勇者来訪祭
防衛街コーラルには、豊穣祭と呼ばれるお祭りがある。農業区画で採れた作物への感謝と、次の収穫への祈りを目的とした祭りだ。
三日間露店の数が増え、普段の倍以上に活気が満ちる。それは隣町にまで届く程だ。
祭りの季節はいつも秋頃と決まっていて、森の動物達が冬支度を始めるのと同じぐらいに執り行われる。
今は、春の香りを風が運び始めて間もない。祭りの開催には半年以上は先だ。だのに、
「何であんなに盛り上がってるんだろう?」
森の入り口から伸びる街道を進むバベルとタンゴは、見上げるほど高い石壁を超えて漏れ出てくる活気に耳を押さえた。
祭りはまだ先のはずだが、見れば街道を歩く冒険者達の表情が、いつもより明るい。祭りで見る顔だ。
「今年の祭りをもう始めた……訳ないか」
「きっと来訪祭だろ。勇者が本当に来てたらやるって、レインのやつが言ってたし」
「そういえば、そんな事も言ってたね。忘れてたよ」
勇者が来ている事は覚えていたが、祭りの話はすっかり忘れていた。体感昨日の事でも、寝ていた三日と森での出来事とで、記憶があやふやになっていた。
「お前はホント、何でそんななんだかなぁ」
「何が?」
「いや、何でも無い」
ルシオンと別れてから、タンゴとは何処か離れてしまった気がする。このまま離れ続けなければ良いが、少し不安だ。
西門。毎日見ていたはずが、何だかとても懐かしい。
(駄目だな。この程度でホームシックになるなんて。冒険者に向いてないよ)
門を通り抜け、街の中に入った途端に活気の波がバベル達の全身を打った。
「凄い活気と熱気だね」
「いつもの豊穣祭とは比べ物にならないな」
普段の西の大通りは、冒険者と一部の農業区画の人間以外にはあまり通らない。しかし、今日は違った。
大通りの幅広い道は、街の内外の人間で溢れ返っていた。すれ違う通行人は、度々その肩をぶつけながら歩いている。
大通りから集会所までは、どんなに遅く歩いても十五分程度で辿り着ける。だが今日は、露店が道幅を狭め、多くの人間に押されて流された結果、三十分以上かかってようやく中央広場に到達した。
「なんか、疲れた」
「だな」
これは、もしかしたら、
「ねぇ、タンゴ?」
「帰らないぞ」
駄目らしい。
木の葉一枚分の可能性もなかった。タンゴは、冒険者になりたのだから当然だ。不法とはいえ、何度も森を探索している経験。二度のミルミクスと遭遇、生存。そして、ルシオンとの対峙。これだけの功績があれば、正規の冒険者ライセンスを発行してもらえるだろう。
「ほら行くぞ」
人の波に押し流されながら集会所の前に出たタンゴが、意気揚々とこちらを振り返る。若干興奮気味だ。
「うん…………はぁ」
身も心も重い。これは、祭りで溢れた人の波に揉まれたからだけではない。折角ルシオンに救われて、ご飯も食べて回復したのが、ここまで来るのでプラマイゼロになった気がする。
「ガストン居る?」
集会所二階。ガストンの私室前で、バベルは先日同様ノックして、ガストンの在宅を確認する。
「居ないのかな?」
背後のタンゴに振り返り、さりげなく帰りたいアピールをする。
「会議室だろ」
無理か。バベルも、そんな気がしていた。
タンゴは、背後の扉を少し強めに叩く。
「ガス爺居るんだろ!」
扉が悲鳴を上げている。やめて差し上げろ。
「何じゃ騒がしい」
ガストンの声だ。扉の向こうで複数人の気配が動いた。また会議。まさかこの祭りの中、ずっとここに篭って居るのだろうか。
扉を開き、中からガストンが顔を出した。その顔には疲労が色濃く出ている。先日の比ではない。
「タンゴ! それに——バベル!」
疲れた瞳に光が灯る。翳っていたその表情が、一瞬にして明るくなった。
「やはり、生きておったのだな!」
扉から飛び出してきたガストンに、バベルは強く抱きしめられた。
老人らしい皮と骨ばかりの細い体。だが、そこからは信じられないくらいの力を感じる。この老人は、一体この体の何処にそんな力を隠していたのやら。
ふとバベルは、こんなふうに抱きしめられたのは、何時が最後だったかと記憶を辿った。とても懐かしい感じがする。
「ただいま、ガストン」
ガストンとバベルには、血の繋がりは無い。自我が芽生えた時には、ガストンが世話をしてくれていた。本当の親は死んだのか、捨てられたのか。そんな事をガストンに聞く事もしないまま、今日まで来てしまった。
ガストンが居てくれればそれで良い。そう思っていたからだ。いつも穏やかで、物腰柔らかいこの老人がバベルは好きだった。唯一の家族だと思えた。
今もこうして、森の探索から帰らない事を心配してくれていたのだから、申し訳ないような嬉しいような、複雑な気持ちが込み上げて来る。
「ガス爺、とんでもない物を見つけたんだ! オルソ爺さんは?」
「ああ、部屋の中におる」
タンゴは、飛び込むように会議室の開いた扉から中へとその身を進める。
バベルは、色々と複雑だった。ガストンの気持ちはとても嬉しい物だったが、タンゴの『とんでもない物』と、ルシオンを人として見ていない言葉が頭を強く殴って来た。
森からの帰りまでで、タンゴとの距離が更に遠退いた気がしたが、このまま広がって最後はタンゴの姿が見えなくなってしまう。そんな予感めいた物を感じる。
そんな重い感情に足を取られながら、ガストンに促されバベルも会議室に入った。
室内の長テーブルを囲むように置かれた椅子には、街の重鎮達が腰を下ろしている。オルソ、ヨーギル、ジロ、そしてこの中で最も若いレイン。しかし、その他にも今日は客人がいた。
街の重鎮達が腰掛ける場所から、テーブルを挟んだ向かい側。そこに、五人の貴族が列をなして座し、こちらを見ていた。お揃いの白地に金縁の外套を纏った集団。中央広場で見かけた貴族パーティだ。
「タンゴ、バベル。お前達の事はクルトン達から聞いている。よく生きて戻って来てくれた」
いつも仏頂面のオルソが、今日は何だか優し気だ。一応は心配してくれていたのだろうか。その隣に座っているヨーギルのつぶらな瞳は充血し、顔全体が赤く腫れていた。可愛い孫が帰ってこず、泣いていたのか。今は、帰って来た事に泣き出しそうになっている。
「ただいま戻りました。ファルフジ支部長」
いつもの態度とは一変し、タンゴはとても仰々しく返答する。それに吊られ、バベルも無言で頭を下げた。
客人がいるから? 冒険者ライセンスが欲しいから? あのタンゴをこんな風に変えたのは、一体何なのだろう。
「彼らが、昨夜仰っていた?」
「はい。森の探索を任せた、臨時の冒険者二名です」
オルソの対面に座った青年がオルソに質問する。
白地に金縁のロングコート。青みがかった黒髪を真ん中で分けた、いかにも優等生な見た目の青年が、藍色の瞳を眼鏡越しにオルソへ向けている。
