分かれ道
北の大通りには、飲食物よりも、他の街の工芸品が多く並んでいた。それらを物珍しげ眺める親子、夫婦、恋人、友人。皆一様に笑顔を浮かべ、明るい声がここまで届いて来る。
「ここも変わらないね」
レインが柵に寄り掛かり、隣でラモネラを一口煽る。さっきまでの影はその顔から消えていて、今は昔の明るい笑顔を見せてくれた。
「だね。風通しが良くて、見晴らしが良くて……」
——そうだ。ここで話したんだ。
バベルの記憶が、十年年の歳月を遡る。
コーラル教育学校、屋上。それが、タンゴが居ない日のバベルのサボり場だった。
高い石壁の上から流れ込む風が、新鮮な外の空気をここまで運んで来てくれる。バベルにとって、楽園のような場所だった。
その日も、タンゴ不在の退屈な教室を抜け出し、バベルは屋上で寝転がっていた。
「こんな所でサボってたんだ」
涼しげな風と一緒に、少女の声がバベルの耳に届く。
微睡んでいた脳が鈍く動きを再開し、その不快さがバベルに苛立ちを与えた。
「人が寝てるのに、邪魔すんな」
言葉が少し強かったかもしてない。が、そんな事を考えられるほど、脳はまだ動いていない。
「何その言い草。次の授業には出るよう、呼びに来てあげたのに」
屋上への出入り口に立つ少女は、少しムッとした。が、来た道を戻る雰囲気は、全く見せない。
「サボりは良くないよ」
「あんたには関係ないだろ。どこかの誰かさん」
バベルは声の主を確認することなく、寝返りを打って、出入り口に背を向ける。
「そもそも、ここは立ち入り禁止だ。優等生が来る所じゃない」
「じゃあ、私も君達の仲間入りだね」
何故か嬉しそうに、少女はそう言った。それだけでなく、バベルの隣ににしゃがみ込んできた。
横に向けた顔に影が差す。せっかくの天気なのに、陽光は少女の影に邪魔され、バベルは苛立ちを加速させた。
バベルは、苛立ちと不快感を視線に乗せて横に向ける。影の持ち主に持って帰るよう言うために。しかし、逆光で一瞬見えなかった顔に焦点が当たったところで目を見開いた。
「レイン、さん」
そこには、白い髪を肩の位置に揃えた少女がいた。
ヘレナとの約束以来、あまり見ないようにしていたその顔には、毎朝見ていたあの頃の笑顔が浮かんでいた。
「おはよう、バベル君」
こちらを覗き込む瑠璃色の瞳が、嬉しそうに細められた。
「私もここでサボってもいい?」
「他を当たってくれない? 君とは仲良くできないんだ」
「なんで?」
「怖い人にそう言われたから」
そうなんだ。レインはそう言って顔を引いてくれた。しかし、屋上からは引いてくれないようらしい。
「それじゃあ僕が退くよ。ごゆっくり」
これじゃあヘレナの狐顔が頭を過り、ゆっくりできない。
「ちょっと待って。私に教えてよ。バベル君のサボり方」
冗談じゃない。そんな事がバレれば、ヘレナに殺される。
「無理」
「なんで?」
「怖い人に止められてるから」
「その怖い人って、誰のことを言ってるの?」
今度は頷かなかった。雑に流そうにも、レインは馬鹿じゃない。簡単にそうさせてはくれない。
「もしかして、お母さん?」
「違うよ」
「そうなんだ。きっと、この前馬車に乗ろうとした時にでも言われたんでしょ」
こちらの否定の言葉を無視して、レインは息を吐き出した。
レインの目が、退屈そうに柵の向こうへと逸らされる。そのまま柵へと寄りかかり、眼下の街並みを眺める。
「私ね、お父さんとお母さんのこと大好きなんだ」
「そう」
突然何の話だろう。全く興味無い。
「二人の仕事を手伝うのも、継ぐのだって嫌じゃないんだ。でも、それ以上の未来を決められるのは嫌なの」
話が見えない。彼女は何が言いたいんだ。
「私もお母さんも、あなた達みたいな周りに迷惑ばかりかける人が嫌いなの」
「そう、なんだ」
こう、面と向かって言われるとくる物がある。心臓の辺りが痛む。
「でも、私の未来を変えてくれるのは、そんな人なんだと思う」
「未来?」
「私、結婚するの。あのカルカロと」
「うわぁ」
それはご愁傷様だ。あんな男と一緒にならなければいけないなんて。
「そんな反応するくらいなら、あなたが持っていってよ。私の未来」
「分かった」
自分でも信じられなかった。この時、何かを考えていたわけではない。自然と口から出ていた。
驚いたのは向こうも同じようで、こちらが了承したことにポカンと口を開いて固まっていた。
その後、見開いた瞳と口を元の位置に戻したレインは、ありがとう。と言って微笑んだ。
その顔を思い出すに、彼女の笑顔が見たい。ただ、それだけだったのだと思う。そして、その笑顔を守りたかった。たったそれだけの考えで、即答したのだと思う。
「呼び捨てで良いよ。将来一緒になるんだったら、君付けは不自然だし」
立ち上がったバベルは、柵に寄りかかるレインの隣で、一緒に街を見下ろす。
「そう。じゃあよろしくバベル。私も呼び捨てでいいから」
そう言いながら、レインはその顔に満面の笑みを浮かべた。
