僕にリーダーを任せてはいけない【短編】
一
よく冷えたビールジョッキを傾け、達成感を味わった。
「ああーっ、うまいっすね!」
斜め前に座る金子がジョッキを握ったまま、大きな声を上げた。口の周りには白い泡のひげをつけている。
「ほんと、最高だね」 守屋慎吾は金子に心から同意しながら、周囲を見回した。
少しだけ立派な居酒屋。その六人がけの机を三つ、うちの開発チームが占領している。乾杯直後にも関わらず、すでにあちこちで笑いが起こっていた。今日は打上げだ。プロジェクトの苦楽を共にした仲間と飲む酒は、うまい。
守屋の向かいに山壁課長が座った。乾杯の挨拶をするため、全員から見やすい位置に移動していたのだ。
「みんな、改めて乾杯」 山壁が掲げたジョッキを四つのジョッキが順に小突いた。
課長の低い声は賑わう居酒屋でも聞き取りやすい。
「ひやひやしたこともあったが、ここまでやり遂げたのは本当に立派だ。特に、守屋くん。リーダー補佐なんていいながら、実際はほとんど任せてしまったな」
「いえいえ、僕は全体が上手く動くようにちょっとずつフォローしただけで……」
横からサラダを乗せた小皿が現れた。白く細い指に支えられている。
「それが凄いという話ですよ、守屋さん。課長、サラダどうぞ」
山壁はわざわざすまんね、と言い、その女性から皿を受け取った。
続く小皿が守屋に渡されるとき、隣に座る霧島怜と目が合った。いつも通りほとんど無表情だが、その狭い変化幅の中では笑顔寄りに見えた。
「研究部から来た私がすんなり馴染めたのも、守屋さんが間を繋いでくれたお陰だと思ってます」
金子が、刺身っす、と店員が運んできた盛り合わせを回してきた。
「そうですよ。実は俺、最初は霧島さんの説明さっぱりだったっす!」 満面の笑みで付け足した。
守屋は刺身を山壁に勧めつつ、太陽のような後輩を見た。
「そこはもうちょっと霧島さんに申し訳なさそうに言うところだろ。霧島さんの説明は、いつも専門外の人を意識してくれてたと思うよ」
「それは分かってたんすけど、俺、メカ以外だめなんで! でも今は分かるっすよ!」
金子は相変わらずの笑顔だ。実際、彼は今回のプロジェクト中に大きく成長し、自身の担当であるメカ設計以外についても多少は分かるようになった。その努力は誰もが認めるところである。
元々金子が得意なメカ設計では、機械工学や材料工学の知識や理論を活かす。だが、さらに重要なのが加工機の理解だ。どんな設計ならどんな機械で加工できるか、といった知見に基づきながら要求仕様を満たすことが必要になる。これにはどうしても経験が物を言うところが大きい。根っからのメカ好きである金子はまだ若いが、その設計は合理的で加工がしやすく、工場からの評判も良い。
一方、霧島の専門は制御工学だ。数学的な色が濃く、機械系でも苦手意識を持つものは少なくない。特に、霧島は制御工学の中でも理論派の研究者である。本来は製品開発よりも基礎技術研究で活躍するような人材だ。今回の開発チームへの参加には苦労が多かったことだろう。
「金子は霧島さんに改めて言うことがあるだろう」 長谷川が金子の隣から肩を叩いた。二人は同期だ。 「霧島さん、こいつのミスをフォローしてもらった件、同期の私からも改めてお礼させてください」
「いやほんと、ありがとうございましたっす!」
霧島は白い手のひらを見せて軽く振った。
「二人とも気にしないで。たまたま評価試験の調整案が浮かんだだけなんだから」
霧島は氷のようだとよく噂されるが、金子も長谷川もすでに慣れている。
「でもそれを守屋さんと一緒に検討してくれたお陰で、俺の金型設計ミスの被害は最小限に済んだっす。あのときはほんと、終わったと思ってたんで、大感謝っす。あ、お酒なに飲まれますか?」
今回のプロジェクトの中盤で、金子は筐体の金型設計でミスをした。本来は二つの部品を噛み合わせ、中に回路基板を封入するべきところが、閉じなかったのである。
製品の基本性能を確認する一次試験のための試作ではあったが、基板剥き出しでは耐久性に関するほとんどの試験を実施できない。ミスの報告を受けた守屋は、致命的だ、と思った。金型の発注と製造には時間がかかる。誰もが全体スケジュールの遅延、ひいては販売スケジュールの遅延は免れないと絶望した。そうなれば影響は社外にも及ぶ。
この危機を救ってくれたのが霧島だった。
守屋は山壁課長と共にビールのおかわりを、霧島はハイボールを金子に依頼した。
山壁の低い声が響く。
「その件は私も報告を受けているが、いままで忘れていたよ」
