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敗北勇者

 ここは騎士の国――《ナイツ・オブ・グランヴェルト》


 剣と規律を誇るこの国では、魔法よりも鍛え上げた肉体と技が尊ばれる。幼い頃から剣を握り、命令に従い、仲間と陣を組んで戦うことが“正しさ”と教えられてきた。


 当然、"勇者"などはいない。


 この国では、誰かが奇跡を起こすのを待つことは許されない。国を守るのは、常に騎士自身だ。だからこそ、騎士団は誇り高く、そして――引くことを知らない。


 剣を抜いた以上、退くのは恥。隊列を崩すのは、裏切り。命令に背くことは、騎士であることを捨てるのと同じ。


 そんな国の辺境、灰岩地帯ヴォルケイン。


 街の外れに口を開ける洞窟、《黒咆の洞》を前に、俺たちは並んでいた。洞窟から吹き出す風は、生き物の吐息みたいに湿っていて、近づくだけで背筋が冷える。


 俺、シムルグ=ブライトは、入隊してまだ半年の新米兵士だ。鎧の擦れる音にも、剣の重さにも、ようやく慣れてきた程度。にもかかわらず今、俺はここにいる。


 原因は一つ。この洞窟に棲みついた魔獣《鋼殻魔獣グラディオン》を討伐するためだ。鋼鉄のような皮膚。騎士の剣を弾き、魔法すら通さない装甲。咆哮一つで人間の鼓膜を破り、突進一度で街の壁を粉砕する怪物。


 王都は本気だった。討伐には、騎士団十一個小隊――総勢三百名以上が動員された。隊列は整い、槍は揃い、旗がはためいている。


 ――多すぎる。


 それだけの数が必要になる討伐など、そうそうない。街は、もう限界だったのだ。夜になるたびに響く悲鳴。崩れた家屋。血に濡れた鎧の残骸。


 今回の作戦で指揮を執るのは、第三騎士団団長――ガルフ・アイゼンリート。歴戦の騎士。巨躯に傷だらけの鎧。この国では名の通った英雄だ。


「いいか! 相手は魔獣だが、所詮は規律も知恵も持たぬ獣に過ぎん!」


 団長の声が洞窟前に響く。


「騎士の誇りを示せ! 正面から叩き潰すぞ!」


 周囲の騎士たちが鬨の声を上げる。だが俺は、嫌な汗が止まらなかった。それでも、前に出るしかなかった。この国に勇者はいない。民を守る剣となり盾となるのは、我々騎士団の使命だ。


 洞窟に入った瞬間、空気が変わった。生臭い。鉄が削れるような音。どこかで、水が滴る――いや、血だ。


「……構えろ!」


 隊長の声が響く。だが次の瞬間、天井が崩れ落ちた。


 そして目の前に現れた《鋼殻魔獣グラディオン》。


 団長の号令で、前列が突撃する。


「突撃ぃぃ!!」


 ――次の瞬間。


 前列の騎士たちが吹き飛んだ。盾は紙のように潰れ、剣は根元から折れ、鎧ごと身体が叩き潰される。


「ぎゃ――ッ!!」

「脚が! 脚がぁ!!」

「助け――」


 悲鳴は、途中で途切れた。


 噛み砕かれた音。骨が砕ける鈍い衝撃。肉が引き裂かれる湿った音。


 俺たちは、完全に見誤っていた。


 ――強い、なんて次元じゃない。勝てる想定そのものが、間違いだった。


「ひ、怯むな――!!」


 叫びは届かない。魔獣は、こちらの陣形を理解しているかのように動いた。逃げ道を塞ぎ、密集した場所へ突っ込み、恐怖で足が止まった者から潰す。仲間が宙を舞い、壁に叩きつけられ、声を出す暇もなく残骸になる。


 俺は――立ち尽くしていた。


 身体が言うことをきかない。足が、地面に縫い付けられたみたいだった。血の匂い。鉄が軋む音。グラディオンが、俺を見下ろしていた。


 その瞬間、恐怖が限界を超えた。下腹部が、熱くなる。鎧の内側を、生温かい感触が伝う。


 恥も、誇りもなかった。

 ただ、怖かった。


(……ここまで、か)


 剣を握り直そうとして――力が入らなかった。指が開き、剣が地面に落ちる音が、やけに大きく響いた。


 震えは止まらない。

 視界が滲む。


 死ぬ。

 ここで、何もできずに。


 ――その瞬間だった。


 ゴォンッ!!


