第五話 桜の散る頃に 後編
最終話です
池のほとりの桜並木の中に、朽ちた幹をボロボロと崩した枯れ木が一本寂しげに生えていた。そして、その根元には対照的に鮮やかで活力に満ちた花束が添えられていた。
「玲ちゃん……」
「ん、おう。なんだ、オネエじゃねえか。どうかしたのか」
そんな枯れ木の前で屈み、手を合わせていた少女が最後の証言者である。
「どうしてそんなところで手を合わせてるのかしら」
「……まあ、知り合いの墓みたいなもんだよ。それで、オカ子も連れてきてるってことは、やっぱり夜桜についてか?」
「話が早くて助かる」
玲は立ち上がると、二人を連れ、その枯れ木の向かいにあるベンチへと腰掛けた。
三人は少しの間黙ったままその枯れ木を眺めていた。懸命に咲き誇っていた桜の成れの果て。栄華の末に枯れてゆくそれに無常観を覚える。
「ラストリーフシンドローム。それが彼の病名だろう」
「やっぱり知ってるか。そりゃそうだよな。お前なら知ってて当然だよな」
「興味本位で調べたことは認める。だが、それを咎められるいわれはないぞ」
「ちょ、ちょっとオカちゃん!」
歯に衣着せぬオカ子の言い様にオネエは焦るも、玲はそれを制した。
「いいって。別にオカ子を咎める気はねーよ。私だって、知り合いが患ってなきゃ面白がってただろうしな」
それが強がりでないことは玲が見せる笑みから明らかだった。
「それで、私は何を話せばいいんだ?」
「協力的であり難いが、何か理由でもあるのか」
オカ子は自分が皆から好かれていないことを知っている。なので玲の姿勢にどうしても疑問を抱いてしまう。
「別に、減るもんじゃないしな。そりゃ、あいつの話をしろって言われたら別だぜ。あいつとの思い出は私が独占しておきたいしな」
その言葉にオネエは何かを感じ取ったのか、口元を抑えるように手で覆う。
「そこに興味はない。私が知りたいのは伝説の夜桜と、それに付随する女性の話だ」
「ん、女性?」
玲の反応から明らかに心当たりがあるのだろうとオカ子は感じ取った。
「そうだ。彼女は人ではなく、伝説の夜桜を依代とする霊体の男に好意を寄せている」
「へー。ああ、だから殺されかけたのか」
玲はオカ子の言葉から自分が彼女に殺されかけた理由を理解した。そんな玲の言葉に二人は驚愕を浮かべる。
「え、あ、玲ちゃん殺されかけたの⁉」
「ああ。私があの桜に八つ当たりしてたら横からそれを止めて、そのまま首を絞め上げられたんだよ。いやー、今思えば好きな人を傷つけられて怒ってたんだろうな」
あっさりと言ってのける玲だが、その事実は二人に未知子に対する不信感を募らせた。
「けど、事情を話したらあっさり放してくれたし、あいつの病気のこと色々教えてくれたりしたし、良い人だったよ」
「あっさり放してくれた。ということは、未知子さんは殺すことをある程度コントロールできるのか」
「コントロール? なんだそりゃ。理由がなかったらそりゃ殺さないだろ」
「それが、未知子ちゃんは喰人鬼って言ってね。人を食べることで自分の存在を証明しているらしいのよ」
初めて聞く言葉に一瞬呆けた様子を見せた玲だったが、言葉の意味を理解すると思う所があるのか、自分の考察を口にした。
「なんとなくだけどさ、あの夜桜のやりたいことが私は分かった気がするぜ」
「え、本当に?」
「ああ。まあ、それが何を意味するかまでは分かんねえけどさ、その未知子さんっていつも夜桜の近くにいるんだろ?」
オカ子が頷くと、玲は確信したように笑みを浮かべた。
「だったら、夜桜は未知子さんに恋愛の成就を見せたいんじゃないか」
オカ子は首を傾げた。確かに夜桜が成就させた恋愛は全てこの公園内であろうと思われる。それが目的だとすれば、間違いなく成功しているのだが、玲の言う通り意図が読めない。
「まあ、私が言えるのは一つだけだな」
玲は鞄を引っ提げて立ち上がる。