「えっ! 金型ミスっすよ?」
「うん、確かにミスなら大きな問題だな。しかし、守屋くんから聞かされたときにはすでに対処案が固まっていたからね。今回のプロジェクトでは開発部で手薄だった制御まわりの助っ人として、第一人者の霧島くんまで呼んだ。ここを先に固めるための工夫だと記憶していたよ」
金子が守屋を見た。確かに、山壁にミスをそのまま報告しなかったことは、守屋と霧島だけが知っていた。
「まあ、修正後のスケジュールで耐久性評価とかの懸念を指摘されたら、ミスとして扱うつもりだったよ」
守屋の答えに、金子は口をぽかんと開けた。普段から明るい金子だが、金型のミスが発覚した当時は明らかに落ち込んでいた。ミスがミスですらなくなっていたことに驚いているのかもしれない。甘やかすわけではないが、金子は自分で反省できる人間だ。
長谷川が金子を肘で小突いた。
「ますます今日は恩返ししないといけないな、金子。ついでに私のハイボールも頼んでくれたまえ」
金子が長谷川を睨んだ。さすがに長谷川は、金子をよく分かっている。
「おまえは恩返しの対象じゃないぞ。それにおまえだって基板の配線ミスして、守屋さんにはんだ付け手伝ってもらってたじゃないか」 金子はそう言いながらもタブレットを操作した。
指摘された長谷川は真面目な顔になり、守屋に向かって頭を下げた。こういうところが長谷川の特徴だ。ちょっとかたすぎる性格は強みでもあり、心配の元でもある。しかしどうやら冗談も言えるようだし、その一面を知ったことで信頼が増した。
「はんだ付けは嫌いじゃないし、いい気分転換になったよ」
隣で様子を見ていた霧島が僅かに身を寄せてきた。騒がしい居酒屋で喋るときのちょっとした仕草だ。
「見事にリーダー補佐ですね、守屋さん」
守屋が長谷川のフォローをしている間、リーダー補佐を代わりに務めてくれたのは霧島だ。リーダー補佐の補佐である。こうして振り返ってみると、みんなの絶妙なバランスでプロジェクトを乗り切ったのだと再認識できる。もちろん、他の卓で賑わっているメンバーともいろいろなことがあった。
そのとき、山壁が口を開いた。少しだけシラフの声だった。
「そんな守屋くんに提案がある」
「提案、ですか?」
「そう。全体を把握してフォローし、大きな問題にも適切に対処してきた守屋くんは、もはやリーダー補佐ではないと私は思っている。最初にも言ったように、今回のプロジェクトで私はほとんど何もせず、君に任せっぱなしだった」
「……そんなことは……」
守屋はジョッキを持ち上げたが、すでに空であることに気づいて戻した。濡れた指先をおしぼりで拭き、そのまま同じおしぼりで額の汗を拭いた。
山壁が言葉を続ける前に、追加オーダーした飲みものが届いた。
通路に近い長谷川と金子が手早く配る。
守屋は受け取ったビールをすぐに一口飲み、喉の渇きをごまかした。
「あれ? なんだこれ?」
声を上げた長谷川に目を向けてみると、彼は赤黒い液体に満たされたグラスを持っていた。彼が注文したハイボールにはとても見えない。
「おまえの分だぞ、長谷川」 金子はにやりとした。
「私が頼んだのはハイボールだぞ」
「それもハイボールらしいぞ。ただしトマトジュースとコーラで割ったやつ。ほらこれ」
金子は卓に設置された注文用の端末を操作し、そのドリンクを表示した。確かに金子の言うとおりのカクテルで、名前は『闇の契約』と書かれていた。
「おまえだってミスしたんだから、せいぜい実験台になってくれたまえ」 金子がわざとらしく言った。
「このやろ……」
長谷川は金子を睨み、金子はにやついた顔を返した。この二人はいいコンビとして今後もやっていけそうだ。次のプロジェクトでは、リーダー補佐をやらせても問題ないかもしれない。
様子を見ていた霧島が、ハイボールを掲げた。
「あの、長谷川くん。良かったら交換しない?」
「え? いやいや、大丈夫ですよ!」
「実は私、トマトジュースを使ったカクテルに目がないの。それ、飲んでみたいわ」
全員が霧島の顔を見たが、いつも無表情なので冗談かどうかは判別できなかった。もし賭けるなら、本気で言っている方にしよう、と守屋は思った。
霧島は長谷川とグラスを交換し、置かずに早速口をつけた。
「ん、美味しい」
「どんな味なんです? コークハイと似てるんですか?」 守屋は訊いてみた。
「飲んでみますか?」 霧島がグラスを守屋に近づけた。
そこで長谷川への攻撃に失敗した金子が、挽回の一手に出た。
