合縁奇縁
目を覚ましてから、半日は眠っていたらしい。
身体の痛みはまだ残っているが、あの時のように思考が途切れる感覚はなかった。布団から上体を起こすと、小屋の中に湯気の立つ匂いが漂っている。香草と焼いた肉、それからほんのりと甘い根菜の匂いだった。
「あ、起きた?」
声の方を見ると、ノワールが台所に立っていた。袖を少しまくり、鍋をかき混ぜている。柔らかい表情だった。
「ああ……」
「無理しなくていいわよ。でも、ちょうど良かった」
そう言って火を弱め、器を二つ並べる。
「食べられそう?」
「……いいのか?」
「遠慮なんてしないで」
正直、空腹を感じていた。卓に並んだのは煮込み料理と焼き立ての平たいパンで、素朴だが丁寧に作られているのが一目で分かる。スプーンを口に運ぶと、じんわりと温かさが広がった。塩加減は控えめで、素材の味がしっかりと生きている。
「……うまい」
そう言うと、ノワールは少しだけ目を細めた。
「よかった。こういうの、嫌いな人もいるから」
「いや……こういう食事は、久しぶりだ」
嘘じゃなかった。王都にいた頃は、訓練と形式ばった食事ばかりだったのだから。
しばらく言葉のない時間が流れたが、その空気を破ったのは、奥の部屋から聞こえてきたかすれた声だった。
「……起きたのかい」
扉がぎぃ、と音を立てて開き、小柄な老婆が姿を現す。白髪は無造作に束ねられ、深い皺の刻まれた顔には奇妙な力があり、特にその目だけが異様なほど鋭かった。
「あ、おばあちゃん」
ノワールがそう呼び、俺の方へ軽く視線を向けた。
「この人が、川で拾った人。……ルーザー=フォールよ」
それから少しだけ言葉を選ぶように間を置き、付け加える。
「訳ありみたいだけど、悪い人じゃないと思う」
ノワールは俺に向き直り、少しだけ胸を張る。
「この人が、私のおばあちゃん。名前は――ベニエ。占い師よ」
ベニエは俺を一瞥した、いや、覗き込まれたと言った方が正確だった。
「ふん……」
喉を鳴らすような笑いを漏らす。
「随分と、厄介な匂いを連れてきたね」
その一言で、背中がわずかに強張る。
「……初めまして」
そう言うと、ベニエは鼻で笑った。
「初めまして、じゃないよ。あたしはね、何人も“おまえさんみたいなの”を見てきた」
杖を鳴らして椅子に腰を下ろすと続けた。
「昔から決まりがあってね、勇者が旅立つ前には、必ず一度あたしの元へ来るんだよ」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「……勇者、ですか」
「そうさ。歴代の勇者は皆ここへ来た。剣を手にする前、運命に抗う前にね」
ノワールが静かに頷く。
「それが、習わしなの」
「幸か不幸か」
ベニエは俺を指差した。
「おまえさんも“一応”勇者だ。だから、占う資格はある」
一応、という言い方に思わず苦笑する。
「――知りたいかい? これからどうすればいいのか、その力が何なのか、そして……」
ベニエは目を細め、楽しげに笑った。
「歴代勇者が、なぜ全員敗北したのかを」
部屋の空気が、静かに変わった。俺は背筋を伸ばす。ここから先は休息じゃない、運命の話だ。
*****
俺は、これまでの経緯をすべて話した。
王城での儀式、敗北継承という能力、ハズレだと断じられ追放されたこと、そして暗殺者に狙われ、川に落ちたことまで。話し終える頃には、喉がひどく乾いていた。
ベニエは黙って聞いていたが、最後まで遮ることはなかった。やがて小さく息を吐き、杖を床に鳴らす。
「……やっぱりね」
その声音には、驚きも同情もなかった。
「だが、勇者である以上、おまえさんは魔王のもとへ向かわなきゃならない。それが使命だよ」
俺は眉をひそめる。
「使命……ですか。俺はもう勇者じゃない。王に資格を剥奪され、国から追放された身です」
「そんなもの、気にするに値しないね」
ベニエは鼻で笑った。
「王だの国だのは、その時々の都合で言うことを変える。状況が変われば、昨日追い出した相手にも土下座するのが権力者ってものさ」
ノワールが静かに頷く。
「だからこそだよ。使命を放棄すれば、災厄が降りかかる。おまえさんだけじゃない、この世界そのものに、だ」
