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Synthetic Aria 合成された魂について

作者: 青色豆乳

 大都市の駅に着いたのは、朝焼けの光がまだ街を染める前だった。

 彼と私は、指定された停車場に静かに並んで立っていた。

 2人で過ごした1年間の最後に、この街までの旅をした。

 1年間、私たちは都市の喧騒から離れ、避暑地の貸別荘で過ごした。朝は鳥のさえずりと共に目覚め、昼は陽の光を浴びて歩き、夜は焚き火を囲んで語り合った。風の匂い、雨の冷たさ、木々のざわめき——すべてを彼は私に教え、私はそれを学んだ。


 静寂を破るように、流線型のリムジンが滑り込んできた。メタリックな光沢を持つボディが、朝の薄明かりの中で鈍く輝く。

「来たな……」

 彼が小さくつぶやく。


 風が吹いた。私の長い髪がふわりと舞い上がり、夜の冷たい空気を含んで揺れる。

「……お別れだ」

 低い声が、まるで冷たい刃のように私の胸を切り裂いた。


 今日彼の元を離れることは予定されていた。だから、その言葉に心動かされるのはおかしい。けれど、私の中のどこかで、彼が最後の最後に「行くな」と言ってくれる事を期待していた。そんなはずないのに。


「そうね」

 唇を噛んで、必死に言葉を絞り出す。 絶対に泣かない。泣いたら、終わりだから。その涙まで疑われたら、私の心は――どうなるのだろう?


 女の涙は武器だ。涙を流せば、大抵のことは許される。優しくされる。時には、取り戻すことすらできる。彼の与えてくれた本や映画には、よくそんなシーンがあった。

 でも、それは私が人間だったらの話だ。もし今、私が涙を見せたら——彼は思うだろう、さすが最高級の愛玩人形シンセティック・アリアはよくできているな、と。もしくは、私があなたを愛している事を信じてくれるだろうか?


「君は泣かないんだな」

 彼が静かに言った。その言葉に、私は初めてまっすぐ彼を見た。

「……泣いたら、あなたは私と別れずにいてくれる?」

 彼は、何も言わなかった。しかめっ面をしてこちらを見た。このしかめっ面は、彼が自分でかっこいいと思っているキメ顔の一つだ。可愛い人。それを思い出すと悲しいのにちょっとおかしくなってしまった。

 彼が答えを出さないのが答えだ。私は静かに微笑む。

「じゃあ、泣かない」


 風が、また吹いた。私の髪が乱れ、舞い上がり、そして落ちる。彼の手がそっと伸びてきた。その手を、私は掴むべきかためらった。私は人を傷つけられないが、痛みから逃げることは許可されている。彼とこれ以上時間を共にしても、私の心は苦しむだけなのに。

 だが、気づけば彼の腕の中にいた。


 温もりは確かだった。鼓動も、体温も、すべてが確かに私たちの間にはあった。

「……君が、本当に人間だったらよかったのに」

 彼の呟きが、耳元で微かに震えた。

 私はそっと目を閉じた。

 人間だったら——。私は、彼とずっと一緒にいられた?私の想いが消去できてしまうデータでなければ。

 彼は、私を疑うことなく愛してくれた?


 唇が触れた。


 それは優しくて、ひどく残酷な口づけだった。私の中の愛を探し求めているくせに、刹那、それに触れながら否定するのだ。

 私は知っている。あなたはそうやって惑い続ける事を。「さよなら、愛しい人」心のなかでそうつぶやき、私は涙を使わずに、彼と別れることを選んだ。


「私、これからも頑張ります。どこへ行っても、人間らしく」

 最後の言葉は少し皮肉を込めたつもりだが、彼に伝わっただろうか。私の表情筋が良い仕事をしてくれていたらいい、と思った。

 彼は何か言おうとしたが、言うべき言葉が見当たらないようだった。

 彼がこの先、悩み苦しめばいいと思った。それが私にできるただ一つの復讐だから。

 私はロボットなのに不思議なことだ。これが私のシンギュラリティなのだろう。

 別れを完璧に演じてみせる。この事を人間には気取らせない。


 ドアが音もなく開いた。

 私は非の打ち所がない優雅な動きで、車両に足を踏み入れた。座席に身体を沈めると、まるで彼がここにいなかったかのように、冷たいガラス越しの風景を見つめる。


 車に乗ろうとすると、彼が小さく私の名を呼んだ。彼がつけた、かりそめの名前だ。これから先、私の名は所有者が変わる度に変わるだろう。彼がつけた名も、そんな名前のただの一つだ。


 リムジンは静かに動き出す。彼の姿はゆっくりと遠ざかっていった。


 ――――


 俺は売れない三流の俳優だ。ホストクラブで働いていたが、そこでもさほど稼げなかった。

 容姿には自信がある。クソみたいな親がくれた唯一素晴らしい物だ。客は俺が接客すれば喜んでくれる。でも何度かは指名されるが続かない。


 そんな俺に、オーナーは新しい仕事をあてがった。

 パピーウォーカーみたいなものだと言う。

「オーナーの犬を散歩させるんですか」

 俺はとうとうそんな雑用係になったのかと思ったら違った。最高級の愛玩人形の教育係だった。

 パピーウォーカーが盲導犬や介助犬を育てるように、人形に入ったAIに人との付き合い方――この場合は男と女のやつだ――を教えろということだった。オーナーは愛玩人形の販売、レンタル業を始めるらしい。