「よし、じゃあもう全員でいきましょう! あ、店員さん! 『闇の契約』を四つお願いします!」
ちょうど隣の卓に飲みものを運んできた店員に向かって叫んだ。
「……ん? 私も飲むのか!」 山壁は隅でひっそりと枝豆をつまんでいた。
「もちろんっす! 課長を仲間外れにするわけにはいきません!」
やれやれ、と山壁はまんざらでもない顔でため息をついた。金子はベテランも巻き込んで一体にする力を持っている。やや暴走気味なところさえ成長できれば、いいリーダーになるだろう。
山壁が咳払いをした。
「さて、話の続きだが」 と前置きして、守屋を真っ直ぐに見た。
守屋は唾を飲み込んだ。
「実はな、本社の広報部と協力して、このプロジェクトのプレスリリースを打つことが決まった」
「おお! 珍しいっすね!」
金子がはしゃいだ。その横では長谷川も身を乗り出している。確かに、うちの会社で新製品のプレスリリースをするのは、普通のことではない。
「みんなのお陰で、開発が上手くいったからな。プレスリリースの内容は、開発を指揮したリーダーへのインタビュー形式を予定している」
「インタビュー……」 守屋は復唱するように呟いた。
山壁の説明が続く。
「そこでデモンストレーションを交えながら新製品の特徴について説明するだけでなく、メンバーの活躍についてもアピールする。このプロジェクトは君たちのような若手が中心になって成功に導いたものだ。リクルートとしての効果も大きい」
山壁の目は真っ直ぐ守屋を捉えたまま、離れなかった。守屋はジョッキに手を伸ばそうと思ったが、上手く身体が動かなかった。まるでヘビに睨まれたかのように、腕が、身体が硬直した。山壁から目をそらすこともできなかった。
「さっきも言ったように、インタビューにはプロジェクトの代表者、つまりリーダーが応じる。現状、社内手続き的には私になるわけだが、さっきも言ったように——」
山岡の口の動きが、スローモーションのように遅く感じた。低い声が、重くのしかかるようだった。
「——そこで今更だが、改めて守屋くんを正式なリーダーとしたい」
リーダー、と守屋は呟いたつもりだったが、声になったかは分からなかった。喉が渇いて、声が掠れたかもしれない。何か飲みものが欲しい。頭の中が騒がしい。
「おお! 大賛成っす! 守屋さん、かっこいいっす!」
金子の声にはっとした。その瞬間から店内の喧騒を思い出した。
金子の横で、長谷川の口が動いた。表情から、賛同してくれていることは分かる。しかし何を言ったのか聞き取れなかった。日本語ではないように思えた。
「それで、どうかな? 守屋くん次第だが、ぜひ引き受けてほしいと思っている」
守屋は金子と長谷川の顔を見た。目が合うと同時に、二人はそれぞれ力強く頷いた。続いて隣の霧島を見たが、彼女の表情はまったく読めなかった。
守屋は唾を飲み込んで喉を整え、慎重に声を出した。
「ちょっと酔ってるかもしれないので、落ち着いて考えてもいいでしょうか……」
山壁は驚いた顔を見せた。守屋が二つ返事で引き受けると予想していたことは、明白だった。守屋は目を伏したくなる衝動を必死で押さえた。山壁に期待され、評価されることは、素直に嬉しい。失礼な態度は取りたくない。
「分かった。しかしすまないが、長くは待ってやれないのだ。来週には本社で広報部との打合わせが予定されている。私は残念ながら工場での打合わせが詰まっているため、都合が合わない。誰かには行ってもらう必要がある」
そう言って山壁は顎をさすり始めた。困っているようだ。尊敬する上司に対し、守屋は申し訳なさを感じた。
そのとき、隣に座る霧島が片手を低く挙げた。
「課長、その打合わせには、守屋さんと私で参加してもよいでしょうか?」
「ん? そうだな……。元は守屋くんに行ってもらうつもりだったが、リーダー補佐として行くのなら霧島くんも同行するのは自然だろう。悪いが、二人で頼めるかな?」
ありがとうございます、と霧島は頭を下げた。
店員がドリンクを運んできた。
「どうぞ、守屋さん」
霧島が両手を添えてグラスを差し出した。赤黒い液体が揺れていた。
「あ、ああ……、ありがとう」
慎重に受け取り、口をつけて喉を通した。
炭酸の刺激に乗って、コーラのほろ苦さとトマトの酸味が広がった。
二
出張の日、守屋は寝不足だった。
会議は午後からに決まったので、午前はいつも通り工場へ出勤し、事務仕事をいくつか片付けた。本社までは特急電車を使って一時間ほどかかる。守屋も霧島も一度帰宅して車を置き、身支度を整えてから向かうことにした。
