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BREAKFAST

 困った困った困った……。

 どうしたものか。

「うー……」

 ベッドに入ったまま、唸る。私は昼間の自分を呪い続けていた。名前も知らないお菓子のレシピを、どうやって手に入れるっていうんだ。きっとそれは前世での記憶で、計算式や結婚指輪の文化などのこれまでの経験上、その前世というのがこの国とは違う、時代も違うところだという予想はついていた。つまりは、この国のどこを探してもアノお菓子は見つからないだろう。

 どうしたものか。

 私は、がばり、と布団を抜け出して、机の上のろうそくに火を点けた。ぼんやりと明るくなったところに、紙を広げて、昼間のようにお菓子の絵を書いた。

 いくら考えても、仕方のないこと。何かやってみれば、何か思い出すかもしれない。今回ばかりは、前世の記憶が蘇ってくれないと困る。たとえその記憶のせいで、親をなくしたんだとしても。


 とても小さな一口サイズのビスケットは、つやつやとして、周りはギザギザとしている。ぷっくりとしたフォルムが、可愛らしい。

 そして、雲のような形の軽焼きの饅頭。中の空洞にはたっぷりとクリームが入っている。


 どちらも目に楽しい、まだ口に入れたことのないお菓子だった。それでも、どういう食感で、どういう香りがするのかは、何故か分かるのだ。正解は分かる。過程は分からない。

 バター、小麦粉、アーモンド、卵……、砂糖。

 幸い、この国の南部では、サトウキビの栽培が行われており、甘味には困っていない。高級品なのは確かだが、安定した供給量を得られていた。

無数に存在する可能性の中から、一つの方法を導く。

気が遠くなるよね。


「アントナン・カレーム……」


 口に出した言葉が、一体何を意味するのかは分からない。地名? 人名? それとも技術か何か?



 私は、自分が描いた菓子の絵と、ろうそくを持って、自室をするりと抜けだした。音を立てないように。そっと……。










 気づいた時には、もう夜明けだった。

 寝坊したかな。朝ご飯食べ損ねたら困るな。


 全身の関節が痛むのを感じる。右半身は特にひどく、筋肉痛だ。

「んん……」

 あれ、昨日はどうしたんだっけ。なんでこんなに疲れてるんだろう。うっすらと目を開くと、銅色の世界が広がっていた。キラキラと、朝日を浴びて、褐色の輝きを放っている。

 うげ。なんだか手がべとべとする。

 だるい右腕を持ち上げて見ると、てかてかと手が光っていた。指先をちょっとなめてみる。

「甘い……」

 それと共に、バターの香りがする。

 なんでだろう……。


「ノワー! ノワー!」


 私を呼ぶ声がする。ここにいるよ。そう言いたいのに、あまりに体がだるいものだから、口から出てくるのは、規則正しい息だけだった。


「ジュリア! 私は森を見てくる! 君は館内を探してくれ!」

「ええ!」


 お義父さんの声だ。とても大きな声。なんだか怖いな。


「ノワー! あ! ノワー! おい、こんなところで何してるんだよ!」


 ルネ兄さんの声と共に、全身に走る痛み。兄さんの腕に抱かれたんだと気づくには、しばらくかかった。


「母さん! 父さん! 居たよ! 厨房にいた!」


 まだ、日も上がりきっていないような薄明かりの空から、徐々に朝日が入り込み、私の瞼を照らす。目を開けると、見たことも無いようなルネの顔。怒ってるように見える。

 どたどたと走りこんできたのは、お義母さんとお義父さん。みんな寝間着のままだ。こんな早朝から、私を探しに来てくれたんだ。

 ルネの腕に支えられて、身を起こす。


 目の前には、雲の海が広がっていた。軽焼き饅頭の雲の海だ。






「あんた一体どういうつもりなの! こんなに心配かけて、夜中に厨房に潜り込むなんて!」

 今、私は厨房の女王様にお叱りを受けています。烈火のごとく怒られるのは初めてで、いつもルネが叱られているのを見ているだけだったから、まさか私も怒られる日が来るとは思わなかった。

