閑話 1
「……あの。すみません」
ぶるぶる震える右腕を左手で支えながら、同じく震える声を抑えて、私は発言した。
「はい。どうぞ、萩原さん」
目の前の彼女が、文字を書く手を止めて私を指名した。眼鏡越しに向けられる視線。一瞬の緊張感。
いかん。足も震えてきやがった。
「はい。…すみません、えと、それ、ラプラス変換の線形性は用いないのですか……」
「…ああ、そうね!ごめんなさい、間違ってたわ。まず、ここを展開する前に、部分分数分解し、そのあと線形性を用いなければならないわね……」
力なく席について、私は腹の底から深く息を吐き出した。
はっ、殺し屋がきいて呆れるぜ。
カラミティレクイエム(がはっ)の萩原陽埜、授業中に質問するだけでこのザマだ。
いやね、だってね!
SSクラスで発言するんだよ?!
そりゃもう、死にそうになるじゃん!!
佐久良瑠架てめぇ、何にやついてんだどつくぞ!
「ねえ、もしかして、君って頭いいわけ?」
隣の色気垂れ流し金髪、安斎柚生が私に流し目をくれる。
ねえ、前から思ってたけどさ、………それ、やめない?
そう、その角度。いや、別に安斎のこと好きとかじゃないけどさ、むしろ畏怖の対象だけどさ、ふらっとするじゃん。その色気。有無を言わせぬその色気。
「…おい? 萩原って、頭いいのかって聞いてるんだけど」
「…えぇと、………え?」
それは、一体どういう意味で…?
頭いいわけないっていいたいのかこいつ。
「まあ、自分で頭いいとか言わないか。少し驚いただけだ、気にすんな」
勝手に自己完結した安斎を、私はただ見つめた。
やっぱり、頭いいわけないっていいたかったんだな。
失礼すぎないか、こいつ。
その整った顔と甘い声に助けられてもなお、失礼だぞ!!
「………いっときますけど、私、アメリカでは大学行ってたんで」
「「「え?」」」
むっとして言ってやれば、クラス中が私を振り返った。
な、なんだなんだ!
なんなんだお前ら!
なめてんのかッ!
「えぇー! びっくり! 陽埜ちゃん絶対バカだと思ってた!」
これが誰の発言であるか、言わずともわかるであろうが、佐久良瑠架だ。
「SSだからアレスは高いはずだと思って、頭の弱さをカバーできるくらい強いのかなって」
周りの顔が、同感といってる。気まずそうに目線をそらされた。
ヤんのかコラァァアァアア!!!!!
殺し屋として、なめられちゃいかん。勝負は生きるか死ぬかの一瞬の出来事なのだ。
「だって、発言アホだし」
クラスメイトの言葉。
…ズン。
何かがハートに刺さった。
「行動もバカっぽいし」
…ズンズン。
まだ、転校してきてそんなに経ってないのに!あんたら、私の何を知ってるんだ!
「喋り方がバカみたいだよね」
「てか、脳筋だと思ってた」
…ズンズンズン。
「あれ、ねえ、ちょっと、生きてる?」
「私、そんなふうに思われてたんですね…。しゃべりかた?え?何、え?」
「……まあ、気にすんなよ」
気まずそうに、安斎が目をそらす。
……気にするわ!
ほかに慰める言葉はないのか!
「………もう授業始めますよー」
教師の呆れた声に、教室は再び静寂を取り戻した。
そう、SSだから。エリートだから。みんな、実は真面目だから!
がりがりと勉強を再開し始めたクラスメイトに負けまいと、ノートに視線を落とした。
***
「おい、まだわかんねえのか!」
小さな少年が、苛立ったように喚き立てた。
夕暮れが近い教室。辺りは静まり返っている。しかし、それは、当たり前ともいえた。―――授業中なので。
生徒や教師からは、何事かといったような訝しげな視線が送られているのだが、当の少年は全く気にした様子はない。
そして、ああまたコイツかという周囲の納得にも、やはり気にした様子はない。というより、気づいてない。
彼はシャーペンを握りしめ、悔しそうに顔を歪めて、傍に控えている執事然とした燕尾服の青年を睨みつけた。
「申し訳御座いません、なにぶん我々もなぜこれほどまでに情報がでてこないのかわからず……。ご氏名と学校はわかったのですが、あとはさっぱり」
困り果てたような青年の言葉さえ、さらに少年の苛立ちを募らせただけのようだった。
「いい!名前はなんだ!早くいえ!オレがどれだけ待ったと思ってるんだ!」
「はいはい、お坊ちゃんは短気ですねえ。お坊ちゃんから得たあれだけの情報量で、個人を特定できた我々を褒めて頂きたいくらいですのに。………えーと、なになに。名前は 萩原陽埜。聖セレスティナ学園に通っています」
「…………ひ? ひ、なんだって?」
「はぎわら ひいの、で御座いますお坊ちゃん」
「ひいの! おお、ひいのだな!よし! オレもひ、ひ、ひじ…セレスティナ学園に通うぞ!」
名前を知ったことで、ハイテンションになった少年。
青年は、鼻で笑った。
「ご冗談を。お坊ちゃんはようやく中学生になられたばかりの12歳ではありませんか」
「なっ! 遅生まれなだけだ! 2月になれば13歳だぞ!」
「いえ、じゅうぶんにショタです」
「しょ? …なんだ?」
「いえ、なんでも御座いません。それより、萩原様とそんなに会いたいのですか」
「もちろん! オレはあの時、愛のタックルを受けたんだッ! そう、まるで女神アフロディーテからの啓示!」
「…………はあ」
少年の熱弁に、青年は呆れたような乾いた視線を向ける。少年は気づいてない。彼は実のところ、所謂、空気読めない人種であった。
「自宅が突き止められないなら、ひ、…ひじセレスティナ学園で出待ちすればいいんだ!」
「……ひじり、ですお坊ちゃん。それに、それはちょっと…、変態的です……」
「愛の前では、多少の変態行為は目を瞑るものだぞ!」
「あ、変態としての自覚がおありなんですね」
「そうと決まれば、スーツに着替えるぞ!」
「わ、一張羅だしてきたー…」
今まで、我関せずだったクラスメイトは驚いた。
いったいどこにしまっていたのか、少年の手には、スリーピースのしわ一つないスーツがあった。
金持ちのやることはわかんねぇ、と言わんばかりに、彼らは再び授業に集中しようとする。
「やっぱバラかな? バラかな!?」
「あー、もうなんでもいいです。いいんじゃないですか、バラ柄」
「なあなあ!…オレ、いくつに見える?」
「……正直に申し上げますと、スーツを着ると多少大人っぽくはなりますので、14歳くらいでしょうか」
「14か……。それでも14か!」
「……はあ」
「…ところで!いつひじりセレスティナ学園は終わるんだ!」
「………そうですね、一般的にはもう30分ほどでしょう」
「なに!? はやく行くぞ!!」
「お坊ちゃんはまだ学校が!」
「いい、金と権力で解決するんだ!」
「………最低だな!」
青年は、それでも、少年を追いかけるのだった。