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月夜に嗤う魔女  作者: 七友
第一章 月夜に嗤う魔女
1/32

一話、運命の始まり

 大雨が朝方から夜まで降り続いた十月の日。その何気ない一日が、魔女と呼ばれ誰からも疎まれていた少女、織花の運命を変えた。今日という日が訪れなかったら、織花おりかは生涯魔女の亡霊たちによって弄ばれ、魂までも凌辱され続け、魔女たちの手慰みになるだけで終わっていたかもしれない。

 無理解の家族たちの理不尽な言動に晒され続け、いつしか心を壊していたかもしれない。

 織花にとって、未来への展望は何一つなく、希望は打ち砕かれるものとして心に揺らがない事実として刻みつけられていた。

 茫洋とした時間、普遍的な日々のなかでは起こり得なかった小さな偶然とズレが起きていた。

 

 ―――あるいは、そう。何年も前に織花が切なる想いを星に込めて“助けて”と祈ったことが偶発的に奇跡を招き寄せる力になったからなのか。

 ―――あるいは、今日から変わろうと決意をして行動を始めてあがきつづけているからなのか。

 ―――あるいは、遠い昔の小さな善意が遥か時を越えてやってきたからなのか。

そうした無限に等しい偶然と必然が折り重なった結果、


 ―――織花の運命は変わった。



 明朝になり、胸騒ぎとともに目を覚ました織花は、諦観の滲んだ深いため息をついてから身体を起こした。紅色のカーテンを開いて窓を開けた。

 緑の匂いと雨音を含んだ風が吹き込んでくる。湿り気を帯びた風は肌寒く、空は陰鬱な雲に覆われているせいか、朝なのに暗かった。

 織花は窓辺に置いてある椅子を引き寄せて座った。右手で頬杖を突いたまま、窓から見える景色を見渡す。


 縁取られた世界。山中の森に隠れるようにして建てられている洋風の館から目に飛び込んでくるのは、手付かずの自然の原風景だ。緑の海に埋もれるようにして小さな家々が並ぶ。人家の数よりも畑の数も広さも大きい。自然のなかに空洞を作り、そこに人が暮らしていけるだけの最低限のものを用意したような世界だ。山々に囲まれたこの天柱町は人の生きている空気感や営みを感じさせない。


 織花は自分が育った故郷を見るたびに、人工的に作られた歪なものを想起して胸が苦しくなる。実際にそうやって作られた過程を知っているため、誰よりもその想いが強いのかもしれない。目に見える自然風景も、意図して作られたのを知っているから。


 小さなため息に覆いかぶさるようにして、屋敷の中から甲高い音が聞こえてきた。少し遅れてヒステリックな母親の叫び声。織花は軽く目を閉じてから、何事もなかったように外に視線を向ける。

 いつものことだが、今日は特別に不愉快な一日になることが決まっている。自分の無力さを思い知って、またひとつ絶望の色を濃くする。そんな一日だ。織花の生きる日々は、今日という遊戯に付き合わされるために生かされている。


 夜に始まる、魔女との遊戯。


 心のなかで何十時間後には始まっている遊戯を想像して、今の空のように暗鬱な気持ちに陥った。

 側に置いてある丸い簡易テーブルの上からテレビのリモコンを手にして、電源を入れる。朝のニュース番組をやっているらしく、妙齢の女性アナウンサーが資料を手に朗々と喋っていた。


『―――それでは、本日の災厄情報の時間です』


 アナウンサーは慣れた口調で資料を読み上げていく。

『先日発生した落雷雲は北上していき北部を覆い尽くしております。落雷雲の影響による重軽傷者は231名、死者は353名となっております。雲の進路上にある県民の方たちはご注意ください。また、先日から断続的に起こっている地震による余震が発生しております。震度4を超える地震は以下の通りです』


 いつ聴いても物騒な物言いだな、とどこか他人事にテレビを見つめる。

 現在、国のなかで唯一放送を続けているテレビ局の放送だ。内容は国の全土と周辺に頻発して怒る“災厄”の情報ばかりだ。情報が途絶え始めた世情のなか、涙ぐましい努力をしながら世界の状況を流し続けている。

 表示された画像には国の四分の一が赤く埋め尽くされていた。織花の住んでいる天柱町は赤い色に塗りつぶされてはいなかった。

 だからと言って何の安心材料にもならない。気持ちは沈んでいくばかりだった。


『先週から活発になっている活火山による影響と予報を御知らせします。まず―――』

 そこまでアナウンサーが話すのを聞いて、織花は電源を落とした。


 優しい雨の音だけが静かな部屋に満ちていく。

 相変わらずの情勢を聞いて胸が痛む。当たり前のように起こり続ける災厄の数々をチェックするのは毎日の日課だ。どれだけ目を背けてしまいたい事実だったとしても見続けないといけない。


 目元を指先で抑えて、深々とため息をつく。今こうして、織花がため息をついている間も災厄が起こり続け、自然は壊され続け、人は死んでいる。

 逃げることは許されない。

 そう自分に言い聞かせると、しだいに呼吸がうまくできなくなって、胸が痛くなった。

 こみ上げてくる嫌悪感とともに、また声もなくため息をついた。



 

