月夜の遊戯(一日目) 03
昼時になった。
そしてお腹が空いた。同時に嫌な思い出が脳裏を過った。
(食事をしている最中に、親族が殺された時がありましたね……)
あれは末代までの恥と言える間抜けな失敗だった……。織花にとって思い出したくない記憶十位に入るレベルの出来事である。
広場にまで戻っていた織花は、待ち合わせの場所で座り込んだまま、そんな空想に耽っていた。海沿いの道を進んでいた時に、西積家の人のことも探したがどこにもいなかった。ぼんやりとしながらも、この高い家の上から眼下の町を余さず捜している。
でも見つからない。
ゲームはこの街から始まったけれど、街の外を出てはいけない、というルールは存在しない。自由奔放な行動をする西積家の人たちが、市街の外に出ていても不思議ではない。
仮に外に出てしまっているとしたら、もはやお手上げして白旗を上げるしかない。
どう探せば見つかるのか。どうすれば守れるのか。
―――本当に守りたいのか。
考えれば尽きることのない思考の迷宮に陥りそうになった織花は、ゆっくりと辺りの風景を見つめた。
綺麗とは言いがたい町だが、妙に心をくすぐるものがあった。
(それにしても、なんでしょうか。この街の景色、見覚えある気が……)
初めて訪れた場所であるのは間違いない。そのはずなのに、不思議な感覚だ。
それに空気もそうだった。初めて嗅いだはずなのに、懐かしくて涙が出そうになるのだ。
デジャビュというものだろうか。
世界の光景に見惚れていると、甲高い悲鳴が聞こえた。
慌てて声がした通りに近づいていき、屋根から身を乗り出すようにして眼下を見下ろした。
織花は思わず、あ、と声を上げてしまった。そこに広がっていた光景は、宗一郎とみすぼらしい格好をした三人の男だった。先頭にいる男は宗一郎に対して両膝をついている。
異様な光景だ。辺りにいる人々も、その光景を注意深く見詰めていた。
酒瓶を持ったまま大通りを闊歩する宗一郎がすがりつく浮浪者らしき男の手を振りほどこうとしていた。
「頼む、頼むよ! 酒を、おれたちにも分けてくれよ!」
浮浪者の男が浮ついた声でせがむと、宗一郎の顔に青筋が浮かんだ。
「黙れぇ!」
宗一郎は怒鳴りながら。持っていた酒瓶で浮浪者の顔を叩きつけた。辺りから、歓声が上がる。殴られた浮浪者は血を吹いて横倒しになった。倒れた男の顔を、宗一郎は容赦なく踏みつける。
「貴様らのような、負け犬にやる金など一銭もあるものか! 二度とその汚い面をワシの前に見せるなよ!」
さらに顔を蹴飛ばした。
「あぁ、不快だ。不愉快だ……。飲み直すとするかなぁ」
人目を気にしていないのか、その場で酒瓶を口元に付けて勢いよく呷る。中身が空だったのか、酒瓶を逆さまにして酒が入ってないか確認した。宗一郎の表情がみるみるうちに険しくなる。直後、何がおかしかったのか天を仰いで大笑いした。
「はははは、そうさ、ワシはいくらでも金を持ってるんだから、ははははあっははははっは」
宗一郎は呵々大笑した。辺りの人たちはその変貌ぶりを見てざわついていた。
嗤う宗一郎の瞳には、何故か涙を滲んでいた。目を真っ赤にしながらふらふらと歩きだして、通りにあった酒場へと吸い込まれて行った。
ひと騒動が通り過ぎると、人々が散っていく。
織花は宗一郎の消えた酒場を見つめて嘆息する。
「ああいう男を守らないといけないのは、苦痛だよな」
後ろから声がして、織花は静かに頷いた。
「同感です。同感ですけど、そういうゲームです」
開き直るか割り切るしかない。守りたい相手だと思い込むことが大事だ。
「泣けてくるな」
「そういうことは言わないでください。本当に虚しくなります」
呟きながらまっすぐ銀を見つめる。
「何か解ったことはありますか?」
見れば銀の頬には切り傷があった。心配そうな織花の目を見て、銀は両肩を軽く上げる。
「色々な人から話を聞いてきたぜ。俺は家政婦数名と護衛みたいな男数名と戦ってたな」
「わたしと似たり寄ったりなんですね。それで、なにか―――」
解ったんですか、と訊ねようとした織花は硬直した。
銀の腰には別れた時には無かった麻袋が五つも携えてあった。袋はこんもりと膨れていて、所々が出っ張っている。薄く硬い物体から、それが金貨や銀貨であるとすぐに看破することができる。
「……そのお金はどこから持ってきたんですか?」
「ん? いやぁ、架空の世界だって聞いたからな。ちょいと借りてきただけさ」
悪びれた様子が一切ない銀は屈託なく笑う。
麻袋には珍しい名前が刻まれていた。ダイブロス、と。
記憶の片隅に、その名前の家に泥棒が入ったと早くも噂になっていたことを思い出した。
(わたしはお金を持って行くことにひどく葛藤したというのに。この人は!)
