第三話 ラストフレンズ・ラストラバー後編
後編になります
前編からお読みください
遠足は近くの公園での花見だった。新学期早々のこの遠足でこの一年を共に過ごす友達を作ることになるはずだったのが、まさかここまでの疎外感を受けるとは思わなかった。
一人で桜に向かいあい、お母さんの作ってくれた美味しいお弁当を口に運ぶ。塩気の利いたおにぎりを頬張っていると、正面の細く小さな桜の木に群がる子供がいた。それは同級生の男の子たちだった気がする。桜吹雪を起こすべく、桜の木を何度も蹴っていたのだ。大きく太い桜ではそこまで揺れないから、この桜に目を付けたのだろう。何度も蹴られ、付けていた花びらを無理やり散らされていく様に、俺は怒りを覚えた。
だから、俺は桜を守った。地に伏す同級生を見下ろし、それでも自分は正しいことをしたと誇れた。認められることのない行為は、俺を孤立させた。けれど、それでいいと思った。あそこで動かなかったら、俺はもっと惨めな思いをしていただろうから。
あの日から、佳乃は学校に来なくなった。どうしたのかとスマホで連絡を取ってみると、どうやら病状が悪化し、入院しているらしい。いつものことだから気にしないでいいと言われたが、あの日の別れ際に見せた表情が思い出され、どうにも不安になってくる。
放課後、担任を捉まえて佳乃が入院している病院を教えてもらった。今日も生徒会の活動があったけれど、サボることにした。俺の分の仕事は会長がやってくれるだろう。
佳乃が入院しているという病院は自然公園の隣りにあった。リハビリコースを自然公園の敷地内に併設しているようで、入院患者も春には花見ができるというものだった。それが、あいつにとって嬉しいものなのかは分からなかったが、普通の人なら嬉しいところではあるのだろう。
病院に入り、受付で佳乃の病室を訪ねる。
「佳乃……ああ、染井さんね。それなら、203号室よ」
「ありがとうございます」
看護師さんに教えてもらった病室へと向かう。部屋の前のネームプレートに書かれた染井佳乃という名前を認めると、俺はノックと共に中へ入った。
「あ、玲さん……」
「……よっ。見舞いに来たぜ」
何を持ってきていいか分からなかったので、コンビニで適当に買ったゲーム雑誌と飲み物が入った袋を佳乃に手渡し、ベッドの横の椅子に腰かけた。
「ありがとうございます。僕なんかの為に」
「なんかって言うなよ。俺の友達だぞ? 友達なら当たり前のことだろ」
顔色の悪い佳乃の笑顔は本当に病人のそれだった。こんな衰弱がいつものことだというのなら、どれだけこいつが苦労してきたのかは計り知れない。
そんなことを考えてしまうと、こいつとどんな会話をすればいいのか分からなくなってしまう。沈黙が病室に重く立ち込める。それを破ったのは俺ではなく、佳乃だった。
「聞かないんですね」
「……何をだよ」
「僕がどうして入院しているのかって」
それは当然聞きたいことだった。けれど、それを尋ねることを俺は躊躇っていた。それは佳乃のことを気遣ってのことだろうか。いや、どうだろう。俺自身を守るためなのかもしれない。知れば、深いところまで同情する。そうしたら、辛くなる。最悪の結果を迎えた時に傷が深くなる。それが怖くて、踏み出す一歩を躊躇っているのかもしれない。
それは友達として正しい気遣いではない。友達なら、苦楽を共に分かち合うべきだ。
「……悪いな。ちょっと、怖かっただけだ。でも、俺は聞くよ。だって、友達だしな」
「ありがとうございます」
そう言うと、一冊の本を佳乃は手渡してきた。タイトルは『最後の一葉』
それはオー・ヘンリーが書いた短編の小説だった。
「その物語の中で登場する病人は窓から見える木の葉が全て落ちた時が自分の死期だと語ります。物語では最後の一葉は落ちることなく、病人は生きる気力を取り戻すんです」
それはあまりにも有名な話だった。けれど、それと佳乃の病気に何の関係があるというのだ。そう、気づかない振りができれば、いくらか楽だっただろう。けれど、無駄に察しが良かった俺は気づいてしまうのだ。あの日のこいつの言動と、この物語の繋がりを。
「お前の桜って……」
「そうです。僕の場合はあの桜が枯れる時、死期が訪れます」
そんな馬鹿なことがあるものか。そう一蹴できない。
「共感性ラストリーフシンドローム。それが、僕に与えられた病名です」
「ラストリーフ……シンドローム?」
確かに、こいつが弱ったあの日、桜を見る前から調子は悪かった。けれど、それがどうして桜が弱っているからと、因果関係を結ぶことができるのか。