オルソに対して敬語でありながら、どこか上からの物言いに、バベルは少し苦手意識を持った。
正面から視線と言葉を受けるオルソは、いつもの硬い言い方が変わり、丁寧な管理職員の物言いをする。
冒険者協会支部長のオルソより、目の前にいる貴族冒険者の方が立場が上なのだろうか。
「それは良かった。話を聞いた時、私達も心配していたのです。お二人とも、よく戻って来てくださいました。ご苦労様です」
「はい、ありがとうございます!」
「…………どうも」
何故だろう、嘘くさい。この眼鏡の発言は、立場ある者にとっては社交辞令として行う当たり前の行動だ。しかし、バベルには彼の一挙手一投足が、何かを纏った表現しづらい物に映った。
「で、あなた方は?」
バベルが、貴族パーティを見渡し質問する。とりわけ気になるのは、やはりフードを目深に被った真ん中に座るリーダーだろうか。
中央広場では距離があり分からなかったが、どうやらフードを被っているのは女性らしい。少し俯いて顔は全く見えないが、外套越しの体つきが物語っている。
「彼等は、勇者アイビー・ダフネオドラ・クロック様が率いる勇者パーティだ」
オルソが紹介する。
今回の祭りの主役、勇者アイビー。その勇者が、恐らくフード女の正体だ。
となると、この眼鏡は『絶壁』のウィリアムだろうか。勇者パーティの盾役を任されている。アウリス王国が所有する盾の英雄。ウィリアム・アームストロング・ヘレボルス。
そうなると、その左隣。会議室の奥に座っている金髪の軽薄そうな男は『群攻』のグリッド・ナイジェラス・サフランだ。女性関係がただれているとか、あまり良い話は聞かない男。
現に今も、レインの事をジロジロ無遠慮に眺めていた。
絶壁の右隣、勇者アイビーを挟んで隣に座っている少女は『賢者』アリストリア・ティピオ・トリフォリウム。齢十五で、国一の頭脳と呼ばれる天才錬金術師。
タンゴに似た赤みがかった茶色の髪を、肩くらいで揃えた翡翠色の瞳が印象的だ。あまり人付き合いが得意でないのか、周囲をキョロキョロ見ては机の一点に戻しての動きを繰り返している。
賢者の挙動不審を呆れた目で横に見ている彼女が『奪命』のテレサ・ママレード・アスチルベだろう。
彼女は、率直に言って危険だ。数多くの貴族の首を切り裂き、その腹部に詰まった臓物を統治していた街の道路にぶちまけさせたと聞いた事がある。勇者と行動を共にするようになって、悪評は聞かなくなりつつあるようだが、元犯罪者だ。
今回の勇者パーティは、歴代でも歪だと評されている。今までの勇者パーティは清廉潔白、品行方正で弱きを助け強きを挫くを体現していたらしい。その反面、今代の勇者は歴代最強と名高い。彼女が身に付ける装備に、傷を一つでも付けられた者はいないと言われている。
(まぁ、ここまでの話は、畑作業をしているときにタンゴやベンさんから聞いた話で、僕はその話を聞くまでは全く知らなかった訳なのだが)
しかし、いざ実物を見ると確かに凄い。目の前にいる勇者一行は、勇者を除いたパーティメンバー全員が、英級冒険者。つまりは、冒険者協会が英雄と認めた人外の領域の住民だ。そこに加え、装備はどれも一級品で、外套の隅にはアウリス王国の紋章も入っている。国が認める実力者達。それがバベルの前に並んで座していた。
「それで、どうでした。森の中で、何が起きているのかは分かりましたか?」
「その事ですが——」
「何故ですか?」
タンゴが口を開いたのを、バベルが横から大きめな声を出してかき消した。タンゴの非難の視線と、賢者が肩を飛び跳ねさせた事がバベルの胸を少し痛める。が、視線を絶壁のウィリアムから外さなかった。
「何がでしょう?」
「既にクルトンパーティから話は聞いているはずです。昨日僕たちの事を話したということは、それ以前に戻って来ていたのでしょう?」
「確かに。彼等からの報告も、しっかりこの耳で聞きました」
絶壁は人当たりの良い笑みを浮かべる。バベルには、それが不気味に感じた。
この感覚は、一体何なんだ。
「でしたら——」
必要ないでしょう。そう続けようと口を開いたが、その途中でウィリアムに止められた。
「あなた方の話も聞きたいのです。私達には、情報が必要なので」
この人達を、本当に信用していいのだろうか。
「おい、バベル。失礼だろ」
タンゴが、バベルの肩を強く掴んで止める。
「いいのですよ。いきなり現れた私たちは、いかにも怪しい集団ですから」
「そんなこと無いですよ!」
タンゴは何も感じていないのか。いや、祭りの空気に飲まれているんだ。この国一番の英雄達が、今目の前にいるんだからそれも無理はない、のかな。
「でしたら、そちらから話して下さい。この街に来た理由を」
「おい、バベル!」
バベルはタンゴを無視して、机の上に肘を立て、指を組んだウィリアムを見下ろし回答を待つ。
オルソが椅子に座り直した。まだこの話はしていなかったのだろうか。いや、目の前にいるのはオルソより立場が上なのだから、そう簡単に聞けなかったとみるべきか。
「そうですね……アイビー、話してもよろしいでしょうか?」
ウィリアムの声色が変わった。勇者に対しては何か別の感情を抱いているようで、声に乗せられた気持ちの悪さに拍車が掛かった。
「任せます」
その声は、実に無機質で無感情なものだった。これが勇者とは本当なのだろうか。その視線も、何処を向いているのやら。テーブルの上を見つめているようで、全く別の世界を眺めているようだった。
「勇者からの許可も出たので、お話ししましょう」
何故こんなにも上からなのか。殴っては……駄目か。ガストン達にその責任が向いてしまう
「お願いします」
形だけの感謝を述べるバベルの声も、勇者のように無機質なものになっていた。
こいつとは仲良くなれない。そんな考えが、バベルの中で生まれた。そんな事を露程も知らない英雄の一人は、一呼吸置いてから口を開いた。
「魔王です」
短くも確かな存在感を放つ言葉——魔王。会議室にざわめきが生まれるのも当然だろう。背後にいるタンゴも、ソワソワと挙動不審気味に視線を回していた。
「森の主をこちらに付けた。近々そちらの街を一つ手中に収め、その脅威を知らせる。と、宣戦布告をして来たのです」
森の主、フラクシスの事だ。しかし、彼女は言った。
——アレと枝葉ヲ絡めルつもりハなイ。
脳内で再生される声が、バベルの脳を掻き乱す。
「それは、本当の事なのでしょうか?」
オルソは、額に汗を浮ばせながら身を乗り出した。その勢いは、テーブルの上に立ち上がりそうな程だった。
「はい。勇者アイビー宛てに、王都へ直接連絡を取って来ましたから」
勇者と魔王は、連絡を取り合っている? 少し不思議に感じるが、騎士道に則っているのだろうか。
——嘘をついているのに?
