表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/20

森の主トーラスオルファ

 どれくらい寝られたのだろう。そう長くはなかった筈だ。夢は見なかった。ただ真っ暗な空間がバベルの前に広がり、そこに一筋の光が顔に差して来た。そうして目が覚めた。

 森は、相変わらず静かだ。窓の向こうには、日の出直後の藍色の空が見えた。

 場所は、ルシオンの木造住宅。隣のベットにはタンゴが寝息を立てている。傷は痛んでいないのか、シーツに埋まっている顔は随分安らかだ。

「……朝か」

 ぼんやり昨日の夜を思い出す。ルシオンとの会話。魔法武器について。ガストンの短剣<空暦剣アルマ>について。そして、タンゴの剣の正体について。

「あれが、内蔵だったとは」

 今思い出しても驚きだ。魔物は、竜とは、そんなにも生物から離れたものなのか。

 考える事は多いが後回しだ。バベルは重い体をベットから引き剥がす。喉が渇いた。

 部屋から出て、昨夜の部屋を目指す。あそこには魔道具の水差しがある。あれで水を飲もう。

「あれ? ここ何処だ?」

 家の中は想像以上に広かった。森の中でこれ程の豪邸では、冒険者に見つかるのでは無かろうか。

 バベルは廊下を進んで行く。窓からの灯りは心許ないもので、足元は全く見えない。

 壁に手を置き沿って歩く。扉が一つも無い壁は、日の出直後の冷たさを持っていた。

「……あった」

 扉だ。あまり良く見えないが、ここだけ感触が違う。

 両手でペタペタと触れ、ドアノブを探す。

 手に触れる丸い木の感触。あったドアノブだ。そう時間をかけずに見つける事ができた。

 くるりと手首を回転させると、ドアノブは何の抵抗もなく回った。

 ガチャリ、と解錠音が廊下に響く。無音故に、バベルは悪い事をしている気がして肩を跳ねさせた。無意味に背後も確認する。真っ暗な廊下が続いているだけだ。

 回転させた手首を軽く押し込む。またも、何の抵抗も無く扉はバベルの力に従った。

 涼しい空気が流れ込んで来る。一瞬、水差しから溢れた水が、部屋を満たしてしまったのではないかと焦ったバベルだったが、扉を開きその向こうの景色を見て目を丸くした。

「あれ?」

 視界を埋め尽くしたのは、水差しから溢れた水ではなく、日の出直後の空気を吸い込んで、青々と無数の腕を伸ばした木々だった。

 外だ。視界に広がった緑と、頬に触れてくる空気が脳にそう告げさせる。

 どうする。短剣は念の為に持って来た。こんな時の為、と言えれば良かったが、もしタンゴが目を覚ましてルシオンを襲っては困る。これは、タンゴとルシオンを守る為の措置だった。だが今は、バベルの身を守る為の手段に変わろうとしていた。現状、殺されても文句は言えない。好奇心だけで、魔物の住処に踏み入っているのだから。

「——では——な——う」

 誰かの声が聞こえる。静かな森を木霊する声の持ち主は、ルシオンだ。彼の特徴的な声は間違いようがない。誰かと喋っているみたいだ。

 右手の茂みの向こうから聞こえて来る。

 バベルは、昔からそうしているように足音を殺して歩く。街に抜け出す時に培ったスニーク能力がこんな所で役立つとは。しかし、足場が悪い。学校の廊下とは違い、草に満ちた森の地面では、足音を完全には消せなかった。

「——れで、君は彼らと手を組むのか?」

 近くに来た。声がすぐ側で聞こえる。

 バベルは、足音だけでなく息も潜める。

 今更ながらに、何故自分は隠れて盗み聞きをしてるのか分からなかった。何となくそうするべきだと、本能が叫んでいた。気がする。

「そうか、いや私は——」

 不思議だ。ルシオンの声は聞こえるのに、話し相手の声が聞こえない。魔法だろうか。しかし、ルシオンは言っていた。魔法は命を削ると。では魔道具の類だろうか。何か引っ掛かる。

 バベルは目を閉じて、自身の体内に森を入れた。もちろんそれは表現だが、意識を集中することで、自分の捉えたい範囲内を、自分の中に見ることが出来た。冒険者の気配察知の類だ。