「未知子さんは自分の為に人を殺すような人じゃなかったぜ」
玲は断言する。殺されかけた人間が言うのだ。その説得力に二人は押し黙る。
「ああ、そっか」
玲は思い出したように振り返る。何か重要な情報が得られるかもしれないと思い、オカ子はそれに身構える。
「人じゃ、なかったな」
茶化すように笑う玲に、オカ子は『カエレ』と睨みつけるのだった。
「というか、未知子ちゃんに直接聞けば万事解決じゃない!」
もうすぐ日が暮れるという所でオネエは至極真っ当なことをオカ子に言う。
「オカルトの証明にオカルトを使うのか? 随分と不安定なエビデンスだが、お前はそれで納得できるのか?」
「そう言われると、可笑しな気がするわね……」
不明瞭な現象の説明に不明瞭な仮定を使う。まるで物理学者のようである。しかし、オカ子はそれを良しとしなかった。理論的である必要はない。しかし、その証明は自分が信じられるしっかりとした材料の元で行いたいのだ。
「回りくどいかもしれないが、おかげで大体のことは分かっているだろう」
「そうよね。後は、夜桜がどうしてこんなことをしているのかっていう理由だけよね」
二人は公園のベンチで頭を悩ませていると、腰の曲がった老人が一人、目の前を通りすぎようとするのが目に留まった。くねくねとしたくせ毛の長髪を揺らし、ゆっくりと歩を進めるその人物を二人は知っていた。
「ひいおばあちゃん!」
「魔女さんじゃない!」
それはオカ子の曾祖母である魔女の姿であった。
「おやおや、二人ともこんにちは。相変わらず仲良さそうでいいねえ」
「魔女さんこそ、まだまだボケなさそうじゃない」
「ほっほっほ。言うねえ。あたしゃまだまだ生きるよ? 後二十年はかたいねえ」
「本当に生きてそうだから恐ろしいわ」
魔女はその手にビニールを下げていた。口から覗くのはまだ鮮やかな花弁を付ける生花であった。
「ひいおばあちゃん、もしかしてその花って」
「うん? ああ、これかい。これはね、馬鹿な弟への供え物だよ」
「供え物……それってもしかして」
オネエが魔女を背負い、その墓の前、伝説の夜桜の根元へとやって来た。花を供え、線香を焚くと、三人は手を合わせる。
「こいつはね。馬鹿で臆病で意気地のない弟だったよ。見合いをするのが嫌で夜な夜な家を飛び出しちまうほどには奥手で女に免疫のない男だったよ」
魔女は懐かしげに語りだす。その背中はどこか寂しげで、悪口にしか聞こえない言葉の中には温かみが感じられて、愛されていたのだと読み取れた。
「そんな弟だったけどね、戦争に行ってからはどうもそうじゃなかったみたいだよ。本土に愛する人がいるから負けられないってね、先陣を切っていたらしいよ。見合いを蹴ったくせにどの面下げて言ってたのかね」
その愛する人が誰なのかは容易に想像できた。けれど、それを言うのは野暮だろうと、二人は黙って聞く。
「その日もそうやって馬鹿みたいに前に出て、馬鹿みたいに死んだんだよ。あたしゃね、病院で働いてたから、何人もそんな風に死んでいった馬鹿を見てたよ。だから、帰って来た時は言ってやったさ。『馬鹿な弟だ』ってね」
風に吹かれ枝が揺れる。桜の木のざわめきが、夜桜の抗議に聞こえてオネエは可笑しくなって笑ってしまった。
「まあ、そんな馬鹿だからね、皆に愛されてたさ。桜の木の下に埋めてくれなんて無茶な遺言の所為で弟の戦友たちは死ぬ思いで弟を帰してくれたんだからね」
魔女はゆっくりと立ち上がり歩き出す。
「あ、送るわよ、魔女さん」
「いいのいいの。あんたたちはまだやることがあるんでしょ? そんな目をしてるよ」
何とも鋭い洞察に感心してオネエはため息を吐いた。
「……その様子だと、まだ言ってないみたいだねえ」
魔女はオカ子の方を見て言う。
「私は……」
「別にいいと思うよ。あたしゃ、それも選択肢の一つだと思ってるしねぇ」