「……」
拳を震わせ怒りを噛み殺しながら、織花は手を震わせた。
(どうしてこう小さなことでくよくよしてしまうのかな……)
心の中でため息をつきながら、銀を睨みつける。
「それで、そこまでして何が解ったんですか?」
「んん、そうだな。襲われたのは五人だったんだけど、全員気絶させたら額に変な紋章が浮かび上がったんだよ」
「……それは魔法陣みたいな模様でしたか?」
「ああ。すぐに消えちゃったけどな」
「初対面は貴方のほうに行きましたか」
銀を襲ったのは、間違いなくフラニーが操った人物たちだろう。
考えられるのは、不確定要素の多い銀の様子見と言ったところだろう。フラニーが操る人間は身体能力を劇的に向上させられ、力の加減を一切することなく襲いかかってくる。操る人間が壊れても構わないから、そんな無茶な扱い方をしてくるのだ。
(それにしても、意外に強いんだ……この人)
常人ならフラニーが操る人間に抵抗する間もなくやられてしまうだろう。それだけの力を持っているはずだ。それを五人同時に襲いかかって来られても難なく対応できるだけの力は持っている。
(少しは、頼りにしてもいいのかな……)
織花はジッと銀を見つめていると、何かに気が付いたのか銀が眉を曲げた。
「ん? じゃあ五人倒したんだから、魔女側の参加者はもういないってことになるのか?」
「言ってませんでしたか? 同時に操るのは五人まで、というだけで、向こう側はいくらでも交代することが可能です」
淡々とゲームのルールの補完をすると、銀の顔つきが見る間に険しくなる。
「なんだそりゃ。それじゃあ向こうのほうが圧倒的に有利じゃないか。ゲームとしてバランスがおかしいだろ!」
「……そう、なんですか?」
ゲームや娯楽に疎い織花は戸惑いながら、銀の勢いに気圧されて座ったまま後ずさる。
目を瞬かせている織花を見て、銀は荒っぽく髪を掻いた。
「まぁ、どれだけ不利であろうと負ける理由にはならないからな。要は勝てばいいんだ」
「……そう、ですね」
「それで、織花のほうは何かあったのか」
織花は自分の見聞きしたことを伝えた。体調の変化のことは省いた。
話し終えると、銀は何度もうなずいた。
「思った以上に不穏な世界なんだな。俺も行きがけに人の死体やら浮浪者やら、彷徨っている子供たちの姿を見かけたな」
「それだけ厳しい時代なのかもしれません。わたしたちが知らないだけで」
「俺たちは観光じゃなくてゲームしてるんだからそこまで気にすることもないだろ。人の不幸なんて気にしても疲れるだけだって」
あっけらかんと軽口を叩く銀を見て、織花は落胆しつつゆっくりと立ち上がった。
「もういいです、反論するだけの気力も湧きません。何か食べ物を探しに行きましょう」
考えてみれば昨日の夜も何も食べていなかった織花は今にも空腹で倒れそうだった。
「どこかに軽食を売っている場所があればいいんですが……」
「ところで、さ。金を持っているのは俺だけってことだよな」
「? はい。だからお金を持ってるあなたが奢ってください」
「なぁ、食べたいなら、奢ってくださいってお願いしようぜ」
「……あ?」
織花の腹の底から低い声が出た。じっとりと見下すような目つきをして、織花は銀を見据えた。暗い憎悪を燻ぶらせた瞳を見て、銀の笑みが固まる。
「何か、冗談が聞こえた気がしたんですが。もう一度言ってくれますかね……」
底冷えするほど冷たい織花の言葉に、銀は両手を上げて、静かに会釈してみせた。
「今からお腹いっぱい食べられる場所へご案内します、って言いました」
「そうですか。聞き間違えじゃなくて良かったですよ。今はまだ貴方を消したくないですからね……」
「こえーよ!」
「冗談は言ってませんからね」
「余計にこえーから!」
織花は軽く地を蹴って、影となっている通りに舞い降りた。そのまま通りに出ると、後ろから銀が駆け寄って来て、隣に並んだ。
とても不思議な町だ。自然と町が一体となっている。目を見張るほど美しいわけでもないのに、目が離せない魅力があった。
その場に立ち止まったまま、ぼんやりとしていると銀がぽつりと言った。
「気のせいかな。何かこの景色、俺知っている気がするんだよ。まぁ気のせいだろうけど」
「………あなたもなんですか?」
「? 織花もなのか?」
「は、はい。なんだかとても懐かしくて」
「ホントに変な感覚だよな。架空の世界だって解っているはずなのに、本当にここで生きてるみたいな……」
「はい、お腹すきました」
両手でお腹を押さえながら、織花は涙目になっていた。銀は白けた顔をして織花を睨んでいた。
「今、真剣な話をしてたんだぞ。なんでそうなるんだよ!」
「……もう限界です。さっきの屋根の上にいますので料理を買ってきてください」
「あ、おい」
返事も待たずに織花は、とぼとぼと屋根の上に舞い戻った。
離れていく銀の気配を探りながら、織花はその場にへたり込んだ。空腹のため身体がそれ以上動くことを拒んでいる、ということもあったが、銀の先ほど言われた言葉に衝撃を受けていた。
(ここは、フラニーが生み出した架空の世界。でも、今回は当時の世界を参考にしている部分がある……。それなのに、見覚えがあるって)
織花は自分に起こっている慨視感の正体を説明することができる。
先代による魔女の継承だ。それは名ばかりの襲名とはまったく別物で、歴代の魔女たちが培った力と共に記憶も受け継ぐのだ。
