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敗北継承

「ねぇママ」

「なあに?」


 小さな家の炉にくべられた薪は、すぐに赤くなって、すぐに静かになる。

 少年は、その火を見つめながら、母の膝元に座っていた。


「僕、大きくなったら……勇者になれるかな」


 母は一瞬だけ手を止め、それからゆっくりと微笑んだ。


「ええ。なれるわ」


 そう言って、少年の頭に手を置く。


「あなたは、パパとママの子だもの」

「ほんと!?」

「ほんとよ」


 壁に立てかけられた一本の剣。父が使っていたものだ。もう、戻ってくることのない勇者の剣。


「勇者ってね、強いだけじゃだめなの。皆の先頭に立ち、どんなに怖くても決して怯まず、大切な人を守れる人」


 少年は、力いっぱい頷いた。


「そして、最後まで負けない……それが勇者なのよ?」

「じゃあ僕、絶対なる! パパみたいに世界で一番強くて、一番負けない勇者に!」


 母は笑った。

 けれど、その笑顔はほんの少しだけ、震えていた。


「……ええ。きっと」


 その言葉が、願いだったのか、祈りだったのか。

 少年には、まだ分からなかった。



***



 それから十年。


 十八歳の誕生日を迎えた俺――ルーザー=フォールは、王城の大広間に立っていた。


 赤い絨毯。天井まで届く柱。壁一面に刻まれた、歴代勇者の名と功績。


(……ここに立つ日が、来たんだ)


 喉が、無意識に鳴る。胸の奥が、熱を帯びていく。


 ――俺は、勇者になる。


 父のように。

 母が信じてくれたように。


(……母さん、父さん。そこから見ていてくれ。立派な勇者になってみせるから)


 この世界を脅かす魔王を倒し、もう誰も泣かなくていい世界を作る。


 そのために――ここまで一人で生きてきた。


「天啓を授かりし、新たなる勇者よ」


 玉座の上から、王の声が響く。


「汝に、神の祝福を授けよう」


 ゴォォン……ゴォォン……


 祝福を告げる鐘の音と共に、光が降り注いだ。


 眩い。

 温かい。

 包み込まれるような感覚。


(……これが、祝福……)


 身体の奥へ、何かが流れ込んでくる。


 力だ。

 奇跡だ。

 勇者にふさわしい“何か”。


 そう、信じた。


 ――だが。


 胸の奥に流れ込んできたのは、歓喜でも、希望でもなかった。


 ――ザ……ッ。


 視界が、一瞬だけ乱れる。


 ――ザザ……ギ、……ッ……。


 頭の奥で、何かが擦れるような音がした。映像が歪み、繋がらず、無理やり重ねられていく。


 ――記憶。

 ――恐怖。

 ――失敗。


(……?)


 知らないはずの光景が、頭の中に溢れ出す。


 踏み込んだ瞬間に、斬られる感覚。

 守ろうとした仲間が、目の前で死ぬ光景。

 いけると信じた判断が、全滅に繋がる瞬間。


 ザッ、……ザザ……ッ。


 頭の中で、映像が何度も巻き戻され、再生されるたびに結末だけが強調される。


 逃げられたはずの一瞬。

 避けられたはずの判断。


 息が、詰まった。


「……能力名」


 神官の声が、わずかに震えている。嫌な予感が、背骨を這い上がった。


「《敗北継承(ロスト・レガシー)》」


 一瞬、音が消えた。


 玉座の上で、王が眉をひそめる。


「神官。――それは、いかなる能力だ」


 その声には、苛立ちと困惑が混じっていた。神官は一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせる。


「そ、それは……」


 喉を鳴らし、気まずそうに言葉を選ぶ。


「歴代の勇者が辿った“敗北の記憶”を……引き継ぐ能力にございます」

「は?」


 俺は耳を疑った。


「敗北の……記憶?」

「それが、力になるとでも?」

「聞いたことがない……」


 誰かの失笑が漏れる。


「馬鹿な……」

「今までは――」


 そう、今までは。


 あらゆる攻撃を無効化する完全防御。触れたものすべてを消し飛ばす絶対破壊。一度見た技を即座に再現する完全模倣。世界中どこへでも瞬時に移動できる瞬間転移。運命そのものを自分に有利に歪める幸運支配。