そう言い残すと、魔女はゆっくりではあるが確かな足取りで歩いていく。それを見送ると、オネエはオカ子の方を見て、その胸に抱いている不安を投げかける。
「オカちゃん。何かあたしに隠してるがあるの?」
「…………」
オカ子は答えない。それが答えのようにも思えた。
オネエはそれ以上の追及をしなかった。それをすることが自分にもオカ子にも不幸なことに思えたからだ。
二人は押し黙ったまま沈んでいく夕日を見送る。日が沈み、夜が二人を迎えた。日常を逸脱した、非日常の始まりである。
……。
…………あ。
………………ああ。
途切れた意識が繋がっていく。地べたに転がり、散漫な呼吸に胸を上下させる。巡っていく血が自分の生を感じさせ、感じた生が自分を絶望へと誘った。
生きている。
それはどこまでも絶望的な結果であった。自分は完璧にオカルトへと踏み入れた。人外に等しい握力に締め付けられ、常世のモノではない穢れを吸い込んだ。その身を任せ、望むがままにオカルトに溺れていたはずだ。黄泉の国へ行くはずだった。当たり前だ。そのために探し求めた喰人鬼だ。
大好きなオカルトに殺され、その身をオカルトの一端に捧げる。これがどれ程幸せなことであろうか。
それがなんだこの結果は。
半端に殺されたこの身は半端な穢れを含み、半人半鬼のどちらにも属さない、最早世界から排斥されたも等しい存在になり果ててしまった。
殺し損ねたのだろうか。
一抹の不安は無抵抗だった自分が否定した。
ならば殺す気がなかったのか。
それならばこのような半端者は生まれない。
途中で殺しを躊躇ったか。
それ以外の原因が見つからない。あの喰人鬼は気が変わり、私を殺すことを躊躇いやがったのだ。私がオカルトの中に溺れることを拒んだのだ。
私は、一般社会からも拒まれ、オカルトからも拒まれるのか。
それは存在の完全なる否定だ。では、誰が私を肯定してくれるのだ。私が私である理由が見つからない。私は何者だ。私を誰が認める。私を誰が殺す。いいや、殺す価値もないだろう。関心がない相手をどうしてその手にかけようと思うのか。
ならその視線を釘づけにしてやる。私以外に全霊の憎悪を向けられないように。
私はその全てを以って、お前に殺されよう。それが、私の存在証明なのだ。
約束通り、未知子は日が沈むと同時にその姿を現した。何度か瞬きをしてその眼を光に慣らしていく。比較的明るい時間に現れたことによって二人は未知子を今まで以上にハッキリと認識することができた。
「……それで、私はどうしたらいいの」
「その前に質問なんだが、未知子さんは今までここで成就してきた恋愛を全て見ているのか?」
「……見てきた」
そう答えた未知子はそれらを思い出そうとしているのか、視線を斜め上に向ける。
「……私は桜を見に来ていた。けれど、ある時から夜桜が花を付ける時には必ず人間のつがいが求愛行動をしていた」
どうやら玲の考えは間違ってはいないようだった。しかし、それの意味するところをオカ子は理解できなかった。
「未知子さんに恋愛を見せる意図……」
夜桜を依代とする男は未知子に恋している。彼女の気を引くために毎晩桜を咲かせていたが、徐々に桜を咲かすことが難しくなる。そうなると、彼女は自身を襲う退屈を食事によって紛らわさなければならない。そして、ある時に男は彼女の食事を目の当たりにしてしまい、それを止めようと考えた。
「その手段が、これなのか……?」
オカ子は納得がいかない。喰人鬼である未知子に人間の恋を見せることがどうして食事を止めさせることにつながるのか。けれど、事実、未知子は食事を躊躇うようになっている。それは夜桜の思惑通りになっているのだが、何故、彼女はそのような心境の変化に至ったのか。
「ねえねえ、未知子ちゃんはいろんなカップルを見てきたんでしょ。どう思ったの?」
「……どう、とは」
オカ子が難しい顔をしていると、オネエは未知子にそんな問いかけをしていた。
