森の友の進化
心臓の鼓動が張り裂けんばかりに飛び跳ねている。当然だ。さっきからこちらの命を刈り取ろうと、斧と剣の刃が体のすぐ側を通過しているのだから。
短剣一本で、英雄二人を殺すなど不可能だ。逆に、一瞬で殺されていない今が奇跡と言える。そんな奇跡を起こしたのは、バベルの中に潜み、常に嘲笑を浮かべていた一匹の獣だ。バベルの意識を胸の奥底へと押し込め体の主導権を握った獣は、人道を外れた動きで、英雄へと牙を突き立てようと迫った。
「何で俺達は戦わなきゃいけないんだ、バベル!」
剣を振るうたび、グリッドは何かを叫んでいた。が、バベルの意識に、その言葉は届かない。バベルの体は、時間の鎖を引きちぎった灰色の世界に閉じこもっていたから。しかし、そんな灰色の世界から見る英雄たちの動きは一切止まることなく、その手に握る刃をこちらの首に当てようと迫る。シックネススコーピオンの全速力には劣るが、それに並ぶ危険性を帯びていた。
実戦経験からバベルの体を操る獣の行動を予測し、的確に攻撃を置きに来ている。目で見えないからこそ、別の方法でこちらの命を狙っている。対して獣は、何の戦略も戦術もなく、ただ本能のままに力を振るい、中央広場だった荒野を縦横無尽に駆け回っていた。
(このままじゃ、一匹も殺せずにこちらが死ぬ)
獣の思考が、頭の中に流れ込んでくる。
バベルは、思考を放棄していた。空っぽになった頭の中で、獣が咆哮する戦いの喜びを反響させては、真っ暗闇に落ちて行く。
元から、ここで死ぬつもりだった。運良くウィリアムを道連れにできればそれで良い程度の、子供の癇癪で立っていた。だからこれは、ここからは、命を賭けたお遊びだ。
眺める自分の視界に映るウィリアムの大盾は、見ているだけでも分かるほどに厄介だった。緑黒色の分厚い壁は、アルマの空色の刃でも突破できない硬度を誇り、ウィリアムの二つ名を体現している。
グリッドが前に出てバベルに攻撃。バベルが攻撃に移れば、ウィリアムが盾を構えて防御。練度の高い連携だ。
世界が戻る。心臓が形を歪めながらに脈を打つ。これ以上は意識を失ってしまう。一度心臓を休ませなければいけない。そんなバベルの残した理性の欠片が流れては、獣の本能が全て否定する。
(もっとだ。もっと速く)
思考は獣でも、体は人間だ。限界を超えた挙動に、バベルの体はついていけず、痺れた両腕が風に抗えずに後ろへ引かれ、震える膝が地面を擦った。
「動きが鈍りました。グリッド、今です!」
「分かってる!」
グリッドの声に呼応し、青い宝石が輝く。青い直剣が光度を増すにつれ、この場の空気が一段下がった。体に絡まる逆風に、肺を突き刺す冷気が突き刺さる。
グリッドはその場にとどまり、剣を掲げてゆっくりと口を開く。そんな無防備に立ち尽くすグリッドへと、バベルの体を無理矢理立ち上がらせた獣は、右手の空刃をグリッド首へと突き伸ばした。
アルマの刺突がウィリアムの大盾に阻まれる。周囲に飛び散った大きな火花はウィリアムとバベル、そしてグリッドの顔を明るく照らした。
水底のように深い青の双眸が細められ、グリッドの口が閉じられた。バベルはこれから訪れるであろう暴力を前に、獣の思考を仰ぎ見た。
(もっと、もっと、もっと!)