 甲高い母親の叫び声は、閉め切った部屋のなかにいても大きく響いて来ていた。辟易しながら廊下に続く扉を開けると、一層大きな声量が聞こえてきた。


「あの子は明日のことがあって忙しいはずよ。そのうちに家探しをするって、何度も説明したでしょ!」

「解っている、解っているが、こういうのはどうもね、どうも気が引けてな」

「ここまで来てなに馬鹿なことを言っているのよ。いいから急ぐわよ!」


 泥棒だって足音と息を殺してやってきそうなものなのに、母親の言動の騒々しさにまた苛立ちを感じる。三階の廊下から一階で騒いでいる両親のことを見下ろす。


 不思議な構造をしている館だ。六角形の形をしている館の角にはそれぞれ部屋がある。一階につき六つの部屋があるのだ。それだけなら普遍的な構造なのだが、正面口からまっすぐ続くところにある大階段、一階から二階へつづく階段以外には階段は存在しない。二階から三階、織花が現在いる三階まで続く階段はどこを見渡してもない。

 もちろん、どこかの部屋の中に階段があるということでもない。文字通り、三階に行く階段はない。織花がひとりで暮らす紅の館は、そんな不思議な構造となっている。 

 織花自身が所持している家の数は四つあるが、そのなかの一つ、一人で寝食をして過ごしている“紅の館”は誰であろうとも来ることを禁じられている。それは先代からの決まりごとなのだが、織花の肉親である母親はまったく悪びれもせずに織花の生活圏内を侵食していた。

 今にも階段を上がってきそうな母親を見咎め、織花はわざと大きな足音をたてる。織花の足音は音だけでなく力強い振動となって、紅の館をかすかに揺さぶる。


 突然の揺れに硬直した母親が、頭上を仰いで織花を見つける。その視線がみるみるうちに険しくなっていく。

 勝手に侵入したにも関わらず悪びれた様子は一切なく、開き直って傲慢な顔をする母親。その後ろには追従しているのは、張り付いた苦笑いが不気味な父親だった。

 母親が鼻を鳴らして、言い放つ。


「あら、生きていたのね。今日も元気そうで良かったわ。大事な日ですものね、体調不良になっているんじゃないかって心配になってね、こうして駆けつけたのよ」

「余計なお世話です。ここは誰一人として立ち入ることを許可していません。お母様。貴方も例外ではありませんよ」

「近いうちに私のものになるんだから構わないのよ」

「そんな日は来ません」

「いいや来るわ。遊戯が完全に終わるその時に、すべての秘宝は私のものになっているのだから」

 ここまでくると妄執に近い。呆れを通り越して哀れみさえ抱く織花は極力感情を押し殺すようにして言った。 


「貴方とこれ以上話すことはありません」

 織花は三階の手すりから飛び降りた。優雅な動作。まっすぐ落下していき、一階に近づくにつれ速度が弱まり静かに着地した。その一連の動きを、母親は憎々しげに見つめている。


 中階段のところで立ち塞がり、階段の途中で立っている両親を見下ろしながら言った。

「お引き取り下さい。ここは貴方たちが居ていい場所じゃありません」


 その言葉が母親の癇に障ったのか、眉根に青筋が浮かびあがっていた。―――同時に、紅の館の気配が揺れ動いたのを察知して、織花はまくしたてる。


「これ以上、わたし……第五代魔女の命令に逆らうつもりなら、力づくにでも帰ってもらいますよ」

 織花の周りの空気が急速に冷たくなっていく。冷気とともに放つ気配に息を呑んで、母親が一段後ずさる。父親が母親の服を引いて、口には出さずに帰宅を促す。

 猛り狂うほど苛立っている母親は、大きく舌打ちを打つ。

「今日のところは引き下がるわ。調子に乗らないことね。ここは、私のものになるんだから。あんたには過ぎた玩具よ」

 織花と父親の返事も待たず、肩を怒らせて入口へと歩き出した。


 父親は母親の後ろ姿を物言いたげに一瞥してから、織花に視線を向けた。暗く淀んでいて、危うい瞳。厳しい表情を崩さずにいる織花を見詰めてくる。父親は言った。

「……どうしてお前は生きているんだろうな」父親がジッと織花を見つめて、薄笑いを浮かべて呟く。「早く死んでくれると助かるんだが……」

 疲れ切った言葉を残して父親も入口へと向かっていく。遠ざかっていく足音。外界と繋がる大扉の開閉音がして、完全に音がなくなると、織花はその場に両膝をついて、長く息をついた。


 身体を突き刺す悪寒と寒気から自分を必死に守るように腕で抱きしめて、乱れた呼吸を整える。

 いつものことだ。

母親の悪罵も、父親の諦観の言葉も、ありふれたことだ。今さら気にすることなんてない。だから傷つくなんてことはあるわけもないし、胸が痛む必要なんてない。

 洟をすすって、右腕で目元を力任せにこすって織花は立ち上がった。何も考えたくなかった。感情を押し殺すことなんて、もう慣れっこだった。



 すぐ食べられる健康食品を口に放り込み、手早く着替えてから紅の館を後にした。

 どこからともなく懐かしい曲が響きわたっていた。

 これは不定期に天柱町中に聴こえてくる音色だ。今では天柱町の風習となっているが、メロディがどこから流れてくる音なのかは誰も知らない。まるで頭のなかに直接響かせるように明瞭に聴こえるのだ。時間を報せるメロディを聞き、織花は懐から懐中時計を取り出した。午前十時ちょうどを差していた。

 この謎のメロディも、災厄と同じ。この不思議なメロディも織花が魔女になってから聴こえ始めた現象だった。

 歌の内容は、ただ、好きな人に逢いたいと、痛切な想いが込められている。織花にとって唯一心を許せる人であり、恩師である祖母が好きだった曲。

 脳裏に反響する涙を誘うメロディにチクリと胸が痛む。


 胸を抑えながらもう片方の手で傘を差して、四つある自宅のうち、家族たちが住んでいる“翠の館”を目指す。

 織花が所有する四つの館の内、翠の館は唯一街中にある。織花の肉親である家族が五人、そこに住んでいる。紅の館に足を踏み入れてきた両親たちと年の離れた兄姉。そしてこれから逢いに行く人が住んでいる。