織花は、五代目魔女。
その特別な系譜のなかで得た知識と力、記憶の情報量は膨大だ。
初代、二代目、三代目、先代である四代目魔女のお祖母ちゃん。そして、織花。
世界にとってはただの歴史であっても、織花にとっては自分が直面した経験となっている。だから、歴代の魔女が見た景色ならば、見覚えがあると錯覚してしまうのだ。
初代が生きていたのは、十五世紀初頭頃からだ。可能性を探るならそこから探っていく必要がある。
でも、銀は? 彼は魔女ではない。記憶の継承と言ったこともしていることはないはずだ。
情報が少なすぎて、説明が付かなかった。
銀は人間じゃない。この世の裏にいると言われて、歴史から抹消された存在なのだ。その実存は魔女である織花だから知り得ていることだ。
考えれば考えるほど、謎の人物だ。今回のゲームのうちに何の目的があって近づいてきたのか知る必要がある。そうでないと、織花は心の底から銀を信頼することなんてできない。
信頼してみたい、という気持ちと、信頼したらいけない。相反する想いの狭間で葛藤しながら、織花はその場で仰向けに転がって、目を細めて太陽を見詰めた。
「そういえば、ここがなんて地名なのか、確かめてなかったですね……」
今回の世界はいったいどこが舞台になっているのか。織花の直感では、中世ヨーロッパのどこかをモチーフにした架空世界にいる可能性があると考えていた。
どうしてこの場所と時代を選んだのか。暗黒時代と呼ばれる暗黒期にいて、フラニーたちは何を目論んでいるのか。
わざわざ確かめる必要もない。この時代、十五世紀前後のヨーロッパで猛威を振るった事柄と言えば、教会の権力。黒死病。小氷期。そして、魔女裁判だ。
舞台がこの地だとして、巻き込まれるのは当然参加者の織花と銀、西積家の人たちだ。
仮に自分が攻める側で、この舞台を厳選して選んだ場合、時代背景に絡んだ問題を必ず引き起こしていく。当然その思考はフラニーたち三対の魔女もしていることだろう。
織花にとっては、自分のご先祖様である初代魔女が苦しめられた時代だ。たくさんの友や家族を殺された悲劇を直視するかもしれない。記憶を受け継いでいる織花のトラウマが刺激されるのは当然だった。
「……憂鬱です」
まだ可能性の域を出ないことなのに、未来のことを思うだけで陰鬱とした気持ちになってくる。
ここが現実を参考に模して作られただけのものだったら織花の心の負担は和らぐが、フラニーのことだ。その可能性は低いだろう。
またちいさくため息をついていると、ちいさな風の流れがこちらに近づいてきた。
「おっまたせ、っと。買ってきたぜ」
銀がにこやかに笑いながら戻ってきた。
「あれ、空腹で倒れそうなのか。顔色悪いぜ」
「……本当に空腹は厄介ですよね」
誤魔化しながら、銀が手渡してきたものを受け取る。手渡されたものを見て、織花は凍りついた。
両手に置かれたのは、歯が折れそうなほど硬い黒パン。全然熟れていないリンゴ。以上。
「……肉が食べたいんですが。風に乗って香ばしい匂いがしているんですが……」
「いやあ、間違えて貧民街のほうに行っちゃってな。これしか売ってなかったんだ」
「買い直しを要求します」
「食べ物を粗末にはできないので却下だな、食べようぜ」
「むおぅ……」
飢餓に苦しんだ歴代魔女の記憶が織花に食べられるだけ幸せという概念を訴えてくる、ような気がした。あまりに強い感情の波に逆らうことはできなかった。
織花は黒パンを怨敵のように睨みながら噛みついた。その顔がみるみるうちに悲しげに歪み、涙が零れた。
「不味いです、悔しいです、残しちゃいけないです、硬いです、憎らしいです……」
「なんか食い物に恨みでもあるのかよ」
呆れた面持ちで銀も黒パンを口に含んだ。
「あぁ、確かにこりゃ微妙だな」
文句を言いながらも、銀は愉快気に不味い不味いと繰り返しながらあっという間に黒パンを平らげた。
その様子を怨みがましく横目で見ながら黒パンに挑む。歯が欠けてしまうんじゃないかと不安になった。
「歯が、とっても痛いです」
「ゲーム終わったら歯医者にでも行け」
「絶対に許しません……」
怒りにまかせて織花は黒パンをかみ砕いていく。銀は五つある青いリンゴを一つ取ってそのままかじり付く。
ジャリ、と不快な音を立てながら次々に食べていく。
「それで、これからどうする。見事に西積家の人を見失ってるけど」
リンゴを食べながら銀が辺りに視線を向けながら言った。
人の生死がかかっている緊迫したゲームのはずなのに、こうして食事をしている時が一番滑稽だ。腹が減っては戦ができぬ、と言うけれど、このタイミングで悲劇的な出来事が起こったら笑い話にもならない。
織花はまだ半分も食べていない黒パンを口から離して、小さく答えた。
「そうですね。今の西積家の人たちはまだ観光と思っているはずですから、何か大きな催しや騒動があれば釣られてやって来るかもしれません」
「まぁ、それくらいしかできないよな。外にいれば飛び回って捜すことができるけど、屋内にいるなら外から捜すこともできない」
五人が別れた噴水広場もこの場所から確認することができるが、誰の姿も見当たらない。今どんな場所で行動をしているのか把握できない。
「人がたくさんいそうな場所、か。海沿いにある大通りかな」
