SLEEP OVER
晩餐会の後、人々は隣のダンスフロアに流れていく。楽団の演奏と共に、国王と王妃は数十年前の結婚式の時のように、優雅なワルツを踊り始める。今夜の主役のファーストダンスを、参加者の全てが見守る中、ディナー会場では、静かに片付けが行われる。
華やかなダンス会場とは打って変わって静かな厨房。疲れ果てた料理人たちが、ぐったりと頭を垂れている。同じく疲れ切ったウェイターたちも、皿やグラスを持って厨房になだれ込んでくる。しかし、彼らは料理人たちと違って、ダンスを楽しむ客に酒を運ばなければならない。
「お疲れさんでした」
ウェイターの一人が声をかけ、料理人たちが顔を上げる。その中には総料理長の姿もあって、彼女もまた戦を終えた戦士のように据わった目をしていた。
しかし、あの喝采。
皆の心に、疲労の分だけ誇らしさが宿った。
それは、エメも同じこと。小さな体に、有り余るほどの興奮。目が回るような忙しさと、妙にクリアになる脳内。
間違いない。これが『正解』なのだ。
そんな風に思った。あの殺気、あの喧噪、そして歓びに満ちた皿の数々――――
「エメ! 着替えてちょっと来い!」
静まった厨房に、突然響く明るい声。見れば、ルネ兄が顔を出している。疲れも見えるが、いつものような爽やかな笑顔。
「ん? なんで?」
私の口からは、少々間抜けな声。小さくため息を吐いた兄が、跳ねるように私の元までやって来て、座り込んでいた私の腕を引くと、そのままずるずると連れ出した。
「ちょっとは自分で歩けって」
ぐいぐい引っ張られ、私は自分で歩く気力も体力もなく、ルネ兄に頼る。
連れてこられたのは、昼間も来たハウスキーパーたちの控え室。今は晩餐会やダンスパーティーの応援に行っているから、皆出払っているようだ。
中に入ると、積み上げられたリネンに、整頓された掃除用具がある。そんな中、ルネは迷わず一つの箪笥の引き出しを開けると、中から黒いワンピースを取り出した。これで白いサロンを巻けば、コレットのようなメイド姿になる。
「ノワ、これ着ろ」
「え? なんで?」
「良いもん見せてやるから!」
二カッと笑ったルネの顔に、首をかしげながらも、言われるままにぶかぶかのワンピースを頭から被った。
これは何なんだ、一体。
僕は目の前の二つの塔に驚いた。円錐型の塔は、それぞれ見たこともない菓子で出来ている。右には、もこもことしたケーキのような、そうではないような不思議なモノが積み重なり、真っ白な砂糖掛けをされている。その隣には、つるつるとした表面の丸いビスケットのような、バラ色の菓子が塔を作っていた。
菓子の塔を前に、晩餐会を終えて腹一杯のはずの子供たちは、早くもその腹に余裕が生まれるのを感じていた。それは僕も漏れなく同じことで、普段甘味に興味のない自分でも、初めて見るものには興味をそそられた。
そこにタイミングよく、給仕がもこもこのケーキが乗ったトレイを差し出してくる。僕は迷わずに一つ手に取り、他の子供たちも一口齧るのを確認して、恐る恐る頬張った。
サク、と歯応えがある。しかし、その生地は柔らかく、噛み切ると中からクリームがあふれ出てくる。思わずこぼれそうになったクリームを舌で受け止め、その濃厚な香り、滑らかな舌触りに驚く。
「なんなんだ、これは……」
そう思ったのは、僕だけではないようで、あちこちから驚きの声が上がる。
正直、こんな子供だましの夜会に付き合うつもりなんてなかった。昼間の遠足もばっくれたくらいだ。しかし晩餐会の後、半強制的にこの部屋に連れてこられ、苛立っていたが、この名も知らぬ菓子を食べられただけでも、来てよかった。外の世界には、こんなに美味しいものがあるのか。家に帰ったら自慢してやろう。兄たちも両親も、僕を一人で行かせた事を悔しがるに違いない。
前を通り過ぎようとする給仕を呼び止め、思わず菓子の名を尋ねる。
「それは、シューアラクレームと申します」
シューアラクレーム……。僕はまだ一つ目を食べきらないうちから、その給仕のトレイから二つ目のシューをもらった。
「それで、この菓子は何という名前ですの?」
ここにも一人、菓子の名を聞きたがる者がいた。
給仕の応援に来ていたコレットは、これで何度目か知れない質問に、少々誇らしげに答えるのであった。
「そちらは、マカロンと申す菓子です。私共のパティシエが、今夜のために新しく作った菓子です」
「ほう……、マカロン。美味である」
「ありがとうございます」
夫人の前を去りながら、トレイの上のマカロンが次々になくなるのを、コレットは嬉しく思っていた。この菓子が画期的だから、というだけでなく、この菓子を発明したのがあのエメ・ノワーだからだ。