「ほら、羨ましいとか、自分もこうなりたいとか、あるじゃない?」
「……生を感じた」
未知子は思い出しながら語る。
「……人が何を感じ、何を想い、その生をどのように昇華させようとしているかを知った」
怪異が人を理解していく。それが、夜桜の思惑なのだと気づくのはそう難しいことではなかった。
「……人は不完全な存在。一人では生きていけず、欠けた部分を他人に求める。けれど、それが彼らの強さで、彼らの存在証明」
彼女の口から零れた存在証明という言葉は、彼女の根底に存在するこの問題の元凶である。そこまで聞いて、オカ子は理解した。未知子の中で起きた変化、それは人間に対する理解の深さだ。恋という本能に裏付けされた行為の中に人間の本質というものは現れる。それを幾つも見てきた彼女が、人間を理解しないはずがないのだ。
「それで、未知子さんは食事を躊躇うようになったのか」
「……そうなのかもしれない。彼が私に抱く想い、それが私の苦悩と同じならば、彼を否定してまで、私は人を殺せない」
オネエは話の半分も理解できていなかった。けれど、確かに分かったことは、未知子が人間の恋を存在証明と認識しているという事実である。
「それじゃあ、未知子ちゃんも恋を成就すればいいのよ」
「……私が?」
未知子はオネエの言葉に桜を一瞥した。
「未知子ちゃんも難しいこと考えず、この男に存在理由を求めればいいのよ」
「……私の存在を、彼に」
それは彼女が喰人鬼としてではなく、未知子としてその存在を証明することを意味する。その選択はある種の自己否定から始まる存在証明であったが、彼女は喰人鬼でなくても自分がこの世界で生きる理由を確かに認めることができたのだ。
「……私は臆病だった。彼は霊体だから、想いが通じ合えば、満足して消えてしまうかもしれない。それが怖かった。でも、それも時間の問題。私が想いを伝えなくても、彼は消えてしまう」
それは桜という有限の生命を依代にした時から決まっていたことだ。目を背けていただけの真実に、未知子は直面してから重大さに気づいたのだ。
「……男の子は気づいていた。いなくなってからその存在の大きさに気づいても遅いと。伝えなければいけないことは、失う前に伝えなければいけないと」
それは会長の物語。居なくなってからその想いの大きさに気づき、伝えることの大切さを未知子に教えた恋愛。
「……女の子は気づいていた。それがどれだけ短く儚いものであったとしても、想いを伝え、心を通わせた一瞬の栄華は、その胸に永遠を刻み込むと」
それは玲の物語。失うと分かっていても、伝えた想いと、繋がった想いは失われることはなく、これからの自分を形成する大事な要素になることを未知子に教えた悲恋。
「……私は変われる。私より儚い存在が、その短い生の中で変わっていった人間たちが、教えてくれたから」
そう言って未知子は歩き出した。想いを伝えるべく桜に歩み寄る。伝説の夜桜はそれに応じるかのようにその枝々に花を付け始める。
「これが、最後の夜桜か」
オカ子がそう呟く。少しずつ広がってゆく光の中、伝説はここに顕現しようとしていた。
けれど、視界の端から弾丸の如く桜に迫る影によって、その開花は阻まれた。
一帯を激震が襲う。常軌を逸した衝撃に夜桜は大きく揺さぶられ、開きかけた花々を悉く散らしていった。その振動の中心に位置する桜の木の下に影が一つ、未知子と桜の間に割って入るように立っていた。
「ふ、ふひっ。だ、大団円なんて許さない、よ」
その手に握られているのは薪割りに使う斧のようだった。取り回しの良さを重視しているそれを片手に持ち、影は笑う。突然現れたそれに未知子は初めて表情を崩し、驚いた様子を見せた。
「……貴方は、あの時の」
「そ、そう。お前に殺されそびれた、半端者だよ」
半端者と自称する少女はその斧を背後の夜桜に打ち付けた。
それに未知子がピクリと反応するのを見て愉快そうにその顔を歪ませる。