戦闘に執着する獣は、ウィリアムの絶対防御に短剣を突き立てながら、グリッドの次の行動に期待を寄せていた。
「我が声に答えよ。水精の友、風来の隣人、光輪の使徒。小さき水泡の片割れが、貴殿らの奇跡を乞い願う。美しき鰭は空の水を掻き、鋭き牙が風を切る。陽光の元で我らが命は環る。永遠に流れる水命の祝福よ、その円環に新たな灯火を落として流せ——<アトランデ>!」
バベルには聞こえない祝福の祝詞と紡いだグリッドの両脇に、浮遊する水球が出現した。水球はボコボコと気泡を内包した体を膨張させて、中から水の体を持つ魚を吐き出した。
獣とバベルの視界で捉えられただけで数千を超えるちゅくうを泳ぐ魚群は、バベルの体を引き裂こうと、一斉に襲い来た。
「これが俺の神器、アトランデの力だ。バベル、剣を下げてくれ」
剣の切先をバベルの頭上へと掲げたグリッドが、眉根を下げてバベルを見る。しかし、迫る魚群から逃げることもせずにいたバベルは、何の迷いも見せずに魚群へと突っ込んだ。
「……バカやろう」
口の中でつぶやかれた言葉を噛み砕き、グリッドは剣を振り下ろした。
魚群の速度はさらに増し、水球からはとめどなく水魚が生まれ出た。
——空気を水に変えて、魚を作った。って事は、フィックスに分類されてるのかな。
傍観を続けるバベルの意識に幼き頃のバベルの声が木霊した。
心臓の鼓動は変わらず不安定だ。この状況であの灰色の世界に入れば、意識を失う可能性が高い。頭ではそれがわかっているのに、体を動かす獣は無理矢理、時間の鎖の追従をふり切った。バベルの両足の筋肉は、過剰な負荷に熱を発して抗議する。そこに流し込まれた凍てつく血液が筋肉の熱を奪い、踏み出す足をさらに前へと押しやった。
身体中を巡る冷たい血液が、これまで動いて蓄えられた熱と混ざり溶ける。胴長の獣が、この奇妙な感触に歓喜の咆哮を上げ、食い千切ろうと牙を剥く水魚を瞬く間に切り伏せた。
アルマが描く空色の軌跡から水魚の亡骸が落とされる。格子状に広がった空色の線はバベルを守る網籠となり、それを強引に通過した水魚は、いくつもの水滴となって地面を湿らせた。
「——ッガ! ……ハッ——ハッ!」
千八百を超えた魚の死骸が足元を濡らし水溜りを形成した頃、心臓が止まった。心臓へと流れた込んだ血がそれより先へ行けず、逆流を起こして流れを乱した。息が詰まる。視界が揺らぐ。膝が震える。それでも、獣は止まるのを拒絶する。
視線を横に向ければ、ウィリアムが既に構えていた。逃げ道はない。無理やり軌道を変えても、英雄の一撃からは逃げられない。
バベルの体に、時間の鎖が追いついた。迫る魚群と藍銀の斧刃が速度を上げた。
——ここまでか……。
すぐに会いに行っては、タンゴは怒るだろうか。そんなことが、頭の片隅をよぎった。
(まだだ。もっと速く。もっと、鋭く)
獣が上げる唸り声がバベルの体を包み込み、砕けた石畳の破片を巻き上げた。体を中空に寝かせた跳躍。バベルの足のすぐ下を、藍銀の斧刃が通過して行くのが見える。
——あれを避けるのか。でも、こんな無茶が続けられるわけないだろ。
驚きに目を見開いたウィリアムの顔が視界の端に映ったバベルは、自分の足から駆け登る痛みに顔を顰めた。人間の限界を軽く超えた行動を、バベルの体に指示する獣。その反動は、バベルの体へと帰る。
ほんの僅かな浮遊感が体を包み、灰色の空を体の正面に捉えたバベルは、右手の短剣を迫る藍銀の斧の腹にぶつけてさらに飛び上がった。
追撃の水魚を中空で切り裂いたバベルの体は、筋も骨も痛み悲鳴を上げるが、それを無視して眼下のウィリアムへとアルマを突き下ろした。
「何だお前は…………一体、お前は何なんだ!」
ウィリアムに弾かれたアルマを手元に引き戻したバベルは地上へと戻り、グリッドとウィリアムに挟まれた位置で、短剣を構え直す。そんなバベルに、濡れた金の髪を頬に貼り付けたグリッドは叫ぶ。水の魚は未だ水球から産み落とされ、グリッドの周囲で渦を巻いて空を泳ぐ。