 居た。正面約十メートル地点にルシオンがいる。コチラに背を向けている。ルシオンを挟んで向こう側、何か大きな物がいる。それはとても大きく、ミルミクスの三倍はあるだろうか。

 息遣いは獣のそれだが、何故だか高い知性を感じる。ルシオンの話し相手はこれだろうか。しかしこれは……。

 左腕に熱が集まる。脳が、命の危機を察しているのだろう。

「誰だ! 誰かいるのか?」

 ルシオンがこちらを振り返った。

 バレた。心臓がバクバクと脈を打つ。足音も息遣いも、気配も殺しているのに、何故気づいた。

「そこにいるのは分かっているぞ」

 どこから取り出したのか、ルシオンは、その手に銀の槍斧を手にしてこちらに一歩足を近付いた。どうやら完全にバレているらしい。

「お、おはようルシオン」

 茂みから出たバベルは、あまりの気まずさに、中腰で体を固定してしまった。

「おはよう。バベル」

 ルシオンは、律儀にも挨拶を返してくれた。視線が痛い。

 何を話せば良いか分からず、バベルは言葉を詰まらせる。何故、自分はここに来てしまったのだろう。

「こんなところで何をしてる?」

 咎めているわけではないだろうに、タンゴの耳にはルシオンの声が尖って聞こえた。

「目が覚めて、その、喉が渇いて……」

「ならば、キッチンの水差しを使えば良かっただろう」

 場所が分かっていれば、そうしている。

「分からなかったんです。あの家、予想以上に広かったので」

 正直な話だ。あの家は、とんでもない邸宅だった。廊下の長さは異常で、どこまでも続いているのではと思わせた。日の出の暗さと相まって、不気味さを纏っていた。

「そうか。それはすまなかったな。昨夜一度案内して、安心し切っていた」

 ルシオンは、まるで誰かに謝っているようで、その言葉はコチラに向いていなかった。

「待て、この子は違う!」

 突然、ルシオンが中空へ左手と叫び声を向けた。そこに何かいるのだろうか。

(あれ? あの巨大な気配は?)