「え? あれは何でしょう」
織花は立ち上がってある一点を指差した。北の大通りに次々と人々が集っているのが見える。思いのままに人々が地面に座り、商いをはじめていた。そうして、ぽつぽつと人の数が増えていき、商いを行う人の数が増えていく。
人々は街外れにある大草原に集まっていた。地面に坐り持ち合わせのものを置き商いを営んでいる。その数は何千とあって、大人数で行われているフリーマーケットのようだ。
「へぇ、こりゃ面白いな」
「確かに、そうですね」
織花と銀は手早く荷物をまとめて、大草原に向かって飛翔していく。あっという間にたどり着き、広場の入り口の芝生のうえに降り立った。
足を止めて近くの露天商の商品に目を移す。時計や調理器具などの日用雑貨が置かれている。だが、そのすべてが見たことのない形をしていて、とても古めかしい型をしている。
懐かしい日用品の数々に、織花は目を輝かせて魅入る。
「お、こっちの店にも面白いものがあるぜ」
銀の声に釣られて傍まで駆け寄る。女性の露天商が売っているのは楽器だった。金楽器や民族風の笛など、現代と形の異なる不思議な構造をしている。
試しに見たところリコーダーに似ている笛を手に取り、吹いてみる。が、どれだけ吹いても吐いても音は出るどころか、詰まった異音だけが虚しく響く。
すると、目の前の女性が織花に向けて手を広げて差し伸べてくる。織花は意味を理解しながら笛をその手に載せた。
怒りに顔を赤くした女性が何事か吐き散らしながら立ち上がった。あ、虫歯がある。と関係ないことを考えながら、織花は背を向けた。
「傷つきたくなかったら直しておいた方がいいですよ」
露店を出て、別の場所にも向かっていく。今度は香ばしい匂いのする場所にふらふら立ち寄った。スモモをじゅくじゅくになるまで焼いてパイ生地に乗せたスイーツだった。
織花は迷うことなくそのパイを指さす。
銀は口元を曲げながら苦笑する。
「俺が買うのね」
「男の器の見せどころですよ」
「そりゃ張り切るしかないな」
麻袋から銀貨二枚を出して、パイを二つ購入する。銀から手渡されたパイを手に取り、頬を紅潮させてかぶり付いた。
甘酸っぱい果汁の旨味が口いっぱいに広がり、織花は思わず涙をこぼす。
「すごく、おいしいです……」
「泣くほどのことか?」
「あの残飯みたいな黒パンを思い出せば……なんでもごちそうになります」
「俺は黒パンが主食だったからそんなことは思わないけどねぇ」
「美味しいなぁ、美味しいなぁ……」
ご満悦といった様子で、織花は満足げに笑顔を浮かべる。
「もう一つ食べてもいいですか?」
「次いくぞ」
「甲斐性がないですね」
「もっと美味いものがあるかもしれないだろ。今満腹になるのはもったいないじゃないか」
「ああ、そういう考え方は嫌いじゃないです」
自然と並んで歩きながら数々の露店を冷やかしに行く。物珍しいものばかりに溢れていて、その場の雰囲気を楽しむだけでも十分に面白い空間だった。
だが、人々の熱い賑わいの影に埋もれるように、凄惨な光景も広がっていた。あえて意識にとどめないようにしていたが、その数の多さにどうしても気になってしまう。
手足のない少女が物乞いをしている。盲目の少年を地べたに這わせたまま金をせびる母親がいる。群れを成した子供たちが走り抜け貴族と思しき男から金銭を剥ぎ取って逃げている。あるいは失敗して血を吐くほどの報復に遭っている少女。裸身の赤ん坊を抱いてみすぼらしい服を着ている男の子が、銀の外套を引っ張る。
どうするつもりなのか見つめていると、銀は手元から金貨を男の子にしか見えない角度で足もとに落とした。敏感に察した男の子は目にも止まらぬ速度で金貨を掴む。
虫歯だらけの歯でにこりと笑って、逃げるように雑踏に消えた。
「優しくないですね」
織花は素直な感想を呟く。
「そうかもな」
と、銀は自嘲気味に答えた。
金貨一枚手に入れた子供がその後どうなるのか、想像に難くない。十中八九、不幸な目に遭うことになるだろう。
見たところ物乞いに近い子供が、金貨の有効的に活用できるとも思えない。下手を打てば、手酷い目に遭って金貨を奪われるだけに終わってしまう。
織花には直感的にそれ以外の未来が考えられなかった。
「でもまぁ、使い方次第ではどうとてもで活かせるものだろ。あの子のやり方で未来は決められる」
銀は目を閉じて呟く。
「人生なんてそんなもんだろ。未来の選択肢は多いほうが考えるのも楽しい」
「わたしはそうは思いませんね」
織花は暗い表情で言った。
「選択は多いほどに苦痛と苦悩が増します。それだけ挫折もまた多くなるのだから」
抑揚のない声で言う織花を見て、銀は嘆息する。
「どっちも両極端だな。要は、そいつがどうしていきたいかはっきりしてればいいだけの話だな」
「どうやっても、未来がない状況と言うのはありますけどね」
「やめやめ、暗い話はやめようぜ。お。あっちに美味そうな砂糖菓子が売ってるぞ。買ってやるよ」
「わたしは子供ですか……」
呆れながらも、銀の指し示す露天にまっしぐらの織花。銀は笑いを噛み殺しながら砂糖菓子を購入している。
銀の足に軽く蹴りを加えてそっぽを向いた。
ふと、銀から金貨を受け取った子供が消えていった方角を見つめる。