その言葉は脅しではなく、事実の確認のようだった。
「勇者はただの称号じゃない。役割だ。逃げれば、世界がそのツケを払うことになる」
胸の奥に、重たいものが落ちる。
「……だから、進むしかないと?」
「そうだ」
ベニエは俺をまっすぐに見据えた。
「使命を果たしな。おまえさんには、まだ終わっていない道がある」
それは、初めて誰かから与えられた“希望”だった。
「おまえさんの祝福はたしか……敗北継承、だったね」
その言葉を、ベニエは不思議と大切そうに口にした。
「これをハズレ扱い? ……あの王都のジジイども、とうとう揃ってボケよったかね。神の祝福を値踏みするほど、偉くなったつもりかい」
「え、ハズレ……じゃないんですか?」
「笑わせるんじゃないよ。神から授かった祝福をハズレだと宣う輩には、いずれ天罰が下るさ」
俺は黙って聞く。
「祝福ってのはね、最初から完成しているものじゃない。神化するんだよ」
「……神化?」
「そうさ。歴代の勇者は皆、最初から規格外の祝福を与えられていた。だが、それで終わりな訳じゃない。旅をし、戦い、失い、進み続けるうちに、祝福そのものが変質し、より強大なものへと神化していった」
ベニエは杖で俺の胸元を指した。
「今のおまえさんの祝福は、まだ全貌を現していない。だからこそ恐ろしい。神化すれば、過去のどの勇者よりも、とんでもない代物になる可能性がある」
喉が鳴る。
「……じゃあ、俺はどうすれば」
「特訓しな。考え、試し、使い倒しな。それが神化への一番の近道だ」
俺は、ひとつだけ、どうしても聞きたいことを口にした。
「……それでも、ですよ。そんな強大な能力……祝福を持ちながら、なぜ歴代勇者は誰一人、魔王に勝てなかったんですか」
その問いに、ベニエは一瞬だけ口を閉ざした。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
やがて、静かに言う。
「――勝利に固執したからだ」
俺は息を呑む。
「奴らは皆、“勝つこと”しか見ていなかった。引くことを知らず、負けを受け入れず、敗北から学ぶことを拒んだ。授かった祝福が強大だったが故にな。その結果、魔王の土俵に立ち続け、同じ形で潰されていった」
ベニエの目が、細く光る。
「敗北を否定した勇者たちが、敗北した。ただそれだけの話さ」
その言葉は、皮肉でもあり、警告でもあった。
ベニエは、ふっと息を吐いた。その視線が、俺から少しだけ外れる。
「……ただし、ひとりだけ例外がいた。名をウィルバート=フォール……おまえさんの父親だよ」
その名を聞いた瞬間、心臓が強く打った。
「あの男は、他の勇者と違った。勝利にも、栄光にも、王の評価にも興味を示さなかった。考えていたのは、いつだって家族のこと、仲間のこと、そして“守るべきもの”のことだけさ」
ノワールが、息を呑む気配がした。
「勝つためじゃない。生きて帰るためでもない。ただ、誰かを守るために剣を振るった。それが、あの男の戦い方だった。だからこそ、誰よりも魔王に近づいた。あたしが見てきた中で、唯一、魔王を追い詰めた勇者だよ」
ベニエの目が、わずかに和らぐ。
「……それでも、父は負けた」
俺がそう言うと、ベニエは小さく頷いた。
「そうだ」
一拍置いて、言葉を継ぐ。
「最後の最後で、あの男は“敗北”を許さなかった。退くことも、捨てることも、犠牲を選ぶこともできなかった。守るものが多すぎたんだ」
杖が、床を鳴らす。
「魔王は、そこを突いた。あの男の強さじゃない、優しさをだよ」
胸が、締めつけられる。
「勝たなければならない。守らなければならない。負けてはいけない。そう思い続けた結果、逃げ道を自分で潰してしまった」
ベニエは、俺をまっすぐに見た。
「だから死んだ。強かったからじゃない。弱かったからでもない。敗北を選べなかったからだ」
その言葉は、重く、静かに胸に落ちた。
俺は、無意識に拳を握りしめていた。
父は、間違っていなかった。
だが――正解でもなかった。
その事実が、何よりも苦しかった。
――敗北を、継承する者として。