魚のうねりの中から見える水底の瞳が、バベルの体に巻き付いた獣を射抜く。見えないはずのそれが、グリッドの目には確かに映っていた。
「アトランデ、頼む。バベルを救ってくれ」
祈るように溢したグリッドの言葉はしかし、誰の耳にも届かず空に溶け、新たな水泡となって魚を生み出した。
迫る魚群を瞬く間に水飛沫へと変えたバベルは、勢いを両足に移し、一足でグリッドの懐に入り込んだ。
「バベル。お前、本当にバベルなのか?」
魚群の渦を切り伏せ、水魚を生み出す水球すら放り払ったバベルの顔が、眼前に映る。バベルの顔のその隣には、眦を吊り上げ、嘲笑を浮かべた獣がグリッドの目を覗き込んでいた。
アルマの刃が、グリッドの首元に触れた。空色の光を、血の赤が遮り濁す。
ウィリアム足では間に合わない。獣は笑みを深めてバベルの握るアルマに力を込めさせた。が、それを掴んで止めたグリッドは、腕を体の内側に巻き込み、バベルの体を背負い地面に叩きつけた。
体全身からの悲鳴に、内臓の震えが追加され、空気が口から無理矢理吐き出された。それでも獣はお構いなしに体を操り、即座にグリッドへと反撃する。
背中を地面に触れさせたまま、片足を持ち上げ、グリッドの脇腹に叩き込む。足に触れたグリッドの呼気が、嫌にはっきりと残った。
「グリッド!」
ウィリアムがグリッドを叩き、バベルとの間に割って入った。それでもグリッドはバベルに声を飛ばした。
「バベル、頼む。話がしたいんだ!」
グリッドの気持ちが、胸の奥底に沈んだバベルの意識を揺する。この男は、他の貴族とは違うとバベルは知っている。しかし、そんな男も魔物の暮らしを荒らし、自己顕示欲のために命を奪う。そう考えるだけで、バベルの意識は、真っ暗闇の空洞を作った胸の奥底に貼り付けられ、そこから一歩も動けなかった。
グリッドとウィリアムの怒鳴り声が交差する。その光景を前に獣は咆哮を上げ、バベルの体を前へと倒した。
視界が狭く、色を失って行く。身体中を蝕む痛みと熱は急速に下がり、体に絡まる風が、前傾姿勢の輪郭に沿って押さえつけるように立ちはだかる。が、それを獣は押し除け、前へ前へと足を進ませた。
獣の目に映っているのは、二匹の標的だけで、それ以外は暗闇に閉ざされていた。
ふっ、と何かが体を掠めて過ぎた。それが何なのか、バベルも獣も一瞬わからなかった。しかし、服の裾から皮膚に触れた暖かなそれは、色を失い視野を狭めていたバベルの瞳に熱を与え、黄金の流線を反射させた。
枯れ葉のように中空を舞う金の流線は、バベルの横顔を過ぎると、石壁よりも高くまで浮き上がる。いくつも幾つも流れて行くそれらは、バベルの働いていた農業区画の方から来ているらしく、そちらにはもっと大きな黄金が聳えていた。竜巻のように渦を巻くそれは、金の枝を伸ばし根を張る生命の息吹を周囲へ振り撒く黄金樹のようで、バベルも獣もその場に足を縫い止められたかのように動きを止めて、命の鼓動を全身で受け止めた。
バベルと獣が意識を離した一瞬の隙、グリッドは駆け出した。瞳と同じ綺麗な宝石が嵌め込まれた片手直剣を放り投げ、肩から流れる血を金の風に乗せるグリッドは、バベルの真正面に飛び出した。
咄嗟のことに、獣の釣り上がった笑みが初めて崩れた。真っ赤に染まった瞳に怒りを燃やし、吊り上がった口端が歪に曲がる。
「なんて顔してんだ。お前」
口から血を流す英雄が、バベルの視界を覆った。その瞬間、体の奥底に引っ込んでいたバベルの意識が、獣から体の所有権を取り戻し、倒れ掛かってくるグリッドの血に塗れた体を抱き止めた。
血の気の失せた青白い顔。色彩の薄くなった瞳の奥底で、グリッドは泣いていた。
「な、んで…………」
久々に声を発した。そんな感想は、掠れた声と共に吐き出されて金の風に包まれ流れて行く。グリッドの体から流れ出る真っ赤な血も、金の流線にふわりと乗って、石壁のその向こう側へと連れ去られた。
