戦意喪失
川沿いの道は、思ったよりも穏やかだった。
夜明け前の空は薄く白み始め、霧が水面を覆っている。
俺は濡れた地面を踏みしめながら、なんとなく隣町へ続く街道を目指して歩いていた。
(……思ったより、静かだな)
正直に言えば、拍子抜けしていた。追放された直後で、森を抜け、魔物にも襲われた。それでも生きている。
王都を出た人間が、いきなり暗殺されるほど――俺は、そこまでの存在じゃないと思っていた。
(……あいつらにとっては、失敗した勇者なんて抹消したい存在なんだろうな)
年に一度の儀式は確かに無駄になった。
だがそれは、神の気まぐれであって、俺の罪じゃない。
そう、どこかで自分に言い聞かせていた。
不意に、背中がざわついた。
理由は分からない。
ただ、空気が変わった。
「……?」
足を止めかけた、その瞬間。
ヒュン――ッ!
耳元を、何かがかすめた。
ドスッ
地面に突き立つ短剣。
(――!?)
反射的に距離を取る。
次の瞬間、左右の林から人影が躍り出た。
黒装束。
三人の揃った動き。
迷いのない踏み込み。
「……勇者様」
刃を構えたまま、黒装束の女が呼びかけてきた。
「いえ、元勇者でしたか」
その声音には、嘲りも怒りもない。
あるのは、仕事としての淡々とした冷酷さだけ。
「王権の名のもとに、あなたの抹消が命じられています」
一歩、距離を詰める。
「――大人しく処理されてください」
「――っ!」
声を出す暇もなかった。
刃が閃き、風を切る。殺気が、まっすぐに俺に向けられている。
喉の奥が、ひりついた。
暗殺者を送り込むほど、俺が“やらかした”ということなのか。勇者の儀を無効にした。一年間、勇者不在にした。
――その責任を、俺一人に押しつけたということか。
(……冗談じゃない)
理解した瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
(そんなに……俺の存在は、都合が悪いのか)
考えが、怒りではなく、自責に変わるのが、自分でも分かった。
(……すまない、って言えば済む話じゃないよな)
その時だった。
《後ろに下がるな》
声が、頭に走った。
「……っ」
反射的に前へ踏み出す。
次の瞬間
ズザッ!!
さっきまで立っていた場所を、刃が貫いた。
ギリギリだ。だが――
ザザッ
今度は違った。頭の奥に、一瞬だけ映像が流れ込んできた。
――自分が、そこに立ち続けた結果、背後から串刺しにされる姿。
「……これは」
息が詰まる。
(今の……俺の、未来? )
疑問を抱く暇はない。
身体が、勝手に動いた。
半歩ずらし、姿勢を低くする。
刃が空を切り、暗殺者の一人がバランスを崩した。
「……なにっ!」
(……やっぱり)
声だけじゃない。
“敗北”という結果が、今度は映像として流れ込んでくる。
理解した瞬間、寒気がした。
(能力が……変化した?)
次の瞬間、また映像。
――敵の攻撃を剣で受け止めた直後、左右から喉を裂かれる姿。
(また……戦うなってことか)
剣を抜こうとした手を止め、代わりに地面を蹴って大きく後ろへ下がる。
暗殺者の連携攻撃は完璧だった。
だが――完璧だからこそ、すべての攻撃が俺の敗北につながり、《敗北継承》が発動する。
もし仮に、敵の攻撃が致命傷とならず、単に俺の機動力を削ぐ攻撃であれば、能力が発動したとしても動けなければ意味がない。
恐怖はある。だが、迷いがない。戦っているというより、失敗を一つずつ潰している感覚。
刃が、腕をかすめる。
血が出る。
それでも、致命傷は避けている。
(……長引けば、いずれ詰む)
声が、警告する。
《地上に留まるな》
「なにっ、どういうことだ……」
今回は映像ではなく声のみの警告だった。
次の瞬間、空気が変わった。
鼻を刺す、甘ったるい匂い。
金属と薬品が混じったような、不快な臭気が地面を這う。
(――これは、毒⁉)
そう理解した時には、もう遅かった。
暗殺者の一人が、地面へ短剣を突き立てる。
刃から滲み出た黒紫の液体が、波紋のように広がり――
シュウウウ……
土も、草も、岩肌さえも侵食しながら、毒霧が立ち上った。
(……地面一帯を、殺す気か)
一息吸っただけでも、ただでは済まない。
俺は一瞬で判断を切り替えた。
――川だ。
踵を返し、全力で駆ける。
背後で、誰かが叫んだ。
「逃がすな――!」
毒霧が、足元を舐める。皮膚が、ひりつく。
俺は、ためらわずに宙へ身を投げた。
次の瞬間――
ドォン!!