 石を積み重ねてできている不安定な足場の階段を下りていく。移ろう山の紅葉を眺めることなく、粛々と目的地を目指す。寒がりの織花にとって山の変わりやすい気温の変化はいつまで経っても馴染めるものじゃなかった。決して身体が強いわけじゃない織花にとって、山に囲まれ人里離れた場所で暮らすのは簡単なことじゃなかった。


 それは健康面や身体面のことであり、決して財政面の問題ではない。

 こと財産ということでは、天柱町はおろか国のなかでも有数と言っていいほどの財産を持っている。そのすべては先代から織花ただ一人が受け継いだものである。


 先代から受け継いだ品々は、美しい金属や宝石類で装飾された宝の山。人はそれらの宝を畏敬の念を込めてこう呼んでいた。魔女の秘宝、と。

 魔女の秘宝は、家族や親族たちで共有しているものではなく、織花が受け継いで管理している。秘宝を継いだ織花のことを魔女の後継者と呼ぶ人も多く、羨み妬んでいる家族も多い。


「多い、なんてものじゃない、ですよね……」


 思考の闇に陥りながらまたため息をつく。妬んでいる人が多い、なんてものじゃない。家族全員が暗い感情を織花に向けている。それがたまらなく重たく、苦しい。

顔を合わせれば毎回起こる母親との口論。母親は誰よりも先代の意思を継いで、秘宝を受け継いだ魔女になることに憧れていた。だからだろうか、それが叶わなくなった今、織花にその想いをぶつけるようになっていた。

 何もかもが狂ったのは、魔女の存在だと言っても決して間違いではない。家族たちの思考を狂わせるだけの魅力や魔力が実際にあるのが、魔女の秘宝なのだ。


 魔女として、魔女の秘宝を受け継いだのは織花自身の意思だ。逃げるつもりはない。

 山を下りて人里に下りると、まばらではあるが人の姿が見えるようになった。紅い傘を傾けて視界を隠しながら翠の館を目指していく。


 天柱町の最北端に位置する紅の館から、中心地に程近い翠の館に着いた。四つある館のなかでは最も小さい建物だが、それでも辺りにある他人の家々より一際大きな建物だ。

 和風の建物が居並ぶ天柱町のなかで、純洋風の建物は異様な雰囲気を保っている。唯一、織花が使っていない建物とはいえ、魔女が住んでいると噂される建物だけあって、仄暗い気配が感じ取れる。

 木々に囲まれた翠の館の裏手にまわり、裏口から家に入る。キッチンに直接繋がっている扉を開けると、目の前に巨漢が立っていた。


 身体を硬直させて驚いてしまった。すぐに冷静さを取り戻した織花は前方に立っている兄に軽く会釈した。

「……お邪魔します」


 他でもない織花の家でもあるのに、ついこんなことが口に出てしまった。緑茶を注いでいた兄は、畏まっている織花を一瞥した。黒に染まった無関心の瞳を向けられ、織花は軽い恐怖を感じる。

 兄はまるで何も見なかったかのように、キッチンを去っていった。兄の姿が消えて安堵する。


 織花の家族は、亡くなった先代を外すと全部で六人の家族だ。その中でも、何を考えているのか一切窺えない兄のことは一番怖い存在だと思っている。ある意味で解りやすい両親と姉の存在は、嫌うのも対処の仕方も簡単で済むのだが、兄だけは解らないことばかりだ。一度も兄に関心を向けられたことがあっただろうか。想像してもまったく思いつかない。


 三か月前に魔女になってから話が通じなくなったならまだ理解もできる。でもそれ以前から、無関心を通されていた。

 それ以上の思考を放棄して、何気なく冷蔵庫を開けてみた。中には両親と兄姉が好んで飲んでいる飲み物だけしか入ってなかった。最低限の調味料が乱雑に積み重なっている。キッチンシンクに目を移すと、天柱町の離れにただひとつだけある量販店で売られている弁当が洗わずに放置されていた。

 いったいいつからこのままなのか。腐臭まで漂っていて織花は顔をしかめた。三か月前まで暮らしていた家が荒れ果てているのを見て嫌悪感が募る。一瞬だけ自分で洗おうと思ったが、何の解決にもならないことをすぐに理解してやめた。


 そのまま足音を殺して家の中を進んでいく。キッチンを出ると大広間に出て、そこから一階の端にある部屋へ行く。

「あら、あらあら珍しい鼠さんが紛れ込んでるわねー」


 やっぱり今日は厄日だ。織花は胡乱な眼差しを向けて声の主を見つめた。けばけばしい化粧を施した姉だ。柑橘類の香水の量を誤っているのか、強烈な臭いが鼻を貫き気分が悪くなった。

 ため息を殺しながら、歳の離れた姉を見つめた。

「少し用事があって立ち寄っただけです。すぐに出ていくので安心して下さい」

「あんたも律儀よね。一度も欠かさずに来るわよね。それって何でなの? 許しを求めているとか? 贖罪のつもりだったりするわけ? 相手はいつまでもあの調子なのに」


 ずけずけと話したくもないことを詮索してくる。姉の性格の悪さもまた折り紙付きで、織花がどうしてこの場所にやって来ているのかを知って訊いているのだ。そのどれもが織花が言葉に窮する苦々しい事柄ばかりを選んで話しかけてくる。