たった数時間の関わりだった。研究所から買い物の手伝いをした。たったそれだけの仲だ。友と呼ぶには時間は足りず、互いの事を知らなさすぎる。だのに、この男は己の命を賭してこちらを止めてきた。全く理解できなかった。
——なのに、なんでアンタ、笑ってんだよ。
額に張り付いた髪。血で汚れた頬。流れる涙。そんな傷だらけの顔に、細く薄っぺらい笑みが貼り付けられていた。
「何で、こんな……あんた、英雄なんだろ。何で、僕を殺さないんだよ…………」
「な、なんで、だろうな。……体が、勝手に、動くんだ。大事な友達を、助けたい、ってな」
「意味、分かんないよ」
さっきよりも重く寄りかかってくるグリッドの体を抱き止めるバベルは、足元に広がる真っ赤な水たまりに足を取られないよう重心を低くして支えた。
「お前、が、何に苦しんでるのかは、知ってた。けどな、それは、お前、一人でしか、解決できないんだ。誰か、が、助け、られるものじゃ、ないんだ……」
昔、街の近くを流れる川に落ちたことがある。その時見上げた水面を通した快晴が、グリッドの大海の瞳ととてもよく似ていて、そんな綺麗な瞳が、日没のように暗くどこまでも深く沈んで行く。
「お前、は、英雄の、器、なんだから……」
「何言ってんのか——」
「聞け!」
どこにそんな力が残っているのか、両肩を掴み顔を引き寄せたグリッドは、意識が遠退いた瞳でこちらの目を覗き込む。
「怖がるな。ただ、受け入れろ。お前は、バベル・アルカナムだ!」
グリッドはそう言い切った後、完全に脱力し、バベルに寄りかかった。
「……グリッド?」
全体重が乗せられたバベルは、血溜まりの中に膝を突き、胸に抱えたグリッドの体から、熱が引いて行くのを感じた。それと反比例するように、フラクシスの仇を取ったという実感が、胸の中心をジリジリと焼き焦がした。
分からなかった。自己顕示欲に溺れた強者の享楽だと思っていた英雄が、自分の命を投げてでもこちらの意識を引っ張り出したこの結果が。ただの偶然だ。本人の意図した結果ではない。そんな言葉が頭の中を流れても、それが正しいとは到底思えなかった。
『英雄は、他者を優先するカッコいい人達なんだ』
唐突にタンゴの声が頭の中で響く。以前言っていた英雄の定義。しかし、何も相談などしていなかった。助けてくれなんて叫ばなかった。それでもグリッドは、確かに手を差し伸べてきた。
『英雄の器』『受け入れろ。お前は、バベル・アルカナムだ』グリッドの声が何度も何度も耳元で聞こえては、それらの意味をバベルの思考は考えた。
自分が何に悩み、英雄を動かしたのかを。グリッドから見て、何がバベルを助けることに繋がったのかを。
「まったく、どいつもこいつも——馬鹿ばっかりだ。自我の弱い研究者に、高貴な血で轍を作る暗殺者。そして色に溺れた剣士。まさか、こんな埃臭い田舎者に命を奪われるなど」
ウィリアムは仲間の今際の際を、大盾を地面に突き立てそれに体を預け眺めていた。そして、冷めた眼差しを少しずらし、その動かなくなった仲間の体を支える青年へと向けた。
「英雄殺しの犯罪者。お前は俺が殺してやる。痛い思いをしたくなければ、そのままそこで大人しくしていろ」
大盾をその場に残し、ウィリアムは両手で斧を担ぎ、膝を突き背を丸くしたバベルへと一歩一歩近づいて行く。その歩みの一歩ずつ、両手と斧に殺意が注がれた。
——どこかで、誰かが騒いでる。木のへし折れる音がする。顔も知らない母親が泣いている。逃げ場を失い、袋小路に追い込まれた魔物が怒声を上げる。騒がしいなぁ。
体温が空気と溶け合い、なんの感触も感じられなくなったグリッドの体を抱きしめながら、バベルの感覚は街中の音を集めていた。そして、バベルの目はすぐそばにまで近づいていた一人の英雄へと移された。
元々はこの男を殺したかっただけだった。フラクシスを殺した英雄の一人で、コーラルを破壊し、レインとタンゴを殺したこの男を。だのに気づけば、怒りに任せて狂刃を振るい、全身の骨と筋肉に悲鳴を上げさせ、別の英雄の命を奪っただけだ。
(まだだ。まだ足りない。まだ、終わっていない!)