「……思い出した?」
柵から身を乗り出したレインが、視界の端に映り込む。その顔は、記憶の中の彼女と同じ笑顔を見せていた。
瑠璃色の瞳がこちらを覗き込む。まるで、こちらの考えを見透かされているかにようで、心臓がドキリと飛び跳ねる。
「その為に来たの?」
「もちろん。だって、忘れてるんだもん」
「ごめん」
少し気分が落ち込んでしまうのは、今がそんな時間帯だからだろう。
空が茜色に染まっている。もうすぐ陽が沈む。しかし、この祭りはいつまで続くのだろう。全く店じまいの雰囲気を見せない。
屋上からの景色をぼんやり眺めるのは、正直好きだ。風が運んで来る香りが、街の外を感じさせてくれる。
「バベル変わったよね」
「そう、かな」
「そうだよ。昔はもっと自由だったじゃん」
きっと、コボルトの森に行く前の事を言っているのだろう。確かに、あの頃は自由だった。何も知らなかったから。他者のテリトリーに無遠慮に踏み込み、危険になると被害者の顔をする。そんな最低で、身勝手な生物が自分なのだと理解していなかった。
「人間って生物が何か。知らなかったからだろうね」
柵を撫でながら、バベルは自嘲する。
「何それ?」
「何でもないよ」
説明をめんどくさがったバベルの言葉に、レインは目を丸く、口をへの字に曲げる。その顔が少し可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「それで、思い出したバベル君は、私と結婚してくれるのかな?」
笑った理由を聞いても、きっと答えは返ってこない。そう判断したレインは、バベルの顔を再度覗き込む。
「その前に聞きたいんだけど、いい?」
「うん」
「僕の事嫌いなんでしょ。なのに何で?」
今度は、レインが笑った。
地上を見下ろすと、屋台に明かりが灯り始めた。店毎に色違いの明かりが地上を彩る。通行人の顔を照らし出し、昼間とは違った賑わいが聞こえて来る。
ゆるく弧を描いた瑠璃色の瞳と、茜色の空。地上から広がる色とりどりの明かり。バベル見ている世界に、色が溢れた。
「あの時言ったのは、ほんの冗談だったんだ」
レインは、少し恥ずかしそうに俯いた。
「少しで良いから、楽になりたかったの……」
「じゃあ、今はもう良いの?」
バベルの中で、残念と落ち込む自分がいる事に気がついた。
「そんなわけ!」柵に寄りかかるレインは、吐き捨てるように呟く。「あんなのと結婚なんて、死んでも嫌」
少し怖い。こんな事をもし面と向かって言われれば、一生記憶から消えないだろう。
「そっか」
「うん」
二人の間に、沈黙が落ちる。微妙な空気は、風で飛ばされてはくれない。下の賑わいが、この空気を和ませてもくれない。
「それじゃあ、僕と一緒に別の街に行く?」
「え?」
レインの瞳がこちらを捉えた。何を考えているのかと探っているのか、瞳の奥を見透かそうと深くまで潜り込んでくる。
「無理だよ。そんなことすれば、お母さん達の迷惑になる」
「じゃあ、死んじゃえばいいんじゃない」
この発言は予想できていなかったのだろう。レインは驚き目を見開いた。
彼女を驚かせることができた事実に、一つの満足感が込み上げる。
「レインはライセンス持ってたよね?」
「う、うん一応持ってるけど、私は戦えないよ」
「戦わなくて良いよ。あいつと一緒にコボルトの森に行って、そこで死んだ事にすれば良いんだから」
素直にレインを連れてこの街を出ても、オルター家はスターリング夫婦を責めるだろう。しかし、一人息子が守りきれず死なせたならば話は別だ。寧ろ、その責任をオルター商会が負わなければいけない。
「僕が魔物のフリをして、君達を襲撃する。そして、カルカロパーティをある程度転がしたら、君を殺す。勿論これはフリだけどね。後は、二人で他の街に入って身分証を作り直せば、僕らは晴れてコーラルとは無縁の他人になれる」
ここで問題なのは、本当に魔物が襲ってくる事だ。
「もし、本当に魔物が襲って来たら?」
当然、レインもこの考えに至るだろう。彼女は馬鹿じゃない。しかし、その可能性は低い。今は魔王来訪の副次効果で、魔物達は巣に引きこもっている。森に入ってすぐの所ならば、より魔物の出現は抑えられるだろう。
問題は、魔王の件を話さずに彼女を説得する事だ。
「結婚するくらいなら、死んだ方がマシなんでしょ?」
バベルは、努めて軽い口調でそう言った。
「それは、そう言ったけど……」
「命を賭ける価値はあると思うけど? まあ、無理にとは言わないよ」
柵に体を預けたバベルは、からかう様にレインの俯いた顔を覗き込んだ。
おそらく、これまでの演技で、一番上手に仮面を被る事ができたはずだ。
「……分かった。でも、どうやって森に行けば良いの。それも、カルカロ達を連れてなんて」
「逆だよ。カルカロが、君を森に連れて行くんだ。今日の事で多少野次って、それから『かっこいいところが見たい』とか雑におだてれば、簡単に乗ってくれるよ。あれは馬鹿だから」
「なるほど」