 反応できずに押し黙っていると、姉は勝手に頷いた。

「そっかそっか。まぁ意気込みとか、景気付けっていうのも大事だものね。でも不思議ね、魔女様ともあろう人が縁起担ぎって変な話よね」


 織花はそれ以上の会話を聞く気になれず目的地へと歩を進めた。後ろから姉が付いてくる。

「あんたが持っている秘宝があれば、もっと役に立つことができるはずよね。こんなことをしなくても」

 姉の言葉に立ち止まり、振り返って睨みつける。それで怯むどころか嬉しそうに頬を綻ばせて、姉は言った。


「秘宝の力、見せてくれない」

「あれは無闇に人の目に付いていいものじゃありませんから」

「えー、そんなひどい。あんなにたくさん持っているのに。少しくらい分けてくれたっていいじゃない」

 姉は魔女の秘宝を、他の親族同様にただの宝石や金になるものであると勘違いしている。それに、魔女の秘宝は正式に受け継いだ織花のものであることは、家族と親族も知っているはずなのに、魔女の秘宝を自分のものであると錯覚していた。自分の都合のように物事を改竄するところは、母親にそっくりだった。


 それを証明するように、姉のなかでは魔女の秘宝があれば一生遊んで暮らせる、そんななか働きに出るなんて愚の骨頂、ということらしい。母親同様に勝手な物言いだった。

「ねぇねぇ、また魔法で宝石類とか出してくれない? 最近金欠で困っちゃってるのよ」

 姉はこうやって簡単に奇跡を起こせるものだと思い、試すようなことをよく口にする。これが姉に会いたくない理由だった。


 姉の要求に応えることは簡単だ。実際に、織花は先代から受け継いだ魔法の手練手管で無から金を生みだすことが可能だ。

 だがそれで伴う影響を負うのは、姉ではなく魔法を行使した織花自身になる。先ほど紅の館にいた時に三階から一階に下りた時も、厳密には代償が不可欠だ。一時的に空を飛ぶのと、無から金を創りだすのでは、後者のほうが圧倒的に身体にかかる負担が大きい。


 いつまでも付きまとう姉に向けて、織花は冷たく言った。

「これ以上の詮索を続けるなら、姉様も今宵のゲームに参加してはいかがですか。気晴らしになりますよ」

 姉がぴたりと立ち止まって、にっこりと笑いかけ手を振った。

「やーよ。あたしはまだまだ死にたくないもの。それにあたしの場合何もしなくても宝が手に入るしねー。えへへ」

 頬を赤らめて、姉は背を向けて二階へと上がっていった。


 戻ってくる気配もないことを確認して、本当に大きくため息をついた。

 弱音を言ってしまいそうになるのをグッと堪えて、織花は目的地である部屋の前に立った。

 三か月前と同じように、習慣でノックをしてしまいそうになった。扉に近づけた手を悲しげに見つめて、ドアノブを回した。

 軋みながら扉は開いていき、部屋のなかに入っていく。


 白い部屋だ。

 白いカーテンと窓辺に近いところ大きな白いベッド。扉を閉じて中に入っていく。ベッドには男の子が眠っている。織花の弟だ。

 織花はベッド近くにある丸椅子に座り、弟を見つめる。


 小さく寝息を立てて、安らかに眠っているだけに見える。だが、弟は決して自然に目を覚ますことはない。弟は、三か月前の出来事に巻き込まれ、こうして自力では目を覚ますことができない呪いにかけられている。


 他でもない、織花が起こしてしまった最初の悲劇。

 織花にとって、消えることのない最初の罪の徴。

 白い掛け布団から出ている弟の右腕を両手で掴んで、強く優しく握りしめる。祈るように掴んだ手を額に添えた。

 震える織花の手。必死に何かに耐えるように唇を噛んだ。

 しばらくして、織花は弟の手をそっと元の位置に戻した。


 立ち上がり、あどけない表情のまま眠る弟を見つめる。そして、

「……また、頑張ってくるね」

 と、微かに震える声で告げた。

 音をたてないように部屋を出て、扉に背中を預けて深々とため息をついた。力なく顔を上げてみる。


 翠の館というだけあって、装飾品の多くが緑色に近い色で統一されているが、この部屋だけ唯一、他の色に汚されることなく、穢れない色が保たれていた。家族の手によって汚い家に変わってしまったが、弟の眠る部屋だけは当時のままでホッとする。

 これ以上ここにいると、また家族に出くわしてしまうかもしれない。想像するだけでも息が詰まりそうになり、織花は誰にも見つからないように翠の館を後にした。



 翠の館から離れてから、もう一度振り返ってみる。今では自分の家だという印象はない。自分が過ごした家のなかでは一番長く住んでいた場所なのに、他人が住んでいるようにしか感じられなくなっていた。

 一度だって翠の館を家だと思ったことがあっただろうか。織花にとって、嫌な思い出がたくさん刻まれた翠の館は、安住の地では決してなかったし、好きこのんで帰りたいと思える場所でもなかった。良かったと思える記憶もきっとあるはずなのに、何一つ思い出せなかった。


 特に魔女の才能が顕著に表れ始めた物心がついた頃には母親から疎まれ始めていた。子供心に母や親に好かれようと躍起になっていた時もあったし、魔女を嫌う母のために魔法を隠していたら、それもまた癪に障ったのか物理的に怒られたこともたくさんあった。


 またため息。傘を傾けて空を仰ぐと、憂鬱な空から雨が降り続いていた。朝方よりも強くなっているかもしれない。陽の光が隠れた天柱町の気温は寒く、長く立ち止まっていられない。