「に、憎い? 憎いでしょ? そ、そうだよね。好きな人が宿ってるんだもんね。怒りで可笑しくなっちゃうよね」
半端者は何度も斧を打ち付ける。太い幹は打ち付けられるたびに枝を揺らし、その樹皮ボロボロと地に落としていった。
「お前は何故そんなことをする」
オカ子の問いに半端者は冷めた目で睨む。
「は? お前には関係ないだろ、人間。今私はそこの喰人鬼と話してるんだよ。私を殺す価値もねえ凡人は黙っててくれる? でないと……手が滑って殺しちゃうよ?」
その狂気に塗れた言動に、これが人間ではないことをオカ子は確信する。
「まあ、お前は昔の私と同族みたいだから自慢しといてやるよ。私はこれからな、オカルトになるんだ。どうだ、羨ましいだろ?」
「オカルトに?」
オカ子が聞き返すと半端者はどこまでも弾んだ声で楽しげに語る。
「そう、オカルト。どこまでも恋い焦がれたオカルトの一端に私はその身を沈めるの。この血肉をすべからくオカルトに捧げることで、私という存在はオカルトへと昇華される。呪いの成立とかやってみたけど、あれは面白くないわ。だって世間の誰もその死がオカルトだと気づいてくれないんだもの」
さらりと人を殺したと宣うも、そこに罪悪感は微塵も存在せず、その精神もすでに人ではなくなっていることが見て取れた。
「オカルトってのはね、誰かに認知されないと存在できないの。だから、私が死ぬのもただ死ぬだけじゃだめ。意志を持った、記憶に残る死に方じゃないとダメ。だから喰人鬼の存在は都合がよかったわ。殺してくれる上に食べて、記録をその身に残してくれるんだもの!」
興奮気味に話す半端者にオネエはぞっとした。理解ができない。理解ができないから怖い。怖いものには蓋をする。故に人はそれをオカルト(隠されたもの)と言った。
「さあ、私を殺して! その憎悪の全てを私にぶつけて! それが、それが私を殺すのを躊躇い、私の存在を脅かしたお前の責任なんだから!」
けれど、未知子は動かない。
「……私は彼に嫌われたくない」
「……は?」
「……人はもう、殺せない」
「人じゃねえって言ってんだろうがっ!」
激情に任せ、半端者は未知子に斧を振り下ろした。その虚を突いた人外の速度に反応しきれず、未知子はその肩口に斧を打ち付けられた。
「……っ!」
「ふ、ふひっ! いいよ、その顔! そのつらそうな表情。ああ、喰人鬼を殺したら私は何になるのかな。喰喰人鬼かな、喰鬼人かなあ。ああ、それはオカルトっぽいぞ。そうだ、殺せばいいのか。殺せば、私はオカルトになれるのか!」
未知子はさらに力の籠められる斧を必死で抑えるも、片手ではどうにも力負けしてしまうのか、少しずつ傷の深さを増していった。
「未知子ちゃん!」
「純粋な喰人鬼が力負けするなんてあるのか?」
半端者が未知子と同じ喰人鬼に近しい存在であることは見て取れた。けれど、彼女が言った通り、あれは不完全な存在だ。であれば、未知子が力負けする道理はどこにもない。
「わざと力を抑えているのか」
「そんな馬鹿のことがある⁉ 殺されそうなのよ?」
オカ子の考察にオネエは食って掛かる。けれど、それ以外の回答は見当たらない。
「彼に嫌われたくないと言っていた。なら、夜桜に説得してもらうしか未知子さんを助ける方法はない」
「じゃあ、どうしてこの男は出てこないのよ!」
男が姿を現さないことに憤りを覚えるオネエだったが、沈黙を続ける夜桜からはどこか生気が感じられず、先ほどまで花を咲かそうとしていた枝たちも重力に垂れ下がっていた。
「お前の言った通りだ。もう自力では咲くことができないからだろう」
「そんな……」
脂汗を浮かべながら、その黒いローブを血で染めていく未知子。そんな絶望的な光景にオネエは涙を浮かべる。もう少しで叶うはずの恋がそこでどうしようもない障害に阻まれているのだ。例え打算的であったとしても、いくつもの恋愛を成就させてきた二人。けれど、その当人たちの恋が報われないなんてあんまりではないか。