霧島とは本社の最寄り駅で待ち合わせ、合流した。普段は工場のルールに合わせて作業上着を羽織っているので、スーツ姿が新鮮だった。
駅から会議室までの間、程々に会話をした気がするが、どんな話題だったのか、どんな受け答えをしたのか、守屋は思い出せなかった。
そして事前にメールで知らされていた会議室の扉を開けたとき、守屋は息を呑んだ。一人の男が待っていた。
「お、来たか。久しぶりだな、守屋」
「……天野……」
天野翔は椅子から立ち上がり、守屋と霧島を出迎えた。姿勢よく歩く姿が、上質なスーツによく似合っていた。
「活躍してるそうじゃないか。今回の話を聞いたときは驚いたよ」
天野は程よい声量で、滑舌良く喋った。
「ああ……。天野も、元気そうだな」
近くまで来た天野は守屋の肩を軽く叩き、にっと歯を見せた。白い歯だった。
天野の目が守屋から逸れた機に、唾を飲み込んで喉の渇きを癒した。わずかに落ち着いたことで、やるべきことを思い出した。
天野の視線は霧島を捉えていた。
「こちらは、霧島さん。研究部から今回のプロジェクトのために出向してきてくれた、助っ人だよ。僕の補佐もしてくれてたので、今日も参加してもらうことになった」
「霧島です。よろしくお願いします。良ければ、お名刺を」 二人は手際良く名刺を交換した。
天野は名刺を一瞥すると、顔を上げて霧島を見た。たぶん、一瞬で充分な情報を得たのだろう。慣れていることは全身から漂う余裕からも明らかだった。
「霧島、れいさん、で合ってますか?」
「はい」
「もし失礼だったらすみませんが、後輩の世代でしょうか?」
「はい。守屋さんの一つ下です。天野さんは守屋さんと同期、のようですね。なら、私は後輩にあたります」
「そうか、どうりで覚えがないわけだ。……そう、守屋とは同期です。まあそれだけでもないんですが」
天野はもう一度霧島の名刺に目を落としたかと思うと、すぐに守屋を見た。
「守屋にも渡しておこう。名刺、変わったんだ」
受け取った名刺には『課長』と書かれていた。
早速、広報部と開発部に分かれて机を挟んで会議を始めた。
大まかな流れは天野が予め考えてくれていたので、守屋は誤解や間違いを正すだけだった。そうしているうちに、インタビューの大枠が決まっていった。そのまま特に問題が起きることもなく、話し合いは順調に進んだ。
日が傾き、会議も終盤に差し掛かってきたときだった。天野が両手を組んで机に肘を乗せ、鋭い眼光を守屋に向けた。
「以上で大体は決まったわけですが——」 会議中、天野は口調を変えた。昔からけじめをつけたがる方だ。仕事は仕事、と区別したいのだろう。
「——当日のインタビューは、霧島さんに受けていただきたい」
守屋は天野の瞳の奥に、憎悪や怒りの色を垣間見た。
「……ええ。分かっています」
守屋がそう答えると、霧島が声を上げた。
「お二人とも、それはどういう意味ですか?」
天野は僅かに目元を緩め、視線を霧島に移した。人を諭すような表情だった。
「そのままの意味ですよ、霧島さん。守屋ではなく、貴女に受けてもらいたい」
「……なぜでしょう。今日の打合わせも、天野さんと守屋さんを中心に進んでいたのは明らかだったと思います。本プロジェクトを包括的に説明することにおいて、守屋さん以上の適任者はいません」
「確かに、守屋は完璧でした。正直言って、まだ明るい時間に終わるとは思ってませんでしたよ。しかし同時に、改めて確信しました。守屋は、いまでも俺の知る守屋だ、と。昔から優秀なやつなんです」
天野は顔を霧島に向けたまま、目を守屋に向けてきた。やはり、目の奥に見える天野の感情は、表面的な言葉とは一致していないように感じられた。
「なら、なおさら守屋さんが受けるべきでしょう。理由が分かりません」 霧島の語気が徐々に強くなっていた。 「……私が、女だからですか」 苦々しい声だった。
しかし天野は、首をゆっくり横に振った。
「いえ、それは違います。貴女が美しい女性であることは事実ですが、宣伝的なメリットとは考えていません。私は製品と会社の宣伝を成功させたいのです。その意味では、貴女に頼むことはリスクとすら思っています。貴女に注目が集まってしまう可能性は高いですからね。それでも、守屋よりはずっといい。……言葉を隠さずに言えば、私は守屋以外の人物に頼みたいのです」
「発言を撤回してください」 今度こそ霧島の声には、明らかな怒りが込められていた。これほど感情をあらわにする霧島を、守屋は初めて見た。 「守屋さんに失礼です。発言の撤回と謝罪を要求します」