 洟をすすって、織花は西の森に向かって歩き始めた。

 辿りついたのは館の外観がすべて青色に統一されている蒼の館だ。森の奥深くにあり、人を寄せ付けない。森のなかでは目立つ色をしているが、町民はおろか織花の家族や親族であっても近づこうとしない。

 ここは先代の魔女がずっと暮らしていた場所である。そのため、先代の魔女のことを心の底から恐れていた家族たちにとっては今なお近づきがたいところになっている。


 家族や親族が欲してやまない魔女の秘宝も数多くあるにも関わらず、だ。

 四つある館のうち最も小さい蒼の館は、家と言うよりは小屋に近い。

 地面から伸びる蔦が巻き付いてある扉に掌を翳す。織花の手が紅色に淡く光ると、蔦はするりと地面に潜って行って消えてしまう。


 触れることなく開いた扉を抜けて、蒼の館に入る。真っ暗な室内。織花が一歩進むと、壁から炎が吹き出した。炎は壁に取り付けられているランプのなかへと吸い込まれていき、爛々と輝き出す。

 橙色の炎の光源に照らされていく廊下を進んでいき、地下へと続く階段を下っていく。織花の足もとに上からの光が届かなくなるたび、次々と炎が吹き出して、道を照らしていく。

 やがて鉄の扉が見えてきた。織花が軽く触れると、扉は勝手に開かれた。中に入っていく。


 不思議なものに埋め尽くされた部屋だ。

 余りある調度品の数々。日常的に使うランプやティーカップ、剣や槍といった武器、それらのものは全て美しい輝きを秘めている。

 この部屋に置かれている物は、すべて魔女の秘宝だ。

 足の踏み場もないほど散らかっている部屋。床に転がっている安楽椅子を置ける場所まで運んでいる途中、声がした。


「やあ織花。今日は来ると思って待ち焦がれていたよ」


 頭のなかに直接響いてくる中性的な声。織花は苦笑して声の主を探す。

 中性的な声でくすくすと笑い声が聞こえてくる。頭のなかを直接くすぐられているみたいな、むず痒い感覚がした。

 魔女の秘宝のなかから気配を感じて、織花は円筒型の鉄の塊を取り出した。両手で掴み取った。織花が手に取ったそれは、中心部の線から明るい緑色の光が灯った。


「来てくれると思ったよ、いやあ、今回は脱出できなくて困っていたところでした」

「わたしが来なかったらどうするつもりだったのですかエンジェルさん」


 エンジェルさんと呼ばれた鉄の塊は、緑色のラインから放たれる光を明滅させて揺れ動く。

「その時はその時です。物に埋もれながら瞑想でもしているよ」

「ずっと来なかったら?」

「困りますね。助けに来てくれてありがとうございます」

 軽妙なエンジェルさんの言葉に苦笑して、微かに心が軽くなっていた。

「お礼はわたしのほうです、いつもありがとです」

「何のことかは解りませんが、どういたしまして。ところで、何か用事があって来たんですか?」

「ううん。時間までここに居たいなって」

「んん? ゲームに参加する家族に会わないんですか?」

 エンジェルさんを机の上に置いて、その手前に設置した安楽椅子に深々と座ってから、織花は緩く首を振った。


「会うのは遊戯……ゲームだけでいいです。余計な感情移入は、したくないですから」

「そうですか。ではそれまでは暇なんですね。だったら後片付けをしてもらえませんかね。こうも散らかっていると落ち着かなくて」

「もう……散らかしたのはエンジェルさんなのに」

「正当防衛ですから仕方なかったんですっ。大変だったんですから!」

「解ったよ。しょうがないな……」


 安楽椅子から跳ね起きた。

 一息ついてから、地面に散らばっているものに手を伸ばす。割れやすい調度品はしっかりと壁に固定していく。剣や槍と言った危険なものは一か所にまとめる。

 分類しながら物を元々あった場所に収納していく。

「それにしても、今回は結構な荒れ具合ですね。そんなに苦戦したんですか?」

 エンジェルさんの光の線が、赤々と発光する。怒りを露わにしているときに発せられる光の色だ。

「本当に大変でした! 一気呵成と暴れ回ったものだから抑え込むのに苦労しました! ボクとっても善戦したんですよ!」

 エンジェルさんの怒声が室内に木霊する。


 これだけ部屋が散らかっていることはそう多くない。

 エンジェルさんが戦ったのは、他でもない室内に散らばっている魔女の秘宝だ。魔女の秘宝はその一つ一つに異なる力が宿っていて、時折こうして魔力の暴走が起こり荒れ狂う時がある。それをより強い力で抑え込んで鎮静させているのが、ここに住んでいる先代魔女の秘書でもあったエンジェルさんだ。


 魔女の秘宝は、ひとつひとつに魂が宿っている。この部屋に安置されている秘宝の多くは安定しているものばかりだが、今でも荒ぶるものもある。

 織花やエンジェルさんはおろか、絶大な力を持っていたと言われる先代の魔女でさえ抑え込むことができなかった魔女の秘宝も存在する。

 荒ぶる魂が宿る魔女の秘宝の多くは、宿る感情はそれぞれ異なるが、一貫しているのが、生者に対して憎悪を燻ぶらせているということだ。

 安定している魔女の秘宝を抑え込むだけでも一苦労なのだと、エンジェルさんは常々苦言を口にしている。


「でもまぁ結果はオーライってやつですよね。こうして外に出ることもなくまた封印処置できたのだから」

「……そうですね」

 曰くつき本を両手いっぱいに抱えて、本棚に収納していく。どこにでもありそうな大型本であっても、これも力を持つ魔女の秘宝なのだ。これらが一つでも暴走して外界に出たら、人里なんて数時間で灰燼と化すことになる。

