心機一転
川沿いの岩に腰を下ろし、流れを眺めていた。水は澄んでいて、陽の光を反射しながら絶えず形を変えている。隣にはノワールがいる。言葉は少ないが、沈黙が不自然じゃない距離だった。
ベニエの言葉が、頭の中で静かに形を成していく。勇者としての使命、魔王討伐、敗北継承はハズレじゃないという事実、祝福は成長し、神化するという話。父は勝利よりも守ることを選び、誰よりも魔王に迫った。立派だったし、間違ってもいなかった。ただ――敗北を選べなかった。それだけだ。
俺は小さく息を吐く。やるべきことは、もう決まっている。魔王を倒す。そのために能力を磨き、神化させる。負けを恐れず、生き延びる。父の背中は、今も確かに俺の中にあった。
「……考え、まとまった?」
ノワールが川を見たまま訊いた。声は柔らかい。
「ああ。やることは、はっきりした」
「そう」
少し間が空く。彼女は小石を拾って、水面に放った。軽い音が弧を描いて消える。
「……お母さんのこと、さ」
視線をこちらに向けずに、ノワールが言った。
「どんな人だったの?」
一瞬、胸の奥がきゅっと縮む。だが、避ける理由はなかった。
「……俺が十二の時に、病で亡くなった」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「強い人だった。俺が勇者を目指すって言った時、怖くても逃げない人になりなさいって……それから、仲間を守れる人に、って」
ノワールは何も言わない。ただ、聞いている。手が、そっと俺の隣に置かれる。触れない。だが、近い。
「……いいお母さんだね」
「ああ」
少し照れくさくなって、川に目を戻す。
「だったらさ」
ノワールが言う。
「ここで、しばらく隠れよう。追っ手も来てるし、今は旅に出るより、強くなる方が先だと思う」
理にかなっている。俺も頷いた。
「それにこの辺りはおばあちゃんの魔法がかかってる。外から感知できない。追っ手も、まず辿り着けないわ」
「そうか、それはいいな。死ぬほど特訓して、祝福を神化させてからでも遅くはないだろう。焦って旅に出るより、今は強くなる時間を取った方が賢明か」
「うんうん!」
彼女は小さく笑った。
「……私もね、両親がいないの。昔から」
初めて聞く話だった。
「だから、ルー君を見ていると、どうも他人事に思えなくて」
そう言って、今度ははっきりと俺を見る。距離が、少しだけ縮まる。
「放っておけない、っていうか……気になるというか」
不意に、胸が早鐘を打つ。ノワールは視線を外し、耳まで赤くなる。
「勘違いしないで。保護者的な意味も、あるから」
「……半分くらい、信じておく」
そう返すと、彼女はむっとして俺の腕を軽く叩いた。力は弱い。
「もう」
風が吹いて、彼女の髪が肩に触れた。甘い匂いが、ほんの一瞬だけ近づく。
「ね、ルー君」
名前を呼ばれるだけで、妙に落ち着く。
「無茶はしないで。負けていい時は、負けていいから」
「……ああ」
そう答えると、ノワールはほっとしたように微笑った。そのまま一歩近づき、ためらう仕草すら見せず、俺の肩に体重を預けてくる。柔らかな感触と、体温がはっきりと伝わった。
近い。
髪から、かすかに甘い匂いがする。息遣いが、耳に届く距離だ。
「今は、それでいいの」
囁くような声。指先が、無意識に俺の服の裾をつまんでいるのが分かる。
(……まずいな)
理性が警鐘を鳴らす一方で、肩に乗る重みを拒めない自分がいた。守られているという安心感と、距離の近さが、静かに心を揺らす。
川の音が、ゆっくりと流れていく。
俺は、意識して肩の力を抜いた。
――これ以上、踏み込みすぎないように。