「いや、いいんだ」 守屋は霧島を制した。 「僕も天野に賛成だ。適任者が霧島さんかどうかは考えないといけないけど、少なくとも、僕じゃない」
大きく見開かれた霧島の目を守屋は見た。彼女には、フォローした相手の裏切りに思えたかもしれない。やはり説明しなければならないだろう。
「天野と僕にとって、守屋という男は、リーダーやインタビューを任せちゃいけない人間なんだよ。実績がある」
「実績……?」
守屋はお茶が入ったペットボトルに手を伸ばした。喉も乾いていたが、霧島から目を逸らすのが主な目的だった。
一口含んでから、その話を始めた。
「僕と天野は、大学でも同期だったんだ。サークルも同じだった」
「サークル……確か、鉄道模型と仰ってました」
霧島には何かのときに話したかもしれない。彼女の前提知識を把握した天野が、補足の説明を始めた。
「そう。正しくはサークルじゃなくて、鉄道模型同好会ですがね。大学の学祭で展示することが一番のビッグイベントになるような、小さな同好会。そこで守屋は会長、俺は副会長をやっていたことがあります」
その頃、同好会のメンバーは総勢で十名程度だった。毎年恒例の学祭展示に向け、後輩を率いて準備に奔走した日々が思い起こされる。
続く説明も天野が引き継いだ。守屋にとっては避けたい話題だが、天野には吐き出したい想いがあるだろう。一度流れ出せば止まらない。
「俺らの大学では、展示の宣伝に強い制限がかけられる風習があります。事前も当日もビラ配りなどの単独宣伝を一切禁止されるんです」
「では、立て看板などを?」
「いえ、なんとそれも禁止なんです。昔、後片付けで問題があったとかで」
「……かなり変わってるように思います」
「そうですね。当時はそれを特色として美化してましたが。そういった特色のため、外部から学祭に訪れる方が展示の存在を知る手段は極めて限定されていました」
二人のやり取りを聞く守屋は、心臓が潰れそうな痛みを感じていた。呼吸を整え、それとなく天野の声色を聞き分け、霧島の反応を伺った。どんな感情で語り、どんな感想で聞くのか。
天野のトーンは、むしろ落ち着いていった。挨拶をしたときの快活なふるまいはどこかに消えてしまったようだった。
「学祭初日の朝、出展団体へのインタビューがあるんです。全学に生放送され、学祭期間中にあちこちで再放送されます。新聞部と放送部の見せ場であり、学祭を一気に盛り上げる恒例行事となっていました」
そう、恒例行事だった。それもいまはなくなり、大型モニタを用いた掲示に移行したと聞く。
「うちの同好会からは、守屋がインタビューに臨みました。会長として展示準備に最も貢献していたのは明らかでしたし、誰も反対しませんでした。守屋のリーダーシップについては、いまは霧島さんの方がよく知っているでしょう」
「ええ」 霧島は即答した。
「そして守屋は——」 天野がそう言いかけると、守屋の心臓が早鐘のように脈打った。次の言葉がいつ天野の口から出るのか、それが分からないことが守屋の不安を煽った。
そして耐えきれなくなった守屋は、天野の言葉を遮り、自ら語った。
「——僕は、すべてを台無しにしたんだ。カメラの前でマイクを向けられ、問われた質問に一切答えなかった。持ち時間をすべて使って、ただ無言で佇んだだけだったんだ」
机に落とした視線を上げることができなかった。天野は当時の怒りを思い出し、睨んでいるだろう。霧島はフォローしようとした人間の不甲斐なさを知り、無駄な時間を使ってしまったと後悔しているだろう。
二人は何も言わなかった。沈黙から逃れようと、次の言葉が出た。
「その年、鉄道模型同好会は展示していることすら認知されず、学祭を終えたよ。そしてその一ヶ月後、メンバー不足で同好会自体がなくなった」
守屋は顔を上げないように保ったまま、会議に使った資料をブリーフケースにしまい始めた。 「僕がリーダーとしてインタビューを受けると、そういうことになる。プロジェクトは台無しになって、二度とメンバーも集まらない。それだけは避けたい」
最後に残ったペットボトルに手を伸ばしながら、横目で天野の顔を見た。彼が何を考えているのかはさっぱり分からなかった。
「当日までに適任者を探しておくよ。今日はありがとう」
「……ああ。頼んだ。こんなタイミングで言うのもなんだが、飯食ってかないか? 店のあたりはつけてあるんだ」
守屋は立ち上がった。
「とても嬉しい申し出だけど、僕は真っ直ぐ帰るよ。霧島さんは是非ご馳走になってくるといい。きっと良いものを食べられるよ」