 その事実を知っている織花にとっては、ここは不発弾の不法投棄場に等しいほど危険な場所でもある。


 やがて掃除も終わり、床に散らばっていた魔女の秘宝を整理整頓した。

「がんばりました」

「お疲れ様」

 自画自賛をして胸を張る織花に対して、エンジェルさんは蒼い光を灯して応対した。


「ボクがお茶でも用意できればいいのですがねぇ。こういう身の上では何もできないのが心苦しいです」

「だいじょうぶ。喉は渇いてないから」

「気持ちの問題ですよ。こういう時は形で労うものでしょう」

「解りました。それじゃあちょっとお茶にしましょうか」

 織花がそう提案すると、エンジェルさんは緑色の光を放ってカタカタと揺れていた。片付けたばかりの戸棚からティーカップを取り出す。


 何も手を施していないにも関わらず、瀟洒なカップはすでに温かい。小皿に乗せて、手に持ったティーカップを淹れると、黄金色の紅茶がやわらかな音が響いた。

 注ぎ終えて、静かに取手に指を入れて紅茶を口に含んだ。ゆっくりと香りと味を楽しんでから嚥下していく。ほぅ、落ち着いた息がこぼれる。


「こういう魔女の秘宝ばっかりだったらいいのにね」

「誰もが思うことですよ。それは」エンジェルさんは同意しつつ、苦笑いした「でもまぁ、思う人の数が絶対的に少ないですけどね。少なくても、ボクはこの秘宝は好きですね、一度も飲んだことありませんが」

「いつか飲める身体を魔法で作れたらいいのだけどね。わたしじゃどうやってもできないですよ」

「言っても仕方ないことだね。ボクはここでお茶を楽しむ織花を見て楽しむことにするよ」


 エンジェルさんの言葉に笑いながら、紅茶をもう一口飲んだ。息を呑んで、両手で抱えるようにして冷えた両手を温める。

「―――ッ」

 それでも隠しようのない震えに、エンジェルさんは目敏く気が付いた。


「……緊張しているのかい、織花」

「そんなの、当然です」

 エンジェルさんは一拍間を置いてから、静かに言った。

「怖いですか?」

 カップを握る手に力が籠った。

「当たり前、です」

「今日、いや……なにか、明日の準備はもういいの?」

「……しても意味ないです。どうせ、わたしは……また負けちゃうのだから」

「そうかもしれないね」

 エンジェルさんの嘆息とともに断言した言葉に、唇を歯噛みして俯く。

「実力では絶対的に超えられない差があるのは確かだけど、それ以上に気持ちで負けていたら、あの悪辣な魔女たちには勝てませんよ」

 何も言い返せず、織花はさらに深く俯いた。


 三対さんつい魔女まじょ

 それが今夜、織花とゲームをすることになっている相手であり、織花が心の底から恐れる三人の魔女のことだ。

 生きている人間ではなく、かつて魔女として処刑された魂が悪霊になって現存している。織花では太刀打ちできないほどの絶大な魔力を持っている。

 三か月前から行われている三対の魔女とのゲームは、織花の一方的な連敗が続いている。それだけじゃない。敗北を重ねるほどに織花は心身を摩耗していき、疲れ果てていた。


 悪辣な魔女たちによる遊びに振り回されてばかり。彼女たちのゲームから逃れることはできず、退場することは許されない。

それは魔女として力が劣っているから逃げられないのだ。先代魔女ならば、避けることもできたが、五代目魔女を受け継いだ織花では先代のような芸当はできない。

 勝ち目も、ない。


「……頑張るよ。わたしは、まだ頑張る。でも、どうしたらいいのか解らなくなっちゃっている。このままずっと、勝ち目のない戦いを続けるのかな」

「織花……」

 エンジェルさんもかける言葉がないのか、押し黙ってしまう。


 本当はわかっている。

 先代の四代目魔女、いやお祖母ちゃんから魔女の名を引き継いだのは他でもない織花の意思だ。どれだけの辛苦があってもやり遂げて、守り通してみせると心の底から誓った。

 だから、途中で投げ出して諦めることはありえない。現状の苦難を前にしても放棄することだけはしない。


「ごめんね、エンジェルさん。決して諦めているわけじゃないの。ただ、うん……弱気になっちゃっていて」

 味方でいてくれるエンジェルさんは、この場所に安置してある魔女の秘宝の封印に手一杯で外に出ることはできない。

 こみ上げてきた涙を力任せに拭って、洟をすする。どうあがいても、織花はたった一人で、今夜も、そしてこれからもずっと三対の魔女と戦うことが運命づけられている。


 人間の平均的な寿命は80年ほど。だが、魔女は人間の寿命では計算できないほど長寿である。魔女と呼ばれる存在の絶対数が少ないため判断することはできないが、先代の魔女であるおばあちゃんは210年もの時間を生き抜いた。

 だから、魔女の力を引き継いだ織花もそうである可能性は高い。

 何百年もの途方もない時間、生き続ける。それも、ただ独りで、誰にも理解されることなく。いつ来るか解らない、時代のうねりによって犠牲になってしまうかもしれないなかを。