ここは架空の世界だ。勝敗が決せられたとき、この世界は幻想に消えてしまう。だからこそ、人に命は軽んじられて、何の重みもないものに感じてしまう。時代に似せて作られてたとはいえ、フラニーが作った世界は必ず消える。織花たちは現実に連れ戻され、幻想は幻想に消える。
関わろうとするだけ意味のないこと。どれだけの悲劇が、この世界で起こったとしても。
露天で買った砂糖菓子を舌のうえで転がしていると、銀の周りに何人もの子供たちが群がっていた。
こっそり金貨を男の子に渡したはずだったが、目敏い子供たちが銀に向けて手を伸ばしている。すでに麻袋を掴んで引き剥がそうとしている子供までいた。
「どうするんですか」
「逃げるとするか。織花もついてこい」
「迷惑な話ですね」
銀が地を蹴ると、超高速で人の群れを避けながらその場を離れていく。織花も静かにその後に続いた。
子供たちの姿はもういない。そのことに安堵して一息ついていると、銀が傍にある露店でしゃがんだ。
「これいいんじゃないか? 何かに使えそうだぜ」
銀は笑顔を見せながら広げられた雑貨品のなかから厚底鍋を持って見せる。
「……それが、なんだって言うんですか?」
織花は冷え冷えとした声で呟く。
「これを買えばどこでも自給自足できるだろ。織花料理は―――」
「できません、したくありません、考えたくもありません」織花は嘆息する。「もう、時間の無駄です。違うところへ行きましょう」
「あ、おっちゃん。これとこれと、あとこれだな。買うぜ」
銀貨を数枚支払い、露天商の男が厚底鍋のなかに、いくつもの調理器具を容れていき、包装紙でまとめて銀に手渡した。ほくほく顔で買ったものを手にした銀は、ハッと息を呑んだ。
「あ、しまったな。どこに持っておこうか……」
大きな厚底鍋、しゃもじにまな板。包丁代わりのナイフと一気に荷物が増えた銀は困り顔で呻いた。
「考えなしに買ったんですか」
「いや、必要になる気がして。で、これどうしようか」
「背負ったらどうですか」
「さすがにでかすぎる。まるで夜逃げしてるみたいでなんか嫌だ」
「……しょうがないですね、貸して下さい」
織花は深々とため息をついてから、銀が持つ鍋をひったくった。織花は自分の両胸の間を人差し指でなぞり、触れた指先で大きな厚底鍋に触れた。
すると、厚底鍋は消えてしまった。まるで最初から鍋なんてどこにもなかったかのように。
銀は、口を半開きにしたまま硬直した。数瞬の間。
「―――織花、今のは?」
重々しく訊ねてくる銀に、織花は緩く首を振る。
「魔法で隠しただけです。言ってくれればいつでも取り出しますよ」
「………………」
織花の説明を受けても銀は納得する素振りを見せず、険しい顔で織花を見つめていた。心まで透かしてしまいそうなほど深い眼差しだ。その銀の物言わぬ糾弾に、織花はかすかに首を傾げる。
「……どうしました? 貴方ならすぐに魔法と言われれば納得すると思ったんですけど、なにか気になりますか?」
「いや……なんでもない」
銀は緊張を和らげるように苦笑する。
「すごいな、って思っただけだよ」
「そうですか」
織花自身も、今の魔法について触れられたくなかったので、踵を返して歩き出す。
それから思い思いの露店を見て回っていく。織花にとって懐かしい調度品の数々は見ていて飽きなかった。胸が自然と高揚していき、飽きることなく露店から露天へと梯子していった。
ふと、優しい花の匂いを運んだ風が髪をくすぐる。織花はやわらかな息をつき、空を見上げた。
気が付けば、夕焼けも彼方に消え薄紫色の夜空が静かに広がっていた。
織花は硬直して、口元が恐怖と恐れで震え出す。
「って、なに呑気に観光を満喫してるんですかわたしたちは! こんなことしてる場合じゃないのに!」
「――――あ」
露店に広げられた小さなハムスターを撫でていた銀も、冷汗を滲ませて固まる。
「なにやってるんですか、戻りますよ! 全速力で!」
「お、おう」
半目で物言いたげに織花を見上げて銀は頷く。
祭りのような大市場の熱気に魅せられて、その場の空気に浸っていたら、あっという間に夜になっていた。
慌てて町の中心部に近い広場を見渡せる広場にやってくると、奇跡的に西積家の五人が一堂に会していた。
呼吸を乱しながら、織花が安堵の籠った長い息をつく。
「い、生きてます……。ほ、本当に良かった。遊んでる間に犠牲が出ていたら、一生自分を許せそうにありません……」
「わ、悪い。つい物珍しいものに囲まれて浮かれてた」
「いえ、わたしのミスでもあります」
浮かれていたのは織花自身もそうだった。楽しいと思うことすら本当に久しぶりで、一時とはいえ甘美な時間を過ごせた。
それが許されるかどうかは別の問題だ。見過ごしてくれたのか、わざわざ待っていてくれたのか、あるいは何かの下準備に忙しかったのか。とにかく三対の魔女はまだ家族に手出ししていないようでホッとした。
「命を賭けた戦いなのに、変なトラウマばかり増えていく気がします……」
未だに胸の動悸が納まらず、何も思考できないまま織花はその場で固まっていた。
人の姿もまばらで、暗くなり始めると同時に人の姿は消えていった。それも当然だ。この時代の夜の光源は火の光と月明かりしかない。人々の生活時間も自然に従っている。多くの人々は、もう寝る時間なのだろう。人の生活音は薄れて、どこかの家々から愉快な笑い声が遠く聞こえてくるぐらいだった。多くの家は闇に包まれている。