庭の隅で、所在なさげに佇んでいた少女の姿は、今でも忘れられない。野良猫のように傷だらけで、その目も年に似合わず冷たく醒めていて。
総支配人が引き取ってくれて、本当に良かった。
今の彼女は、ずいぶんと明るくなった。聡明なことには変わりない。でも、その瞳は昔と違って愛し愛される者の温かさがあった。気づけば、彼女がここに来てから四年。いつの間にか大きくなって、誰もが驚くような創造力の持ち主になっていたなんて。
「一ついいかしら?」
「はい。右から、紅茶、レモン、バニラ味と、三種ご用意しております」
「あら、可愛らしい。この菓子の名前は?」
「マカロンと申します」
天才少女、エメ・ノワー・チュテレール。一体どこまで大きくなってしまうんだろうか。
コレットは生むなら普通の子供が良いわ、あんまり早く成長されたらさみしいもの、と内心切なく微笑んでいた。
兄が扉を開くと、そこは絵本の世界のようだった。
色とりどりのドレスを身にまとい、着飾った令嬢や、小さいながらに、紳士らしく背筋を正している子息たちが、道化師や手品師の技に夢中になっている。
そして、その手には、エメとジャンの努力の結晶である、ピンクのマカロンと、白いアイシングがかかったシュー。
見回せば、一口頬張って、笑顔になる女の子や、給仕から欲張っていくつも手にする男の子の姿を見つけることができる。
「どうだ? 子供の夜会、大成功だろ?」
ルネの言葉に、私は何度も頷いた。
私の菓子で、笑顔になっている人がいる。みんな楽しそうに笑っている。
『ここには、歓びの全てが詰まってる。それを分かち合いたい。その気持ちが大事だよ』
ジャン先生の言葉が蘇る。あのとき、よく分からなかったことが、今なら分かる気がする。自分が詰めた、歓びが、目の前の人々の口に入って、弾けている。驚き、笑い、また頬張る。そんな彼らの様子を見て、これが歓びを分かち合うということなのかもしれない、そう思った。
私の生きる場所はここだ。
この、歓びに満ちた場所。ピン、と糸の張った緊張感と、戦場のような殺気にみちた厨房から、生み出された宝石が、この笑顔を作っている。これこそ私の『正解』に違いない。
まだ、九歳だけど、まだ、何もできない見習いもどきだけど、この瞬間をもう一度感じたい。何度でも味わいたい。この勝負を続けていきたい。そんな熱い思いが、心臓から溢れ出して、溶岩のように流れだし、体の隅々まで行き渡る。
「ルネ兄……、私、菓子職人になる」
横で、兄が私を見つめるのが分かる。
「あんま天才菓子職人とか、言われるなよ。俺が霞むからな」
私は兄の顔を見上げ、その青い瞳が優しく笑うのを、残念な兄だなぁと思いながら眺めた。そんな私も、素直になれない残念な妹だ。
どちらとも言わず、ぶっと噴き出した私たちは、貴族令嬢子息の前だというのも忘れて、ケラケラと笑い出した。おっとまずい、と思い、はっと口を抑えて辺りを見回すが、誰も私たちのことを気にはしていないようだった。
「エメ・ノワー・チュテレール嬢?」
否、一人だけ気にする者がいたらしい。
見上げると、サラリと黒髪を流した美少年の、涼しげな瞳とぶつかった。
「あ、昼の王子様……」
デイジーを蘇らせた、あの少年が目の前に立っていた。
「王子様か。光栄だな」
そう言われて、自分が何を口走ったか気づくと、一気に顔が熱くなるのを感じた。
「知り合いか?」
耳元で兄に尋ねられ、私は我に返った。
知り合いなのか? 一方的に名前を聞かれて答えたけれど。ぶつかって、謝って謝られて、デイジー直してもらっただけ、と言えばそれだけだし。
「昼間、迷惑をかけてしまって」
彼は兄にそう説明した。ルネは不思議そうにするが、ホテルマンの卵らしく詮索はしない。
私は、もう一度目の前の彼を見つめる。
長めの前髪が、片側に寄せられ、後ろ毛は短く揃えられている。瞳は切れ長で、涼しげな印象を与える人だ。まだ幼いけれど、年頃になればロジェ兄さんのような美男子になるだろう。どこか甘い顔立ちのルネ兄とは違って、硬派な印象だ。
「僕は、ジュール・ド・リベルテ。よろしく」
ルネ兄が自己紹介しているが、全然耳に入って来ない。ジュール。今初めて知った名前。
彼はルネと握手すると、私に向き直って微笑んだ。
「じゃあ、エメちゃん、行こうか」
え? どこに? 戸惑って、兄を見上げると、にやにやとして手を振っている。私が聞いてない間に、何が決まったんだ?
そうこうしている内に、差し出された右手。兄より小さく、私より大きいその手のひらの意味を探りかねてじっと見つめる。
「はぐれないように、ね?」
小さな子に言い聞かせるように言うジュール様。はぐれるも何も、このホテルの中で迷うなんてあるはずないのに……。少しドキドキしながら、私は彼の手を取った。
うっかり更新遅れました、、すみません!!