「なので、今私達には情報が必要なのです。どれだけ些細な事でも構いません。お願いします」
頭を下げるウィリアムに、会議室のメンバーが戸惑っていた。バベル以外。
何故だろう。芝居がかったこの動作が、バベルは気に食わなかった。
「エルフが居ました」
眼鏡英雄の芝居に、まんまと乗せられた友人の言葉が、会議室に響き渡った。会議室が静かになり、視線が一点に集中する。それまでレインを眺めていた軽薄男の視線も、こちらを——正確にはタンゴに向けられた。
ウィリアムの視線がタンゴに移る。警戒されているバベルより、聞き出すのが簡単だと思っているのだろう。実際、引っかかっているわけだし有効だろう。
「エルフ?」
ウィリアムの返しに、タンゴは頷く。前に立つバベルを押し退け、タンゴがテーブルに両手を突き話し出す。
「俺達がミルミクスとの戦闘に敗れ、森の主の棲家に落ちた後に出会いました」
それから、タンゴはルシオンの話を会議室の重鎮達と勇者パーティに聞かせた。
それにしても、『助けられた』ではなく『出会った』と言ったタンゴの言葉が引っ掛かる。
エルフはコボルトの森の中に家を持っている事。そこは魔法で隠され、正確な位置は分からない事も含め、ミルミクス戦の後の事を順を追って話す。
「それでは、今回の森の異変は——」
「エルフの仕業です」
ウィリアムの言葉の続きを、タンゴは言い切った。
何故? 助けてくれただろ。
バベルは、目の前でルシオンのことを悪として扱うタンゴを殴って怒鳴りたくなった。——いや、してしまった。
「バベル!」
ガストンの少し上擦った声が聞こえた。が、そんな事は気にしていられない。
右手にタンゴを殴った痛みが走るが、それも無視。
一歩前に出ていたタンゴの肩を掴み、振り返ってきたタンゴの左頬を殴り飛ばした。その衝撃で、タンゴは床に倒れ込む。
「おま——っ!」
「っざけんな! ルシオンは、僕達を助けてくれただろ!」
タンゴの方が背が高く体格も良いが、隙を突けばバベルにだって倒せる。床に倒れたタンゴの上に跨り、胸ぐら掴む。
「だから! あいつは魔族で、エルフなんだよ!」
タンゴも抵抗する。胸ぐらを掴んだバベルの左手首を掴み、無理矢理引き剥がしにかかる。力もタンゴの方が強い。昔は全く逆だったのに、タンゴと離れたのは心だけではなかった。
「エルフだからって、魔族だからって、森の異変の犯人だって証拠は何もないだろ!」
ルシオンとフラクシスは、魔王の協力を拒んだ。彼等を守ってくれる存在は何も無い。コーラルに危害を加えて来た事もない彼等が、何の理由で狙われなければいけないんだ。バベルには分からなかった。
「あの人達は、ただ森の中で静かに暮らしてるだけだ! 何で、それを奪おうとするんだよ!」
「止めろお前達! 勇者様方の前でみっともない!」
オルソの叫びが会議室を震わせた。互いに拳を振り上げていたバベルとタンゴは一度動きを止めた。が、バベルはその拳を振り下ろした。
「——ガッ!」
「バベル!」
顎に綺麗に入った。タンゴは白目を剥いて床に倒れる。気を失ったらしい。
オルソが、こちらに怒鳴り声をぶつけて来る。
勇者と英雄の前での失態。街の面汚し。その辺を気にしての事だろう。確かに、タンゴにとっては英雄も勇者も憧れなのだろう。しかし、バベルにとっては『街の外の人間』以外の感想が出てこない。昔から悪さばかりして悪目立ちしている二人だ。今更何だと気にしない。
「出ていきなさい!」
オルソはとても怒っていた。そんなに勇者達が大切か。森を守っているルシオンとフラクシスの事だって、それくらい思ってくれてもいいだろう。
床から立ち上がったバベルは、左頬が腫れていることに気がついた。タンゴから、一発喰らっていたらしい。怒りに任せていた所為で、全く気付かなかった。
「お待ち下さい」
会議室でただ一人、ウィリアムだけがオルソの意見に口を挟む。
「君はたった今、興味深いことを言いましたね」
「……知らないよ」
「バベル!」
今この状況で、この男の声を聞いていられない。今まで感じた事がないくらい、胸の中で怒りが沸いていた。
「あの人達は、と君は言いました。何を見たのです? 何と会ったのですか?」
会議室中の視線が、バベルに向けられていた。
「それを知った所で、お前らはただ奪うだけだろ」
タンゴがそうした様に、バベルもテーブルに乗り出しウィリアムの藍色の瞳を睨め付けた。
「反撃喰らえば被害者面する、自分勝手の馬鹿どもが!」
そう言い放ったバベルは、踵を返して会議室を後にした。
大きな音を立てて閉じられた扉から、視線を既に外していたバベルは、そのまま集会所も後にする。どちらにしろ、こちらの話は誰の耳にも届かない。会議室の視線で、それは分かった。
学校で受けた歴史の授業で、人間と魔族の事は知っている。
古くから、魔族は魔法が使える事を誇り、人間に圧政を敷いて来た。何の力も持たなかった人間は、苦渋の日々を暮らす。そんなある日の事、とある夫婦は同じ夢を見た。同じ人物に、同じ言葉を授けられる夢だ。とても不思議な夢を見た次の日、夫婦の間に子供ができた。
『汝らに、闇を祓う力を持つ子を授けます。大切に育てなさい』
この世のものとは思えない美しい女性だったと、各地の壁画にも描かれている。
勇者の誕生である。
勇者は生まれて数ヶ月で読み書きをこなし、一歳になる頃には会話ができるようになった。
その後三歳で剣の才覚を見せ、齢十八で国一の剣士となる。
圧政はその間も続き、多くの人間が魔族に殺された。それを苦に思った青年は剣を取り、仲間を集い反撃に打って出る。これが、後の『人魔戦争』と呼ばれる戦いの始まりだ。
歴史の授業では、勇者は多くの魔族と共に戦場でその命を散らしたと習った。しかし、数年後にまた同じ夢を見た夫婦が現れ、その子供にも才が宿っていたとも。
勇者の生まれ変わり。女神と呼ばれる存在が、勇者の死後、子供を持たない夫婦に子供を授ける。
その子供は皆、武芸の才に恵まれ生まれる。
「だから、何だってんだよ……」
授業で覚えているのはその辺りだけで、人間が魔族を嫌悪する理由が分からない。少なくとも、バベルには自分の覚えていない程昔の事で、あそこまで敵対心を剥き出しには出来なかった。
「なんか疲れた。……帰って寝よう」
だが、中央広場は多くの人間が右に左に歩いている。ここから帰るのも一苦労だ。
かと言って集会所に残れば、カルカロと出会しかねない。今の状態では、彼の挑発で取り返しのつかない事をしてしまうかもしれない。
中央広場の端を肩を狭めて歩く。時折肩がぶつかるが、相手は全く嫌な顔を見せず、逆に笑いかけて来た。
不気味だな。バベルはふと、そんな事を思う。勇者がこの街に来た。それがどれほどの意味を持つのかは知らないが、レインが言っていた『勇者の呪い』その一端を見た気がする。
……ベル………………バベル。
今度は幻聴が聞こえた。何処かで聞いた事のある女性の声だ。
「限界かな?」
普段の畑仕事では、今以上に疲労を感じる事もある。だが、精神的に来ているのかもしれない。早めに帰ろう。
「バベル? バベル!」
後ろから声が聞こえる。女性の声だ。幻聴だと思ったが、現実なのだろうか。しかし、バベルにはタンゴ以外に親しい友人はいない。ましてや、恋人など。
何が言いたいかというと、自分を呼ぶ女性など存在しないという事だ。
——帰ろう。
「ちょっとバベル! 何で無視するのよ!」
まだ聞こえる。声に加えて、足音もこちらに近づいて来ているようだ。
声は幻聴。足音は恐らく、祭りを楽しんでいる子供が走っているだけだろう。
「バベル。いい加減叩くよ?」
声が背後で聞こえた。足音も同じ場所で止まる。
まさかな。と思いつつも、バベルは振り返った。
「……レイン?」
そこには、この場にはいないはずの女性が立っていた。
レイン・スターリング。貿易長の代理をしている彼女は、今は会議室に居るはずだ。何故ここに。
「もう! 無視するなんて酷くない? 一応は元クラスメイトだよ?」
文句を言いつつも、言葉には一切の棘が無い。白い長髪を風に靡かせる彼女は、会議室で見た時とは別人だった。今の彼女の口からは『クソジジイ』なんて単語は出てこないだろう。
「あっえっと、その……」
同い年の女性との会話。こんなに難しいのか。
「ふふ、どうしたの。会議室でのあの勢いはどこに行ったのかな?」
からかう様に笑う彼女の顔は、昔と変わらない。眼鏡の奥で緩んだ瑠璃色の瞳が、とても印象的だ。
クラスで人気だったのも頷ける。
「本当にどうしたの?」
今度は心配そうにこちらを伺って来た。こんなに表情を変える子だったのか。
「えっ! いや、大丈夫だよ」
慌てて首を横に振り、バベルは話題を変えた。
「それより、レイン……さんこそどうしたの。会議室にいた時とは別人みたいだけど?」
この話題は間違っていたようだ。明るかった彼女の表情に影が差した。眼鏡の奥で、その瞳が少し光を弱める。
「あえっと、その、ごめん」
「何で謝ってるの? まだ、私は何も言ってないよ」
その通りだ。何も分かっていないのに、上部だけの謝罪など意味がない。
「お父さんがね、怪我したの。コロビスに行く途中だったって……」
「そうなんだ。その、お父さんは——」
「生きてるよ。そこまで大きな怪我じゃなかったんだって」
「それは良かったね」
本当に良かった。ここで死んだなんて話されても、バベルには何もできない。
泣かれては困る。なんて考えるのは、最低な人間なのだろう。
「でもね。お父さん怪我したのに、そのまま仕事を続けてるの。こっちの心配を何だと思ってるのかしら」
レインは唇を尖らせそう零した。口調は柔らかいが、内心とても心配しているのだろう。だから、あんなに気が立っていたのだ。
「そうなんだ。ホント、無事で良かった」
「うん」
会話が終わった。二人は向き合っているが、視線は全く絡まらない。広場の人を見たり、天気の良い空へと逃がしたり。石畳の模様を眺めたりしている。
「その、安心したんだ。無事だって、分かったから」
「? うん、そうなんだ……」
それはもう聞いた。向こうも何を話せばいいか分からないのか。では、何故声をかけて来た。そもそも会議室を出た理由は?