「不定期に咲く花。必ずあった恋愛成就。そして……」
『そんなの愛に決まってるじゃない!』
「……愛の熱量か」
オカ子は隣で膝を付き、涙を流すオネエの横顔を見つめる。
「有栖」
「な、なによ」
名前で呼ばれ、有栖は驚いた様子を見せる。
「迷惑だったら、後で怒ってもらって構わない。だが、今はこれしか方法がない」
「ど、どういうことよ、オカちゃん」
戸惑う様子を隠せずオロオロする有栖の肩を掴む。
「有栖、私はお前のことが好きだ」
「っ!」
何か言葉を紡ぐ前に有栖の唇はオカ子に塞がれる。それは一瞬の出来事だった。今まで積み重ねてきた想いが、その一瞬に込められる。膨れ上がる熱量。それは二人の顔を紅く染めるには十分すぎるものだった。
不意に視界が明るくなる。それは自ら発光する花びらを纏う、紛れもないオカルトの夜桜。
「これが、伝説の夜桜……」
「綺麗……」
感嘆の声を漏らす二人を花びらが包み込む。それはこれから起こるその風景を見せないための壁であった。
『二人ともありがとう』
その声は花びらの一枚一枚から発せられる何とも奇妙な音声だった。
『君の言う通り、私が臆病なせいで迷惑をかけたね』
その声に、有栖は声を荒げる。
「ほ、ほんとよ! おかげであたしまで不甲斐ない結果になったじゃない!」
「何が不甲斐ないんだ?」
オカ子が問いかけると有栖は涙目になって答える。
「女の子から告白させたことよ! 本当は男のあたしからするべきなのに……」
「そ、そうなのか。……それは申し訳ないことをした」
そう言うも、オカ子の顔は紅かった。それは有栖の気持ちを図らずも知ってしまったからだ。そして、上がる口角を抑えようにも、それが嬉しすぎてこんなんであることに恥ずかしさを感じていた。
そんなオカ子の様子に自分が口走ったことがどう意味を含んでいるかに気づき、有栖もその頬を朱に染め、慌てふためく。
「ちょ、ちょっと待って、オカちゃん、今のなし。今のは聞かなかったことにして!」
「お、お前がそう言うならそうする……」
しかし、それに少し寂しそうな表情を浮かべ、有栖の顔を伺うようにオカ子は尋ねた。
「で、でも、ちゃんと返事はくれるよね?」
「も、もちろんじゃない!! オカちゃん! い、いや、岡さん!」
立ち上がりオカ子、岡の方に向き直る。そして口を開こうとするも、そこに岡が割り込む。
「……名前で呼んでほしいかな」
「もー、なんでそんなに可愛いのよ!」
その控えめに伝えられた注文に有栖は額を押さえ点を仰ぎ見る。そうして色々な決心を付けて再び彼女へと向き直る。
「詩歌!」
「う、うん」
「好きだ」
「わ、私も」
改めて交わされた告白に両者の顔は熟れた果実のように真っ赤に染まっていた。
そうしていると、回りを囲っていた花弁の壁は消え、辺りの様子を伺えるようになる。そこには花びらで形成された人型と、未知子の二人だけが立っていた。
あの半端者の所在を聞くことはなかった。どうしてか赤く染まっている未知子の口元にその答えがあるように思えたからだ。
「……二人ともありがとう」
『うん。改めて感謝するよ。君たちには助けられた。まさか、恋愛成就を謳っているのに、最後には私が後押ししてもらうなんてね』
穏やかな笑みを浮かべる二人に、有栖と詩歌は事が上手くいったのだろうことを読み取った。
「ほんとに、拗らせ過ぎなのよ。何十年の大恋愛よ。色々巻き込みすぎじゃない?」
『本当に申し訳ない。感謝してもしきれないよ』
けれど、そんな穏やかな笑みも次第に薄くなっていることに気が付く。
「ど、どうしたのよ」
『桜の木はもう死んでしまったからね。私はもうすぐ消えるんだ』
その言葉に視線を向けると、確かにそこに咲き誇っていたはずの桜の木からは生気は感じられず、枯れ枝を天に晒していた。