「それから、決行は早い方がいいんだ」
魔物たちが、いつまでも巣に引き篭もっていてくれるはずがない。
「分かった。じゃあ私はあれに会ってくるよ」
「えっ、今から?」
「明日にはやるから、そっちも準備お願いね」
本気のようだ。瑠璃色の瞳が爛々と輝いていた。
「せめて明後日以降だよ。多分、明日じゃ間に合わないと思う」
「何が間に合わないの?」
レインの瞳に、一抹の不安が揺らいだ。何か勘違いをさせたらしい。
「ライセンス。正規の貰わなきゃ、他の街に入れないから」
ポケットに入れっぱなしだった白いプレートを見せ、バベルは続ける。
「発行には明日一杯かかると考えて、決行は明後日以降だね」
うん、とレインは納得してくれたらしく頷いた。
「この後、花火が上がるの。農業区画の方。そこで待ち合わせね」
言うや否やレインは駆け出し、屋上から姿を消した。
レインの姿を隠した出入り口を眺めたまま、バベルは一人呟く。
「集会所に戻らなきゃだ」
やる事がある。ここでのんびりしている余裕はない。
柵から身を引き、一度大きく息を吸う。森の緑が肺を満たした。
レインが出ていった出入り口。そこにバベルも進み、後ろ手にその扉をそっと閉じた。
大通りは、人波が寄せては引いてを繰り返している。昼間よりかは人は減ったが、それでもこの波の中を進むには時間がかかる。
バベルは大通りには出ずに、通りの中でも外れの細い路地を走っていた。
普段と比べれば通行人は多かったが、大通りと比べれば道幅が広く見える。
似た考えを持ったお一人様方を避けては、バベルは集会所に向かう。この路地を幾つか曲がって進めば、集会所の裏側に到着する。ぐるりと回り込めば、正面入り口だ。
「ん? あれは………………」
路地と大通りを繋ぐ建物の間から、見慣れた顔が過ぎて行った。見間違いかと思ったが、そうではない。
バベルは、足を止めて少し戻る。路地からは出ずに、大通りを見える範囲で眺めた。
いた。やはりタンゴだ。
「タンゴはライセンス貰えたのかな?」
貰えたのだろう。なんせ、見たことないくらいの明るい笑顔だ。よほど良いことがなければ、あんな顔は見せないだろう。
「にしても、あれは誰だ?」
タンゴの隣。鼠色の外套のフードを目深に被り、二人中良さげに笑い合っていた。
バベルが人のことを言えたものではないが、タンゴも友人と呼べる存在はバベル一人だ。学生時代のなんやかんやで、バベルもタンゴも同年代からは避けられている。だが、安っぽい鼠色の外套。あれは、タンゴが持っていたものだ。そして、それを被っていたのは、
「…………勇者?」
慌てて口を手で塞ぎ、路地に顔を引っ込めた。
意外な組み合わせだったのもそうだが、振り向いた勇者が、こちらに視線を向けてきた。恐らく、こちらの視線を感じ取ったとかだろう。
「にしても、あの勇者もあんな顔するんだ」
会議室では常に無表情だった彼女が、タンゴの前で見せていたのは、年相応の笑顔だった。
(タンゴにも春が来たんだなぁ)
一人腕を組み、しみじみ思う。タンゴの唯一の友人としては、とても喜ばしいことだ。
二人が正式に付き合う事になったら、紹介してもらおう。バベルの幼き冒険譚を彼女に聞かせるのだ。
(っと、早く集会所に行かなきゃ)
すっかり目的が抜けていたバベルは、すぐに走り出した。タンゴと勇者の事は気になるが、とにかく後回しだ。今は、自分のやることだけに集中しなければ。
若者二人だけの時間を、邪魔するものではないのだから。
中央広場。昼間よりもカップル率が高く、見渡す限り皆手を繋いで楽しそうに歩いていた。
バベルは顎を伝う汗を手の甲で拭い、肩で息をしつつ集会所の扉を開いた。
中はとても静かだった。外の喧騒が、無人の集会所内を自由に飛び回っている。
昼間の活気はどこへやら。カウンターにも職員の姿は見られない。
バベルは一人、ゆっくり階段を上る。右手を手すりに滑らせるが、バベルの脳は明後日のことを考えていた。視界には確かに階段の一段一段が映ってはいるが、脳がそれらを捉えていなかった。無意識に近い状態で階段に足をかける。
脳に広がるのはコボルトの森で、バベルはそこで、木の影に隠れて標的の到着を待っていた。
森の中でレインを攫う。しかし、その後はどこに行く?
隣町ではすぐに見つかる。かと言って、徒歩では限界がある。それに、行方不明でバベルのライセンスも停められかねない。
——そもそも、正規のライセンスの発行を許してもらえるのか?
気付けば、バベルは会議室の扉の前に立っていた。閉じられた扉の隙間から、光が漏れ出ている。
扉を少し開いて中を覗く。ガストンはいるだろうが、オルソもいてくれるだろうか。最終決定は本部長のオルソの仕事だ。ガストンだけでは意味がない。
——いた。ガストンとオルソ、それにヨーギルも。
「それで? まさか、あんな奴らの言葉を鵜呑みにする気じゃあるまいな」
ヨーギルが怒りで顔を真っ赤に染めて、オルソに詰め寄っていた。一体何の話だ?