バベルの中で、獣が大きな口を開いて叫んだ。
「まだ、殺すつもりなんだな」
バベルは全身から放たれる警鐘を無視して、血溜まりから立ち上がる。
「当たり前だ。お前は英雄を殺しただろう。罪人を裁くのも、俺たち英雄の仕事だ」
「罪人だとか英雄だとか。お前はそんなのどうでもいいんだ」
「は?」
無関係なコーラルを巻き込み、タンゴを殺した英雄ウィリアムの目的はただ一つ。自分の理想とする勇者の型に、一人の少女を押し込める事。
「お前は、ただ自分の欲を満たすために暴力を掲げる魔物以下の獣だ」
この世界の歪さに怯えて目を逸らし続ける自分と同じ、無能な獣だ。バベルの中に潜む獣は、そんなバベルの意思を覗いては笑みを浮かべた。
「誰に言っている。お前のような平民風情が、俺と対等に話せるとでも」
重心を低くしたウィリアムは、白くなるほど握りしめた斧を振りかぶり肉薄する。
空間を削ぎ落とそうと乱れた気流を吐き出しながら、藍銀の半月が首から胴を両断しようと迫る。バベルは空に赤の混じった刃を下から振り上げ、ウィリアムの握るエアリゴンの柄を捉えた。
全身がバラバラになりそうなほどの痛みが体の内側から襲う。エアリゴンが生み出す乱気流が、外側から押し潰そうと吹きかかる。
「——ッ!」
「お前ごときが、俺とエアリアルの力を止められるわけないだろ!」
振り下ろされた斧の刃から、小さな白い光から溢れ出て空間を引き裂いた。鋭い斬撃がバベルの肩をえぐり、眼前で花開いた白い小花にアルマが巻き込まれ、遠くに吹き飛ばされた。
「クッ——ソ、アンタそれ、使い方間違えてんだよ!」
小爆発に吹き飛ばされて地面を転がったバベルは、体内を駆け巡る痛みで無理矢理意識を繋ぎ止め、立ち上がった。
ウィリアムの追撃の手がバベルを捉えた。
「お前のような泥まみれの石ころに、この斧の真価がわかるはずがない」
強く踏み込まれた大上段からの追撃を、今のバベルに防ぐ術はない。警鐘が頭蓋を砕いて飛び出そうとが脳から発せられた。
思考はバベルに逃走を促す。迫る斧刃。目を眩ませる白光。心臓の鼓動を掻き消し、押し潰そうとする暴風。刻一刻と迫る鮮明な死を前にしかし、バベルの視線は、全く別のところを見ていた。
右手の先。瓦礫が幾重にも積もった層の一番下。赤に黒を混ぜた鉱石のような光沢を見せる塊が、こちらに細い枯れ枝のような柄を伸ばしていた。
タンゴの大剣。竜の心臓を削って作られた、無骨なプレーンの巣窟。
意識するよりも先に、体が右腕を伸ばしていた。指先に触れた柄も、こちらに握られる事を望んでいるかのように吸い付いてきた。
瓦礫が吹き飛ぶ。土埃が舞い上がる。迫る白光を押し退け、赤黒の流線が、藍銀の斧を弾いた。
「なっ、その剣は!」
ウィリアムの怒号がバベルの頭上から降る。バベルはそんな声を無視して、両手に握り切り上げた刃を手元に引き戻すと、体を捻り回転による遠心力を刃に乗せて、ウィリアムの横っ腹に叩き込んだ。
火花が眩く散る。その向こうには、歯噛みしたウィリアムが苦悶の表情を浮かべ、エアリゴンを縦に構えて大剣の重撃に抗っていた。
「アンタみたいなエセ英雄に、この大剣の真価は分からないだろ」
エアリゴンの柄の表面を滑らせ斧刃へと噛ませた大剣を、バベルは手の中で回転させてエアリゴンをウィリアムの手から奪い取ろうとした。しかし、ウィリアムは斧を手放さず、斧の刃とタンゴの大剣が互いにぶつかり合い、激しく火花を散らした。
「貴様、俺からエアリアルを奪えると思っているのか!」
「武器だけじゃない。僕は、アンタの命を奪おうとしてんだ!」
力比べの秤は、バベルに傾いた。バベルの押し込む赤黒の大剣が、ウィリアムに迫る。
「空の境界を切り開き、闇の深淵まで切り裂け——<エアリアル>!」