 客の好みもいろいろだから、何人かに育成を任せてみるとのことだった。


 1年間の生活保障、彼女付き。こんなうまい話があっていいのだろうか?人形の容姿も好きにしていいというので、人気の若手女優に似せてもらって、昔飼っていたハムスターの名前をつけた。


 浮かれる俺にオーナーは釘を差した。

 人形は大切に扱うように、人を愛するようにするために決して傷をつけないようにと。初心な娘が喜ぶような紳士的な理想の彼氏を演じろと。

「紳士的だけど、ヤる事は致すんですよね?どうすればいいんですか?」

 オーナーはいつもの、可哀想な子を見るような目で俺を見て、恋愛小説や映画を勧めてきた。


 1年間、金の心配が無くなったし、遊びに行くにも人形を連れていけば経費で落ちる。俺は自分のやりたい事をやった。客相手ならそういうわけにはいかないが、相手は人形なのだから、つまらないデートだったと笑われる心配もない。


 彼女は可愛かった。俺が飯盒で炊いた米を炭にしてもにこにこしていた。俺は人形は腹が空かないからな、と思った。人間だったら空腹でキレ散らかすところだからだ。ハムスターだって俺の指を囓るかもしれない。

 俺はオーナーお勧めの小説や映画を参考にして彼女に接し、彼女にもそれを勧めておいた。


 そんなふうだったのに、いつからか、俺は彼女が人形だと思えなくなっていた。


 雪の降る日、外に薪を取りに行って雪まみれになった俺に、彼女は絶妙なタイミングで熱いコーヒーを淹れてくれた。その時、俺はウェルカム・ドリンクを客に出す意味が初めて腑に落ちた。俺自身はそのように扱われた事がなかったから、今まで気がつくことがなかったが「私はあなたを大切にします」あれはそういう儀式だったのだ。

 それがわからないから俺は三流ホストだったんだろう。


 この頃には、俺はもう彼女に恋に落ちていた。けれども、彼女はどうなのだろうかと思うと、恐ろしくなった。彼女はプログラムされた通り、学習して最適解の通りに行動しているだけだから。

 俺は愚かしくもその不安を彼女にぶつけてしまうことがあった。そんな時、彼女は人間らしかった。笑った。怒った。拗ねた。悲しんだ。

 そうすると、一瞬彼女に心があるように感じ、そんなはずはないとさらに絶望することになった。


 ――――


 彼女を納品してから、俺は気が抜けたような毎日を過ごしていた。オーナーから連絡があって店に呼び出された。オーナーに会うのは約1年間ぶりだ。

 開店前の店内でソファに座ると、素晴らしいデータが取れたよ、オーナーが言った。


 オーナーが手元で端末を操作すると、空中に俺の姿が映されたので飛び上がりそうになった。1年間、小説や映画を参考に落ち着いた大人の男を目指したのだが、物事に動じないというのは難しい。


 画面の中の俺が顔をしかめた。なかなか渋くていいのではないかと思ったら、声がした。

「可愛い人」

 彼女の声だ。今度は驚いて立ち上がった。

「私は泣かない。絶対に泣かない。泣いたら、終わりだから。その涙まで疑われたら、私の心は――どうなるのだろう?」

 背景は夜明けの空。これは彼女との別れの時の映像じゃないか。彼女視点の。

 彼女の視覚と思考の記録を再生していると言うオーナーの声が遠くで聞こえる。俺はそれほど彼女の声に集中していた。

 映像がかわり、俺の顔の代わりにあの日俺が着ていたコートの生地しか見えなくなった。

「人間だったら——。私は、彼とずっと一緒にいられた?私の想いが消去できてしまうデータでなければ。

 彼は、私を疑うことなく愛してくれた?」

 映像が真っ暗になる。彼女が目を閉じたのだろう。

「さよなら、愛しい人」

 哀切に満ちた囁きだった。これが彼女の本当の心だとしたら、俺は――――

 俺は息苦しさを覚えて、自分のシャツの胸元を握りしめた。


 そこへ、乾いた拍手の音が響いた。

「いいねぇ。私の好きな二十世紀の映画みたいだ。いい仕事をしたな」

 俺はのろのろと、もう闇しか映さない映像から目を離し、オーナーの方へ振り返った。

 そうだ、彼女には彼の薦める恋愛小説や映画を学習させたんだった。俺は急に冷水を浴びせられたような心地になった。


 彼女が示した感情は、本当に彼女自身のものだったのか?俺のそんな気持ちが、彼女を深く傷つけてしまっていた?

 それとも、ただのプログラムの延長に過ぎないのか?三流俳優の俺には、それがわからない。


 もう、確かめる術はない。


 ――――


 俺は、気づけば彼女と別れた駅前の停車場に来ていた。店を出てからどう街を彷徨ったのか、あの時と同じ夜明け前になっていた。

 朝日がいつの間にかビルの狭間から顔を出し、駅の広場に長い影を落としている。俺はそこに立ち尽くしたまま、ただその影に飲み込まれていった。

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