「しかし、実際森の異変は起きていて、彼らの話ならば辻褄が合うのも事実だ」
三人は、疲労困憊の顔で互いに向かい合っていた。他のメンバーはもう街に出たのだろうか。
「何用じゃ、バベル」
ガストンが扉に目を向けてきた。その瞳は、扉の隙間から覗き込んでいたバベルを正確に射抜いている。
「アハハ、お邪魔します……」
扉を開き中に入ったバベルは、他に誰もいないことを確認する。やはり、この三人だけが残っていたらしい。
「バベル、なぜ戻ってきた。既にタンゴから詳細は聞いているぞ?」
巌のように鋭い顔が、こちらを捉える。いつものオルソの顔だが、そこにはいつもの威圧感は乗っていなかった。仕事のしすぎだ。
「オルソに頼みがあるんだ」
「何だ?」
こちらの要件など、分かっているのだろう。それでも聞いてくるのは、それ以外を期待しての事だ。
「正規の冒険者ライセンスが欲しい」
ヨーギルが、つぶらな瞳をまん丸に開いて固まった。
「バベルよ。お前は冒険者など、興味がなかったのではないか?」
ガストンの視線は、変わらずこちらに向いている。そこには驚愕も不信もなく、ただ純粋な疑問の空が広がっていた。
「必要になったんだ。僕のやりたい事に」
ガストンに、嘘や誤魔化しは効かない。効いたとしても、バベルはしたくなかった。ここまで育ててくれた人に、最後まで正面から向き合いたいから。
「そうか」
短く頷いたガストンはそれ以上何も言わず、オルソへ選択を委ねた。ここでオルソが頷けば、バベルは晴れて冒険者だ。
「駄目だ」
オルソは首を横に振り、会話を打ち切る。
まぁ、そう簡単には行かないだろう。
ここで何を言ったとしても、オルソの意思は固い。きっと、結果を変えることはできない。
「そう。理由は?」
それでも、バベルには冒険者ライセンスが必要なのだ。ここで、大人しく帰るわけにはいかない。
「お前、さっきここでタンゴを殴っただろう。何故だ?」
「あれはタンゴが悪いんだよ。助けてくれた人を悪く言ったんだから」
「人、か。バベル、お前は魔族を人として数えているのか?」
「当然。ルシオンは確かにエルフだ。だけど、悪い人じゃない」
ヨーギルが目をパチパチさせた。バベルの言っている意味がわからないと、つぶらな瞳が泳いている。それに比べ、ガストンは何かを考えるように俯き、その空は確認できなかった。
「ルシオンとは、まさか魔族の名前か?」
唯一、オルソだけがバベルの言葉に反応し、その声を低くした。
「だったら何。重要なのはそこじゃないでしょ」
「いや、重大なことだ。お前は魔族と仲良くなったつもりかも知れないが、向こうはそうではない。お前を利用して、こちらに害をなすつもりだ」
何故、こんなに頭が硬いんだ。オルソらしいと言えばそうだが、何か別の理由がある気がする。タンゴもそうだったが、魔族と一括りにして一方的に敵視している。
「だとしても、それで僕のライセンス発行を禁止する理由にはならないでしょ。僕は犯罪者じゃないんだから」
想像以上に強めに言ってしまった。ヨーギルが体を引いて驚いている。六年間気にしていないと思っていたが、心のどこかでは不満だったらしい。
「と、とにかく落ち着けやバベル。こんなとこで叫んでも、意味がないじゃろうて」
ヨーギルがあたふたと止めに入った。この老人にとっては、バベルの事など大して気にしていない。タンゴの盾役程度にしか思っていないのだ。
苛立ちを抱える自分と、冷静に状況を見渡す自分が好き勝手に考えを巡らせ、脳の中が散らかっている。
今のバベルには、全く分からないことだらけだ。オルソやタンゴが魔族に向ける敵意も、ここまでしてライセンスの発行を求める自分自身も。そして何より、こんなにも冒険者ライセンスを発行させたくない、眼前の老人達の意志も。
「バベルよ。冒険者になって、どこに行くつもりじゃ?」
ガストンが俯いたまま口を開く。その目は閉じていて、一瞬寝言を呟いているのかと思った。
「コボルトの森」
正確には、そこからレインを連れて別の街へ。
「森か」
オルソが鼻を鳴らして笑う。その姿勢は、数日前に見た本部長らしさを全く残していなかった。頑固親父のそれだ。
「仮にここで発行したとしても、暫くは森には行けないぞ。明日から立ち入りを禁止するからな」
オルソの言葉に、嫌な予感がバベルの首筋を撫で去った。
「祭りは明後日には終わる。が、それよりも前に私達は勇者と共にコボルトの森へ進攻する。だから、お前の些末事を聞いている余裕など今はない」
オルソは疲れたように手を振り、もう出て行けと言外に示す。が、それまで俯き、沈黙していたガストンが動いた。
「オルソ。もうそろそろ良いのではないか?」
会議室にある視線が、全てガストンに向けられた。持ち上げられた顔には、疲労が色濃く張り付いているが、その瞳には諦めとは違う強い意志が、鮮やかな青空を広げていた。
ガストンはオルソを正面に捉え、真一文字に口を結ぶ。
ガストンとオルソ。二人の視線が絡んだ事で、会議室の空気が固まった。外から聞こえていた喧騒がピシャリと止み、何も聞こえない。誰も動かない。瞬きもしない。ただ、静かに呼吸をしているだけ。
ヨーギルとバベルは、二人のやりとりを黙って見ている事しかできなかった。
「バベルには必要になる物じゃ。そして、ここで渡しておかねば、後悔するのはお前ではないのか?」
「………………」
オルソは沈黙を選んだ。ガストンの言葉に何も返さず、その視線をガストンにぶつけ続けている。
バベルは目だけを動かし、ヨーギルを確認する。
静かに見守っていた。その態度が、その目が、バベルに教えてくれた。
(冒険者時代からこうなのか)
この二人のやり取りは、きっと口に出さずに今なお行われている。その目が、その呼吸が、信頼を寄せている相手へ考えを運んでくれているのだ。
「……そうか。もう好きにしろ」
オルソが先に視線を切った。ガストンが勝ったと見える。
オルソもガストンも一度大きく息を吸い、呼吸を整える。そうしてようやく、会議室の空気が動き出した。外の喧騒も戻って来た。
「バベルよ。明日、集会所に来なさい。ライセンスを渡すよう言っておこう」
