決まり準備をしているのだが、自分の娘はもう少し早く日本に来て馴染ませたいとのことでわが家を頼ったらしい。


 これから帰宅して家のドアを開ければ見知らぬ外国人の女の子がいて一緒に暮らすというのだ。不安もあるが言いようのない期待で頭が満ち溢れているのは男子高校生として健全な証だろう。


 思っていたよりも家の前に早く着いてしまった。どちらかと言えば和風テイストな二階建てのわが家は電灯の明かりに照らされながらぼんやりと黄昏の闇に浮かび上がっている。門を開けてすぐに広がる庭兼、駐車場を見れば車が止まっていて、空港まで(くだん)の彼女を迎えに行き、帰ってきていることが分かった。間違いなく、確実に、彼女はこの家の中にいる。


 心臓の音はやけに騒がしく、虫の鳴かなくなったこの時期だからこそ静寂を叩きのめす。風は冷たく吹いているのに体中が熱い。とりあえずはノブを握る。深呼吸をしてからなんでもないようにドアを開ける。


「ただいま」


 声が震えていないことを確認して足元に目をやる。自分の外出用の靴、父親の革靴、スニーカー、母のスニーカー。そしてその隣に置いてある見慣れない小さな革靴。やけに小さいなと奥歯を噛んだ。女子の靴とはみなこのサイズだったろうか。


「あらおかえり拓真。いとこが来てるわよぉ~」


 居間から母親が出てきて自分の名前を呼んだあとまるで「今夜のおかずはあなたの好きなハンバーグよぉ~」みたいな調子で言う。悪ノリがいつまでたっても抜けない母親なのだ。


「あぁ、手洗ってから挨拶するよ」


「ちょっとびっくりしちゃうかもだけど」


 小声で母親が言うので一体何事かと横目で少しだけ開いた居間を見る。その向こうにはテーブルの端っこと上座に置かれた小さな七福神が見えただけだ。早々に洗面所に行って手を洗い、自分の髪形を確認する。どこまで行っても思春期だなぁ。


 そうして居間のドアを開け両親とともにニュースを観る小さな背中と出会う。


 ああ、クソ。もうすでにびっくりしたよ。


 外国人というのでブロンドだったり赤毛だったりすることも目に見えていた。だが、目の前に背を向けて座るその彼女の髪は、頭上の白い照明に照らされて光り輝いているのではありませんか。

 歩みを止めたその足が再び動き出すことを忘れていた最中、小さな彼女がゆっくりと立ち上がってこちらを向いた。


 俺は言葉を失った。さっきまで必死で考えていたファーストコンタクトのはじめましても、こんばんわも、もしかしたら、ないすとぅみーとぅーもぐっどあふたぬーんも忘却の彼方へ飛び去った。

 ひょっとすれば美少女が家に転がり込んできてなんだかんだいい雰囲気になるのかもと考えていた今日これまでの俺の頬をひっぱたきたくなるような彼女が目の前にいる。


 褐色の肌、白く短い髪。そして肝心のその顔は、半分火傷か生まれつきの痣か、とにかく青紫色に細かくただれ、目は真っ白く、反対側の琥珀色の瞳がじろじろとこちらを覗き込んでいた。


「はじめ、まして」


 ただれた方の頬が上手く動かせないのか、彼女は初めましてという一言さえ、一度唾を飲みこんでからつなぎとめた。それ以外は、少なくとも発音は流暢な日本語だった。


「・・は、はじめまして」


 ただ闇雲に返事を返す。頭の中ではいろんな思考がせめぎあい、渦を巻き、飽和し、爆発寸前だった。


「・・とりあえず、荷物置いて来るわ」


 逃げるように自分の部屋に戻ってバッグを置いた後、一度見たら忘れられないその顔が頭を埋め尽くすので仕方なく今日出た世界史の宿題の事を考えることにした。


 傍に置いておくにはあまりにも異質な存在。だが俺はこれからその異質さが彼女の外見だけではないことを知ることになる。

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