MANAGER
ロジェの回です。
父が侯爵に要らぬことを吹き込まれたらしい。
『ロジェ君は実に優秀だね。そうだ、王都の大学に行かせて経営学を学ばせるか、修業に出してみたらそうだい? 宮廷にも執事の空きがあったはずだが』
もともと、父にはこのままホテルを継がせていいのだろうかという心配があったらしい。十五になった年から、本格的に父の下で支配人としての仕事を学んできて、二年が経つ。今更大学だとか、貴族の家に奉公に行って修業して来いなんて、断るだろうと思い聞いていたが、父は満更でもなかった。
大学に行かせたい父と、行きたくない僕の間で、ピリピリとした空気が流れる。それは侯爵一家が帰ってからも続いていた。気まずいが、僕はこのホテルのために働きたいのだ。それに、ここを離れたくない理由もある。
「ロジェ!」
「待ったかい?」
「ううん。私も今来た所よ」
夏の日差しに負けないくらい、燃えるように輝く赤い髪の彼女は、向日葵のような笑顔で僕に言った。彼女こそ、僕がここに居たい理由。
「セリア、花びらが付いてる」
僕が、彼女の髪に付いた花びらを取るのを、セリアは無防備にも目を閉じて待つ。
その程よく日焼けした肌に唇を寄せたい。
そう思うのは、至って普通のことだと思う。しかし、彼女は僕のことを紳士だと思い込んでいるようだから、その誤解を解くのは、まだ先で良いと思うのだ。
「取れた?」
「うん。ほら」
僕が白い花弁を宙に飛ばすと、彼女はその行く先を見つめた。
セリアと出会ったのは二年前。僕が仕事を始めた頃、初めての仕入れを任されたのが、ロビーや客室を飾るための季節の花だったのだが、注文先の花屋の娘がセリアだったのだ。
波打つ豊かな赤毛を、無造作にまとめて、汗をかく姿。化粧っ気のない顔が、まさに花咲くように綻ぶ瞬間を目の当たりにした時、僕はついついその場にあった赤いバラを一輪、跪いて彼女に捧げていた。
『……このバラを、下さい』
呆気にとられたセリアに、僕も恥ずかしくなって、やっと出てきた言葉がそれだった。
『2エルです』
ポケットを探って、5エル玉を差し出す。つり銭を用意している彼女の後ろ姿に、どうして「つりは要らない」とすぐに反応できなかったのだろうか、と思いながら、膝をついたまま肩を落とした。
『毎度』
そう言って3エル渡してきた彼女に、今度こそバラを捧げる。
『このバラを、貴女に贈らせてください』
いたずらっぽく笑ったセリアは、それを受け取ると胸元に抱いて、おとぎ話のお姫様のようにうっとりとした様子で目を閉じると、花の香りを吸い込んだ。
『まぁ、なんて素敵なお花なんでしょう。ありがとう、王子様』
この時のセリアには、僕がずいぶんと残念な王子様に見えていたようだ。この後もしばらく続いたこのからかいを止めさせるにはかなり時間がかかった。
「ロジェ! 考え事してたでしょう!」
頬を膨らませるセリアに叩かれて、僕は思い出から抜け出した。
「いーや。ずっとセリアのことを見てたよ」
「嫌ね。嘘つき王子はお呼びでなくってよ」
高慢そうな素振りを見せるセリアに、僕はその腹をくすぐって答えた。
彼女と離れるなんて考えられないと思う。それと同時に、それがいかに子供っぽい考えなのかも分かっているつもりだ。
「見てよ、花売り娘が生意気ね」
「ホント、ホント。釣り合ってないの、分からないのかしら」
僕の耳に届いた嫌味な囁きは、他でもなくセリアに向けられたものだった。僕はすかさず声のした方にいる町娘を睨み付けたが、シャツの裾を掴まれるのを感じて、振り返った。
そこには、僕をいじめる時の挑戦的な目をしたセリアが居た。
「これは女の戦いよ。王子様は大人しくしてて」
セリアは僕をたしなめるでもなく、そのままつかつかと町娘二人組の元まで歩み寄る。その姿が後ろから見ていても、女王然としていたので、僕は拍子抜けしてしまう。
「あらぁ、仕立て屋のクレマンに、酒屋のアデルじゃない。仕事も手伝わずに遊んでるって、おば様嘆いてらしたけど、本当だったのねぇ。口だけは達者のようだから、ちょっと安心したけれど」
セリアの声色は、まさに高慢な女のだが、僕は笑わないでいられるか自信がなかった。
「なんですって! 貴女こそ、どんな手を使ったか分からないけど、チュテレール家のロジェ様と並んで歩くなんて、とんだ恥知らずだわ!」
「そうよ! 水仕事で手荒れしているような貴女とは、不釣合いだわ!」
騒ぎ立てる娘たちに、セリアは大きくため息を吐いた。
「貴女たちにも、不釣合いに見えるだなんて知らなかったわ。実は私も思っていたところなの。ロジェには王都の大学くらい出てもらわないと、とてもじゃないけど、私とは釣り合わないんじゃないか、ってね」
生意気だなんだと騒ぎ立てる娘たちの声が遠ざかり、僕の耳には先ほどのセリアの言葉がこだまする。何で彼女が大学の話を知っているんだ?