「ちゃんと伝えられたのよね?」
『もちろん。僕の想いのそれはこの魂ごと彼女に預けたから。彼女に見捨てられない限りは彼女と共に生きると思うよ』
「……捨てることはない。こんなに心が満たされている感覚、初めてだもの」
『それなら嬉しいな』
そうして二人は見つめ合う。二人の間に流れている時間はどこまでも緩やかなものだっただろう。それは永遠にも値する密度の出来事。
けれど、どれだけ願おうとも時は流れる。それは驚くほど自然に、そして刹那に消えていった。改めた言葉など二人には必要なかったのだろう。彼が消えたのを認めるまでに少し時間のかかった未知子は瞳を閉じ、彼を瞼の裏に焼き付けた。
「……共感性ラストリーフシンドローム」
「えっ?」
唐突に呟かれたその病名に有栖は呆けた声を漏らした。けれど、その未知子の言葉に詩歌は顔を強張らせる。
「……言わないの?」
「…………」
そう未知子に問いかけられてしまうと、詩歌は言わざる終えない。未知子に決断を迫ったのは自分たちなのだから、今更自分を棚上げすることはできない。
「どうかしたの、詩歌」
有栖の心配した声が詩歌は嬉しくて笑う。
「いや、大丈夫。あのな、私、実は……」
その言葉は喉元でつっかえた。言いたくない。言えば終わる。けれど、言わなくても終わる。それでも、伝えなければならない。それが心を通わせたもの同士の務めだから。隠し事はしたくない。全てを共有したい。そんな我儘な願いの末に結ばれるのが恋なのだから。
「私は、明日、死ぬんだ」
だから、別れまでの時間も知ってほしいのだ。
「……え」
突然告げられた死別までの時間に有栖は戸惑いを隠せない。当然だ。結ばれたかと思えば次の瞬間に解けてしまうのだ。これが靴紐なら結び直せばいい。けれど、それができない。それに戸惑いがないのであれば、その想いは嘘である。
「じょ、冗談よね?」
「冗談ではない。私は言っただろう。これが最期だって」
有栖は呆然とする。
「だから、私は二人でゆっくりとした時間を過ごそうとしていたんだ。あの部室で有栖と共有した時間は私にとってかけがえのないものだったから」
だから、魔女があんなことを言っていたのだと有栖は理解した。
有栖はラストリーフシンドロームという病気を知らない。だからどうして詩歌が死ななければならないのか分からない。
「そんなの、そんなのあんまりじゃない! せっかく結ばれて、これからなのに!」
「それを未知子さんの前で言うな」
それにハッとして有栖は口をつぐんだ。でも、でも、とどこまでも不満は募る。けれど、これは自分が未知子に求めていた結果だ。例え、一瞬だとしても、気持ちが通じ合ったこの瞬間が永遠を自分に刻み……。
「って、そんなの納得できるわけないじゃない!」
「お、おい」
有栖は詩歌を抱きすくめる。その手にすっぽりと埋まってしまう小さく儚い少女を手放したくない一心で有栖は涙をこぼす。
「一目惚れだったのよ。入学して早々自己紹介で自信満々にその個性をさらけ出して、自分を偽ることをしなかった詩歌をカッコいいと思ったのよ。だから、貴方の好みに近づこうとあたしは普通を辞めたわ。詩歌と同じものを見たくてオカルトサークルにも入ったわ。片想いを続けて、ようやく結ばれたら次の日には別れ? そんなの認められるわけないじゃない!」
衝撃的な告白が混ざりながらも有栖はその感情を吐露していく。抱きすくめられ、有栖の体温を、その想いを、肌で感じる詩歌も次第にその身に秘めていた想いが、言うまいと我慢していた言葉が、決壊したように喉元から溢れだした。
「わ……私だって嫌に決まっているだろう。初めて自分の趣味を、ありのままの自分を認めてくれたんだぞ。そんなの初めから好きになるに決まっているだろう! なにが片思いを続けてだ。私だってずっと片想いだったさ。でも、お前は男が好きなんだと、私は恋愛対象じゃないと思っていたんだ!」