 凄まじい音と共に、一本の槍が、横合いから飛来した。鋼殻を貫くはずのない装甲に、深く突き刺さる。


「……ッ!?」


 グラディオンが、初めて動きを止めた。洞窟の奥から、足音が近づく。


 現れたのは、一人の男だった。


 騎士でもない。魔法使いでもない。簡素な装備。年は若いが、目だけが異様に冷えている。


「正面から当たるな。全員死ぬぞ」


 意味は、すぐに分かった。


「何者だ! ここは騎士団の戦場だ。民間人ならば下がれ!」

「下がるのはそっちだ」


 淡々とした声だった。


 ざわめきが走る。男は俺を一瞥し、短く言う。


「壊滅したくなければコイツが動き出す前にさっさと引け。逃げることは恥ではない」

「貴様……騎士団長であるこの俺に向かって――」


 ザッ!!


「――ッ、グァァァァアアア!!」


 魔獣が吼え、巨体を揺らしたと同時に男は魔獣の死角へ踏み込んだ。


 まず来たのは、左腕。鋼の塊のような前肢が、風を裂いて振り抜かれる。


 ブォン――!


 地面が抉れ、岩が砕け散る。直撃すれば、鎧ごと肉が潰れる一撃だ。だが――


「後ろに下がれば死――フッ、こっちだな?」


 男は、半歩だけ横へずれた。それだけで、左腕は空を切る。


 次の瞬間だった。

 魔獣の重心が、わずかに沈む。


 それを見逃さない。


「今の攻撃は、ただの陽動」


 低く、冷静な声。


「――本命は、その後に来る尾」


 ゴウッ!!


 空気を引き裂き、巨大な尻尾が横薙ぎに振るわれた。今まで何人もの戦士を、まとめて叩き潰してきた致命の一撃。


 だが男は――もう、そこにいなかった。


 跳ばない。転がらない。派手な回避は一切ない。ただ、最小限の動き。尻尾が通過する紙一重の内側へ、身体を滑り込ませる。


 ズンッ!!


 尻尾が背後の岩壁を砕く音が響く。衝撃で洞窟が揺れる。


「――ッ、ギグァァァァアアア!!」


 魔獣は続けざまに攻撃を重ねる。左腕、右爪、尾、踏み込み――殺意だけで繋げた、暴力の連撃。


 だが、そのすべてが――


 当たらない。


 男は、まるで次の動きを最初から知っているかのように、半歩ずつ、呼吸一つ分だけ位置を変え続ける。


 剣も振らない。

 魔法も使わない。


 ただ、躱す。


 ――否。


 負け筋を、潰している。


 周囲の騎士たちは、声も出せず立ち尽くしていた。目の前で起きているのは戦闘のはずなのに、剣戟でも、力比べでもない。理解が追いつかない。

 まるで――答えを知っている者が、間違いだけを消しているような光景だった。


 魔獣が、初めて後退る。


 その瞬間、男は足元に落ちた槍や剣を拾い上げては関節や筋、動きの起点となる箇所に突き刺していく。


 ザクッ!!


 男は止まらない。槍を引き抜くと同時に、今度は折れた剣を拾い上げ、反対側へ回り込む。


 ズブッ。


 湿った音。鋼殻の継ぎ目、筋肉と骨の隙間へ、刃が滑り込む。魔獣の腕が、だらりと落ちた。


「グォォォォオオオオオ!!」


 怒りと痛みの混じった咆哮。だがその叫びは、どこか焦りを帯びている。グラディオンは暴れた。爪を振るい、尾を叩きつけ、洞窟を破壊する。


 ズドォン! ガガガガッ!!


 岩壁が砕け、地面が裂ける。


 それでも――男には一撃も、当たらない。突進の前には、踏み込みが来る。尾を振る前には、重心が沈む。そのすべてに、先回りして刃を突き立てる。


 ガンッ! ズザァッ! グチュッ!