タンゴの大剣を大きく弾き、軌道を逸らしたウィリアムは、短い祝詞を一息に唄う。
エアリゴンの周囲の空間が捻れ、斧刃が通過した空間に亀裂が走る。向こうにつながる真っ暗闇から、湿気を孕んだ風が、荒れ果てたコーラルの中央広場を舐めた。
「これ以上それを使えば、英雄の立場でも隠しきれないんじゃないのか」
湿気の風と共に訪れた熱気が、バベルの額に汗を流させる。
「問題ない。元より、地図から消す予定だ」
殺気を色濃く塗った藍色の瞳を見たバベルは、弾かれ体の後ろに持って行かれたタンゴの大剣を引き、ウィリアムに肉薄した。
これ以上、あの斧を降らせてはいけない。本能から発せられた鐘の音に従ったバベルはしかし、一歩踏み出す毎に体の軸がブレ、まっすぐに進めなくなっていた。獣に主導権を握られていた数分で、バベルの体はとっくに限界を超えている。本来、大剣を振るう余力だって残っていなかったはずだ。復讐という名の炎で燃えカスとなったバベルの体力を無理やり燃焼させて動かしていたに過ぎない。
——あぁこれ、ダメだ。間に合わない…………。
揺れる視界は次第に滲み、世界の輪郭を崩し始めた。その中で、ウィリアムの握る両手斧は藍銀の輝きを放ち、白と黒の空間を生み出しては瓦礫や土煙を吸っては、熱風を吐き出していた。
(まだだ。まだ、終わってない)
獣の声が頭の中で反響する。
——もう、意識が……………………。
そんな声に反対するように、バベルは八割を暗闇に支配された視界を獣に向けた。
「バル!」
木の洞に声を反響させたような重低音が、暗闇が押し寄せていたバベルの意識に陽光を差し込み引き戻した。次いで現れたのは、地面から伸びた三本の木の根。ウィリアムの斧を受けた止めた一本が弾け飛んだが、もう一本は倒れるバベルの体を守るように螺旋を描き、残りの一本がウィリアムの足元から飛び出し鳩尾を突き上げる。
「ぐっは——!」
中空へと体を投げ出されたウィリアムへと木の根が追撃する。死を覚悟していたバベルは、ただ茫然と滲む視界で一連の光景を眺めていた。
「バル、大丈夫か?」
視界に映ったのは、一体の木造鎧だった。鹿の頭も、蜥蜴の両腕も鳥の両足も残っていない。それでもバベルの脳は、森でできた新しい友だと判断を下していた。
「ハーゲンティ……ここにいたら危険だ——」
庇う様に這い出て来た木の根から出ようと体を捻ったが、内臓から震えるように伝わった痛みに喘ぎ、木の根に寄りかかりうずくまる。ウィリアムは地面に膝と手を突き、鳩尾の辺りを庇いながらハーゲンティを捉えていた。
「人語を理解した魔物がいる事にも驚きだが、まさかそれと面識があるとは。常軌を逸している」
立ち上がったウィリアムは、バベルとその隣に佇む一体の木像鎧を睨みながら、突き立てていた大盾を手に取った。
「私は、フラクシスから切り落とされた枝。新たな森の主。名をハーゲンティ」
「フンッ! 形式を重んじる魔物とは、面白い。私は、アウリス王国認定英雄が一刃、ウィリアム・アームストロング・ヘレボルス」
一本の木から造られたかの様な全身鎧は、手足二本ずつの人の形をしている。まるで彫刻師の作品のようだ。しかし、たった一箇所。頭部だけは人の作りから逸していて、年輪を斜めに断った溝が一筋走り、中から空と若草と小麦の色の光が輝いた丸太の断面がウィリアムを捉えていた。
「バルはここ離れて。これは、私が喰う」
「魔物如きが、俺を殺せると?」
ハーゲンティは数えきれないほど多くの枝が絡まって作られた右腕を振り、その内側から金色の長槍を引き出した。
「魔物の討伐を開始する」
「さあ、伐採開始だ」
両者が口を揃えてそう言うや否や、互いの得物を衝突させた。
藍銀と黄金の隙間で火花が咲き乱れて空間が歪み、小爆発が広場に吹き荒れた。