バベルの脳内で疑問が渦巻き始めた。目の前にいる異性の同い年を相手にしているはずが、まるで魔物と武器を片手にやり取りをしているように感じる。こんなにも大変なのか、女性との会話とは。
「そうじゃなくてっ……二人の事。タンゴ君と、君の」
「へっ?」
声が裏返った。
彼女は、心配してくれていたらしい。問題児二人を。昔、悪さをして迷惑をかけられた彼女が。
何とも言えない空気が漂う。嬉しいような申し訳ないような感情が、思考を埋め尽くす。
「無事で良かった。森に行ったきり帰って来なくて、クルトンって冒険者の人は、二人は森の主の棲家に落ちたからもう助からないだろうって。それで私……」
クルトンの奴、そんな事を言っていたのか。しかし、それも当然の事だ。冒険者とは、常に死と隣り合わせの仕事なのだから。
「あぁえっと、心配かけてごめん。でも大丈夫だよ、こうして帰って来たんだし」
「うん……」
まるで、冒険者が恋人とする様な会話だ。心臓がゾワゾワする。
ミルミクスと対峙した時。フラクシスに怒りの感情をぶつけられた時。タンゴがルシオンを悪として勇者パーティに話した時。そのどれとも違う感覚に、バベルは困惑した。
「す、凄いんだね。勇者の来訪祭って」
結局、話を逸せるしか無かった。
「でしょ! ほんとすっごく大変だったんだから。街で備蓄してる分も出したんだよ。全く、どれだけの出費か誰も考えてくれないんだもの」
レインは瞳を爛々と輝かせ、早口に捲し立てた。どうやら、祭りの運営側の気持ちを誰も理解してくれないことに思う所があったようだ。
「それでね、今回の祭りには、アウリス王国全土の特産だけじゃなくて、隣国ウズランディアの名産も多く出てるんだ」
「あの国は、特定の国と契約したりしないでしょ。どうやったの?」
「お父さんが、コロビスでウズランディアの商人と仲良くなったらしくて。それで昨日、貿易品が到着したんだ」
海上国家ウズランディア。他国の侵入を許さず、他国に干渉しない海上の国の商人と取引するとは、スターリング家の力は凄いものだ。
「凄いね。僕もちょっと見て回ろうかな」
言ってから気づいた。これで会話を自然に打ち切れるのではないか。
「それじゃあ、お店を見て周りながら帰るよ」と言えば、レインも「そっか、じゃあ楽しんで」と言って別れる事が出来る。微妙に気まずいこの状況を、向こうだって続けたくはないだろう。
「バベルはウズランディアに興味があるんだ」
(バベル? タンゴは君付けで、僕は呼び捨て?)
レインの呼び方に少し違和感を感じたが、バベルの脳はここがジャストタイミングだと信号を発した。先ほどの脳内シュミレーション通りの言葉を発すればいいだけだ。簡単な事だ。
「う、うんそうなんだ。じゃ、じゃあ僕はその、あれを、えと帰り、じゃなくて……お店を、見てから、帰るから」
シュミレーションと現実では全く別のようだ。最初からどもりまくって、更に言葉を間違えた。言い直してから、一語ずつ区切ってちゃんとレインに伝える。
もう少し、タンゴ以外の同い年とも話した方が良いのかな。
「えっ、そうなの。じゃ、じゃあその、よかったらなんだけど、さ」
レインも少し言葉がつっかえている。そんなに気まずかっただろうか。そこまでひどくはなかったと思ったのだが。
「一緒に回らない? お祭り」
「は?」
彼女は何の話をしている。いや、ちゃんと分かっている。社交辞令だ、そうに決まっている。
「……嫌だった?」
「そんな事は、無い、です」
表情に出しすぎていた。レインが、悲しそうに視線を下げてしまった。思わず首を横に振ったバベルは、この行動が間違いだと今更ながらに気付いた。
(ん? これじゃ、祭りを一緒に回らないとじゃない?)