オルソがこめかみに手を当て、肘掛けに体を預ける。見るからに疲労が加速していた。衰弱と言っても良いほどに。
「うん。ありがと」
目の前で起きた一幕があまり理解できていないバベルは、ここでの返事が思い浮かばず、言葉を詰まらせた。
「あの短剣はまだ持っておるか?」
ガストンの急な質問は、こんがらがったバベルをさらにあたふたさせた。
「あっうん。返し忘れてたね。これ、ありがと」
バベルは、腰から空色の短剣を引き抜きテーブルに置いた。
天井からの明かりを浴びた空暦剣アルマが、その剣身に浮かばせている空を茜色に染めた。
「それはお前が使いなさい。もしもの時は、自分で何とかするんじゃ」
ガストンの言葉に、一瞬バベルは全ての動作を停止させた。
数秒間の沈黙。その間、バベルの脳は一つの記憶を引っ張り出していた。
空暦剣アルマは、所有者の記憶を記録し、次の代へとその力を与える。
この短剣の今の所持者はガストンだ。持っているべきは、自分じゃない。
「駄目だよガストン。アルマはガストンを選んだんだから」
「その名をどこで——いや、良いんじゃ。それは次の持ち主を探しておったでな。儂にはもう振れぬものじゃ」
「でも——」
「バベル」
ガストンの瞳が、こちらの胸中を見透かしているかように、真っ直ぐバベルの瞳を射抜く。
「冒険者をやればわかる事じゃが、使わぬ武器に価値はない。使い手と、それを欲する者がいて初めてこの世に存在を許される。これらは、そう作られておる」
ガストンの優しさが、バベルの胸の中に詰まった雲海を晴らす一陣の風となって吹き抜けた。
鈍っていた脳に陽光が差す。凍えて悴む四肢が温められ氷解する。
「分かった。アルマは僕が使うよ」
テーブルの上に落ちた日暮の空を、バベルは手に取り腰の鞘に再度収めた。ガストンの瞳と同じ色を持つ短剣は、彼の温かさを鞘を越えて伝えてくれた。
「でも、ガストン達が森に行く必要はないんじゃないの?」
バベルの言葉に、ヨーギルは鍛え抜かれた胸を大きくのけ反らせ笑う。
「がっはっは。若人らにゃ、森の主はちと辛かろうて」
さらに、つぶらな瞳を愉快そうに曲げ拳を鳴らす。
「そんで儂らはまだまだ動ける。んなら、動かん理由もなかろう」
森の主トーラスオルファ。フラクシスは多分、いや確実に、ガストン達よりも強い。
たとえ目の前にいる三老人が、現役冒険者時代『最狂』と呼ばれた冒険者パーティのメンバーだとしても、天井はある。人間が到達できる最高峰は、魔物にとっては軽く超えられる丘なのだ。
本気でフラクシスを殺すのならば、ここの三人が二度と戻らないと考えるのが、最低限の覚悟だろう。下手すれば、この街から冒険者が消える可能性だってある。
「さぁ、話は終わりだ。もう出て行きなさい」
オルソがバベルの退出を促す。これから作戦会議だろうか。それとも、もう一人のパーティメンバーの、あの老婆を待っているのだろうか。
どちらにしても、この争いを止めることなどバベルにはできない。
「うん。気をつけて」
バベルはそれだけを残し、会議室に背を向けた。
ルシオンとガストンが刃を交える。そんな光景を想像したバベルは、一人廊下で体を震わせた。
陽が完全に沈んだ農業区画は、真っ黒に塗り潰されていた。誰かが黒いインクを落として行ったみたいだ。
遠くでは屋台の灯りが辺りを照らしているが、それもここまでは届かない。慣らされた農道には長方形の箱が並び、その近くで複数の男たちがせっせこ作業をしている。誰もが作業に集中し、こちらには気づかない。尤もこの暗さだ。見えていないのもあるだろう。
畑の柵の向こうから聞こえる喧騒に紛れ、足音がこちらへと近づいてきた。その足取りはゆっくりで、何か良くないことを知ったのが感じ取れる。
「そっちも聞いたんだ。明日の進攻のこと」
振り返ったバベルは、足音の持ち主——レインへと本題を投げた。
「そっちも? あぁ、そりゃ聞いてるよね。街長だもんね」
レインは、目に見えて落ち込んでいた。肩を落とすその姿からは、軽く絶望の空気が漏れ出ていた。
「そんな顔することないんじゃない。あれも行くんでしょ?」
あれ——カルカロだって冒険者だ。勇者が先陣を切る森に、あの目立ちたがりが行かないわけがない。
少し前、カルカロが達級に上がったと、声高々に自慢していたのを思い出した。人間の決めた枠で、下から二つ目。森の魔物に勝って帰れるわけがない。
しかし、あの自分さえの塊だ。平気で腰巾着を囮に、逃げ帰ることも考えられる。
「うん。でも、多分帰ってくるよ、あいつは。仲間を平気で見捨てる奴だから」
仲間を囮に帰ってくる。まさかの共通認識があれでは、あまり喜べるものでもない。
しかし、誰も彼も少しばかり森を軽視している。
(あの森が、それを簡単に許してくれるかな)
仲間を囮にして逃げても、その足より速く走れば追いつける。コボルトの森にいるのは、そんな化け物ばかりだ。つまり、バベルとレインはただ待てば良いだけだ。あれの訃報を。
許嫁が死んだとなれば、ここでのやり取りも街を出る必要もなくなる。
バベルの脳内には、あのミルミクスがチラついていた。羊と人間を合わせた化け物。あれに会えば、カルカロも冒険者など辞めるべきだと気づくかもしれない。
(いや無理か。あれにそんな立派な脳はないもんな)
脳内でカルカロに罵詈雑言を浴びせたバベルは、目の前の少女と作戦会議を始めた。
「最悪帰ってきた時のことを考えよう」
「その時は、やっぱり街を出るしかない。でしょ?」
レインの問いかけに、バベルは頷いた。
「明日明後日は森に入れないけど、そこから一日空ければどうなってるかわからないよ。それでもやる?」
これは、半分嘘だ。明日、勇者は負ける。フラクシスをこの目で見たからこそ、戦力差は理解している。それに加え、ルシオンが魔物に生きる術を教えているのだ。勝ち目なんて最初から無い。最悪なのは、フラクシスと勇者の戦いに魔王が参入して来ることだが、これは無いと考えて良いだろう。そんな事が起きれば、どのみち明日はやって来ないのだから、考えた所でと言うやつだ。
「明後日には全部終わってるって言いたいの?」
眼鏡の奥で、瑠璃色の瞳が細められた。
何をそんなに怒っている?