「でも、安心して。ロジェったら、私のために、この秋から大学に行くことを決めてくれたの! これでやっと釣り合いが取れるようになるわ」
セリアの言葉に、僕はハッとする。何で彼女がその話を知っているのかなんてどうでもいい。問題は、彼女が大学行きを勧めてきているということだ。
「ね? ロジェ?」
と、すこし心配そうに尋ねるセリアを、本当は抱きしめたくてしょうがなかったけど、僕はせっかく混ぜてくれた『女の戦い』の邪魔にはなりたくなかった。
「ああ。すべて、君のために。帰ってきたら、結婚してもらうために、ね」
僕の言葉に、セリアは満足げに、それでいて悲しげに微笑んだ。
帰宅すると、木の下で寝転がりながら本を読んでいる妹の姿を見つけた。まだ六歳になったばかりだが、侯爵一家の滞在からというもの、一気に大人びたように思う。舌足らずだった話し方も、何故かはきはきしたものに変わり、今まで読んでいなかったはずの本を、よく書庫から持ち出すようになっていた。
そして更に不思議なのが、戸惑う僕や両親に、「どうだ、俺の妹のノワーは天才だろ!」と自慢げな弟のルネの姿だった。ルネが侯爵令嬢のオドレイ様に淡い想いを抱いているのは、皆気づいていることだが、なぜ妹自慢に発展しているのか分からない。
「エメ、今日は何を読んでいるんだい?」
僕の声に起き上がったエメは、ずいぶんとその姿勢で本を読んでいたのか、髪の毛が変な癖をつけていた。
「あ、ロジェ兄さん、お帰りなさい。今日は、キノコ図鑑です」
その響きは、子供の読み物のようだが、実際に彼女が読んでいるのは、『図解きのこ研究~全国版』というもので、とても子供が読むものではないし、僕もそんなものが書庫にあったなんて知らないような本だった。
つい顔が引きつると、エメは本をパタンを閉じて、その澄んだ黒い瞳を、真っ直ぐこちらに投げかけた。
「ロジェ兄さん、何かありましたか」
そんなに顔に出ていたのか? 僕が少し口元を覆うと、エメが自分の隣に座れとでも言いたげに木の根をポンと叩いた。
エメの言う通りに木の根に腰かけると、見上げてくるエメの姿が、いつもよりも大きく見えた。
「セリアさんのことですか」
妹の思ってもみなかった鋭い質問に、僕はドクンと心臓が脈打つのを感じた。
「皆知っていますよ。知らないのはお義父さんとルネだけです」
そう言われて、僕は母にも知られていたことに頭を抱えた。
「セリアさんは、とてもカッコいい方です。皆大好きですよ。それで、何があったんです?」
よりによって、セリアを「カッコいい」と表現する妹に、侮れないなと苦笑する。とても六歳児だとは思えない妹に促されるまま、僕は今日町で起きたことを語った。
エメは相槌を打ちながら、静かにその話を聞く。不思議なもので、話していると落ち着くような心地がした。
「兄さんは、不安なんですね。セリアさんと離れるのも、大学に行くのも……」
知ったような六歳児の言葉に、僕はうなずいた。
「でも、答えはもう出ているのでしょう? セリアさんに言ったように」
エメに促され、昼間自分が言った言葉を思い出す。
『ああ。すべて、君のために。帰ってきたら、結婚してもらうために、ね』
我ながら不格好なプロポーズだ。あんなはずじゃなかったのに。
「セリアに相応しい男になって、やり直さないとな」
僕のつぶやきに、エメは笑った。
「プロポーズは、指輪を用意してからじゃないとね」
妹が楽しそうに言った言葉に、僕は首をかしげる。
「ん? どうして指輪なの?」
すると、妹も「なんでだろう」と不思議そうに首をかしげる。