「じゃあ、一緒にどう?」
この状況で誘いを断るには、それなりに勇気がいることが分かった。そして、バベルはその勇気を持っていないことも。
「じゃあ、行こっか」
結果、バベルはレインと共に、祭りを回ることとなった。
バベルは今日、大きなことを一つ学んだ。同い年の女子との会話は、魔物との戦闘以上に大変だと。
祭りは、予想以上の賑わいを見せていた。通り過ぎる誰もが、その顔には笑みを浮かべとても幸せそうだ。
「バベル、あれ。ウズランディアの名物。海抹茶のお団子だよ。ほら、あっちは海林檎。ね、ねっ、ほんとに凄いでしょ!」
「うん、どれも美味しそうだね。それにしても、レインさんは物知りだね。言われるまで、あれが食べ物だとは思わなかったよ」
屋台の上には、深い青色の球体が三つ串に刺さったものが並んでいる。海抹茶団子、子供に大人気のようだ。
レインが次に指していたは、青リンゴに似た果実だったが、真っ青な斑点がいくつもあり、何かの病気かと思った。
正直、食べられるとは思わなかった。だが、こちらも人気があるようで、人が屋台の前に多く集まっていた。
「レインさんは、何か食べたいものある?」
「レインで良いよ。私もバベルって呼んでるし」
そういえば、何故呼び捨てだったのだろう。聞いても良いことなのだろうか。これでもし、敬称をつけるほどじゃないでしょ。などと言われれば、二度と立ち直れない。
「ん? どうしたの?」
少し、考えが顔に出過ぎなのかもしれない。そんなに気にしたことはなかったが、思えばタンゴは、いつもこちらの考えを読んだかのように鋭い言葉を出してきた。あれは、考えていた事が表情に出ていたからなのかもしれない。
「いや、その……何で僕だけ呼び捨てだったのかな、って」
言っていて気恥ずかしくなって来た。何でこんなことを聞いているのだろう。餓鬼か、僕は。
「何でって、学生時代に言ったんだよ。呼び捨てで良いって」
「言ったって、僕が?」
「他に誰がいるの?」
全く記憶に無い。そもそも、学生時代にレインと交流はなかったはずだ。なんせ、タンゴ以外に友人と呼べる存在などいなかったのだから。
「もしかして、覚えてないの?」
レインの顔が少し膨れている。整った顔立ちの彼女が、こんなに表情をコロコロ変えることさえ、ついさっき知ったのだ。
「ごめん、学校で話したことあったっけ?」
「はぁ……あの日のこと、忘れちゃったんだぁ」
「ご、ごめん……」
レインが大袈裟に肩を落とす。からかっているだけとわかっていても、申し訳なさが込み上げて来る。
一体、いつ話したのだろう。唯一会話を記憶しているのは、タンゴと馬車に忍び込んだ時だ。
あれは、今から十年ほど前。
「なぁ、バベル」
「何、タンゴ」
「他の街に行ってみたくないか?」
タンゴからの誘いは、いつだって突然だ。そして、この時のバベルは即答だった。
「うん行きたい!」
二人は気配を殺し、学校の廊下を駆け抜ける。教師の目を盗んで街を出歩くなど、二人にとっては毎日の散歩だ。
「それで、どうやって他の街に行くの?」
通りを歩いていたバベルは、隣にいる共犯者に詳細を聞く。
「お前の大好きなレインの家を使う」
タンゴは、ニヤリと悪い笑みを浮かべる。
「レイン? いつ僕が、レインを好きだって言ったんだよ」
「毎日言ってんだよ。その顔が」
「?」
この時のタンゴの言葉は、バベルには未だ謎のままだ。
「お前それは——まぁいいや」
何かを諦めたタンゴは、呆れ顔で正面を向く。
バベルとタンゴが歩いているのは、北門と東門を一直線に結び、丁度中間に位置する一つの通りだ。
レインの親が纏めている貿易所は東門の近くで、このままこの通りを抜け、東門に繋がる大通りを横断する。これが今回のルートだった。
「それで、どこの街に行くの?」
「貿易都市コロビスだ」
貿易都市コロビス、馬車を使っても一週間はかかる大都市だ。
「ガストン達に怒られるよ」
怒られる。この時のバベル達は、親が心配することよりも、自分たちが怒られることの方が先に来ていた。
「なぁに問題ないさ。どっちみち学校を抜け出した時点で、怒られるのは確定なんだから」
それもそうか。と、当時のバベルは思った。
「で、具体的にはどうやって馬車に乗るのさ? 僕達、身分証持ってないんだよ」
身分証。それは、出身の街以外で活動するときに必要となる身元を保証する物だ。コーラルでは、六歳の子供には何の身分証も持たせていない。つまり、他の街には入れないのだ。
「馬車の積荷に入るんだよ」
タンゴは簡単だと言った。小さい体の二人なら、木箱の中に隠れることができる。つまりは、不法侵入をしようとしていた。
『コーラル流通管理所』
東の大通りに面した流通区画側。そこに大きな建物がある。そこでは、流通を管理している者達が働き、隣の倉庫のような建物から荷馬車を出している。
タンゴとバベルは、その荷馬車の入った倉庫が目的だった。
「誰か居るのか?」
が、倉庫に入ってすぐ、職員に見つかってしまった。
タンゴとバベルは浮かれていた。初めての外の世界。初めての貿易都市探索。そんな冒険心が、二人の警戒を緩めてしまった。
倉庫の中は広く、足音が反響してしまったのだ。普段の二人だったらこんなミスはしない。猫のように機敏に動きつつも、足音は殺して移動できる。
タンゴとバベルは互いに顔を向け、しまったと言外に言い合う。
「何で、こんな所に子供が?」
倉庫の奥から姿を現したのは、一人の男だった。ここで働く職員だろうか。
「もしかして、君達がタンゴ君とバベル君かい?」
「えっと?」
何故か、この男は二人を知っていた。当然、タンゴもバベルも目の前の男など知らない。
「誰だよおっさん」
強気に前に出るタンゴ。この状況で、ここまで強気に行けるタンゴが少し羨ましく思った。
「私かい? 私はデイビット・スターリング。君たちの教室にレインって可愛い女の子がいるだろう? その子の父親だ」
まさかのレインの父親だった。
この後二人はデイビットに捕まり、流通管理所の奥の休憩室で事のあらましを話す事になる。スターリング夫婦に。
「まさか、コロビスに入ろうとしていたとはねぇ」
デイビットは温厚な人だった。こちらが悪い事をしようとしたのに笑っている。しかし、問題は婦人の方だった。
「あなた、笑い事ではありませんよ。これは由々しき問題です。即刻学校に突き出し、退学処分を要求しなければいけません。あの娘が通う学校に、こんな不真面目な者達がいるなど、到底認められません」
レインの母親——ヘレナ・スターリングは、汚物でも見るかのような眼差しをこちらに向けて吐き捨てる。
「おいおい。この子達はまだ子供だ。物事の良し悪しが判る歳でもない」
「レインだったら、こんな事は絶対にしません!」
「レインは賢いから。君に似てね」
「まぁ! あなたったら……」
夫婦のイチャつきなら、他所でやってくれ。
タンゴは、既に二人の話に飽きて窓の向こうに意識を飛ばしていた。今頃は、まだ見ぬコロビスを探検しているのだろう。
「とにかく! この子達を学校に突き出します!」
バベルの呆れた視線に気がついたヘレナは、机を叩きデイビットに告げた。
「そうだねぇ、まだ授業中だろうし。学校に戻るのは決定だね」