 気配察知をした時に感じた大きな気配は、何処にも居なかった。ルシオンの前にいた筈だ。あの巨体がそんなに早く動けるのか。

「だガ、コレは人のコであろウ?」

 何かの声。ルシオンのものとは違う。変にこもっていて、発音があまり良くない。声の発生源も、頭上から降って来たように感じる。

「人を全て悪と決めるのは、人が我らを悪と決めつけるのと変わらないのではないか?」

 ルシオンが頭上の空に声を飛ばしている。バベルもその視線の先を追った。

 何か居る。空気が揺らいでいる。何か大きな物が、コチラを見下ろしている。

「そなタの言うとオりだな。人のコよすまなイ」

「え? っあ、と、その……いえ」

 開いた空間から、突如大きな牛の頭がコチラを覗き込んで来た。

 大きな牛型の魔物、トーラスオルファ。コボルトの森の主だ。

「彼女の事は、知っているかな? 冒険者の間でも有名だと聞いた事があるが」

「はい。本当に居るとは思いませんでしたけど」 

 驚きが隠せない。見上げた首が悲鳴を上げ始めたが、目が離せない。

 星空をそこに集めた様な瞳。綺麗な湾曲を描いた左右対称の角。鼻鏡に入った流線は、所々でその身を丸め、植物の蔦を連想させる。

「彼女の名はフラクシス。知っての通り、この森を管理している魔物だ」

「魔物? 魔族じゃないの?」

「オ前達の決めたハかりで、わレらを縛るでナい」

 目の前の巨牛は、鼻をフンと鳴らす。

 声の聞き取りがやや難しい。人とは舌の構造が違うのだろうか。そもそも、

「管理者?」

 バベルの疑問が、無意識に口から出た。

「管理者。その名の通り、この森を纏めているのが彼女だ。君達的に言うならば、森の主だ」

「わレの役目ハ、自然ノチョウセイ。子達ノ育セイは、芽がオこなう事」

 メ? 一体何を指した言葉なのだろう。魔物との意思疎通が出来るとは思っていなかった分、感動は大きいが、言葉の聞き取りと理解が追いつかない。

 フワリと、風が頬を撫でた。そこまで強い風ではない。しかし、目の前の森を揺らすには十分だった。

 フラクシスと呼ばれる森の主の少し後ろ、草木が密集していると思ったそれは、彼女の巨大な胴体だった。

 草木を織り編んだ天然の外套だ。その下に隠されたフラクシスの肉体は異形に当て嵌った。

 横にも縦にも大きな体を支える脚が、八本も地面に刺さっている。それも、全て別々の生物の手足の形を取っている。

 牛の蹄や人間の手。蜥蜴のような鱗で覆った五指と昆虫類特有の光を反射する節だらけの棘脚。ミルミクスと同じ羊の足も見える。その他にも、森で生息している生物らしき脚が幾つか見えた。

 外套を纏った胴体は、ゴツゴツとした水分を感じない岩肌を晒す。

「何、その身体……」

 不意にルシオンの外套の端を摘んだバベルは、頭上の牛頭に視線を戻した。

 異形だ。まるで生物の形をしていない。死体の山から部品をくっ付けて作りましたと言われた方が、まだ納得出来る。

「小枝ガ。この世ノ芽ガミナ、オ前ト同ジダト云イタイノカ?」

 その声には怒りが滲み出ていた。ミルミクスとは違う威圧。圧倒的強者からの重圧。

 星空色の瞳が怒りの嵐に荒れ狂い、星々の輝きが乱れに乱れていた。

「その、ごめんなさい。トーラスオルファを、初めて見たもので……」

 そもそも、トーラスオルファが何なのか伝わらないだろう。この名は、協会が勝手に付けているだけなのだから。

 あぁ、コレ殺されるな。左腕から炎が吹き出そうな程の熱を感じる。

 昔付いた古傷が、危険信号のように発熱で教えてくれるこの感覚が、バベルには不快だった。

 目の前で浮かぶ牛頭は鼻息荒く、緑黒色の毛皮を真っ赤に染めて怒りに満ち溢れていた。鮮やかな赤ではなく、少し黒味を混ぜた赤——血の色だ。

 森も怒り狂っているようで、風が強くバベルの体を打ち襲いかかる。風に乗って運ばれる木の葉が、頬を切り裂いた。

 生暖かい感触が、右頬から首に伝って行く。

「止めろ!」ルシオンが、バベルの一歩前に出て庇う。「赤子の無垢な戯言に、牙を向く物ではない」

 しかし、赤子はどうなのだろう。これでも、十六歳なんですけどね。

(まぁ、エルフからしたら赤子か)

