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COUPER


「とんだ悪党だな」

 そう言ったのは、公爵家嫡男エミール・ド・モンタンだった。


 オドレイとの婚約の記事を読みながら大きく息を吐く主人に、従者のベルナールは黙って紅茶を差し出した。

 エミールは新聞を机の上に投げ捨てて、短く礼を言うとその紅茶を受け取る。

「うまい」

 少し微笑んだ主人の顔にほっとするベルナール。このところ、と言うかオドレイ嬢との婚約記事が出た辺りから、エミールの調子が優れない。婚約記事を読んだり、投げ捨てたり、そしてまた読んでみたり。

 幼い頃からこの屋敷で過ごし、ずっとエミールの姿を見て育ったベルナールでも、こんな彼の姿は初めてだった。


 公爵家のエミールと言えば、頭脳明晰でいて武にも長けた優秀な令息として評判だ。将来は宰相にでもなろう人物だと言われており、年若いのにも関わらず、大きな期待をかけられている。

 また何より見目麗しく、家柄とも相まって世の女性の憧れの存在であるわけで、彼のグリーンの瞳に見つめられれば、未婚既婚問わず誰もが心を奪われた。


「お喜びにはならないのですか?」

 ベルナールはちらりと婚約記事に目をやって尋ねた。

 すると、エミールは飲んでいた紅茶を噴き出さんばかりの勢いで笑った。

「喜ぶ? 誰が?」

 しかしベルナールは主人の言葉に困惑する。

「だって、念願叶って婚約までたどり着いたのに……」

 ベルナールの言葉が尻すぼみになるのは、エミールの目が全く笑っていないことに気が付いてしまったからだ。エミールは熱い紅茶を一口すすると、そのまま何も言わなかった。


 睫毛の影が落ちる、憂いに満ちた主人の瞳に、ベルナールは幼い日の思い出を見た。

 あれは、自分とエミールが共に十二歳だった頃だろうか――――







 エミール・ド・モンタンは決して屈しない。

 彼の周りの人物は、皆それを良く知っていた。

 ベルナールは、賢くて剣でも大人に負けない未来の主人に、大変憧れていた。


 その頃の少年たちのお気に入りは、王都の中を自警団と名乗って取り締まることだった。

 エミールは正義感の強い男の子であったし、両親の目を盗んで屋敷を抜け出す賢さがあった。彼は、いつも何人かの子分を引き連れて、貴族らしからぬ汚れた服に身を包んでは、正義の味方気取りで盗人や強姦魔をやっつけて回っていたのだ。


 そんなある日のこと。走り回るのに疲れ切った少年たちは、王都のはずれの景色の良い川っぺりで大の字になって休んでいた。


「エミール様、今日も大活躍でしたね!」

 ベルナールの言葉に、エミールは自慢げに笑ったりはしない。それもヒーローの心得だと彼は思っていたのである。しかし、今日の自分の活躍をエミールは思い出さずにはいられなかった。路地裏に若い女性を連れ込む男を退治したり、八百屋の果物を懐に忍ばせる女を騎士に引き渡したりと、大忙しだったのである。

 クタクタでベルナールに返事も出来ないが、彼の胸は確かな充足感に満たされた。

 そして、少年たちは川辺の草原に身を預け、そのままうたた寝を始めた。


 しかしそれも半刻続かなかったのではなかろうか。


「どうしましょう!」


 突然、小鳥のさえずりのような可憐な声が降ってきて、少年たちは驚いて目をパッと見開いた。


「良かった! 生きているのね!」


 目の前には、心底安心したような表情の少女。いや、ただの少女ではない。白薔薇の蕾のように瑞々しい。首元でキラキラと輝く青い宝石と、同じ輝きの瞳の持ち主。その少女は、柔らかな金の髪を揺らす小さな女神だった。