「そうか。……霧島さんはどうされますか?」
霧島はいつの間にか帰り支度を済ませていた。席を立ち、天野に向かって深く頭を下げた。
「せっかくですが、お断りさせていただきます。天野さんのお話には興味がありますが、異性と二人きりになるのは避けていますので」
なるほど、いつもこうやって断っているのだな、と守屋は思った。霧島が開発部に出向してすぐのころ、多くの男性社員が彼女に言い寄ったと聞いたことがある。だが、誰も食事に行くことすらできなかったらしい。
「うん、それがいい」
天野はそう応えると、ではお気をつけて、と続けた。
守屋はもう一度天野に軽い挨拶をし、会議室をあとにした。遅れて霧島が横に並んだ。本社内を無言で歩き、建物を出た。
「さて、来週には広報が工場に来るし、早いところ担当を決めないといけないな」 守屋は笑顔を作って言った。
霧島は何も言わなかった。守屋は彼女の顔を見ることができなかった。
三
帰りの特急電車で夢を見た。
大学にある中規模の講義室。椅子を端に寄せ、空いた中央のスペースに机を集めた。その上に小さな世界が造られている。山間、海沿い、都内、あちこちを複数の鉄道模型がはしる。念入りに作り込んだ小さな世界を、しかし覗く人影はない。模型の動作音がいやに耳についた。守屋はそう記憶している。
——誰も来ねえじゃん。
声だけがどこかから聞こえた。周囲を見渡しても、守屋の他には誰もいない。しかし、声の主の顔、そしてあのときの表情は、はっきりと脳裏に浮かんだ。
——待ってても意味ないな、これは。
——自分の模型、もう回収していいですか?
——なあ。
——やってらんねえ。
——なあ、もう一度やってみないか?
そこで目を覚ました。
車内アナウンスが何か言っているようだが、もごもごしていて聞き取れない。まだ少しぼんやりする意識の中で、守屋は自分を確認した。スーツ姿、左右二列ずつの通路席に座る、くたびれた頼りないサラリーマン。
吐息をついて座り直し、ペットボトルのお茶を飲んだ。ふと手のひらを開いてみると、爪のあとが残っていた。
隣の窓際席には誰もいなかった。荷物はそのままなので、連結部の方にでも行っているのかもしれない。
そう考えていたとき、ちょうど前方の扉から霧島が入ってきた。手には携帯電話が握られていた。
「もうすぐ到着です。よく眠れましたか?」 彼女が訊いた。
「寝不足は少し解消できたかな。悪いね、邪魔だっただろう」
守屋は立ち上がり、窓際席に霧島を通した。
「守屋さん、このあと何かご予定はありますか?」
腕につけた時計を確認した。まだ晩飯時と言っていい時刻だ。どこかで食べていってもいいし、帰りがけにコンビニで買って家で食べてもいい。どちらにせよ、独りであることに変わりはない。
「特に何もないかな。明日は土曜だし、適当に食べて帰ろうか悩むくらい」
霧島は数秒沈黙してから、口を開いた。
「では、少しお時間いただけませんか? お話したいことがあります」
守屋は頷いた。
きっと、インタビューを誰に頼むか決めるためだろう、と守屋は思った。一人で考えようと思っていたことだが、霧島も当事者なのだ。話し合った方がいいに決まっている。それに、もし山壁や金子に頼むことになるなら、今日中に連絡した方がいい。本番は来週の金曜日だ。
電車を降り、霧島のあとに続いた。
工場に近い駅としては珍しいことかもしれないが、この辺りはそこそこ栄えている。工場に勤務する者を始め、それなりの人間が密集して暮らしているからだ。
まだ多くの人が行き交う駅構内を抜け、改札を通り、地下通路を歩いた。霧島はたまに携帯電話を確認していた。行き慣れた場所に向かっているのではなさそうだった。
前を歩く霧島の背を見ながら、守屋はどこまで行くのか気にし始めていた。話をするだけならカフェや喫茶店で充分なはずだが、すでに何店か通過していた。
やがて、洒落た扉のエレベーターにたどり着いた。近くの案内表示に、高級感のあるカタカナで修飾されたホテル名が書かれている。前に誰かから、駅直結で結婚式もできる立派なホテルがあると聞いたことを思い出した。
エレベーターに乗り込むと、霧島は最上階のボタンを押した。筆記体で何か書いてあるようだったが、守屋にはよく読めなかった。
「えっと、どこに行くのかな?」
やっと喧騒から離れたので、訊くことができた。
「レストランです」 霧島は前を向いたまま答えた。