「終わってるよ。多分、いや確実に。人間じゃ、魔物には勝てない」
聞く人がこの言葉を聞けば、バベルは殴られていただろう。しかし、今ここで話を聞いている者などいない。作業で忙しくしている男達が、こちらに気づくこともないだろう。
「バベルはそれで良いの。恩人なんじゃないの?」
レインが詰め寄って来る。
(ガストン達のことか。それも聞いたのか)
「どうしようもないんだよ。僕にはこの無駄な争いを止める力なんて、持ってないんだから」
無駄。そう、無駄だ。コボルトの森の住民にとってはたまったものじゃないこの争い。どちらが勝とうが意味はない。フラクシスが勝った所で、魔王が刺客を、もしくは自身が森を訪れフラクシスを殺す。
万が一にも勇者が勝ったとて、コボルトの森は魔王の支配下になるだけだ。アリウス王国から開拓団が向かったとしても、時間がかかりすぎる。その間にコーラルは陥落。森ごと魔族領の仲間入りだ。
「そんな、それじゃあその後この街はどうなるの!」
悲鳴にも近いレインの叫び。
そんなの、こちらが知るわけないだろう。勇者達がどこまでフラクシスを追い詰められるかはわからないが、終戦後こちらに攻めると言い出すかもしれない。森の外のことなど気にしていない彼女なら、平気な顔してこの街を踏み潰せるだろう。そうでなくても、魔王が来るかもしれない。フラクシスを殺して森を手に入れた後、この街を欲しがればものの数分でこの街は更地に変わる。
これらはただの可能性だ。どちらも起きずに、森も街もそのまま。そんな砂つぶ程度の可能性だって存在するのだ。どちらにせよ、これからのことなど誰にも分からない。
——いや、少なくとも明るいものでない事だけは分かるか。
「さぁ、でもこの街を出るんだから関係ないでしょ。レインの両親も今は外にいるし、何か問題があるの?」
肩をすくめたバベルは、レインを横目に見る。今にも泣き出しそうだった。目尻に涙を溜めた彼女は、両の拳をバベルに振り下ろした。
「問題しかないわ。ここには友達がいるの。大切な思い出もあるの。消えてほしくないの!」
力の入っていない拳を、バベルは何をするでもなく自身の胸で受け止めた。
レインの叫びは、風に乗って遠くまで運ばれた。一瞬、作業者がこちらを見たが、気のせいだと作業に戻って行った。
「そう。じゃあどうするの?」
バベルには、どうすることもできない。人間が始めたことを、魔物に説いたところで意味はない。正当防衛を信じ切った冒険者が、魔物の言葉を聞かないのと同じだ。
——どうしようもない。詰みだ。
バベルは集会所で話を聞き、ここに来るまでに答えを出した。諦める。これが一番だ。
「何で……何で簡単に諦められるの……この街のみんながどうなってもいいって、そう言ってるの?」
バベルは、自分とレインとの対話を、遠くから眺めている気分になった。
何故、ここまで被害者の顔ができるのだろう。そこまで言うのなら、冒険者に加わって森に行けばいい。自分で勇者達を説得し、森への侵攻を止めさせればいい。ここで子供のように泣き喚いていても、現実は変わらない。
「どうでも良いよ。少なくとも、僕には友達なんていないし、大切な思い出だって大してないからね」
「ふざけないで!」
「本気だよ。そもそも今回のことは、この街と勇者達のせいだ。それを棚に上げて、自分達は無関係です被害者ですなんて、通るわけないだろ」
無責任に他者の住処を荒らして被害者ですなんて、都合がいいという物だ。
「何で……何でこの街のせいになるの。だって魔物が、魔王が攻めて来るって……だから!」
泣きそうなレインが、喘ぎながら声を絞る。バベルの胸ぐらを掴み、揺さぶる。無意味で幼稚な動作に、バベルは苛立ちを感じた。
遠くから眺めるバベルは、もう目の前の少女を助けるべきでないと言ってくる。
——結局、彼女も人間なんだ。
バベルの目から、熱が消えた。冷めた瞳でしか、今の彼女を見る事ができない。
「勇者の歓迎祭をしたのは? 勇者を受け入れたのは?」胸に置かれた両腕を、バベルは引き剥がした。「この街だ。共犯なんだよ、僕もレインも」
口から出る言葉が、溢れ出る気持ちが、止まる事を知らずに彼女を傷つける。
レインが悪いわけではない。なのに、まるで目の前の少女が元凶であるかのように、バベルは詰め寄った。
「勇者を担ぎ上げ、英雄を褒め称えた。その結果なんだ」
「そんな…………そんなのって………………」
可哀想なんて、そんな感情は湧いてこなかった。ただただ苛立たしい。
知らない分からない。それで生きていた彼女と自分が、どうしようもなく憎くて——いっその事、殺したいと思った。
もうこの場で剣を抜いても良いと、本気でそう思った。彼女を殺して、この街にいる他のみんなも殺す。そうすれば森は、森だけは、変わらず枝葉を伸ばしてくれるのではないか。そう思った。
気づいた時には、バベルは花火の発射台のそばから離れていた。
畑を区切る柵を乗り越え、農業区画で働く者達の居住区に繋がる細い道を歩いていた。