 お義父さんも、ものすごい形相で私を見ている。何事かと集まってきた従業員のみなさんと、出勤した料理人の方は心配そうにこちらの様子を窺っていた。

「オーブンまで使って。正気かい!」

 お義母さんの言葉に、全くそんな危険なことだと思っていなかったので、恥ずかしくなって俯いた。

「ちゃんと目を見なさい!」

 でも、俯くことは許されなくて、私は再び、ロジェ兄さんと同じ、お義母さんの緑色の目を見つめ返すのだった。

「エメ。お母さんも、お父さんも、あんたにもしものことがあれば、悔やんでも悔やみきれないよ。もちろん、ロジェだって、ルネだって。どうしてだか分かる?」

 お義母さんに握られた手は、痛いくらいだったけど、自分のせいで辛そうな顔をしている皆を見るのは、もっと痛かった。

「……家族だから」

 小さな私のつぶやきに、お義父さんの大きな手が頭に乗せられた。そして、いつかのようにわしゃわしゃと撫でられると、私の体は母と父、それからルネに強く強く抱きしめられた。

「そう。家族だから。大切だから、こんなに怒るんだよ」

「……本当に、ごめんなさい」

 嗚咽をこらえようとして、何度も咳き込む。私を包んでいた腕の力が弱まると、ルネの手が私の背中をボンっと叩いた。

「妹。これ、食っていいか?」

 ルネは、その明るい笑顔で、場の空気を和ませるようにして、厨房の台の上に並べられた軽焼き饅頭を手に取った。

 私が、まだ収まらない涙をぬぐいながら頷くと、ルネが豪快にも一口で頬張る。

 その瞬間、彼の目が大きく見開かれ、口の中がいっぱいなのにも関わらず、何か叫び出しそうになっていた。


 

「まっずー!! なんじゃこりゃ!」



 やっと何を言っているのか聞き取れるようになった、ルネの叫びは、思っていたよりひどかった。

 父と母も恐る恐るかぶり付く。


「この生地……」

「クリームは上出来。でも、生地が固すぎ。何が作りたかったの」


 夫婦の様子に、菓子を手にしていた人々は、そっと戻した。

「あ、でもこれ、昨日の絵の菓子に似てる!」

 何とか口の中の物を全て飲み込んだルネは、私が書いた菓子の絵に似ていることに気が付いてしまったらしい。

「もこもこってした感じ、そうだよな?」

尋ねられた言葉に、私は素直に頷いた。

「でも、菓子職人に任せるはずだろ?」


「あれ、全部私の思いつきだったの。適当に描いただけ。だから本なんか、ない。嘘吐いて、ごめんなさい」

驚いた様子のルネは、私の顔をまじまじと観察すると、ニカっと白い歯を見せて笑った。

「まったく、困った妹だな!……おお、兄貴っぽいな」

 少し感慨深そうに、自分の世界に入りかける兄。

「嘘吐いてまで、自分で考えたお菓子だって言えなかった理由は分かんないけど、ノワーが画期的なお菓子を思いついた事には変わらないし。今回は間に合わないけど、ゆっくり完成させれば良いよ」



「いや! 来月までには仕上げるよ」



 ルネの穏やかな声を遮ったのは、母だった。一気に料理人の顔になった母は、饅頭の生地をちぎってみたり、その表面を眺めながら、厳しい声色で言う。

「ジャン! ちょっと見て」

 母が呼んだのは、ずっと一連の出来事を傍観していた、わがホテルのパティシエ。

 いきなり名前を呼ばれて、ぎょっとした様子の彼は、母の側に寄り、同じ目線で出来損ない饅頭を見た。そして一口運び、顔をしかめる。

「膨らみは、卵の量かオーブンの温度が問題でしょう。この生地に、大きく空洞が出来さえすれば、この食感も軽くなるかと」

「うん。たっぷりのクリームに、空気を食むような生地……。早速取り掛かって。祝賀会の締めの一つに使えるかもしれない」

 母とジャンの話の詳しいことは分からないけど、例の祝賀会に向けて、この饅頭を完成させたいらしいことは分かる。でも、一か月しか残されていない。

「悔しいけど、今回はエメちゃんのアイデアを採用しよう。総料理長、彼女を補佐に付けたいのですが」

 ジャンの申し出に、母の鋭い視線が私に向けられる。


「良し。でも、絶対にオーブンには近づけないで。……いや、エメが作業するのは、必ず私がいる時にして」


 母の条件付きのゴーサインに、ジャンはにっこりと私に笑いかけたが、まだうまく状況が掴めない。

 えっと、私が、ジャンの補佐? 厨房に入って、パティシエの補佐ってことですか!








 

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