 ――どれも、戦う前から勝敗が決まっているような力だった。


 歴代の勇者は、皆、規格外の力を授けられ、誰もが“勝つための能力”を与えられ、そして戦場へ送り出されてきたのだ。


 それなのに――


「敗北を、継承する……だと?」


 ざわめきは、次第にどよめきへと変わっていく。

 困惑、失望、そして――明確な落胆。


 俺は、その中心で立ち尽くしていた。胸の奥が、静かに冷え切っていく。


 そう理解した瞬間、今まで積み上げてきたものが音もなく崩れた。剣を振り続けた日々も、血だらけになった手も、すべては父のような勇者になるためだった。母に約束した。「きっとなれる」と信じて、ここまで来た。それなのに与えられたのは、勝つ力ではない。


 敗北だった。


 叫びは出ない。ただ、夢だけが終わった。


「……裁定を下す」


 王の声は、広間に低く響いた。そこには迷いも、感情もない。ただの決定だけがあった。


「その能力は、魔王討伐に不適だ。歴代の勇者は、いずれも圧倒的な力を授かり、正面から魔王に挑み――そして敗れてきた。敗北を継承する力など、戦場ではなんの役にも立たぬ。それは勇者の力ではない」


 玉座の上から注がれる視線が、俺を射抜く。値踏みするような、冷たい目だった。


「魔王の侵略に抗うため、この国は常に“勇者”を必要としてきた。圧倒的な力を持つ存在――それこそが、国を存続させる最後の楔だからだ」


 王は淡々と続ける。


「だが今回の儀で現れたのは、敗北を継承する力。それでは、魔王に抗う抑止力にすらならぬ」


 周囲の貴族たちが、重く息を吐いた。理解しているのだ。この判断が意味するものを。


「この儀をもって次の勇者を選ぶことはできない――すなわち! ……次の儀式までの一年間、この国は勇者不在で魔王の侵略に耐えねばならぬ」


 それは、王国が最も恐れていた状況だった。

 騎士団だけでは足りない。魔導師団を総動員しても、限界がある。本来なら、勇者が前線に立つはずだった一年。


「無論、お前の責ではない。神が与えた祝福であろうと、お前がそれを望んだわけではないことも承知している。」


 王の声が、ほんのわずかだけ低くなる。


「だが同時に、敗北を継承する力を持つ勇者を抱えたまま、国の存亡を賭けた一年を迎えることはできぬ」


 一拍。


「ルーザー=フォールよ。お前は、ハズレだ」


 断罪するような言葉が、静かに落とされた。


「勇者としての資格は認めない。よって――勇者の儀は無効とする」


 王は、最後に告げる。


「即刻、王都より追放。二度と、この国の門をくぐることは許されぬ」


 それは裁きではなかった。使えない駒を、切り捨てただけの処理だった。


「――お、俺は!」


 反論しようとして、言葉が見つからない。

 拳を握りしめ、爪が食い込む。

 それでも、何も変わらないと理解して、ゆっくり力を抜いた。


「…………分かりました」


 口をついて出たのは、それだけだった。


 怒りも、悲鳴もなかった。

 胸の奥で、何かが静かに折れただけだ。



***



 ギィ……ドン。


 王城の門は、重く閉ざされた。

 振り返らなくても分かった。その音で、王都と俺の間に――もう二度と越えられない線が引かれたのだ。


 俺は、夜空を見上げた。

 雲の切れ間に、星がいくつも瞬いている。あんなにも近く感じていた王城が、今はやけに遠い。


 胸の奥で、何かが冷え切っていくのを感じながら、歩き出す。


 行き先はない。地図も、金も、目的もない。あるのは、形見である父の剣だけ――。


 それでも、立ち止まる理由はなかった。


 やがて、王都の灯りが背後で小さくなっていく。人の声は消え、残るのは風が木々を揺らす音だけ。


 ここは、魔族に汚染された危険な森。いつ魔物が現れても、おかしくはない場所だ。


「今夜は……冷えるな」


 独り言が、やけに空虚に響いた。

 鎧の隙間から忍び込む冷気が、肌を刺す。草を踏む音が、不自然なほど大きく耳に残る。


 ――静かすぎる。


 その時だった。


 茂みが、ガサリと揺れた。


 足が、止まる。

 呼吸が、浅くなる。


「……」


 次の瞬間、闇の奥から低い唸り声が漏れた。


 グルル……


 黄色い目が、二つ。

 いや、三つ、四つ――。


 魔物だ。


 飢えた魔物の群れが、闇の中からこちらを窺っている。

 王都の外れ。人の匂いに慣れ、弱った者を狙う連中。


 手が、自然と剣の柄に伸びる。だが、身体がわずかに遅れた。


(……まずいな)


 勇者として認められなかった現実が、今になってじわじわと重さを持ってのしかかる。ここには、守ってくれる者はいない。助けを呼ぶ相手もいない。


 ――ただの人間だ。


 獣が、一歩踏み出す。牙が、月明かりに鈍く光った。


 その瞬間、魔物が襲いかかってきた。


 闇を裂くような速度。

 反射的に剣へ手を伸ばす――だが、遅い。魔物の素早さが俺の予想を上回っていた。


(終わっ――)


 死を覚悟した、その時。


 ザザッ――!