「それいつも否定してたじゃない!」
「冗談にしか聞こえなかったんだよ!」
いつからか悲しみだけでなく様々な感情を吐露し始めた、そんな二人を見つめていた未知子はもういいかなと言った様子で二人の肩を叩いた。
未知子の方に向けられた二人の顔は涙で濡れているにもかかわらず、怒りだったり喜びだったり、一つでは表せない表情を見せていた。
「……その病気、私は治せる」
「「……は?」」
初めて見せる意地の悪そうな笑みの未知子に二人は何とも間の抜けた声を漏らした。
「……私には生命の因果が見える。それを正しく結び直すだけなら、私にもできる」
それは奇跡だった。いや、奇跡というには余りにも苦労が大きかっただろう。それはただ与えられるだけの怠惰の末の奇跡ではない。自らがもがき、苦悩し、その末に掴み取った必然の軌跡なのである。
「……だから、お二人は末永くお幸せに」
溢れた光に包まれる。気づいた時には彼女の姿はなく、気づいた時には二人は二日目の朝を迎えており、気づいた時には忙しなく鳴り響く蝉の声が、夏の始まりを告げていたのだ。
夏休みを迎えたある日のこと。二人はいつものように薄暗い部屋の中央で、一つの机を囲んでいた。
「うー、暑い」
「暑いわねぇ」
「まさか、夏季休暇中は部室棟の冷房を切られているなんて思わなかったぞ」
「夏の予算案で全部室に付いた挙句、事務室で一括管理されるなんてねー。あーあ、他の部室には扇風機だけにするべきだったかしら」
茹だるような暑さに耐えながら、二人は熱心に机に向かう。燭台の蝋燭だけが唯一の光源として机の上を照らしている。
ゆらゆらと揺れる光に手元は中々覚束ない。それでも二人は熱心に机の上に置かれた一枚の紙に視線を注ぐのだ。
「いくぞー。準備はいいな?」
「もっちろん。いつでもいいわよ」
そうして二人は紙の上に置かれた一枚の硬貨に指を乗せる。
「せーの」
「「こっくりさんこっくりさん、夏休みは海に行くべきですか、山に行くべきですか」」
その問いかけに硬貨は動き出した。ア行の方へ向かったかと思えばU字のカーブを描き、ヤ行へ向かう。しかし、何かに阻まれるようにナ行で止まり、二つの力が釣り合った。
「私は山に行きたいんだ!」
「あたしは海に行きたいの!」
もはやこっくりさんである必要のない意志の衝突にこっくりさんは面倒くさくなったのか、それとも指先に掻いた汗で滑ったのか、硬貨は二人の指先を離れ、鳥居へと帰ってしまった。
「「あーあ」」
二人はガッカリした様子を見せた後、紙をびりびりに破き始める。
「どっちも行けばいいわよね」
「そうだな。夏休みは長いんだ。どこかに拘る必要なんてないな」
部屋の電気をつけ、手帳を持ち寄り夏休みの計画を立てる。そんな普通の行為を二人は普通に楽しんでいた。
「ああ、そう言えば」
「どうしたの、詩歌ちゃん」
思い出したように詩歌は気になっていることを有栖に尋ねた。
「有栖はいつまでオネエを続ける気なんだ?」
それは有栖の好みに近づこうとしたが故のキャラ作り。結ばれた上に、その点で好きになったわけでもないので無理にキャラを維持する必要はない。
けれど、それに有栖は困ったように頬を掻く。
「実はね、これ、癖になっちゃって戻り方が分からないのよ」
「……嘘から出た真と言う奴だな」
「そうなのよー」
春は終わり、夏が始まる。巡る季節に一瞬の栄華を感じながら、二人はその一瞬を共に刻んでいく。短くもあり、長くもあるその生の中に、永久を感じながら。
読んでくださりありがとうございます。
よろしければ感想を聞かせてください。
これにて完結です。
書きたいこと書いていたら最終話は長くなってしまいましたが、この辺りがこの話の落としどころだと思っています。
未知子の生は続きます。
けれど、桜と彼女の物語はこれで終わりです。
またご縁があればよろしくお願いします。