デイビットは、こちらに少し申し訳なさそうな顔を向けて来た。何故そんな顔をするのだろう。目の前にいるのは、学校の規則を破っている不良の二人だ。そんな扱いを受けるような身分ではない。
「分かりました。タンゴ、学校戻るよ」
「はぁ、お前は真面目だな」
「あっははは、不真面目に学校を抜け出したのに真面目だなんて、君達は本当に面白い子達だね。将来が楽しみだ」
デイビットには、何かが刺さったらしい。大声で笑い出した。
(旦那さん。それ以上はやめた方が良いですよ。奥さんの目が怖いです)
「あなた! こんなのを褒めないで下さい。もしレインがマネしたらどうするんですか!」
「いやぁ、ごめんごめん。僕も昔は、よく学校をサボっていたから」
「へぇ、おっさんもこっち側だったの?」
タンゴが、ようやくこっちに戻って来た。後で冒険譚を聞こう。
「まぁ、僕はすぐに見つかって教室に逆戻りだったけどね。君達みたいに街中を歩けた事なんて、一度も無いよ」
「良い加減にしてください!」
ヘレナの沸点が限界に達した。デイビットとタンゴの楽しげな会話が止められた。
「もう、連れていきますよ」
こめかみを押さえるヘレナは、ため息を吐きつつ休憩室を出て行こうとこちらに背を向けた。
「ああ、そうそう」ドアノブに手をかけて、ヘレナがこちらに振り返る。「分かっていると思うけど、娘には近づかないで頂戴。あの子には、決まった相手がいるの」
「はぁ、そうですか」
「はいはい」
学校に戻ったタンゴとバベルは、教員達からのいつもの説教を聞き流し、教室に戻って来た。
「タンゴ。コロビスはどうだった?」
「おう、聞きたいか? そうだなぁ、まず俺達が馬車に乗って、東門を通り抜けるだろ。それから——」
タンゴの話はいつも面白い。学校を抜け出し、街を散策して学校に戻る。普段の行動はそんなものだ。しかし、この規則違反はその後がメインだ。タンゴの冒険譚が聞ける。学校を抜け出す所までは本当にするが、街の中で見つけた面白そうな物。楽しそうな事。それらを元に、タンゴは物語を作ってくれた。
「そうして、馬車が向こうに着いた所で、俺たちが木箱から——」
「ちょっと、二人とも!」
タンゴの話が最高潮に達する寸前。一人の女子生徒がこちらに話しかけてきた。
「ん?」「げっ!」
レインだ。
「お父さんとお母さんの邪魔しないで。二人はとっても忙しいの」
いつもの笑顔はその顔からは消え失せ、細く長い眉毛が吊り上がっていた。
「あなた達みたいに、暇じゃないって言ってるの」
「はいはい悪かったよ」
「ごめん」
タンゴは全く悪びれていなかった。それでは相手の気を逆撫でるだけだと、バベルは教師連中から学んでいる。
「ちょっと! 何なのその態度」
「別に~お前の母ちゃんに、お前と仲良くするなって言われただけだよ。まぁ、誰もお前みたいな男持ちとは、仲良くしたがらないと思うけどな」
タンゴの言葉に、レインは釣り上げた眉を下げ、とても悲しげな表情をした。
そうだ。あの頃から、彼女は表情をコロコロ変えていた。それに気づいていなかっただけだ。そして、タンゴの言っていた『男持ち』とは、ヘレナが言っていた『決まった相手』の事なのだろうか。
「バベル? 何か考え事?」
「ん? いや、別になんでもない」
この話題は振らない方が良いだろう。それより、こうして何もせず、ただ眺めて歩いているだけだと少し気まずい。何か買い食いでもして気を紛らわせよう。
中央広場から東門への大通りに入ったバベルとレインは、大通りの左右に構えられた屋台や露店を眺めていて、互いの視線が一切合わない。
周囲には、多くのカップルが手を繋いで笑い合っている。バベルはそれを羨ましいと思った事は無かったが、今の状況になって、初めて羨ましく思った。レインとあんなふうに笑い合えたら、この気まずさはなくなるのだ。
「それよりレイン、は何か食べたい物とかないの?」
ルシオンの時もそうだったが、相手が許可を出しても、普段とは違う口調に変えるには、それなりに時間がかかる。
「そうだなぁ、バベルが食べたい物でいいよ」
レインが、こちらに顔だけを向け言ってきた。目線もこちらを向いてはいたが、その目はバベルを通り越した屋台を見ていた。
「じゃあ——あれにしよう」
バベルは、進行方向の少し先にある屋台を指差した。『シーピグ炒めラップ』と書かれた札が、屋台の表にかけられている。
「シーピグって何?」
レインは屋台の札を見て首を傾げた。その言葉を待っていたバベルは、脳内に開いた魔物図鑑の内容を読み上げる。
「海中に生息する豚の頭を持った魚型の魔物だよ。主に魚や魚型の魔物を食べて生活していて、偶に人間も食べるんだ。食感は魚と豚肉の中間のようで、なかなか美味しい。……らしい」
図鑑の説明を黙って聞いていたレインは、ようやくバベルと目を合わせた。
バベルの瞳に、レインの瑠璃色の光が映り込む。
「凄いねバベルって。魔物のことならなんでも知ってるの?」
「流石に知らないのも居るよ」
フラクシスとか。
「シーピグは意外と有名なんだ。その見た目からは想像出来ない美味しさなんだって」
「へぇ、じゃあバベルも初めて食べるんだ」
「うん。昔読んだ本に書いてあったから、興味はあったんだ」
『新魔物食開拓新書』バベルが読んだ、とある変人の魔物食日記だ。この中では、シーピグの他にも、いくつかの水棲魔物を生で食べたと書かれていた。流石に生は勇気がいる。少なくとも、レインが隣にいる時には食べられないだろう。
「買ってくるから、ここで待っててよ」
屋台の前は、大小の差はあれど、どこも行列ができていた。その中には、恋人同士で手を繋いで並んでいる者達だっている。だが、バベルとレインは恋人ではない。あんな風に互いの肩を寄せ合って並ぶなど、できるわけがない。
「私も並ぶよ? それにお金だって——」
「後で渡してしてくれれば良いよ。だからここで待ってて」
レインを置いて、バベルは一人恋人達の後ろに並ぶ。一人の安心感がつまさきから頭のてっぺんまでを包み、一時の安らぎを得ることができた。
何故レインは、自分から気まずい空気にしようとするのだろう。嫌がらせの類か。いや、彼女はそんな性格ではない。あまり関わりはないがそれぐらいは分かる。
「すみません。シーピグ炒めラップを二つお願いします」
「あいよ。1フェノス13ティオンだ」
屋台の主人に代金を渡し、注文を済ます。料理が出てくるまでには少し時間がかかるようで、バベルは大通りへと視線を向けた。
時間は昼過ぎ、夕暮れに変わる少し前。大通りの人の波は変わらず揺れ動く。寄せては返すを繰り返していた。
「あれ?」
レインが待っている方へと視線を向けると、面倒事が飛び込んできた。
カルカロだ。今日は冒険者装備ではないようで、金持ち感を全面に出した私服姿で、レインの腕を掴んでいた。
「ほい兄ちゃん。お待ちどう」
「どうも」
彩り豊かな野菜と、炒め合わせたシーピグの肉をパン生地で包み込んだ長方形の物体を、バベルは二つ受け取った。
短く礼を言ったバベルは、面倒ごとの渦中へとその身を進ませる。
人並みに飲まれそうになりながらも、バベルは真っ直ぐに突き進む。
(何やってんだか……)
ふと、バベルは思った。自分から面倒事に飛び込むのは何故か。
タンゴの声が頭の中で反響した。
——お前、頭でも打ったんじゃねぇのか?
