第一話 桜の下には死体と喰人鬼
プロローグ
未知子はグールである。
日中は地下で暮らしている未知子は、地上の活気が陰りだした丑三つ時に這い出てきた。宵闇に溶け込むような黒い布を纏う彼女はまだ少し肌寒い外気を吸い込み、虚ろな目を開き、歩き始めた。
普段であればこれから彼女は食事を行うのだが、この時期はそれを必要としない。彼女にとっての食事とは生命維持のために行うものではない。悠久の昔から続けられてきた彼女の退屈しのぎなのである。
退屈は彼女を殺す。体が死せずとも心が死ぬのだ。
けれど、巡る季節の中で唯一退屈しない時がある。それが今訪れている春である。
彼女は池のほとりのある場所でその歩みを止める。芝生の上に足を抱えるように座り、正面に咲き誇る一本の桜の木に目をやった。
花見、それがこの季節の退屈しのぎである。
この公園で咲き誇るこの桜に心を奪われて以来、彼女はこの木が花を付けている期間だけは食事を行わず、その興味の一切を花に向けているのだ。
未知子の目に映る桜は唯一の光源である月に照らされ、とても神秘的だ。この花は翌週には散ってしまう。なのに、この一瞬だけは完成されたように未知子の瞳を埋め尽くす。悠久の中で人間は変わらない。しかし、桜は刹那の間に変化を見せる。その変化が彼女の興味を桜という一瞬の栄華に向けさせたのだった。
その日はいつもと違い、花見の客は彼女だけではなかった。
「おや、先客がいましたか」
未知子に声をかけたのは声からして若い男であった。その男は明かりの乏しいこの公園の暗さから、未知子を人外と認識することはなかった。
「ご一緒してもよろしいですか?」
「……どうぞ」
未知子は男に興味を示すことなく花見を続ける。男は未知子の隣に座り込み、同じように桜を見上げる。
「良いですよね、この桜。大きくはないですが、横に伸びる枝が見ている私たちを包み込むようで」
黙っている未知子をよそに男は話し始める。追い払うべきだったと少し後悔した未知子だったが、自身と同じようにこの桜を好きだと言う男に悪い気はしなかった。
「どうしてこんな時間に来ているのですか? 女性一人ではいささか物騒な時間でしょう」
男の問いかけに未知子は静かに口を開く。
「……独りで桜を見たいの」
それは方便であった。未知子はこの時間の桜が見たいのではなく、この時間の桜しか見ることができないのだ。
けれど、男に答えた言葉は嘘ではなかった。
「……喧騒に塗れない、独りで咲き誇る桜が、一番きれい」
花見客で賑わう日中では味わうことのできない、静寂の中に佇む桜に未知子は惚れたのだ。男はそれに頷き納得した様子を見せた。
「確かに。この桜は昼には見せない顔を見せてくれています。ですが、私はそれが一番だとは思いません」
けれど、男は未知子の言葉を否定する。それで機嫌を損ねるほど未知子は人間らしくはないが、視線を少し男の方に向ける。
「静寂に佇む桜も一興ですが、私は友人たちと見る桜が好きです」
それは繋がりを重視する人間らしい感性だった。しかし、未知子にはそれが分からない。他人が側にいることがどうして桜の魅力に繋がるのだろうか。
「……理解できない」
「そうですか」
それっきり二人の間に言葉はなかった。ゆっくりと時間が流れ、二人は静寂の中で花見をつづけた。しばらくすると、男は立ち上がる。
「あなたは明日も花見に来ますか?」
「……この桜が咲いている間は」
未知子の言葉に男は嬉しそうに微笑み、会釈をし、その場から立ち去った。
男を見送り、東の空が明らんできた頃に、未知子は再び穴倉へと姿を隠した。
次の晩も同じように未知子は地上へ這い出し、桜の木へ向かった。昨日と違う所は、すでに男が芝生に座っていたという所だろうか。男は未知子の姿を認めると嬉しそうに手を振る。未知子はそれに応えるわけでもなかったが、隣に座り、並んで花見をしたのだった。
それは次の晩も、その次の晩も続いた。
次第に花見の中に男の存在が馴染み始めていくのを未知子は感じていた。彼を異物として捉えることもなくなり、そこに居るのが当たり前になってきたのだ。
そんなある日、いつものように未知子が桜の木の元へ向かうと、そこにはいつもとは少し違う雰囲気を漂わせた男の姿があった。
男が未知子の姿を認めると、少し悲しげな面持ちで立ち上がり彼女の方に体を向けた。
「今日はお別れを告げに来ました。私はこれから少し遠くへ行かなければなりません。多分この桜が散る前に、帰ってくることはできないでしょう」
男は桜を一瞥する。それは満開と呼ぶに相応しくはあったのだが、一方でその散り際が近いことも示していた。
「貴女は独りで見る桜が好きだといいましたが、それは今も変わらないですか?」
「……分からない」
その回答で男は満足だった。
「来年の春にまた、ここで会いましょう」
それだけ伝えると、男は去っていった。未知子はその背中にかける言葉が思い浮かばず、ただ見送るばかりだった。振り返り、仰ぎ見た桜はやはり綺麗で、しかし、どことなく寂しげに映るのだった。
月日は流れ、彼女はいつもの生活に戻った。食事の回数が減ったのは、人と繋がりを持ってしまったからだろうか。
そんなある日、騒々しさに彼女は地上を覗いた。そこでは黒い装束に包まれた人々が涙を流している姿があった。なんてことはない。葬式が行われていたのだ。
その流れの先にはあの桜の木があった。参列者の会話から察するに、死んだときはこの桜の木の下に埋めてくれと頼まれていたらしい。未知子は少しの間それを眺めていたが、興味を失い住み家へと戻っていった。その日の食事は容易だったそうだ。
そして、春が訪れた。
桜の木の前に座ると未知子は思い出す。男の存在は、未知子の中に確かに残っていた。そして、今隣りの芝生に誰も居ないことに一抹の寂しさを覚える。
「……あなたの言っていたことが、分かった気がする」
未知子は桜を仰ぐ。
しかしそれは皮肉なことに、その桜は今まで訪れた季節の中で最も綺麗に咲き誇り、未知子の心を満たしていったのだった。
読んでくださりありがとうございます。
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これを合わせて4話くらいで完結します。
短いですが、お付き合いくださると幸いです。