予想外の回答に守屋は少し驚いてしまった。確かに空腹なのでカフェに行くより嬉しいが、秘密が一つ増えてしまった。霧島と二人で食事に行ったなんてことが工場の誰かに知られたら、大騒ぎは避けられない。
エレベーターの扉が開いた。分厚い赤い絨毯が敷かれている。
ますます言い訳しにくそうだと心配が増した。その一方で、確かにこういう店の方が話しやすいのかもしれない、とも思った。近くの客の耳を気にしなくても良さそうだ。
受付の男性に霧島が名乗ると、すぐに奥からウェイターが現れた。
案内されたのは、他の席から少し離れた、明らかに特別な一席だった。
「何も訊かずに付いてきちゃったけど、大丈夫? 随分と立派な席だけど……」 心配が勝ち、守屋は尋ねた。万が一、霧島が何かの勘違いで店に入り、後に引けなくなったのだとしたら大変だと思ったからだ。そのときの受け答えも用意していた。
「はい。私がご馳走しますので、気にせず召し上がってください」
「うん。それじゃ支払いは僕がするからさ、せっかくだし美味しいものを……え?」
途中で霧島の言葉を理解し、彼女の顔を見た。あの霧島が、くすりと笑った。すぐにメニュー表で隠れてしまったので、幻覚だったかもしれない。
守屋も料理を選ぶことにし、一通りの料理名を確認した。誠に残念ながら、かろうじて使われている肉の種類が分かる程度で、料理のイメージはさっぱり湧かなかった。
「……メニューを見ても、よく分かりませんね」 霧島が言った。
「あ、同じこと考えてたよ」
「実は、予め人気メニューを調べてあるんです」
結局、二人とも霧島が調査した人気メニューを頼み、前菜やワインなどはウェイターの勧めに従った。
食前酒から始まり、運ばれてくる料理はどれも見た目と味で二人を愉しませた。二人は感想を言い合いながら他愛のない会話をした。霧島は口元を隠して何度も笑っていた。
気づけば食後のワインがグラスに注がれていた。これからはウェイターも頻繁には来ない。いよいよ本題に移るタイミングだ、と守屋は思った。
「……ところで、来週のインタビューの件だけど、霧島さんは誰が適任だと思う? 僕としては、天野が言うように霧島さんか、元々リーダーの山壁課長、あとは若手の活気をアピールできる金子くんじゃないかと考えてるんだけど。長谷川くんも考えてみたけど、彼は口下手な方だし、発表経験もちょっと少ないかな、と思う。どうかな?」
食事中に会話していたときと同じテンポ、同じトーンで守屋は問いかけた、つもりだった。少なくともそうなるように注意した。
しかし霧島の表情は同じではなかった。せっかく見れた柔らかな微笑みが、すっと消えた。守屋は背筋が寒くなったような気がした。
霧島は無表情のまま、ワインを一口飲んだ。
「守屋さん。私が出向してきてすぐのこと、覚えていますか?」 グラスに視線を落としたまま言った。
「二年前だよね。それはもちろん覚えてるけど……」
「そうです。二年前に、私は研究所から工場に移ってきました。最初の業務はプレゼンでした。このプロジェクトの中核になると言われた私の制御手法を、メンバーの皆さんに理解してもらうためのプレゼンです。システム全体の概念設計を進めるためには不可欠だと聞いたので、一刻も早く目的を達成しなければいけないと考えていました」
当時の記憶が段々と鮮明になってきた。十人強の開発メンバーで中規模の会議室に集まり、霧島の話を聞いた。
「私なりに工夫したプレゼンでした。でも、ほとんどの人には全く伝わらなかった。細かい内容はもちろん、何が製品の魅力になるのかすら理解してもらえませんでした。……皆さんの前に立って発表すると、顔がよく見えますよね。頷いていたのは山壁課長と守屋さんだけでした。他は、眠そうな方がほとんどでしたね」
確かに、霧島のプレゼンは最初、不評だった。
そもそもこのプロジェクトはこれまでにないコンセプトに基づいているため、先入観にとらわれないことが重要である。開発メンバーの多くはそれが少し苦手だった。既存製品の品質を維持し、徐々に改善することが彼らの仕事だったのだから、それも仕方ないことだと思う。
それに対し、霧島はこれまでにない技術を追い求め、研究してきた人間だ。感覚に多少のずれがあることも、また仕方ないことだと思っていた。
「いまだから言えますが、私は完全に手詰まりだと感じていました。開発の現場に立ったことがない私には、皆さんの価値観が分かりませんでした。なぜ理解してもらえないのかが理解できませんでした。問題が何か分からなかったんです。それでは解決のしようもない、と、諦めかけていました」