 ルシオンの説得の甲斐あって、森のざわめきは鎮まりまるで何もなかったかのように元の静けさに戻った。

「ごめんなさい。フラクシス、さん。見慣れていなくて、つい……」

 頭を下げたバベルは、頬から赤い雫を下草に与えた。意外と傷は深いようだ。血が止まる気配を見せない。

「それは彼女の魔法だ。対象の体内の血液を軟化させ、大量出血を狙う」

 何それ怖い。もしそれを腹部に食らっていれば、内臓まで傷から出て来そうだ。森の主の名は伊達ではない。

「謝ザいを受けイれよウ。傷ヲこちラに」

 フラクシスは頭を少し下げ、側に来るよう言って来た。このまま近付いて食べられないかが心配だ。彼女らしいの口は、バベルを一口に飲み込めるくらいには大きい。

「は、はい」

 こちらの不手際の手前、断る事も出来ず恐々前に出る。脚が少し震えていた。

「心配するな、彼女は危険では無い」

 ルシオンの言葉は確かなのかもしれないが、たった今殺されかけた身としては、到底納得出来る物では無い。

 前方に傾いたフラクシスの鼻鏡の真ん前に、バベルはその身を晒す。近づいて分かったが、フラクシスの鼻鏡の流線は、本当に植物の形をしていた。葉脈までくっきりだ。

「へっ?」

 生暖かい液体が、ネチャベチャリと顔面を覆う。

「——んぶへっ!」

 その向こう側で、弾力のある壁が顔の輪郭に沿ってその形を変えてた。

「ぶへぇ……何、これ?」

 顔に付いた液体を首を振って落とすバベルは、頬の痛みと流血が止まっている事に気が付いた。回復薬の類だろうか。

「彼女の回復魔法だ。その、まぁとにかく、治って良かった」

 ルシオンの反応が変だ。

 フラクシスの蔦模様に気を取られている時に、何か青白いものが視界の端に映った気がする。その後、この粘性のある液体が顔を覆った。  

「まさか、これって……」

 フラクシスの唾液だ。臭いは感じられないが、それだと気付いた瞬間うなじの産毛が逆立った。

「所で、ここで二人は何の話をしていたんですか?」

 バベルは極力考えないようにしようと、話を逸らす。実際、二人の会話には興味がある。何と言っても、森の主とエルフの会話だ。

「魔樹ノ古木にツイてダ」

 フラクシスは、鼻鏡を舌で舐め答えた。青白いソレを、バベルは見たくなかった。自身の残酷な現実を目の前に突き付けられた気分だ。

「マジュ?」

 話に集中して忘れよう。傷など負わなかったし、回復魔法も受けていない。

「魔樹の古木。君達が魔王と呼ぶ存在だ」

 魔王。その名がルシオンの口から聞けるとは全く思っていなかったバベルは、本当に思考が止まった。

 牛の唾液の事も忘れた。

「魔王? 何でここでそんな話を?」

「私達は、魔王から協力を申し込まれているんだ。非魔法族——人間を殲滅したいからの力を貸してくれと」

 突然の発言に、バベルは腰の短剣に右手を添えた。ここで抵抗出来るとは思っていなかったが、それでも本能がその行動を取らせた。

「わレらは、アレと枝葉ヲ絡めルつもりハなイ」

 その行動を見ても、フラクシスは脅威とは思っていないのか、先程見せたような威圧感を全く見せなかった。ルシオンも同様だ。バベルを警戒していない。

「私達は、魔王からの申し出を既に断っている。私達の役目はこの森の管理であり、他種族の存続については一切関与しない」

 ルシオンは真っ直ぐに言い放つ。しかし、それだと話しがおかしくなる。何故、勇者一行はコーラルに居るのか。

 フラクシスと魔王の協力を知ったからだと思ったが、違う目的があるのだろうか。

 バベルは脳の回転をフルに回し、現実味のある話を組み上げる。

 ただの観光? 本来の目的地の経由地点? どれもしっくりこない。

 魔王の協力要請。勇者の来訪。この二つには何らかの関係がある筈だ。偶然など、絶対にあり得ない。

「まさか……そうなのかな?」

「どうした?」

 一つの解に至ったバベルは、ルシオンの目を真っ直ぐに見返した。

 マゼンタの綺麗な瞳。フラクシスの星空の瞳も綺麗に思ったが、やはりルシオンの瞳には特別な何かを感じる。

「魔王は、この森を消すつもりなのかも」

「何?」

「ほウ」

 ルシオンもフラクシスもバベルの話に耳を傾ける。当然だ。この森は二人の家だ。それを同じ魔族の王が手を出そうとしている。赤子の戯言でも、聞き逃して良い話では無い。

「僕の住んでる街コーラルでは、今勇者が来訪したと騒ぎになってるんだ、です」 

 敬語はいらないと言ったルシオンと、自分より確実に格上のフラクシス。どちらに口調を合わせるべきか判断が付かず、変な語尾になってしまった。

「敬語は必要ない。続きを頼む」

 ルシオンの言葉に、バベルは一つ頷き、話を続けた。

「何でも、コーラル近辺で魔物が活性化してるとか」

「それは彼女ではないぞ。無論、森の魔物も同様だ。逆に魔王がこの森に来た事で、今は皆巣に隠れ篭っている」

 ルシオンの否定は尤もだ。フラクシスの目撃情報は前からある。ここ最近の話では無い。そして、森の中が異様に静かだ。さっきの口ぶりから、これは魔王の所為で確かだ。

 魔物の活性化など確認出来ない。これで、勇者の来訪の理由が更に怪しくなる。

「勇者は魔王を殺すための存在だ。そんな勇者がコーラルに来たとすれば、その目的は魔王の討伐以外には無い」

 これは、まだ憶測に過ぎない。しかし、何となく当たっている気がする。正直外れていればどれ程嬉しい事かと思うが、現実とは時に、残酷な事を眼前に突きつけて来る。バベルは、これまでの人生で幾つもそれに触れて来た。