隣には誰もいない。レインは置いてきた。いや、逃げて来たのだ。レインから。
「どうしろってんだよ」
バベルは一人、帰路に着いた。
——泣いてたな、レイン、
「ルシオン。フラクシス。僕はどうすれば良かったの?」
あのまま街に帰らず、森に残る選択肢はなかったのか。残ったところで、できることなど何もなかっただろう。それでも、こうして一人虚しさを抱えてはいなかったかもしれない。
路地を歩きながら、バベルは自嘲に耽っていた。胸に穴が空いたようだ。そこから、大切なものが全て流れ出て行く。数少ない、自分の人間性が逃げて行く。
——結局、自分のためか。他者を思うフリして、自分の欲を満たすためだけに動いてた。
最低だ。これならカルカロの方がまだマシだ。自分に素直で、それ以外見ていない。明後日には森へ死にに行くあの馬鹿の方が。
すっかり冷えた体を引きずり、バベルは自分の家に着いた。
家の中はとても簡素で、森の中で一泊したあの家を思い出す。
この部屋はあの部屋より暗く、冷えている。しかし、明かりをつけるのも億劫で、バベルはそのままベットに倒れ込んだ。
このまま眠ってしまいたい。そして二度と、目を覚ましたくない。そう考えても、脳は休憩させてはくれなかった。眠れない。
体を半分持ち上げ、ベットの上で仰向けに転がる。ベットから眺める我が家の天井は、いつにも増して寂しく色褪せて見えた。
そうして時間を無駄にしていくらか経った頃、薄ぼんやりの意識の中で、コン——ココンと、扉が二度鳴いた。
一度鳴き、連続で二度。このリズムで扉を叩く客人を、バベルは一人しか知らない。
「どうぞぉ」
天井を見つめながら、バベルは気の抜けた声を返す。
「何を悩んでおる。バベル」
扉の開閉音と共に、ガストンが姿を現した。
「いらっしゃいガストン。別に、なんでもないよ」
ベットから起き上がることなく、バベルは気の抜けた声を続ける。
そんなバベルを気にすることもなく、ガストンはテーブルのそばに置かれた椅子に、ゆったりと腰掛けた。
不思議なもので、ガストンが来た途端に、部屋がほんの少し明るくなった。色褪せていた木貼りの天井も、暖色系の色彩を取り戻した。
「バベル。お前は、昔から優しかった」
ガストンが唐突に話を始めた。何の脈絡もなく、一瞬独り言かと聞き流しそうになった。
「何。急に」
「自分より他人を優先し、他者へ深く共感しておった。そこが嬉しいようで、少し怖いと思っておった」
「怖い? 何で。良いことでしょ、他人を思うって」
言っていて笑いが込み上げてくる。自分が他者を思うのは、いつだって見返りがあるからだ。
対するガストンは頷きを返した。
「良いことじゃ。誰にでもできることではない。しかしバベル。お前は、どちらか一方だけに共感し、少し極端な考えをしておった」
ルシオンも、そんなことを言いかけていた。
『しかし、極端すぎる。それではいつか——』
「そんなことないよ。僕は、自分のことしか考えてない。自分のためにしか、動けない」
いつだってそうだ。自分の嫌いな相手が死のうが生きようが、興味はない。しかし、自分によくしてくれた相手であれば、心配もするし手助けだってする。そうすれば、また自分に返ってくるのだから。
結局は自分のため。自分が傷つかないためにタンゴの冒険について行き、レインの未来を作ろうとした。
自己嫌悪が、空いた胸の穴をさらに広げる。虚しさが脳を鈍らせる。ベットに体が重く沈み込む。
ふと横目にガストンの顔を確認し、驚いた。ガストンはその顔に笑みを浮かべていた。とても優しい、昼間の通りでたくさん見たものだ。
ガストンの微笑みは、父親が息子に向けるそれだった。
ガストンとバベルに、血の繋がりはない。自我と呼べるものが芽生えた頃から、ガストンがそばに居てくれた。他にも、トルシアやオルソ、ヨーギルも面倒を見てくれた。しかし、その誰もがバベルの親ではなかった。
バベルは、孤児だった。
「どうしたのガストン」
驚きのあまり、バベルは素直に疑問を口にした。
「いや、何でもない。ただの追想じゃ」
ガストンの笑みが、より深くなった。
「バベル。その考えは少し、大きな間違いじゃ」
ガストンの言葉が、ぽかりと空いた胸の穴に反響して体の奥底へと積もって行く。
胸に撃ち止められた獣が身震いしているのは、勘違いではないだろう。
冷えた体に熱が戻る。
「何が間違いなの?」
「確かに、バベルが言った様な者はこの世におる。それも、一人や二人ではない。しかしバベル。お前は違う。そう言った者達は皆、揃って笑みを絶やさなかった。命の重さを知らぬ、不快な笑みじゃ。今のバベルのような酷い顔など、最後まで見せなんだ」
言っている意味がわからない。ガストンは、一体何の話をしているのだろう。
「良いか、バベル。真に自分のことしか考えられぬ者は、自分の為に他者を助けようと行動し、それが成せなかったとしても、その顔から笑みが消えることはないんじゃ。その者らにとって他者の命など、代わりの効く消耗品程度にしか考えておらぬからな。してバベル、お前はどうじゃ?」