弾かれた長槍を引き戻し、手中で回転させたハーゲンティは両手で握ると、ウィリアムの胸へと鋭い突きを放つ。それを正面から大盾で受け止めたウィリアムはニヤリと口角を持ち上げた。
「森の主同士の力比べは、先代が優っているようだな」
ウィリアムの構えた盾は、アルマの鋭さでも傷一つつかなかった。それは、ハーゲンティの握る金色の槍でも同様で、緑黒色の盾には傷一つつかなかった。
「フラクシスの樹皮。槍じゃ貫けない」
ウィリアムが横に振り抜いたエアリゴンの斬撃を真上に飛んで回避したハーゲンティは、背丈と同じくらいの槍の柄を両手で絞り込むように縮め、上から振り下ろした。
金色の火花が大きく咲き乱れ、半月状に広がった槍の矛先が大盾に食い込むと、重力と自身の体重を上から乗せて、大盾を巻き込み地面に叩きつけた。
「——っ、魔法の込められた武器か!」
大きく舞い上がった土埃の中から飛び出したウィリアムは眦を吊り上げ、煙の中心にいるであろう魔物を一瞥する。
「戦斧でも断ち切れない」
もうもうと立ち込める煙を振り払い出てきたハーゲンティは、右手に人の体など簡単に分断できそうなほど大きな刃を広げた一振りの斧を携えていた。
「正面だと対処される」
煙の残りで隠されていたハーゲンティの半身。その左腕から数本の根が地面を抉り伸ばされていた。遠く離れた場所で自慢から破裂したような音を立て、土残りが一直線にハーゲンティの左腕へと引き込まれる。
「これならどうだ」
左腕の先に伸ばされた木の根が絡んでいたのは、青い宝石が嵌め込まれた片手直剣だった。
グリッドが振るっていた魔法武器はその刃に水を纏わせ、ウィリアムへと向けられる。水滴を飛ばして迫る直剣が、ウィリアムの側面から捉えた。それに対し、ウィリアムは両手に構え直したエアリゴンを振り、切り開いた空間を爆発させる事で、ハーゲンティの左腕の肘から先を吹き飛ばす。
「俺はこの国の英雄だ。この程度で殺せると思っているのか」
振り抜いたエアリゴンを引き戻しつつ肉薄するウィリアムと、それに対抗して黄金の斧を戦鎚へと変えて上から振り下ろすハーゲンティ。互いの所有する魔法武器がぶつかり火花を散らせると、周囲を激しい気流が走り回り土埃と火花を吸い込んだ。そんな攻防が、数分か、数十分か、はたまた数時間、バベルの目に映った。
長槍、戦斧、戦鎚、直剣、振るたびに長さや形状を変える金色の刃に、ウィリアムは何とか体を動かしエアリゴン一振りで対処する。
「魔物如きにここまで手こずったのは初めてだ。だが、結果は変わらない」
互いに距離を離したタイミングで、ウィリアムは口端を吊り上げ、狂気に満ちた目をハーゲンティへと向けた。
「ここまで俺の手を煩わせた褒美に見せてやろう。女神様から賜りし、奇跡を」エアリゴンを自身の胸の前に掲げたウィリアムは、狂気を孕んだその顔を藍銀の斧刃へと映した。「空の境界を切り開き、闇の深淵まで切り裂け——<エアリアル>!」
ウィリアムを囲うように黒い点が空間を歪めて渦を巻く。黒点は周囲の空間を捻じ曲げ、その円を徐々に徐々に大きくした。
「そのまま空間を無理やり繋げば、このマチも、私たちのモリも、すべて枯れるぞ」
「だからどうした? 所詮は田舎街一つと、害獣の巣食う森だ。地図から消えたところで困る奴なんかいやしない」
ウィリアムは勝ち誇った笑みと共に、黒点の一つを、エアリゴンを振ってハーゲンティ目掛けて飛ばした。
「ハーゲンティ逃げろ!」
木の根の隙間から這い出ようともがきながら、バベルは叫ぶ。しかし、殺意と暴威を向けられているハーゲンティは臆することなく、金の斧を錫杖へと変えてウィリアムを見据えていた。
「バル、怪我直してなかった」