「虫の知らせってあるじゃないですか。誰かの不幸が何となく分かる現象。あれが深刻化したのが、この共感性ラストリーフシンドロームらしいです。共感対象は千差万別。人であったり、他の生き物であったり、無機物であったり。対象が多様すぎてその症状を自覚できない人が多いらしいです。僕はこの病院でよく桜を見ていたので、運良く見つけれたんですけどね」
唖然とする。頭が回らない。けれど、ただ一つ分かることは、佳乃の命はもう長くないということだけだった。
「先生によると、あの桜はもって一週間だそうです。なので、できればでいいので、あと一週間は一緒にいてくれると嬉しいです」
一週間の長さなんてあっという間だ。七回こいつの顔を見たらもう見れない。七回だ、七回。たったそれだけの間に、こいつは俺との別れを済ませようとしている。
「あ……あたりまえだろ……ともだちだぞ」
声は震えていた。俺は唇を噛んだ。口に広がる鉄っぽい味は嗚咽に交じり、泣き言と共に飲み込んだ。佳乃はなんだか嬉しそうな顔をしていた。それがどうにも気に入らなくて、その日はそのまま言葉を交わすことなく、面会終了時間を迎えた。
それからの日々はあっという間だった。次第に弱々しくなる佳乃を意識しないように他愛のない会話を繰り返す。それはゲームの話だったり、それは星座の話だったり、意識しないように意識したちぐはぐな会話を佳乃は心底楽しそうに聞く。その弱々しく口元を上げた笑顔を見ると、熱いものが込み上げてくる。
そんな一日を七度繰り返したある日の放課後、いつも通り生徒会の活動をサボり、病院へ向かった。何度か通っているうちに気づいたことは、自然公園の中を突っ切り裏口から入ったほうが早いということだった。早く着くことが嬉しいことなのか、俺には分からないけれど、少なくとも悪いことではないのだろう。
そうして、池のほとりを歩く。あいつの桜があった場所を横切る。枝は手折られ、もう死に体だった桜の木。朽ちていく幹は虫に食われ、ボロボロと地面に積もっていた。曇り空を背に、枯れ木はその生命力を全く感じさせない。嫌な予感がした。もう、長くないと分かっていたその終わりが、ここに来て迫っているような気がしたのだ。
逸る鼓動に任せて駆け出した。洋菓子店で買ってきたショートケーキが箱の中で弾むことも気にせず、全速力であいつの病室に向かう。これが杞憂なら、笑い話になる。お前に買ってきたケーキ、ミキシングしちゃったぜと二人で笑えばいい。それをスプーンで掬い、口に運べばいい。それなら俺はまだ救われるのだ。
けれど、それができないから笑えないのだ。
病室の前で立ち尽くす。空になったベッドに泣き出しそうになる。俺はどうしてこうも察しが良いのだろうか。ベッドから滑り落ちたシーツ。倒れたまま転がる椅子。それらが意味することをどうして理解してしまうのだろうか。
病室の奥の窓から見える空に陽の光はなく、重く落ち込んだ空が泣いていた。どうしてあいつがいなくなるのか、その理由を求めそうになる。友達すら知らなかったあいつがこの世界から消えるにはまだ早いんじゃないか。胸に抱いたこの想いは、誰にぶつければいいのか。桜の木が、どうして一人の命の終わりを左右するのか。
「桜の木……?」
まだ泣かなかった。秘めた想いを吐きだしてしまうには早かった。捨ててしまうにはもったいない。その激情を原動力に、俺はまだやれることがある。
「桜の木があいつを殺すなら、桜の木にあいつを生かさせる」
伝説の夜桜。その存在が真なら、この激情の矛先はそこであって然るべきなのだ。
来た道を走る。足を踏み出すたびに飛沫が跳ね、体を濡らす。濡れた髪が顔に張り付く。鬱陶しくも思ったが、掻き上げるのも煩わしい。道行く人の奇異の視線を気にする余裕もない。シャツが張り付き、下着が透けたところで俺にとってはどうということもないのだ。
日はとっくの昔に沈み、人気のなくなった校舎の中である人物を探す。伝説の夜桜の場所を知っているだろうその男。普段ならばすでに下校していただろう。けれど、今日の活動ではあいつの仕事量は普段の二倍だ。
明かりのついた生徒会室の前に立つ。濡れて滑る指先で扉を開く。中には予想通り、会長が一人居残り作業をしていた。
俺の姿を認めた会長は、この無様な姿に驚いたのだろう、驚愕を顔に浮かべ、どうしたのかと問いかけてきた。
「傘を忘れたのか? お前と言えど、流石にはしたないぞ」
「うるせーよ。俺のことはどうでもいいんだ」
「良くはないだろ」
そう言って生徒会の備品であるタオルをこちらに投げてくる。