記憶の中からある光景が浮かんできた。残業時間中、守屋が予定していた仕事を片付けたときだったと思う。ひとけの減った薄暗いフロアで、キーボードに置いた手が止まったままの霧島を見かけた。
「そんなとき、守屋さんが話しかけてくれました。しかも、メンバーの皆さんの感想を予想して、私にも分かるように教えてくれました」
それは、守屋にとって特別なことではなかった。困っている後輩がいで、自分にできることがある。その状況なら、当たり前のことだと思った。
「お陰で私のプレゼン資料は劇的に改善されました。次の発表を終えたときの、皆さんの反応は忘れません。金子くんなんて、椅子から立ち上がっていましたよね」
「そうだったね。確かに、一気にプロジェクトに火がついたことをよく覚えてる。霧島さんがつけてくれたんだ」
守屋の胸中で霧島への感謝の気持ちが膨らんだ。このプロジェクトの成功は、ひとえに彼女の貢献に依るものだと確信した。やはり、インタビューの適任者は霧島だろう。
しかし、彼女は首を横に振った。
「いいえ」
ワイングラスに向けられたままだった彼女の視線が、守屋を真っ直ぐに捉えた。 「あのとき守屋さんが気にかけてくれなかったら、プレゼンの成功はありませんでした。メンバーは団結できなかったかもしれませんし、プロジェクトも失敗に終わっていたかもしれません。私のキャリアは、終わっていたと思います」
「そんなことは……」 ないかどうかは、守屋にも分からなかった。それは起きなかった未来だからだ。
「可能性の話です。でも、守屋さんが支えてくれたから、そうはなりませんでした。だから次は、私が支える番だと思います。……いえ、私に支えさせてください」
「ごめん。何の話か分からなくなってきた。僕はインタビューの担当者を——」
「——守屋さん以上の適任者はいません」 霧島が遮って言った。
心臓がばくんと脈打った。
「もちろん、天野さんから聞いた話を忘れたわけではありません。守屋さんの気持ちを分かることも難しいと思います。でも、私は守屋さんに、自分の可能性を諦めたままでいてほしくありません。だから私が支えます。守屋さん、もう一度、挑戦してみませんか?」
——なあ、もう一度やってみないか?
誰かの顔が浮かんだ。いつも自信に満ちているあいつにしては、珍しい顔だったような気がする。
守屋は全身が熱くなるのを感じた。酒に酔ったせいなのか、焦りのせいなのか判別できない。
「僕はまた、失敗するかもしれない」 気が付いたら、言い訳が口から滑り出ていた。
「なるべく失敗しないように、私が練習につき合います。もし失敗しても、私は側から離れません」
同好会の人数が減っていく中、あいつは最後まで残っていた。そんなあいつも最後には去っていった。みんな、それぞれ自分のことで精一杯だ。誰かに構ってばかりはいられない。だからあいつは正しかったと思う。みんなそうする。
「君は研究所から出向してきたんだから、このプロジェクトが終われば帰るだろう。僕の側には誰も残らないよ」
霧島はすぐには答えなかった。やっぱり、と守屋が思ったとき、彼女はこう言った。
「仕事以外でも側にいさせてもらうことは、できませんか?」
霧島を見た。いつから目を逸らしていたのか、守屋には分からなかった。
彼女の表情は読めなかった。無表情ではない。一番近いのは不安だと思うが、それだけではないように思えた。
「えっと、僕の勘違いだったら申し訳ないんだけど、それって……」
「勘違いではありません。私は守屋さんをプライベートでも支えたいんです。その、実は私、こういうところに男性と来るのも初めてで、どう表現すればいいのか分からないんですが……」
途端に歯切れの悪くなった彼女を見て、さすがの守屋でも分かった。
つい吐息が漏れた。自分に対するため息だ。
「……不甲斐ないな、僕は。君にここまでさせて、ようやく何かすっきりしたような気がするよ。……こんな僕で本当にいいのかな?」
「はい。いつかまた私が弱ったときは、お返ししてくださいね」 霧島は微笑んだ。
その微笑みをいつまでも見ていたい、と守屋は思った。
不思議なことに、それだけでやる気が満ちてきた。これからは二人で挑戦して、たまに失敗して、でも一緒に乗り越えていける。そう信じられた。
インタビューの段取りを思い浮かべる。最初の挑戦としては、充分過ぎるほどお膳立てされている。なにせ、今回は支えてくれる人が二人もいるのだ。
*
業務の合間に練習を重ね、当日を迎えた。
天野は僕の顔をじっと見ると、じゃ、始めるか、とだけ言った。