「そして、丁度魔王から仲間になってくれとコボルトの森には依頼が来て、二人はそれを拒んだ」

 フラクシスが、大きな牛の頭を上下に動かした。頷いているのだろう。

「だけど、僕たちはそんな話を知らない。もし仮に魔王がコボルトの森の主を仲間に加えたと嘘をついても、その確認は、僕達人間には出来ない」

「成程。つまり魔王は、勇者にフラクシスを殺させようとしているのか」

 ルシオンの視線が、フラクシスに移る。彼女もそれを理解し、目を瞑り何かを考えている様だ。

「正直、どっちでも良いんだと思う」

 視線を空に向ける。日の出から時間が経ち、透き通った青空が木々の間から広がって見えた。

「フラクシスが死んでも、魔王からしたら損にはならないし、勇者がここでフラクシスに殺されれば、それはそれで好都合だよ」

 どちらかというと、後者が理想だろう。そして、魔王が仕向けたと知っても、フラクシスとルシオンも勇者との戦闘で疲弊している。殺すのは楽な仕事だ。

「シてやらレたわけだ。紅紫芽よ、ドう動ク?」

「いや、まだそうと決まった訳では」 

 コウシメ? さっきの芽とは、ルシオンの事だったのか。

「その考えも視野に入れる、と言う事だ。助言に感謝する。バベル、ありがとう」

 ルシオンの声は優しげで、こちらに気を使わせないようにしている。バレバレだ。

「僕にも何か——」

 出来る事はない? そう言おうとして、口が閉ざした。何故、二人の手助けをしようとしているのだろう。

 ルシオンはともかく、フラクシスは魔物だ。話は出来てもお互い殺し合う関係。それは変わらない。逆にここで手を貸せば、最悪コーラルに被害が出る。

 じゃあどうする? 何がしたい? どうしたい?

 バベルの胸中を察したのか、ルシオンはバベルの肩に手を置き、優しく説いた。

「これは、私達の問題だ。バベルは街に帰り、ここでの話は忘れなさい」

 無理だ。たとえ、本当に忘れたとしても、何時か何かの拍子に思い出して余計苦しくなる。

 ミルミクスの釘と同じだ。胸に刺さったこれは、そう簡単に抜く事は出来ない。

「じゃ、じゃあせめて、この森に危険は無いって話してみるよ。僕の親は、街でもそれなりに力があるから」

「そうだな、では任せよう」

 嘘だ。ルシオンには分かっている。ここが戦場になる。相手は勇者では無いかもしれないが、魔王と勇者が同時に動いているのだ。これが無関係である筈は無い。相手が勇者か魔王か。その違いだけで戦いは避けられない。

 バベルの中で、疑問が生まれた。

「なんで魔王の側につかなかったの? 断ればこうなる事も考えたんでしょ?」

 フラクシスが笑ったように見えた。牛の頭だ。笑っているかなどバベルには見ても分からない。ただそう感じた。

 楽しさからでも、嘲笑ったわけでも無い笑み。ルシオンと同じ、年上が年下の純粋さに触れた時の笑みだ。

「ジシンの恐怖デ、子達ヲ血の海にシずめるのは、オロかな主ガする事ダ」

 フラクシスは、既に覚悟していた。魔王からの侵略も、勇者の侵攻も。

 バベルは、これ以上何も言えなくなった。異形に思えた目の前の魔物は、ただ自分の居場所を守ろうとしている。そこに惚れたのかもしれない。だから力になろうと、必死に考えを巡らせて居るのかもしれない。