辺りの暗さに戸惑っているのか、遠巻きから見るかぎり西積家の五人の口論は激しさを増していた。
「何を話しているんでしょうね」
「宿でも探してるのかねぇ」
三対の魔女が襲いかかってくるとして、これだけ人の数が少ないと警戒はしやすかった。暗がりからの不意打ちにさえ気を付ければ、何とかなるかもしれない。
(そんな盛り上がらないことを、フラニーがするとは思えませんが……)
とにかくフラニーは自分でゲームを盛り上げるためならあらゆる嗜好を凝らす性格をしている。このまま何事もなく就寝までことが運ぶとは思えなかった。
西積家の五人が北を目指して歩きはじめる。
織花たちも気付かれないように気配を殺しながら、屋根伝いについていく。
辺りにいる人間はほとんどいない。いるのは寝床がない人物たちか、浮浪者らしき人たちだった。その彼らが、道を進んでいく西積家の五人を指差して何事かを話している。夜目を通してみれば、苦々しい怒りを滾らせたおぞましい顔をしていた。
とてつもなく嫌な予感がした。
「貴方は反対側の家から進んでいってください。見落としがあるかもしれません」
銀が意図を察して微かにうなずくと、通りの右側の屋根へ向かって一足飛びした。織花から見て視界の影になっているところがないか視線を動かして、首を振った。
そのまま道の両脇から西積家の人たちの動向を凝視する。
うらぶれた安宿を指さす綾姫。だが、大人たちのお気に召さなかったのか、違う宿を探してまた歩きはじめる。綾姫は怒りを発していた。
時間が遅くなればなるほど、緊張は増していく。胸元から懐中時計を取り出してみる。二十時を回っている。ちなみに時間は織花がそのまま持ってきた時刻が適応されている。外国の場合、本当なら時間は移動するものだが、ここでは織花たちの時間に合わせてある。
(あと、四時間)
フラニーたちは、どんな殺し方をしてくるのか。その気になれば百キロ先からリスなどの小動物を射殺すほどの力を持っているフラニーを相手にして、最後の数秒だって油断することはできない。
魔力を込めた矢ぐらいなら、見逃さなければ織花でも見切ることはできる。大事なのは油断せずに見逃さないことだ。
やがて豪奢な宿(と言っても、この世界基準でだが)を見つけた西積家の人たちは話し合いをして、クレセントと名前が付いている宿のなかに入って行った。
顔を上げると、銀がどうする、と視線を送って来た。身振り手振りでその場に待機するように指示を出してから、織花は透明化の魔法をかけて通りに降り立つ。
クレセントのなかに入っていく。真紅の絨毯が敷き詰められていて高級感を際立たせている。町の状態とは裏腹に、ここだけはまるで都会の一室のように清潔感が保たれている。……微かな違和感。
一階の通路に行くといくつもの小部屋が並んでいた。そこにいたのは、綾姫だけだった。不満が爆発しそうな怒り心頭とした顔をしている。慌てて二階の階段に上がると、兄と父親がそれぞれ別の部屋に消える。げんなりしながら三階に上がると、母親と祖父が高そうな部屋にそれぞれ消えていった。
頭を抱えながら、廊下などに危険なものがないかを調べる。三階、二階、一階と見て回ったが、目につくものはなにもなかった。
宿の店主らしき小太りの男が美しい檜のテーブルに広げられた帳簿を記しているのが見え、織花はそれを横から覗き込む。
帳簿のページは白紙で、最初のページにそれぞれ西積家の人が泊まったことを記されていく。律儀に本名を書いているところに、何とも言えない連帯感を感じつつ、織花は宿を出て銀のいる屋根の上に跳んだ。
困ったことに、五人ともに泊まった部屋が違うらしい。三階建ての宿のなかで、それぞれの部屋の火の明かりが灯った。
「……お金の無駄遣いですよ。どう考えても……」
「人の金で観光だからな。今はさぞ痛快だろうぜ」
「こっちの身にもなってほしいものです」
一階の綾姫が泊まった場所は裏通りに一番近い場所だった。危険があったらすぐに逃げられるように、だろうか。仮に狙いどおり強盗が来るとして、正面から来るだろうか。人数で攻められるなら、玄関口と裏口同時に攻めるものだ。
それぞれの泊まった場所が吉と出ればいいのだが。
ほどなくして、それぞれの部屋に灯っていた火の灯りは消されていった。眠りにつくらしい。
「ところでさ……」
銀があくびを噛み殺しながら言った。
「俺たちはいつ眠っていいんだ?」
「不眠不休で頑張ります」
「酷い話だ」
「……近くで守ろうと思えば行くことはできる。そうしたら五人同時には守りきれない。ここにいれば通りにいる人の不穏な動きに即応することができる。そうしたら宿のなかに異変が起きてもすぐ移動することはできない」
どう考えても、詰んでいる気がする。西積家の人たちの行動もあって、勝てる要素が見当たらない。
「……今日は諦めて明日に備えて眠るのも、一つの策なのかもしれませんね」
「酷い話だな」
「本当に」
口では冗談を零しながら、視線だけは予断なく辺りを警戒する。クレセントの入り口と横合いにある勝手口を注視した。
フラニーがどんな行動を起こして来ても、すぐに対応できるように。
胸の激しい鼓動が不快感を募らせていく。動悸が原因だからか、なんだか視界が霞みそうになるのを必死に抗いながら、視線を巡らす。
(いったい、何をするつもりなの?)