 ベルナールをはじめ、他の少年もエミールでさえも、彼女の美しさに何も言うことが出来なかった。

「お腹が空いているの? それとも何か飲みますか?」

 そう尋ねてくる少女に、少年の一人が空腹を訴える。

 そう言えば、今の僕らの恰好は孤児のそれに見えるだろう。彼女は慈悲の心でもって、こうやって僕らの傍らに跪いているのだ。


 彼女の側に控えていた侍女が、手早く水筒と菓子を僕らに差し出す。この様子だと、彼女はどこかの令嬢に違いないが、こんなに可愛らしい少女が同年代に居ただろうか。また、侍女が居るにも関わらず、こんななりをした子供に近づくことを許すだろうか。


 そんな風にエミールが考えていたことも知らず、ベルナールは喜んで菓子に手を伸ばした。


「……ありがとう」

 エミールの言葉に、彼女が悲しそうに微笑む。

「いえ、私にはこんな事しか出来ない。貴方を本当の意味で救って差し上げることが出来ないのだもの」

 孤児に水と食べ物を恵む貴族なんて居ない。彼女の行いはそれだけで常識から外れているし、正義の行いそのものなのに。


 エミールを見ると、何故か彼の顔が真っ赤になっている。


 ベルナールはそのことに驚いて、危なく菓子を取り落しそうになった。こんな風にわかりやすく表情を変えるなんて、尊敬するエミールらしくないことだった。

 その出来事を公爵様の執事である父に話せば、彼は「それは、きっと恋ですね」と言ったので、ベルナールはそういうものなのかと納得した。


「オドレイ様、そろそろ」

 侍女の言葉に振り返って頷く彼女。そしてもう一度僕らに向き直ると、彼女は何も言わずに頭を下げて立ち去った。取り残された少年たちは、花の妖精のような彼女の後ろ姿を見送りながら、夢でも見ていたのかとぼけっと座り込むだけだった。






 その日以来、エミールは自警団を辞めてしまい、リーダーを失った僕たちも自然と活動を辞めてしまった。

 ベルナールがこの時の小さな女神のことを思い出したのは、王宮で開かれた舞踏会にエミールの従者として控えていた際、主人が手を差し出した黄色いドレスの女性を見た時だ。

 十年の時を超えても、あの花の女神だとすぐに分かるほど、彼女の瞳の輝きはあの頃のままだった。


 会場の外へと消えていくエミールと彼女の姿を見ながら、その場の誰もがお似合いだと思った。公爵子息が今まで見せたことのないような笑顔を浮かべている姿に、ある者はうっとりと、またある者は妬み、そして諦めと共に見入ってしまったのである。

 これはベルナールにとっても同じことだった。ついに主人の運命の女性が現れたのである。十年の時を超えたロマンスに、彼は目頭が熱くなるのを感じた。

 そして心に決めたのだ。「エミール様の恋を出来る限り応援しよう」と。







 紅茶を飲んだきり、何をするでもなく窓の外を見つめていたエミールが、ぼそり、と呟く。

「言い訳しながらね、あわよくばと思っている自分が居るんだ」

 エミールは冷めきった紅茶の水面に目を落とし、その歪んだ鏡に映る自分を見つめた。

「とんだ悪党だ」

 暗い言葉が、エミール自身に、そしてベルナールの身に重くのしかかる。

 ベルナールは薄々気づき始めていたことが、確信に変わるのを感じた。そしてそれは、彼の身体から血の気というものを奪った。


 身体は冷めきっているのに、心臓はバクバクと脈打っている。喉元が炎を飲み込んだかのように熱く痛む。凍ってしまったかのようなベルナールの唇は、無理に開こうとされて震えていた。

「え、エミール様……」

 ベルナールの呼びかけに、エミールがその澄んだ瞳を向ける。

「その先は言うな。黙っていたのは僕なのだから。言ったろう? あわよくば、って」

 そう力なく言う主人の言葉に、ベルナールは膝をついた。


「夢というのは、残酷なものだね……」


 エミールはひどく落ち着いた様子で、嗚咽を漏らす従者の肩に手を置いた。








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