口らしい場所のないハーゲンティの年輪顔から、聞き取ることのできない何らかの言語で言葉が紡がれた。するとバベルを囲っていた木の根がザワザワ揺れて、バベルの体に絡みつく。
「ハーゲンティ何を——!」
バベルの言葉は途中で空に溶けた。残されたのは、驚愕だけだった。体に巻きついた木の根から、ほのかな暖かさを感じた。それに伴い、身体中を蝕む熱と痛みが一瞬にして消え去った。
魔法だ。そう気づくのと同時に、バベルに絡みついていた木の根は地面に引っ込み、その場にはぽっかりと空いた黒い丸が一つ、足元に残された。
「——ゼウラ・ジ・エスカ」
杖を握るハーゲンティがその名を告げると、金杖の先端に一筋の線が走り、そこから黄金の風が溢れ出て、ハーゲンティの足元から頭の先までをすっぽりと覆い隠した。風を生む金杖は線の入った先端から二つに割れ、その内側から金粉が飛び回る空間を内包した結晶を露出させる。風は結晶から溢れ出ていて、杖が割かれたことで、より強くバベルの頬を撫でては遠くへと去って行く。木の葉の掠れる音が、壁の向こうから聞こえた。
木漏れ日をこちらに注ぐ金杖と、空間を穿つ黒点を引き連れた藍銀の斧がぶつかり合う。衝突は静かに、しかし衝撃は凄まじく。足元から崩壊させる空気の壁が、バベルの体を吹き飛ばそうと体に絡みつく。
何とかその場に堪えるバベルは、眼前の光景を呆けた顔で見続けた。樹木から作られた人型の魔物と、我欲に駆り立てられた英雄が、圧倒的な暴力の中心で互いの握る凶器をぶつけ合っては命を削る。自然災害のような力の奔流は、コーラルの石壁では押し留めきれず、壁を登っては外へと溢れる。元は雑多な街並みを見せていたコーラルだが、その原型はどこにも見られず、もはや風化しいつ崩れてもおかしくない遺跡の有り様をありありと見せつける。
「ハーゲンティ、合わせろ!」
黒と金の力の奔流がぶつかり合う中心。そこに立つ新たな森の主へと、バベルは声を飛ば仕掛け出した。
バベルの声を確かに聞いたハーゲンティは、空と若草。そして小麦色の眼差しを目の前の敵から外すことなく、黄金の風を一陣、バベルへと送った。
竜の心臓を材料に削り出された一振りの大剣。よく見れば所々にヒビが入り、柄に巻き付けられていた獣の皮が二巻き分ほど剥がれている。所有者を失った刃はしかし、バベルの手中で今も確かな炎を灯している。その剣身に、黄金の風が渦を巻いて絡み付いた。
黒の虚無に、金の暴風がぶつかる災害の中心地。そこへと伸びる赤黒の軌跡が、全身を軋ませる衝撃をものともせずに突き進んだ。
「土泥に塗れた手で、俺に触れるな!」
エアリゴンの凶刃がバベルへと迫る。それでもバベルは、胸の前で握ったタンゴの大剣をまっすぐ前へと突き出した。ハーゲンティは、金粉舞う結晶でウィリアムの振るうエアリゴンを受け止め、黄金の風に乗せて弾く上へと弾いた。
「バル!」
「奪った!」
ハーゲンティが打ち上げたエアリゴンの刃の下をタンゴの大剣が通過する。刃の切先が、ウィリアムの胸に吸い込まれ、その体を貫いた。
竜の心臓は人間の肉体よりも硬く、するりと風に靡く薄布が手の中から逃れるように、赤黒の刃はウィリアムの体を貫通し、背骨を断ち切り鋭利な先端を、黒点の向こう側へ突き出した。
落ちるのを忘れていたかのように、一瞬の静寂の後に、エアリゴンが離れた場所に突き刺さった。
瀬音を立ててウィリアムの体内から血が溢れ落ちる。タンゴの大剣に別の赤が塗られ、バベルの握る刃と地続きで削られた柄へと流れた。
「………………」
滝音に混じり、空いた体の穴から空気の漏れる音が聞こえる。それはウィリアムの吐き出す言葉だったのかもしれない。だが、バベルもハーゲンティも聞き取ることはできず、ウィリアムの目から光が失せるのを静かに、しかし油断なく見続けた。