そうかも知れない。もしくは、数日続いた非日常で、頭が本当におかしくなってしまったのかもしれない。
(一度、長めの休みが欲しいな)
レインの元に戻ったバベルは、その光景を前にそう思った。
「なんだよ。お前だって暇だからこんな所にいんだろ?」
「別に暇じゃないのよ。私はあなたとは行かなわ」
昔言っていたタンゴの『男持ち』と、ヘレナの『決まった相手』それが、目の前で威張り散らす似合っていない長い金髪を振り乱している男だと、何となく気づいた。
カルカロ・オルター。オルター商会会長マグナック・オルターの一人息子。恐らく、レインの許嫁。
「おい、カルカロ。その手を離せ」
シーピグ料理を左手に持ち、空いた右手でカルカロの腕を掴む。
「あぁ? お前には関係ねぇだろ」
ずいぶん苛立っているようだ。
「レインは僕の連れだ。関係ある」
「バベル……」
レインの瑠璃色の瞳がこちらに助けを求めている。当然だ。こんな男と結婚など、誰だって嫌だ。もし自分がそうなっていたら、裸でコボルトの森に入っていただろう。
「この女は俺の物だ。つまり、どうしようと俺の勝手なんだよ」
「そうか、一回病院行けよ。レインは物じゃない」
右手に力を込める。ついでにカルカロ腕を捻り、レインから離させた。
「——っ! てめぇ、誰に手ぇ出してんのかかわかってんのか?」
「見た目通り、可笑しな頭をしてるバカに決まってんだろ」
カルカロの体が後ろに引かれる。視界の左から何かが迫った。
(遅いな)
ミルミクスの方が何もかもが上だ。速度、威力、威圧、精度。どれを取っても、今のバベルには決して脅威にはならなかった。
視界の左から迫る、カルカロの裏拳を右手で受け止める。随分な大ぶりだ。脇がガラ空きになっている。
左手に持った美味しそうな物を崩さぬよう注意しつつ、肘をカルカロの左脇腹にめり込ませた。
「ぐぅ——」
カルカロの口から、空気が漏れる。
「レイン。これ持ってて」
肘を引き抜きつつ、左手に持っていた長方形のパン生地の包みをレインに放る。これで左手が空いた。
「うわわ、っと。——バベル!」
慌てて受け取ったレインが、目を見開いた。一瞬目を離した隙に、カルカロが体勢を立て直し、こちらに向かってきていた。
「舐めてんじゃねぇぞ! 雑魚が!」
その目は血走り、森で見かけたコボルトを思い出させる。まぁ、コボルトの方がはるかに早いのだが。
姿勢を低くしたバベルは、頭上から落ちてくるカルカロの拳を、上体を捻り数ミリの間を空け躱す。捻った力を両腕に込め、左拳を右手で包み肘を前面に突き出た。
肘は綺麗にカルカロの鳩尾へと突き刺さる。
こんなに綺麗に決まるのは、恐らく相手が人間——カルカロだからだ。こんな大振りな攻撃を魔物にすれば、一瞬でひき肉に変えられてしまう。それぐらい好きの大きな攻撃を、カルカロは防ぐこともなく、もろに受けた。
「ホント、人間ってなんで生きていられんだ」
一人呟くバベルの声は、誰にも届かなかった。
大通りを歩く通行人達は、いきなり殴り合いを始めた二人を遠目に見ている。二人の周囲にできた人口の輪から、石畳の上で丸くなるカルカロに視線が集まった。
「ぅ…………ぐぅ……がぁ!」
上手く呼吸ができないのか、カルカロの口から、空気が漏れ出る音が不規則に聞こえる。
「お前、パーティメンバーに魔物の意識を向けさせて、背後から一撃って戦い方しかしてこなかっただろ。動きが一々大振りで雑過ぎ。冒険者向いてないよ」
それは自分もかと、バベルは頭をかいた。殺して殺されてなんて、そんな血生臭い世界には浸りたくない。
「だぁ……ばれど…………じゃごがぁ!」
未だ呼吸のできない体をのけ反らせ、カルカロは泡を撒き散らしながら何か叫んだ。
残念だが、なんと言っているかは分からない。
「じゃあ行こっか」
人口の輪の一番内側にいた、白髪瑠璃眼の少女へと視線を向ける。周囲に人だかりができていて、それらと比べて分かった。レインの顔は整っている。恐らく、ヘレナの血を色濃く受け継いだのだろう。デイビット要素をあまり感じない。
「あ、うん。その、バベルは大丈夫なの。怪我とか」
「無傷だよ。森の中の方が危険なの多かったし」
バベルはレインから包みを一つ受け取り、人だかりから逃げるように離れた。
背後でカルカロが何かを叫んでいたようだったが、相変わらず何を言っているのかはわからなかった。
「ちょ、ちょっとバベル。待って、止まって!」
「どうしたの?」
「いや。て、手、離して」
「手? ……あっ!」
人混みから抜け出すのに、レインの手を取り走っている事に、バベルは今まで気づかなかった。
一人息を切らしたレインは、頬を赤らめ肩で息をしていた。流通を任されているとは言え、ほぼ管理職だ。畑仕事をしているバベルよりも、体力がないのは当然だろう。
「ご、ごめん。あの場から離れなきゃと思って。急いでたから、その、気づかなくて!」
早口で捲し立てるバベルは、別の理由で息を切らしていた。一緒に出店を見て周り、祭りを満喫したなんてヘレナが知れば、レイン同様の整った顔を、狐のごとく吊り上げそうだ。まして、手を繋いで街中を走ったなんて知られれば、殺されるかもしれない。
「そ、そんなに、嫌だったの? 私と、手を繋ぐの」
息を整えきれていないレインが、肩を落として呟く。
本当に難しいと実感させられる。女性との関わり方は、魔物との駆け引きよりも難解だ。
「い、いや、嫌とかそういうのじゃなくて、その、思い出したんだ。レインのお母さんから、レインに関わるなって言われてたの」
言い訳がましく早口になったバベルは、言って後悔した。この話は、昔ヘレナからレインに許嫁がいることを教えられた時のものだ。
「そう。私に許嫁がいることは、覚えてたんだ」
レインの瑠璃色の瞳に影が差す。下がった視線が、またも離れて行く。
「ま、まぁその……うん」
狼狽えながらも言葉を返すバベルは、大通りを一緒に歩いていた時とは別の気まずさに襲われていた。空気は重く、透き通っているはずの青空が、遠くに逃げて行ってしまった気がする。
しかし、レインのその口ぶりは、以前にもこの話をしたように聞こえる。
——一体いつ? どこで話したと言うのだろう。
「私ね、嫌なんだ。あの人と結婚なんて」
レインが、石畳を軽く蹴りつつ、独り言のように呟いた。
「だろうね」その気持ちは分かる。「でも、なんでそう言わないの? あの二人に」
「言えるわけないでしょ。お父さんもお母さんも、オルター商会とは仲良くしとかないとなんだから」
オルター商会。アウリス王国内にいくつもの店舗を構える大型の商会だ。中でもここコーラルとは、大きな取引をしていると聞いたことがある。
理由は簡単だ。この街には、防衛の観点から冒険者が多く集まる事。そして会長の息子が、この街にいる事。何より、その息子がコーラル貿易長の一人娘に片想いしている事。
つまり、コーラルとの取引を条件に、スターリング家に圧力をかけているのだろう。
オルター商会との取引中断。それによって起こされるコーラル内の問題。
物価の高騰。金銭価値の変動。住民達の不平不満。それらが引き起こす人的被害の数々。想像するだけでも、簡単に人が死ぬ。なんせこの街には、冒険者が多く滞在ている。冷静で、頭の回る者ばかりが冒険者になれるわけではない。どちらかと言うと、そちらの方が希少だ。大半は血の気の多いカルカロのような馬鹿ばかり。
「面倒だなぁ」
自分から入った面倒事だが、ここまでとは思わなかった。脳が思考を拒否している。
「うん、面倒なんだ。二人の間に生まれた事は嬉しいんだけどね。どうしてもこればっかりは」
レインは視線を下げ、悲しげな表情を浮かべる。精神的にも疲れているのだろう。会議による長時間の拘束。来訪祭の手配。勇者一行との会合。どれも、十六歳の少女が行うことではない。
何か、形だけでも彼女を元気付けられるものはないかと、バベルは周囲を見渡す。
二人で走り回った結果、東門近くから北門の大通り近くの通りまで来ていたらしい。構えている店舗の品が、中央広場の物とは変わっていた。
(ん? あれは……)
目に入った屋台。そこに乗った商品が、バベルは気になった。
「レイン、ちょっとここで待ってて」
「え、何?」
レインの返事も聞かず、バベルは屋台へと駆け寄った。幸い、丁度最後の客が退いたところで、待ち時間はなかった。