視界が、白く弾けた。
炎だ。
別の暗殺者が、毒霧へ向けて炎の魔法を放ったのが分かった。
毒に引火し、空気そのものが爆ぜる。
爆風が、背中を殴りつける。
ザブン!!
身体が、川へ叩き込まれた。
冷水が、全身を包む。
だが安堵する暇はない。
爆発の衝撃が、水中まで届く。
流れが、狂った。
(……っ)
身体が制御できない。
次の瞬間――
ゴンッ!!
鈍い衝撃が、頭を打った。
視界が、ぐらりと歪む。
(……しまっ……)
思考が、途切れた。
水の中で、光が遠ざかっていく。
音も、声も、
すべてが――溶けていく。
*****
次に目を覚ました時、俺は見知らぬ天井を見ていた。
木の梁。
藁の匂い。
小さな窓から、朝日が差し込んでいる。
「……ここは……」
声を出した瞬間――
柔らかい影が、視界に落ちた。
「……あ、起きた」
すぐ近く。
思った以上に近い距離で、誰かが覗き込んでいた。
長い黒髪が、肩口から零れ落ちる。
豊かな胸元を包む薄手の服が、呼吸に合わせてわずかに揺れた。
伏し目がちの瞳が、ゆっくりと俺を捉える。
近い。
近すぎる。
無意識に身を起こそうとして、身体が軋んだ。
「っ……」
「あ、だめ。まだ動いちゃ」
彼女は慌てて身を引く――かと思いきや、逆にそっと俺の肩に手を置いた。
柔らかい。
温かい。
「川で倒れてたの。流れが強かったから……危なかったわ」
声は落ち着いていて、低く、優しい。
妙に、耳に残る。
「……助けてくれたのか」
「うん。正確には、拾った、かな」
少し照れたように微笑う。
だが、その笑みの奥に、どこか大人びた余裕があった。
俺を見下ろす視線が、ふと、鋭くなる。
「ねえ……」
彼女は、ほんの少しだけ身を乗り出した。
「あなた、普通の人じゃないでしょ」
胸の奥が、きゅっと締まる。
逃げ場のない距離。
それでも、責める色はない。
あるのは――興味と、静かな警戒。
「……訳ありだ」
そう答えると、彼女は小さく頷いた。
「そっか」
それ以上、踏み込んでこない。代わりに、ゆっくりと身体を離し、言った。
「じゃあ、しばらく休んで。生き延びた人の顔……してないもの」
少しだけ間があって、彼女は思い出したように付け加える。
「あ、そうだ。まだ名乗ってなかったわね」
柔らかな声で、微笑む。
「私、ノワール。この川沿いで、おばあちゃんとふたりで暮らしてるの」
名を聞いた瞬間、不思議と胸に残った。
静かで、夜のような響き。
「……ルーザー」
一拍置いて、続ける。
「ルーザー=フォールだ」
彼女はその名を繰り返さない。
驚きも、怪訝な顔もしなかった。
「じゃあ、ルー君。ここでは安心して休んでいいわ」
その言葉に、俺は目を閉じた。