 頭の奥で、耳鳴りのようなノイズが走った。


 《剣を抜くな》


「……っ」


 声、だ。

 誰かのものでも、自分のものでもない。考えるより先に、身体が動いた。剣を抜く動作を途中で止め、咄嗟に右へ跳ぶ。


 ザクッ


 獣の牙が、腕をかすめた。


「……痛っ」


 熱い。血の匂いが、鼻を刺す。


(なんだ……今の声は)


 だが、理解するより早く、確信があった。――あのまま剣を抜こうとしていたら、反撃に遅れて確実に死んでいた。


 ガウッ!!!


 咆哮とともに、今度は左右から魔物が飛びかかってくる。


「くそっ……ここまでか――」


 再び、頭の奥がざわついた。


 《立って迎え撃つな》


「また……!」


(立つな、だと……? じゃあ――)


 俺は反射的に、その場にしゃがみ込んだ。


 ゴンッ!!


 直後、頭上で鈍い衝突音。

 二体の魔物が、互いの体を激しく打ちつけ合い、地面に転がった。


 息が、止まる。


「今度こそ……倒して……!」


 だが、その瞬間。


 《戦うな》


「は……?」


 意味が分からない。

 思わず周囲を見渡して――凍りついた。


 闇の奥。

 木々の隙間。


 先ほどまでは見えなかったはずの影が、無数に蠢いている。十、二十――いや、それ以上。


(……囲まれてる)


 もし、今ここで戦っていたら。気づかないまま包囲され、抵抗もできずに、噛み殺されていた。


(……そういう、ことか)


「ちっ……」


 剣を握り直し、舌打ちする。


「大人しく、逃げるか」


 俺は踵を返し、全力で駆け出した。枝を払い、地面を蹴り、肺が焼けるほど息を吸い込む。追いつかれるとも、逃げ切れるとも考えない。

 ただ、走った。


 どれほど走ったか分からない。足が震え、視界が滲み始めたところで、ようやく立ち止まる。


 恐る恐る、背後を振り返った。


 ――追ってきていない。


 森は、再び静寂を取り戻していた。膝に手をつき、荒い息を吐く。勝利の感触はない。達成感も、誇りもない。


 だが――


(……生きてる)


 俺は、死ななかった。あの声がなければ、間違いなく、ここで終わっていた。剣を見下ろし、静かに息を整える。


『歴代の勇者が辿った“敗北の記憶”を……引き継ぐ能力にございます』


 神官の言葉がふと蘇る。


 《敗北継承(ロスト・レガシー)


 この能力はあきらかに何かに勝つための力じゃない。敵を倒す力でもないだろう。

 

 ただ――「死なない選択」を、強制的に突きつけてくる力のように思えた。


「勇者が辿った……"敗北"?」


 胸の奥で、冷たい確信が芽生えた。


(……さっきの魔物に、過去の勇者が敗北したとでもいうのか?)


 一瞬、そう考えて――すぐに否定する。


 あり得ない。歴代の勇者はどれも規格外の力を持っていた。あの程度の魔物に、正面から敗れるはずがない。


(……じゃあ、なんだ?)


 問題は、魔物そのものじゃないのかもしれない。さっきの状況――


 挟撃。

 数的不利。

 闇の中での判断ミス。

 焦って剣を抜き、立ち止まり、戦おうとしたこと。


(似た状況で、同じ判断をして――負けた)


 敵が同じである必要はなく、魔物の種類も、強さも関係ない。


 “負けた理由”が同じなら、結果も同じになる。


(……まさか)


 敗北を、継承する。


 それは、個々の戦いを覚えている力じゃない。無数の失敗を束ね、”やってはいけない選択”だけを突きつけてくる力。


 負け続けた末にしか辿り着けない――生存の答え。


 俺は、静かに剣を鞘へ戻した。


(これが……俺の能力《敗北継承(ロスト・レガシー)》か)


「フッ、王様の言う通り……中々に大ハズレな能力だな」

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