 今は恐れられ、村八分の扱いを受けているだけで留まっているが、織花自身が魔女狩りの憂き目に遭う可能性も、ゼロではない。

 魔力のないただの人間に負ける可能性はないが、行使には代償が不可欠の魔法を使い続け、いつの日か消えてしまう日も、きっとゼロではない。

 いや、代償無しに使うことができるが、今の織花にはそれができないのだ。


 無力になった織花がどういう目に遭わされるか。人間の闇のおぞましさを嫌と言うほど“知っている”織花は怖くて仕方がなかった。

 現代に生きる唯一の魔女は、織花だけだ。

 三対の魔女たちは、生者への憎悪を燻ぶらせた悪霊だ。

 三人いる魔女たちとのゲーム。織花は、凶悪な三人とたった一人で戦わないといけない。


 誰も、織花を助けてくれる者はいない。

 織花をいつだって助けてくれた先代の魔女は、もういない。


 悪い想像ばかりが頭を過って行き、慢性的な寒気に襲われ両腕をぎゅっと抱きしめる。

 寒い。冷たい。どうしようもなく痛い。両腕に襲いかかる耐えがたいほどの凍える寒気に、息も絶え絶えになっていく。


「―――大丈夫だよ」

 凛としたエンジェルさんの声が響き、織花はゆっくりと顔を上げる。その瞳には、涙があふれ出しそうになっていた。

「……どうして、そんなことを言えるのですか? わたしには、何もないのに」

「それは違うよ織花。―――必ずいるよ。君を助けてくれる人が、この世界に」


 いつもとどこか違うはっきりとした口調で、エンジェルさんは続ける。

「ボクは織花の味方ではあるけど、助けることはできない。見ての通りただの球体だからね。直接力になれることは少ない。そんなのじゃなくて、心から君の助けになってくれる人はいる。近くに。それが、わかるんだよ」

 その根拠のない言葉だけでも胸が詰まりそうになり、織花の目から静かに涙がこぼれた。

「素敵ですね。本当に、そんなことが起こったら。……それは、いつもの占いですか?」

「確信だよ―――どうかな、少しは元気が出てきた?」

 エンジェルさんが楽しげな軽口をはじめて、織花も涙をぬぐった。


「……おかげで、少しだけ」

 素敵な夢物語だ。ありはしない幻想だからこそ、強く惹かれた。織花は涙で赤くなった頬を緩ませて笑った。

 助けてくれる人が現れるという夢を見たことは、一度や二度ではない。無力な子供のように、そういった絵空事を夢見て、満ち足りない心の隙間を埋めようと空想に耽っていたことはある。今でも、ある。


 でもそれは決して叶うことのないものであり、たとえ奇跡的に誰かが織花を訊ねてきたとしても、十中八九魔女の秘宝を欲してやってくる下賤で欲望にまみれた人だけだった。

 現実では、そんなこと起こるわけがない。いつだって冷静で理性的な心がそう断じてしまい、微かに心を痛めるのだ。


 傷心のなかにいた織花にとって、優しい嘘や夢物語は自然と沁み入り、僅かばかりの救いを得ることができた。

「うん。……ん、大丈夫。わたしは大丈夫、まだ頑張れそう……だよ」

 精一杯の笑顔を浮かべて、エンジェルさんに向き直る。エンジェルさんの感情を表している直線は白い光を灯していた。

「頼もしいね。疲れたらまたおいで。私で良かったら話に付き合うよ」

「その言葉だけでも、本当にうれしいです。わたしの味方でいてくれてありがとうね」

「……………」


 エンジェルさんが何かを口にしようとしたその時、外から時間を知らせるメロディ、祖母がよく歌ってくれた子守歌が聞こえてきた。タイトルのない歌が響くなか、壁に立て掛けられている古時計の針は19時を示していた。


「……もう、こんな時間。わたし、行かないと」

 ティーカップをテーブルの上に置き、静かに立ち上がった。さっきまで泣き腫らしていた顔はもうそこにはなく、決然とした意思のある瞳を湛えている。

 織花は、独り歩きだした。


「行ってらっしゃい」

 優しいエンジェルさんの言葉に背中を押され、


「……はい、行ってきます」

 と、力を込めて返事をした。


 無駄口は、もう叩かない。これから戦いに行くのに対して、これ以上の会話は必要なかった。

 地下室を去り際、エンジェルさんがぽつりと言葉を漏らした。


「織花は優しいね。だけど、とても危うくて中途半端だ。本当に、魔女には向かないくらい、優しい娘だよ。場合によっては、あの三対の魔女たちのように狂うことができれば楽になれるのかもしれないよ」

「……そうなったら、もうわたしはわたしじゃありませんね。魔女になった今、幸せなんて望んでいません。―――昔も今も、魔女は犠牲者にしかなれないんです」

「………………」

 エンジェルさんの無言のままだった。そこから続く言葉を聞くのが怖くて、織花は地下の扉を閉じた。




 紅の館へ辿りつき、吹き抜けの回廊を見上げる。織花が小さく息を整えると、身体がふわりと宙を浮き、そのまま三階まで上昇していき廊下に着地する。

 特に準備をすることもない。まっすぐ寝室に向かった。開け放してあった窓からは青白い月明かりがやわらかく室内を浸していた。


 壁の柱時計は22時を差している。ベッドに腰掛けてニュース番組を眺めていく。内容は朝の災厄情報の続報だけだ。ニュースといえば災厄情報になって久しいので、別段珍しいことはない。


『勢力を増した落雷雲の影響による北部に甚大な被害を与えました。死傷者数は800名を超え、未だに増加する見込みとなっております』


 織花は唇を噛む。他でもない自分が起こしてしまっている災厄のことを見逃すまいと、つぶさに情報を見聞きしていく。

 そして、居たたまれなくなる。これから織花は、この災厄を起こしている魔女と戦うことになるのだ。


 三か月前から続く魔女のゲーム。通算11回目となるゲームが、どういう結末になるかは解らない。いや、明確には織花の負けで決することになるだろう。織花が気にかかるのは、その余波によってどんな災厄の引き金を引いてしまうのか。