 やがて、グラディオンの脚が崩れ落ちた。


「ガ……ガァ……」


 巨体が地面に叩きつけられ、洞窟全体が揺れる。


 騎士たちの間に、言葉にならないざわめきが走った。剣を握る手が止まり、視線だけが男の動きを追いかける。目の前で起きている光景が、自分たちの知る「戦い」という概念から完全に外れていた。


 その瞬間だった。


 魔獣の体内から、不穏な光が漏れ始める。


 ゴ……ゴゴゴゴ……


 低く、嫌な音。空気が熱を帯び、皮膚が焼けるように痛む。


「――自爆……!」


 誰かが叫んだ。


 グラディオンの魔力が、制御を失って暴走している。これまで、何人もの騎士を道連れにしてきた“最後の手段”。


 だが――男は、もうそこにいなかった。爆発の兆候が見えた瞬間、すでに距離を取っている。


「ぜ、全員退避!!!」


 騎士団長のガルフは咄嗟に指示をだした。


 ドォォォォン!!


 爆炎が洞窟を飲み込み、轟音が鼓膜を叩き潰す。


 俺は、地面に伏せながら思った。

 あの男は、全部、知っていた。この魔獣がどう暴れ、どう足掻き、どう終わるのかを。


 気づけば洞窟は崩れ、魔獣は――砕け散っていた。


 俺は、震える声で尋ねた。


「……あんた、何者なんだ……」

「ただのよそ者だよ」


 背を向けたまま、男は言った。

 その時、俺の視線が――無意識に、男の腰元へ落ちた。


 剣の柄。いや、その根元に刻まれた紋章。見覚えがあった。


(……どこで……)


 一瞬、記憶が遡る。

 王都の掲示板。遠征前の教本。そして、酒場で聞いた噂話。勇者が与えられる剣にだけ刻まれる、特異な紋章。


 喉が、ひくりと鳴った。


「まさか……」


 震える声が、勝手に漏れる。


 だが、その時!


 ズドドドォンッ!!!


 洞窟の天岩が大きく崩れると同時に現れたのは……


「な、なんてことだ……」


 十を超えるグラディオンの姿。


「……嘘だろ……」


 騎士たちの顔から血の気が引いた。

 一体でさえ壊滅的な被害を受けた相手だ。それが群れで現れた以上、勝ち目はない。


 ざわついていた騎士団の気配が、同時に凍りつく。


 騎士団長ガルフが退避命令を叫ぼうとしたその時――


 土煙の向こうに、立っている影が視界に入った。


 男だ。


 俺は悟った。

 ――この結末を、あの男は最初から知っていたのだと。


 このグラディオンの数では、どう足掻いても騎士団でさえ無理だ。


「な、何をするつもりですか! 一人じゃ無理です! 逃げてください!!」


 男は答えない。

 ただ、男は腰の剣を抜き、ゆっくりと天へ掲げた。


「――エクセリオン!!」


 その名が放たれた瞬間、剣身が白金の光を帯び、洞窟全体が昼のように照らし出される。


 剣が、振り下ろされた。


 ズァァァァン!!!!


 空間そのものが裂けたかのような轟音とともに、白金の斬撃が奔流となって解き放たれる。光は一直線ではなかった。扇状に広がり、洞窟の奥まで――逃げ場という概念ごと薙ぎ払う。


 グラディオンの群れが、悲鳴を上げる暇すらなく包まれた。


 鋼の肉体が、紙のように裂ける。

 魔力核が、点火する前に粉砕される。

 存在そのものが、光の中で分解され、蒸発していく。


 一瞬だった。


 洞窟に残ったのは、

 焼け焦げた岩肌と、静まり返った空気だけ。


「その剣の紋章……まさか……勇し」

「勇者ではない。俺は数々の敗北を背負った……"敗北勇者"だ」


 敗北勇者。


「敗北……」


 その名が、胸に重く落ちた。


 男は振り返らず、洞窟を後にした。


 ――あの日、俺たちは理解した。


 勝利を誇る英雄よりも、敗北を背負う男のほうが、よほど恐ろしいのだと。

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