「いらっしゃい。兄ちゃんも一本どうだい?」
店主のおっちゃんが、営業の笑みを向けてくる。
そこから視線を少し下げると、大きな箱の中に氷水が貼られ、透明な瓶が大量に冷やされていた。
「これは?」
「こいつかい? こいつは、帝国グラズヘイムの名産。ラモネラだ」
店主のおじさんが箱に手を突っ込み、引っ張り上げた瓶をこちらに突き出した。
「水じゃないの?」
バベルは、瓶の中を覗き込みながら店主に聞く。
「こいつはただの水じゃないんだ。口の中で爆発でもしたように弾ける水だ。そんで、その爽快感と来たらもう、最っ高なんだ! なんでも、今帝国で流行ってるって一品らしくてな」
帝国の流行の、口の中で爆発する水? 実に興味深い。
「じゃあ、二本お願い」
「あいよ、1フェノス5ティオンだ」
バベルは代金を支払い、瓶を二本受け取る。店主は瓶を渡すときに、バベルに重要な事を教えてくれた。
「兄ちゃん、こいつは絶対に振るんじゃないぞ。爆発するからな」
その真剣な目から、嘘や冗談ではないことが伝わった。
「うん、分かったよ。おっちゃんありがと」
瓶を片手に、レインの元に戻る。今度は、誰もレインに絡んでいる者はおらず、建物の壁を背に石畳を見つめたまま彼女はそこにいた。
「お待たせ」
「何を買ってきたの?」
レインがこちらに視線を向けて来る。
その目には、一緒に祭を回り始めた時程の明るさはなくなっていた。
「僕もよく分からないんだけど、レインはラモネラって知ってる?」
レインが首を横に振る。
「じゃあ飲んでみようよ。それに、まだこれも食べてないし」
左手に持ったシーピグ炒めラップを軽く振って見せる。
「うん。そうだね」
笑みを浮かべているが、それは昔見たものではなく、無理やり顔に貼り付けた偽物だった。バベルが、見たいと思った表情ではない。
「んじゃ、この辺で座って食べよっか」
「うん」
通りの端、建物の壁を背にして二人並んで石畳に腰を下ろす。ここは、大通りほど人が通っているわけではなく、この辺に座っても、通行の邪魔にはならないだろう。
「いただきます」
手を合わせ、バベルは呟く。
「そんな所は行儀良いんだね」
隣で食べ始めていたレインは、横目に見て微笑んだ。
「変かな?」
「変じゃないけど、なんかイメージと違かったから」
それもそうだ。学校をすぐに抜け出す問題児が、ここだけ丁寧なのは確かに違う。
「ガストンの教えなんだ。食事の前には『いただきます』食事の後には『ごちそうさま』をしっかりと伝える。そうじゃないと、食材に失礼だってさ」
「仲良いんだね。バベルと街長って」
レインは知っている。バベルとガストンの間に血の繋がりがない事を。逆に、バベルとガストンの知り合いで知らない人の方が少ない。
「レインの家も仲良いでしょ。さっきも、お父さんのことで心配してたし」
「そうだね。私は二人に大切にしてもらったから、私も二人を大切にしたいの」
ラモネラの瓶は開けずに石畳に置き、二人はシーピグの味を堪能する。
「複雑な味だね」
レインが少し笑った。本心からの笑み。これでいい。
「そうなんだ。僕、味とか美味しいか不味いのどっちかしか、分かんないから」
「もったいないなぁ。料理の細かい部分が分からないなんて」
「じゃあ、レインが説明してよ」
バベルの無茶振りに、レインは少しの間黙って目を瞑った。
「ん~とね、お肉自体の味はどちらかというと豚肉なんだけど、食感は焼き魚って感じ。で、それを新鮮な野菜とパンが包んでて、いろんな食感を楽しめるようになってるの。そして、その全部を纏めてるのがこのソース。最初は甘いんだけど、だんだんしょっぱくなってきて、バランスが良いんだよ」
レインが捲し立てるように解説をするが、バベルにはその殆どが分からなかった。ただ一言「美味しい」しか出てこない。
「もう、ちゃんと聞いてよ」
「聞いてるよ、聞いた上で『美味しい』しか出てこないんだから」
先に食べ終わったバベルは瓶を拾い上げ、蓋を慎重に開ける。
店主のおっちゃんに言われた通り、瓶は振らなかった。しかし、爆発するなどと聞けば、慎重になるのは当然だ。
「結局これってなんなの?」
シーピグを食べながら、レインは瓶の中を覗き込む。
透明な液体の中で、幾つもの泡が瓶の飲み口の方へと浮かび上がっていた。
「水、じゃないんだよね?」
「ラモネラっていうらしい。僕も初めて見たからよく分かんない」
瓶を開けたバベルが、恐る恐る口に運ぶ。
瞬間、口の中で水が爆発したように弾け飛んだ。口の中で上下左右、縦横無尽に水泡がぶつかっては弾けた。
「——ぅぐっ!」
驚いたバベルは、空いた手で口を塞ぎ、中の液体を胃の中に流し込む。
「バベル大丈夫!」
驚いたのはレインも同じだったようで、目を見開いていた。
「う、うんちょっとびっくりしただけ。凄いよこれ、レインも飲んでみて!」
「そ、そうなんだ。じゃあ、飲んでみようかな」
まだシ食べ終わっていないレインは、片手で持った瓶をどう開けようかと傾けた。
「僕が開けるから!」
中の液体が揺れたのを見たバベルは、少し大きな声を出し、奪うようにレインから瓶を取った。
「どうしたの?」
何が起きたのかと、レインはこちらを見る。自然と目が合うようになったことに、二人は気づかない。
「いや、お店の人が言ってたんだ。振ったら爆発するから気をつけろって」
「そんな危険な物、飲んで大丈夫なの?」
ごもっとも。しかし、実際に飲んだバベルの体に異変はない。爆発は確かに口の中でしたが、そんなに危険な物でもなかった。
「僕はなんともないし、大丈夫でしょ」
「後で体の中で爆発しても知らないんだから」
恐ろしい事を言われた。それは考えてもみなかった。
「だ、大丈夫だよ。多分……」
「目が泳いでるよ」
言い合いながらも、バベルはレインの分の瓶の蓋も取った。
さっきは気づかなかったが、瓶の中で水がシュワシュワと弾けている。
「これ聞いてよ。凄くない?」
「ほんと、こんな飲み物初めて」
レインは瓶を受け取り、バベル同様に恐る恐る口に運んだ。
「……ん!」
口に入れた途端、レインの体が少し跳ねた。
「ちょっと、レイン!」
何が起きたと、バベルはうずくまって動かなくなったレインに近づいた。
「美味しい——っだ!」
「がっ!」
突然飛び起きたレインの頭頂部と、無事を確認しようとしたバベルの顎が大きな音を立ててぶつかった。
「いったぁ」
「うぅ……ごめんレイン。大丈夫?」
「これが、大丈夫に見える?」
互いに衝突部分を押さえてうめき合う。ずいぶん勢いよくぶつかったらしい。とても痛い。
「……ぷっ、あっはははは!」
レインが、突然笑い始めた。頭頂部に片手を当てて、大きくのけ反り、笑顔を青空へ向ける。
陽光を反射する眼鏡のレンズが、こちらへ光を曲げて来た。
「ちょ、ちょっとレイン。どうしたの? 大丈夫?」
「あははごめん。ふふふ、可笑しくって。ふふ、つい」
笑って上手く息ができないのか、レインは喘ぎつつ、言葉を紡ぐ。
「わかったから、一旦落ち着いて」
心配と困惑が同居するバベルは、レインの背中をさすって落ち着かせようとする。
「ふふふ、ごめんごめん。ふふ、楽しくってつい、ふふふ」
「もう、本当に大丈夫?」
「うん……もう平気」
「じゃあ、ちょっと移動しようか。今のでかなり目立っちゃったよ」
周囲の通行人の視線がこちらを、正確には大笑いしていたレインに向けられていた。
「あ、う、うん! 行こっか」
眼鏡で少しわかりにくいが、顔を赤くしたレインが素早く立ち上がり、大通り方面へと駆け出した。
呆然とその後ろ姿を見ていたバベルだったが、姿が見えなくなりそうになったところで我に返った。
「やば。追いかけなくちゃ」
レインの笑った表情が、バベルの脳に焼き付いていた。
「難しいなぁ、女の子って」
胸の中のざわめきが大きくなっている。ミルミクスの釘や、そこに繋がれた獣とはまた別の何かが蠢いている感じがする。しかし、蠢く何かはまるで春風のようで、姿は確認できなかった。
——お前、それは——まぁいいや。
背後で、幼い頃のタンゴがあの時と同じため息をついていた。
タンゴなら、分かるのだろうか。
後で聞いてみようと、まだヒリヒリ痛む顎を一撫でしてから、一人の少女を追いかけバベルは走る。
空が、茜色に染まり始めた。夕暮れ時だ。