「とりあえずそれで拭け、話はそれからだ」
「それじゃ、おせーんだよ!」
受け取ったタオルを机に叩きつけて怒鳴り声を上げる。それが八つ当たりであることは百も承知だ。でも、今はこいつを気遣ったいる暇はない。そんな切羽詰まった俺の様子に会長は何かを察したのか、嫌な顔一つせず、俺の言葉に応じた。
「……それで、どうしたんだ」
「伝説の夜桜の場所を教えてくれ」
「伝説の夜桜か。病院横の自然公園にある。花見で賑わう方じゃない。池を挟んで向こう側に一本だけ生えている。それが伝説の夜桜だ」
突然の問いに、簡潔に答えてくれる。
「助かった。それじゃあな」
「まて」
踵を返し、走り出そうとすると、後ろから呼び止められる。
「私は離れてから自分の想いに気が付いた。いなくなってからその存在の大きさに気付く。確かにそれはそうかもしれない。けれど、伝えなければいけない想いは隣にいるうちに伝えておけ。それが、先人からのアドバイスだ」
その言葉は確かに俺に聞こえていただろうか。頭の中は既に一杯の想いが詰まっている。
会長の言葉に頷くでもなく、俺は走り出した。意識の底の方に沈んでいくあいつの言葉を救い上げる暇もなく、俺は伝説の夜桜のことで頭が一杯になった。
あいつの言う通り、池の向こうには大きな桜の木がひっそりと、立っていた。けれど、噂とは違った。伝説の夜桜は毎晩満開の花を付け、咲き誇っているはずだった。だが、目の前にある桜の大樹はどうだろう。確かに齢六十年を軽く超えるだろうそれは伝説と呼ぶに相応しい風格を放っている。にも拘らず、その枝々には花はおろか、葉だって付いていない。
無性に腹が立った。
「くそがっ!」
拳をその太い幹に打ち付けた。鈍い音と共に桜の木は少し揺れた。何度も拳を打ち付けると、幹が少し紅く色づいた。それが俺の目には桜の木の傷のように見えて、何度も打ち付けた。内にあった激情のはけ口がこんなところでよかったのか。
そんな八つ当たりは何者かの手によって止められる。横から伸びてきた影が俺の拳を受け止めた。その腕の主の方に視線を向けようとした瞬間、俺の首はその影に掴まれ、そのまま大樹に背中から叩きつけられた。
背中に加わった衝撃に息が漏れる。影はそのまま俺の首を絞め、大樹に押し付ける。振りほどこうにも、人外じみた力に対抗できず、俺のあがきはどこまでも滑稽に映っただろう。
「……どうして傷つけるの?」
その問いかけは淡々と、しかし、どこか責めるような口調であった。押さえつけられてはいるが、首を絞める力は弱くなっていた。それは問いに答えろと伝えているようにも思える。その無力さが、あいつに対しての自分の無力さに重なり、とうとう込み上げてきた熱を抑えることができなくなった。
雨に濡れ、冷めた頬に一筋の温い感触が伝わる。
「だって……だって、あいつが、あいつが死ぬかもしれないんだぞ! それなのに、こいつは眠ってやがる。伝説とか何とか言ってんのに、肝心な時に咲いていやがらねえ。そんな奴、殴られて当然だろ!」
なんて身勝手な理由だろうか。自分でも分かっているのに、これが今の俺の偽らざる思いだった。けれど、影は、声からして女性だろう、彼女は咎める様子もなくどうしてか頷いていた。彼女は首から手を離すと、俺を解放した。
「……理解した。でも、彼にそんな力はない」
「伝説の夜桜を知ってるのか!」
即座に彼女に迫る。静かに頷くと、彼女はどうしてかこちらの事情を知っているかのように語りだす。
「……共感性ラストリーフシンドロームと言われるものは生まれた瞬間に紐付けられた寿命の因果が誤って他の因果と結びついてしまったもの。それを解くことは彼にはできない。まして、死にゆく因果にある桜の木を生き永らえさせることなんて不可能」
突き放すような事実に、俺は膝から崩れ落ちる。どこまでも今日の私は道化だった。滑稽だ。けれど、笑うこともできない。こんなに土砂降りなのに、俺の心はこんなにも乾いてしまっているのだから。
「……まだ死んでない」
「え……」
「……彼はまだ、その魂を黄泉の国に落としていない」
彼女の言葉をまるっきり信用するわけではない。けれど、どこか浮世離れした彼女の雰囲気がそんな空言のような言葉に信憑性を持たせるのだ。
「い、行かなきゃ!」
「……彼は病室にはいない」
「は? ど、どういうことだよ」
「……彼の肉体は死んでいる。けれど、その魂はまだ現世に留まっているというだけ」
もうわけが分からなくなっていた。あいつは死んだのか、死んでないのか。また会えるのか、会えないのか。それだけが俺の知りたいことなのに、こいつの言葉は回りくどく、しかし淡々と事実だけを語るようだった。