「指輪は、永遠に途切れない愛の象徴、だからかな……」
小難しいことを言う妹の顔を眺め、やっぱり不思議だなぁ、としみじみ感じ入っていたところ、明るい弟の声が聞こえてきた。
「兄ちゃん! ノワー! 夕飯だぞ!」
「今いく!」
僕とエメは仲良くそう答えて、手をつないで、このホテルで働く大家族の待つ厨房に走った。
皆、皿の半分まで食べ進めたあたりで、支配人のロジェが口を開いた。
「総支配人、私、四年ほど暇を戴いて、侯爵のおっしゃるように大学で経営学を学びたいと思います」
夕食の席でそう言ったロジェに、セザールも、ジュリアも、ルネも、そしてその場にいた従業員たちも驚いた。料理人やハウスキーパーたちの間では、『大学』という言葉が密かに禁句にされるほど、支配人親子がこの件で険悪な関係にあったのは、皆の知るところだったからである。
一人、六歳になるエメ・ノワーが平然と肉にかぶりついていたが、それを気にする者はいなかった。
「どういう風の吹き回し? あんなに嫌がっていたのに」
考え込んでしまった総支配人に代わって、総料理長であるジュリアが尋ねた。
「総支配人の言うように、これからのホテル経営のために、僕が新しい知識を得ることは重要だという結論に至ったんだ。それに、一人前にならなくてはならない、明確な理由もできたし。この何週間か迷惑をかけたけど、やっぱり大学に行くことにします」
明確な理由というのが、セリアとの結婚であるのは、本人とエメしか知らないことだが、決意を固めた息子の姿に、ジュリアも、大学行きを勧めていたセザールも胸が熱くなった。
「学費の面では、負担をかけてしまうけれど、必ず、その投資に見合ったものを持ち帰るよ」
ロジェの言葉に、父親の顔になってしまっているセザールは大きく頷いた。
「お前は、本当に可愛げのない子供だな……」
そんな父の言葉にも、ロジェは肩をすくめるだけだった。未来の総支配人の心意気に、従業員たちも心強く思うのであった。
ロジェが大学に行く決心をし、誰もがこれで安心だと思った時、皆が失念していた知らせが届いた。それは大学入学試験の案内で、フルーヴ侯爵が受験の申し込みをしてくれたから届いたものなのだが、試験があることを誰もが忘れていたのだ。しかし、セザールに言わせると可愛げのない息子は、その可愛げなさそのままに、難なく試験に合格し、本当に秋からの王都行きが決まったのだ。
そして、夏の終わり。夜の湖のほとりで、一組の若い男女がしばらくの別離を悲しんでいた。
湖上には、恋人を思って灯したキャンドルが浮かんでいる。夜空の星が映りこむ湖に浮かぶ、幻想的な灯りに照らされて、二人の顔がゆらゆらと悲しく揺れていた。
「僕がここに戻ってくる日まで、待っていてくれる?」
ロジェの言葉に、セリアはいつものからかいを封印して、静かに頷いた。
「もちろんよ」
エメとルネがこっそりと見守る中、ロジェは彼女に恋したその日のように、セリアの目の前で跪いた。彼がポケットを探り、取り出したのは、5エル玉ではなく、銀色に輝く指輪だった。
ロジェは妹に教えられたように、セリアの左手をとり、その薬指に指輪をはめた。驚いた様子のセリアだが、いつものような悪戯なほほえみを浮かべ、指輪を月明かりにかざし、そして胸に抱いてうっとりとすると、「ありがとう、王子様」と言った。
そして、二人の影がゆっくりと近づいていく……
「子供は見るなよ」
藪の中に隠れていた弟と妹は、兄の言葉にびくっとしてその目をぎゅっと閉じた。
セリアのくすくす笑う声と、そしてその後のくぐもった声に、二人の子供は耳も塞がねばならなかった。