明日、雪がやんだなら
「すいません、ホットココアを、ひとつ。」
ありがとうございます、と機械的に微笑む店員との距離感が、今日はなんだか少し心地良かった。
寒さでかじかんだ手を温めるようにココアを両手で受け取り、雪の降る街へ再び繰り出す。
「おかあさん、ゆき、きれいだね!」
はしゃぐ子供を幸せそうな表情で見つめる母親を横目に追い越して、家路につく。
駅前にはクリスマスツリーが飾られていて、それは僕に、もう今年も終わりに近付いているということを教えてくれた。
「陸くん、あのね、別れよう。」
見慣れない表情で、ブラックコーヒーの入ったカップを指先で撫でながら美咲がそう呟いたのは、つい先週のことだった。
美咲は理由を言わずにそのまま俯いてしまったし、僕もあえてそれを聞かなかった。
彼女と出会ったのは三年前のちょうどこの時期だったように思う。
綺麗な子だと思った。僕の、一目ぼれだった。
笑顔が上手で、優しさがさりげなくて、無邪気で、だけどすこし繊細で。
彼女の醸し出す独特な雰囲気は、下手な映画や小説よりもずっと魅力的だった。
そんな美咲が好きだった。きっと今でも、それは変わらないはずだ。
でも、僕に彼女を引きとめる権利はあるのだろうか。
「そっか。ありがとう、今まで。」
美咲は少し拍子抜けをしたように顔を上げ、そっと肩を揺らしてくすくすと笑った。
「陸くんってさ、私のこと、なぁんにも聞いてこない人だと思っていたけど、こんな時も、ほんとうになぁんにも聞いてこないんだね。」
美咲は溜息を吐き出すように、なぁんにも、と再び繰り返し、喉を少し鳴らしてそのまま席を立った。
背を向けて歩き出す彼女を引きとめる権利は、やはり僕にはない。
いつからだろうか。
僕を見る美咲の瞳がかすかに曇るようになったのは。
体を重ねることも、キスをすることも、手を繋ぐことさえもしなくなったのは。
愛してる、と髪を撫でることもしなくなったのは、
「いつからだっけ。」
冷めてしまったココアを一口啜ると、無意識にそう唇から脆く言葉が漏れていた。
美咲のカップに目を遣る。
そうか、あいつは、コーヒーも好きだったんだな。
僕とこの店に来るときはココアしか飲まなかったくせに。
コーヒーの飲めない僕に、いつも合わせてくれていたんだろうか。
そんなことも僕は、こんなことになるまで、気付かないなんて。
「陸くん」
美咲の僕を呼ぶ声が、頭の中でこだまする。
そうか、だから、美咲は、僕を。
「痛っ」
「あ、すみません。」
すれ違ったサラリーマンと激しく肩がぶつかり、ふと我に帰る。
コートのフードに雪が溜まっていたのだろう、いつの間にか背中がぐっしょりと濡れていて、気持ちが悪い。
少しの侘しさを感じながら、見慣れたドアの前で鍵を探す。
僅かに残ったココアを一気に流し込むと、頭の中で僕を呼ぶ美咲の声はいつのまにかすっかりと消え去っていた。
明日雪がやんだなら、僕は美咲に会いに行こう。
大好きだったことをきちんと伝えよう。
さよならを、言おう。
僕は大きく深呼吸して、そのまま深い眠りについた。