あるいは、何が起こるのか。
(―――――。わたしは……)
いったい、どうしたいのか。
***
宿の店主に金貨を渡して買い取った赤ワインのコルクを抜き取り、一気に煽った。むせ返りそうになるが構わず飲み干していく。
力任せに飲み切ったことで、強烈な立ち眩みを覚えて千鳥足のまま後ずさりベッドに倒れた。
赤ワインの瓶が手元からこぼれ落ちた。まだ中身が残っていたのか床に赤い染みを作っていく。
床に転がった瓶に手を伸ばそうと身体を動かそうとしたが、視界がぼやけ、手元が定まらず上手く掴めない。
霞む視界の先にある自分の手だけは何故かしっかりと目視することができた。皺だらけの年老いた手。見えた腕も骨が浮かび上がるほど細くやつれている。
時の流れの無情さを痛感して侘しい気持ちになり、仰向けに横になった。
宗一郎は、両腕で目元を覆って口元を自嘲気味に緩めた。
今日は一日中酒に浸って過ごしていたからだろうか。昔の記憶がいくつも浮かんでは消えていく。
思えば苦悩に満ちた人生だった。
何一つ誇れるもののない人生。そうとしか言いようがない、人生だった。
暗い膿を抱えながら、唯一光明が見えた気がしたのは、息子の事業が大成功をおさめた時だ。
一人息子の出世には感嘆した。
金に苦労してばかりの冴えない、笑い話にも皮肉にもならない、取るに足らない人生。笑える時間も楽しい時間も確かにあったはずなのに、何一つ思い出せない。都会に出てきて、仕事を見つけて、妻と結婚して、宗二が生まれて、妻に先立たれて、金持ちになって、だからなんだというのか。
宗二の失態によって膨れ上がった借金の負債は、肉親である宗一郎にも飛び火して、あっという間に持っていた財産は消えていった。
どうして息子夫婦の厄介事に俺が巻き込まれてこんな憂き目を受けないといけないんだ。
どうしてあんな息子なのか。ただの疫病神じゃないか。
顔を見るのも不快だが、魔女の秘宝は人数分還元すると、あの小娘は告げていた。宗二と、特に綾姫は魔女の誘いに乗ることを嫌がっていたが、魔女の秘宝を手に入れる条件は家族全員参加だったため、無理矢理つれてきた。理解に苦しむ話だ。宝が手に入ると言うのに拒むなど。
開け放してあった窓から夜風が吹きこんでくる。ふと、思い立って軋む身体を起こして窓辺に近づいた。
緑豊かで自然一体となった不思議な町。間違いなく異国だ。魔女が一体なにをしたくてここでの滞在を要求していたのか。
宗一郎にとって、この町は不快なものがいくつも転がっていた。
この街にいる連中は負け犬ばかりだ。そこらに転がっている石ころ同然の存在ばかり。ただの石ころなら目に留まることもないが、奴らと目があった時は不愉快でしかない。
だが、理不尽な目に遭うのももうじき終わりを迎える。もう間もなく大金へと姿を変える魔女の秘宝が手に入る。この世のものとは思えない宝石で装飾されたあの宝玉の美しい輝きを思い出す。
あれがもうじき手に入る。そう思えば、五日という退廃とした時間も許せる気がした。
金がないから苦労した。連日食うものも買えず、餓死しかけたことがあった。あれだけみじめな思いをしてまで生きていた意味が果たしてあったのか。
金は力だ。何事にも代えがたい力だ。持っていない人間など何の価値もない。金さえあれば生きていけるんだ。金だけが大事だ。今すぐ金が欲しいんだ。持っていないなんてありえない。持っていない自分なんてありえない。耐えられない、こんな自分など耐えられない。
窓の向こうから見える通りに視線を落とす。辺りは真っ暗なはずだ。にもかかわらず、暗がりにある破片や木の葉の細部までも見えた。どうしたことだろう。裸眼でこんなふうに見通しが良くなることなんて、もうなかったのに。
ふと、通りの外れにいた浮浪者と目が合った。
そのみすぼらしい顔が、何故か、自分の顔に見えてしまった。
目をこすってもう一度確認してみても、そこにあるのは自分の顔をした浮浪者だった。
あれは、自分?