『気象学者や専門家も原因を究明できていない災厄の数々ですが、どうしてこんなことが起こっているのでしょうか』

 妙齢の女性アナウンサーが、隣に座る学者然とした黒縁めがねをかけた男に訊ねる。男は苦笑いを浮かべながらめがねを軽く上げた。

『それがまるで分っていないのです。突発的に災厄は起こり、まるで融爆し合うように様々な災厄が次々と起こっているんです。突然の大地震により、止むことのない余震が続いているみたいな状態です』

『地震ならばある程度の予期はできそうなものですが、それも不可能であると?』

『ええ、まったく原因は解っていません。研究者の一人としては興味深いですが、糸口も見いだせていません』

『警戒を強めることだけができることなのでしょうか。これからも注意をしてください。さて、次は経済ニュースの時間です。災厄による余波が続き株価が暴落し……』


 目的の情報を見終えた織花は電源を落とした。そのまま力なくベッドに身体を横たえる。

 まるで融爆のように災厄が起こり続けている、と学者の男は指摘していた。それは正しい推測だ。

 何故今のような事態に陥っているのか、当事者の織花は知っている。

 原因は、各地に散っていった魔女の秘宝が暴走したことによって起こっているのだ。

 それは蒼の館でエンジェルさんが封印しているものとはまったく違う。蒼の館にあるのはある程度は沈静化しており、暴走する危険性が減ったものばかりだ。


 先代の魔女でも回収することができなかった各地に散った魔女の秘宝は、織花が魔女を継承したと同時に暴走を始めた。つまり、先代魔女の封印によって力を封ぜられていた魔女の秘宝が、封印から脱して今の災厄となって形を変えてしまった。

 安定した魔女の秘宝は、力不足の織花にも力を貸してくれるが、暴走しているものを制御することはできない。現場にいても、織花では手の施しようがない。


 学者も指摘していたとおり、魔女の秘宝は誘発する。それは加速度的に増していき、止めようがなくなっている。

 さらに言えば、魔女の秘宝は魔力と呼ばれる超常現象を起こす力を持つものしか見ることができない。一般人では誰一人として認識できないため、理不尽な天災が起こり続けているようにしか見えないのだ。


 でも、織花には見えてしまう。ニュースなどで特集されているとき、たとえばハリケーンが猛威を振るっている映像が映し出されたとき、嵐の目の中心に薄ぼんやりと魔女の幻影が。

 災厄の情報を見れば、どこで魔女の秘宝が暴走しているのかはっきりと知ることができる。止めることはできなくても、知ることはできる。それは織花にとって避けてはいけない真実だ。


 たとえ止める力があっても、三対の魔女と行われるゲームを辞退することは叶わない。三対の魔女は織花を逃がすつもりはなく、今ではもう毎週の通過儀礼のようになっていた。場合によっては七日続けて執り行われ、終わりと同時に次のゲームに突入したこともあった。そのため、毎週日曜日の夜、つまり今日は、織花にとって最も憂鬱な日だった。

 身体を揺り動かし、窓辺に視線を傾けた。


 時間の流れが遅い。ゲームを控えている時の無為な待ち時間はとても苦痛だ。まるで処刑を前にしている犠牲者みたいな気持ちになる。

 かつて魔女狩りで処刑された魔女たちは、死を待つこの間にどんな想いを残していたのだろうか。世界への理不尽に対しての憎悪か、慟哭か。あるいは遺していく最愛の人への愛情か、哀哭か。

 処刑され、この世から否定されて去っていった魔女たち。汚名を着せられ、濡れ衣を着せられ、言葉や想いさえも踏みにじられた者たちの処刑を待つ時間は、こんな心境なのだろうか。


 痛い。

 どうしようもなく痛い。身体が痛いのか、心が痛いのか。怖くて冷たくて震えて泣きたくて痛くて。

 そよそよと風が頬をくすぐるたび、涙が溢れだしそうになり嗚咽を噛みしめる。弱音なんて吐きたくないのに、自分にも理不尽にも負けたくないのに、我慢するほどに胸が切り裂かれるように苦しくなった。

 織花はまた、誰にも聴かせることのない声なき涙を流した。


 その時、強い風が吹きこんできた。

 思わず目を瞑ってしまうほどの冷たい秋の風。断続的につづく不思議な風。

 織花は風の勢いが薄れていくと、ゆっくりと目を開けた。その瞳が驚きに見開かれる。


 蒼い銀光を秘めた月明かりの下に、一人の男が立っていた。


 吹き込む風に肩まで伸びる銀色の髪が揺れる。窓辺に立っている男は室内に目を移し、ベッドで横になる織花を見つけると微笑を浮かべた。

 とても優しそうで屈託のない笑み。

 織花は息を呑んで、突然現れた男に釘付けになる。


「あ、あなたはいったい……」

 慌てて身体を起こした織花が精一杯の勇気を振り絞って訊ねた。


「俺の名前は銀。君が織花で合っているか?」

 不思議な男―――銀と名乗る男に名前を言われ、織花は人形のように首を縦に振った。


 その様子がおかしかったのか、銀は破顔して静かに笑う。颯爽と室内に上がる。それだけでも警戒を強めるほど驚いたのに、銀はその場で膝をついて恭しく頭を垂れた。

 目を瞬かせて瞠目する織花を尻目に銀は顔を上げて、まるで演劇のように芝居がかった口調で言った。



「俺は君のためにここへ来た。そして、君を助けにきた男さ」





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