ロザリオ
鉄板は振り下ろされなかった。
恐る恐る開いた祐介の目に飛び込んできたのは、元から三分の二しかないのにさらに残りの三分の一を切り落とされた魔物の顔だった。
右耳の上あたりから眉、額を抜けて左耳の上あたりまでを切り口に、それより上がすっぱりと切り落とされている。
そこからは血が流れるのではなく、白煙が勢い良く噴き上がる。
目をつぶっていたが、ミエのロザリオによってなされたものだとはすぐに分かった。
昼間に遭遇したトラブルの際に、その威力はまざまざと目に焼き付いている。
声なき断末魔をあげるかのように、ボンネットは暴れ始めた。
まるで苦痛を振り払うかのように、座席に何度もぶつかる。
狙いを定めず、めちゃくちゃに振るわれているためすぐに祐介を直撃することはなかったが、前後にある座席の背もたれはみるみるその形を失っていった。詰め綿が散り、スプリングが飛び出しそれもすぐに削り取られる。
――死ぬ。今度こそ死ぬ
一秒の後にはボンネットが祐介の命を奪う軌道で振り下ろされるかもしれない。
通路に立ったミエが、右手に十字架、左手にその十字架に繋がるひと際大きめの珠を握り、両手を左右いっぱいにまで広げた。
十字架と珠を繋ぐ糸が伸びている。
おそらく十字架か大きめの珠の中に糸の巻き取り装置があるのだろう。
糸と見えるのは強靭な鋼線。その鋼線も珠も十字架も水で濡れ、蛍光灯の明かりを照り返している。おそらく聖水だ。
ミエは左手で珠をしっかりと握ったままに、右手のスナップを効かせて十字架を投げた。
暴れ狂う怪物の頭部に十字架が到達した瞬間、左手首を返して、急制動と軌道の修正を行う。
鋼線の輪が怪物の顔に掛かる。
体全体を使って左腕を引く。
まるで編集で間のコマをカットしたかのように、次の瞬間にはミエの手に十字架が戻っていた。
その一瞬に行われたことを理解する暇もなく、佑介は怪物の変化にのみ気付く。
怪物の顔の一部、左耳から左目のあたりがごっそりと切り取られていた。
切り口からさらなる白煙が噴きあがる。
だがボンネットは動きを止めない。その身をギロチンとするかのように、禍々しいまでの殺意をたたえて脆弱な祐介へと向けた刃を引き上げた。
――もう諦めてくれよ
汗とも涙とも分からない液体で顔中をぐしゃぐしゃに濡らしながら、祐介は心の中で叫ぶ。
多少の盾にでもなるかと、半分だけになったリュックサックを振り上げる。
何気ない、とさえいえるこの動作が、結果として彼の命を救うことになった。