「それは、つまり、あいつとは会えないってことか?」
「……人としては」
そうか、もう会えないんだな。それが分かると、一気に心が冷めていった。冷静にあいつの死を、あいつとの別れを理解できた。空になった頭の中に、さっき受け取った言葉が浮上してきた。
『いなくなってからその存在の大きさに気付く』
そうか。
『伝えなければいけない想いは隣にいるうちに伝えておけ』
そういうことか。
冷めていたはずの心に一つ、想いの灯がともる。
「ああ、そうか。俺……あいつのことが、好きだったのか」
それはもう行き場のない想い。届くはずのない恋情。ぽっかりと空いてしまってから、そこに向けられていたはずの想いに気づかされた。
「……会いたいな。あいつに、この気持ちを……伝えたかったな」
その言葉に応えるように、背後の大樹は一斉に花を咲かせた。その神秘的な光景は、いつの間にか割れた雲の隙間から降り注ぐ月明かりを受け、キラキラと輝いた。
そうして照らし出された満開の夜桜の下に、俺はあいつの姿を認めた。
「佳乃……」
「はい。こんばんは、玲さん」
「佳乃っ!」
感極まって俺は佳乃に抱きつく。その体はどこか境界が曖昧で、ふわりと俺の体を受け止めた。
「どうやら僕は、この伝説の夜桜さんのおかげで、玲さんと話せているようです」
伝説の夜桜は一歩踏み出せない奴の後押しをする恋愛成就の伝説。ああ、そうか。これは夜桜が俺にくれた、一歩踏み出すための機会なんだな。
「……佳乃。俺、お前に伝えそびれたことがあるんだ」
「奇遇ですね。僕も玲さんに、出会ったときから伝えたかった言葉があるんです」
俺と佳乃は体を離し、向かい合う。視線が交差すると、少し照れくさくなる。でも、それがどこまでも心地よいもので、この一瞬が永遠に続けばいいとも思えた。
けれど、永遠なんてものはない。この世に存在する全ては有限であり、終わりがあるから、その一瞬を大切に思えるんだ。
「佳乃」
「玲さん」
「俺はお前のことが、好きだったぜ」
「僕も、ずっと前から好きでした」
交わされた言葉、重なる唇。
これは伝説の夜桜の奇跡。夜桜が見せた一夜の夢。けれど、その一瞬はこの胸に永遠を刻んだ。忘れることはない。それが、桜の魅せる一週間の儚くも煌びやかな栄華なのだから。
小さな男の子は窓越しに見える一本の桜の木をどこか苦しそうに眺めていた。同年代の子供たちが花見をしているその中で、何人かの男の子たちがその桜の木を無邪気に痛めつけていたのだ。それに胸が苦しくなるのはその木と自分が重なるから。
やめて欲しいけれど、オカルトのようなこの病状に世間の理解は得られない。男の子はただただ耐えるだけだった。自分が生まれたことに否定されるような感覚に、男の子はこのまま消えてしまいたいと思った。
けれど、男の子たちの行いは一人の女の子によって止められた。女の子は男の子たちを次々に殴り飛ばした。数の不利をものともせず、ほとんど一方的な喧嘩は駆け付けた大人によって終結を迎えた。
怒られているのは女の子の方だった。誰にも理解されず、誰にも認められない女の子の行為に、男の子はただ一人理解し、認め、そして、羨望と恋情を抱いたのだ。
「いつか、あの子に会いたいな」
男の子の踏み出せない恋の始まりは、夜桜にしっかりと届いていたのだった。
朝、目を覚ます。伸びをしてベッドから這い出ると、顔を洗いに階段を下りる。伸びてきた髪をヘアバンドでとめ、冷たい水に晒し意識を覚醒させる。
朝食を済ませ、部屋に戻ると、家を出る支度を始める。制服に袖を通し、鞄を手にする。そうして、部屋を出ようとして、忘れ物に気が付く。
「おっと、髪留めるの忘れてたな」
机の上に置かれた髪留めを手に取る。桜の装飾の施されたそれはあいつの形見だ。添えられていた手紙には初めから恋人になりたくて声をかけたと暴露する言葉があった。まんまとあいつの思惑に乗せられていたわけだが、今となっては悪い気はしない。
この髪留めが似合うように、私は髪を伸ばし始めた。失恋した女が髪を切るなんて話はよく聞くけど、私の場合は逆らしい。
「いってきます」
扉を明け放ち、私は歩き出す。
あいつとの日々を胸に、私は今を懸命に生きる。それが、私にできるあいつへの最大の手向けであり、それが、友達というものなのだから。
読んでくださりありがとうございます。
よろしければ感想を聞かせてください。
悲恋が好きなわけではありませんが、やはりこういった話の方がその想いが美しく見えるのも事実だと思います。