「さぁ日も十分に登った。森の出口まで送ろう」

 ルシオンがバベルの背中を押し、家へと戻る道を見せる。バベルは抵抗する事なく、その道を進む。背後にフラクシスの気配を感じながらも、振り返る事は出来なかった。


「こっちだ。付いてきなさい」

 ルシオンは、家の前でそう言った。タンゴに剣を返した直後殺されそうになったのに、この態度の変わりなさは長寿の賜物なのだろうか。

「っんだよバベル。何であいつを殺さねぇんだよ」

 先頭を進むルシオンを敵視しているタンゴは、舌打ち混じりにこちらに突っかかって来た。

「僕は嫌だよ。ルシオンには色々教えてもらったし、食事や寝床だって貸してくれたんだ。感謝するべきだよ」

「でも、あいつは魔族だ」

 何故、こんなにも魔族を敵視してるのか、バベルには一つだけ思い当たる事があった。

「英雄に固執しすぎだよ」

「どういう意味だよ、それ」

 タンゴの好きだった英雄譚。全てを覚えているわけではないが、おおまかには覚えている。

 確か、冒頭で英雄(名前は忘れた)の男は、エルフに大切な剣を奪われてしまう。それは大切な人から贈られただったか、大切な剣の筈だ。

 男は取り戻そうとエルフを追いかける。道中何やかんやあって、何度も死にそうになっていた記憶がある。結果的にはエルフの元に辿り着き、奪い返した剣を使ってエルフの首を切る。ハッピーエンドだ。そのあと様々な魔物を殺し、最終的には龍皇の首を落とす所まで行く。

 タンゴは、この物語のエルフが全てだと思っている。タンゴとバベルで違う人間だと分かっていても、エルフも同じようには見ていない。魔物の一種だと思っている。だから、こんなにも敵意を剥き出しにしているんだ。

「エルフにも色々いるのかも、って話」

「……お前、頭でも打ったんじゃねぇのか?」

「そっちこそ、ミルミクスにやられて生物がみんな魔物に見えてるんじゃない?」

 バベルは軽口程度で言っているが、どうやらタンゴは真剣な様だ。心配と困惑が混じった目をしている。

「どうした二人とも、こっちだ」

 前を進むルシオンと、結構距離が離れてしまっていた。話に夢中になりすぎた。

「あっうん。今行くよ」

 ルシオンの家が何処にあったかは、正確には分からなかった。ルシオンが歩けば、森の木々が退いてくれた。何かの魔法だろうか。しかし、それでは彼の命が危険だ。

 今朝の事から、考えがごちゃ混ぜになっている。森の事など、バベルにはどうすることも出来ない。分かっていても何か出来ないかと気持ちばかりが先走ってしまい、不安が胸に残される。

 家の前から歩いて十分もしないうちに、森の入り口と呼んでいる冒険者の溜まり場に到着した。

「案内はここまでだ。ここからは二人で行ってくれ」

 冒険者が集まっている場所から離れた茂みの中で、ルシオンはバベルとタンゴに振り向き言った。

「ありがとうルシオン」

「まぁ、その何だ。……ありがとな」

 それぞれに想いを抱えながらも、ルシオンにお礼を言ったバベルとタンゴは、振り返る事なく茂みから出て冒険者の間を縫って歩き街に向かう。

 高い石壁が、バベルとタンゴの視線の先に現れた。体感一日見ていなかっただけで、何ヶ月も帰っていないような気分になる。それだけの冒険をしたのだ。

「やっと帰れるね」

「先ずは、集会所で報告だろ」

「え? 報告?」

 一体何を。まさかルシオンの事。それともフラクシス。

「森の探索結果だよ。まぁ、クルトン達が既に行ってるとは思うけど、俺達はエルフを見つけたんだ。この功績は中々デカいぞ!」

 最初の目的をすっかり忘れていた。そして、タンゴがフラクシスを知らない事も。しかし、ルシオンの事はダメだ。報告させるわけにはいかない。

「ねぇ、ルシオンの事なんだけどさ、その——」

「言わない。なんて選択肢は無いぞ」

 タンゴの言葉は、今までに無いくらい辛辣に、耳に飛び込んで来た。

「はぁ、お前な、俺達を助けようが、あいつは魔族なんだよ。敵なんだ!」

「敵って!…………何のだよ」

 バベルの言葉は、タンゴには届かなかった。タンゴとの間に、確かな溝を感じる。助けてくれたあのエルフを、食事までくれたあの人を、どうしてそう切り捨てられるんだ。彼は、森の主と森全体をただ守ろうとしているだけなのに。

 タンゴはそれ以上何も言ってこなかった。だからでは無いが、言わなかった。タンゴの剣が魔法武器に加工出来る事も、森の主であるトーラスオルファ、フラクシスの事も。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