未来の自分の姿?
ああなるのが、自分の人生の末路なのか。
―――その通りだ。もうまもなく、貴方も彼らの仲間入りさ。
視線の先には、通りには埋め尽くすほどの男が立ち並び、こちらを凝視している。全部自分の顔、同じ服、濁りきった退廃とした目。その表情が吊り上がり、まるで手招きするように笑っていた。
いやだ、そんなの嫌だ。怖い、そんなの嫌だ! ぜったいに認めないっ。
狂熱に駆られ、宗一郎は勢いよく立ち上がり部屋を飛び出した。
***
突然の怒号が闇を裂く。
織花と銀も即座に反応して通りを見渡した。
「ん、おい! あそこにいるの宗一郎じゃないか?!」
銀が慌てて通りを指差した。
通りには泥酔したままふらつく宗一郎の姿があった。彼を取り囲むようにして、暗がりから五人の男が姿を現した。一目見て浮浪者だと解る風貌をしている。
何をするつもりなのか。
いや、何が起こるのか……織花は経験で理解していた。
織花は、身体が釘で縫いつけられたかのように固まったまま、その場の成り行きを見つめていた。
宗一郎は何を思ったのか、突然持っていた空き瓶を高々と振り上げて浮浪者の一人に振り下ろした。容赦ない一撃を受けた男は頭から血を流し地面に転がる。そのまま動かなくなった。怒りが伝播して、他四人の男たちが宗一郎に殺到する。
「これはやばいな、行かないと!」
業を煮やした銀が立ち上がって今にも跳ぼうと身をかがめる。
あっという間の出来事だった。
一人の男がもつれ合っている背後にまわり、宗一郎の背中からナイフを突き刺した。
四人ほどの浮浪者に囲まれた宗一郎は、隠し持っていたのか錆びついたナイフで滅多刺しにされていく。
宗一郎の腰に忍ばせてあった麻袋が地面に転がる。凶暴な熱に取り憑かれたのか、致命傷を次々と加えていく。血飛沫が闇に散って地面を赤黒く染める。
見るに耐えない光景に銀は大地に向かって飛んで着地する。一人の男を思い切り蹴り上げる。威力に耐えきれず男は壁の煉瓦に叩きつけられた。
がらがらと崩れる家屋の煉瓦を目の当たりにして、浮浪者たちは躓きそうになりながら後退していき逃げようとする。
怒りに目を剥く銀は逃げようとする浮浪者たちを目にも止まらぬ速度で追い詰める。数秒も経たずその場に立っていたのは銀だけだった。
「…………」
織花はゆっくりと屋上から飛んで、軽やかに着地した。
血だまりが地面に広がっている宗一郎のもとへと駆け寄る。
刃こぼれしていたのか、突き刺したというよりは削り取ったような歪な傷痕だらけだった。
まだ何とか命を繋いでいるのか、濁った瞳が織花を捉える。血走った瞳が憎悪に歪んでいき、口元が小刻みに戦慄いた。
白眼を剥き、宗一郎は絶命した。
同時に、織花は突然の立ち眩みに頭を抑えた。
―――織花の視界が狂い、平衡感覚を失い無造作に倒れた。
地面に頭をぶつけた織花を見て、銀の瞳が動揺に見開かれる。
「おい、いきなりどうしたっ?」
「―――。―――へ、平気です。」
「大丈夫なわけないだろっ。何かあったのか!」
銀の慌てふためいた声に気圧されたのか、浮浪者の一人が宗一郎の腰から離れた麻袋を拾い上げて逃げようとする。
銀が地を蹴った。一瞬で距離を詰めて、男を力任せに投げて地面に叩きつけた。
「ここまでして逃げようなんて、甘いこと考えるんじゃねえぞ」
銀は怒りの瞳をしたまま、織花を見据える。その瞳が糾弾しているみたいに鋭かった。
「織花、どうしてすぐ助けようとしなかった」
「……それよりも、額を、あらためてください」
訝しげに顔を曇らせながら、銀は身近にいた浮浪者を確かめる。
必ずフラニーの従者の徴があるはずだ。伸び放題の髪の毛を掴みあげ額を見た。そこには、何もなかった。
「―――――え?」
「なにも、ないぞ?」
銀は慌てて、残り三人の男の額も確かめる。だが、そこには何もない。
「どういうことだ? こいつら、まさか自分の意思で宗一郎を殺したってことなのか」
銀は息を呑んで、惨劇の現場を見渡していた。
織花は胸を抑えたまま、呼吸を正常に戻そうと努めていた。
頭が痛くて、気分が悪くて、今にも気を失ってしまいそうだった。
(何度体感しても、慣れない……)
織花が胸元に隠していた懐中時計が震えた。びくりと肩を浮かせて驚いた。慌てて取り出してみると、時計の針は二十四時を差していた。そうだ。二十四時十秒前になるように設定していたのを忘れていた。
一日目が終わった。一人の犠牲を伴って。初日は織花の敗北に終わり、二日目が始まった。秒針が、一秒、時を刻んだ。
同時に、
「きゃあああああああああああああ!!」
絹を裂くような綾姫の悲鳴が響きわたった。