ガストンの瞳が、バベルの空洞を貫いた。身震いしかできない獣の頭上に、小さな青空が広がる。
バベルは何も返さなかった。しかし、ガストンは満足げに頷いた。
「それが優しさじゃ。そしてそれは、多くの人に届くじゃろう」
優しい老人に、バベルは返す言葉を失った。何を伝えるべきかと、脳内の書架を漁るが見当たらない。
森に行かないで。そんなことを言えば、ガストンを悩ませるだろうか。子供の我が儘だと、軽く流されるだろうか。どちらにしろ、ガストンは森に行く。森で、ルシオンとフラクシスと殺し合う。どちらかが死ぬまで続く戦争。
ガストン達に勝ち目なんてない。冒険者の最強を冠する英級でも、それは人間の決めた枠。魔物には、魔族には通用しない。
ガストンも、それは分かっているのだろう。だからここに来た。
「ルシオンか。かの御仁に会うことができたのじゃな」
ガストンから出た信じられない言葉に、バベルはベットから飛び起きた。
「知ってたの。もしかして、会ったことがあるの?」
その質問に、ガストンは少し寂しげに首を振る。
「残念じゃが、儂の前には現れてくれんかった。じゃが知っておる。アルマの製作者の一人にして、儂の師匠の友人じゃ」
『槍嵐』と呼ばれた冒険者——ガストン・ジニアレスを育てた存在。それが、ルシオンの友人。
思えば、ガストンから多くの冒険譚を聞いたが、冒険者以前の話は一度も聞いたことがなかった。生まれた時から冒険者をしていたのだろうと、ガストンのプロローグを、バベルは勝手に描いていた。
「どんな人だったの。ガストンの師匠って」
ガストンは、嬉しそうにはにかんだ。その顔は少年のようにも見える。
「業火の様なお方じゃった。その身から溢れる気迫、威圧、生命力。それらが合わさり混ざり、決して消えぬ炎と化した。そして、その両手から繰り出される攻撃は華麗にして苛烈。あれこそが、武の真髄と呼ぶべきものなのじゃろう」
目を輝かせるガストンは、息継ぎも忘れ早口で捲し立てた。だからこそ、バベルは興味が湧いた。あのガストンが、こんなにも楽しげに過去を語ったことなど一度もなかったから。
冒険譚を語るガストンは、いつだって変わらない微笑を浮かべていた。今のような笑顔を、バベルは遠い過去でしか見たことがなかった。
「ガストンより強いの?」
ガストンがニヤリと笑う。
「儂は、あの方から一本も取れなんだ」
素直な驚嘆が、バベルの口から漏れた。
ガストンより強い冒険者。俄かに信じがたい話だ。英級のガストンより強いとなると、勇者の生まれ変わりと言われても信じてしまう。
「ガストンと同じ長槍使いだったの? それとも斧、もしかして大剣?」
ガストンは言った。『その両手』と。つまり、師匠と呼ばれるその人物は、両手に武器を持っていた事になる。ならば、選択肢は絞られる。
「残念じゃが、どれも不正解じゃ」
ガストンは両手を広げた。
「師匠は——かの英雄は、二刀流の武神じゃったからな」
二刀流、バベルもタンゴも扱えなかった戦闘スタイルだ。
長さの異なる二本の剣で繰り出す攻防一体の連撃は、少年の心を奪うには十分な派手さを含んでいた。
短い剣で相手の攻撃をいなして防ぎ、相手の隙を強制的に作り出す。そして、もう一方の長い剣を作り出した隙に叩き込む。
言葉による表現ならば簡単だ。だが、これを実際に自分の体で行うととても難しい。相手の攻撃をいなそうが防ごうが、もう一方の腕を動かす余力が無いのだ。無理に連撃を狙っても、どちらか一方の腕に偏り、両方を同程度に振る事ができなかった。
結果、バベルもタンゴも諦めた。これなら盾を構えた方が効率的だと投げた。そんな戦闘スタイルを、ガストンの師匠は、冒険者として最高の地位の英級まで鍛え上げた。
実に興味深い話だ。しかし、それ以上に信じられないことを、ガストンは続けて放った。
「バベルも、そのうち会いに行くことになるじゃろう」
「まだ生きてるの?!」
驚きを隠せず叫ぶバベルにガストンは、生きてはおらん。しかし、会うことはできると、言葉遊びのようなことを返した。
「どういう事?」
そのうち分かるじゃろう。そう言って、ガストンは心底楽しそうに笑い声を上げた、
祭りの賑わいが絶えることない街と同じくらい明るくなったバベルの部屋で、ガストンの話は続く。
師匠の偉業、その技や出生まで。ガストンの知り得る師匠の話を、楽しげにバベルへ語り聞かせた。
窓から差し込む陽光が、バベルの顔を照らす。ガストンの話を聞いているうちに、眠ってしまったらしい。
「おはよう、ガストン」
寝惚け眼で、バベルは部屋を見渡す。いつもの部屋だ。いつもの一人。
ガストンの姿は、既になかった。
「集会所に戻ったのか」
寂しさが胸を刺す。しかし、ガストンならばそうするだろう。
「行ってらっしゃいぐらい、言わせてよ」
バベルの独り言は、部屋の中で小さく反響した。