月明かりの笑顔
「もう諦めろ。その子は施設に送ればいいだろ」
宿の一室での支度を黙々と続けるていると、引き戸の扉に寄りかかった仲間の冒険者が、腕を組みながらそんな事を言ってきた。
視線を上げれば、きっとあの空色の瞳を細めて見下ろしているのだろう。その顔を想像しただけで無性に腹が立ち、俺はあえて声のした方を見ずに支度を続けた。
俺は、昔からこの男——ガストン・ジニアレスが苦手だった。
見ず知らずの赤子の未来など、興味がないと言外に伝えてくるその態度が気に食わないし、そして何より、そんな男が、自分よりも強いというその事実が、より一層自分の無力感を強めてきた。
本当なら一発拳を叩き込んでやりたかった。が、今はそんな時間も惜しい。もう日は沈み始めている。
ここからは、魔物の時間だ。
夜になれば、昼間は寝息を立てて引きこもっていた危険生物が、その辺を我が物顔で歩き回るようになる。
一人で出歩くならば何の問題もなかった。が、赤子を連れてとなると話は変わる。
「この子の親は、きっとどこかにいる。ここじゃないなら、向こうに決まってる。簡単な消去法だ」
ガストンに言ったのではない。自分にそう言い聞かせているだけだと、オルソは気づかないフリをして荷物と共に赤子を背負った。
「お前の言う消去法ってのは、親が生きている前提での話だろ。もう生きてない確率の方が高いんじゃないのか?」
普通に考えればそうだろう。きっと、パーティに入る前の俺ならそう考えた。
オルソは苦々しげに口角を上げ、自嘲に耽る。
数秒の沈黙の後、その顔をガストンに向けた。
「お前は、いつからそう考えるようになった。何がお前の考え方を変えた」これは質問などではない。答えは明白なのだから。「ニアが死んだのは、お前だけのせいじゃないだろ」
ガストンは、何も言わなかった。ただ口を横一線に引き結び、組んだ腕に力を入れた。
数ヶ月前、俺たちのパーティは仲間を一人失った。
魔族による奇襲だった。相手の懐に飛び込んだこちらの未熟さが招いた結果だった。それでも、頭で割り切っていても、喉に引っかかった小骨がより深く刺さるような不快感は、仲間を失い貫かれた胸の穴から消えることはなかった。
何かに没頭していなければ、ふとした瞬間に彼女の顔が浮かび上がってくる。
トルシアと並んで買い物に出かける彼女の笑顔。
魔物との戦いで負った傷を、眉を寄せて治療してくれた不安そうな顔。
野宿の時に作ってくれたご飯がとても美味しく、皆でその腕前を褒めた時に見せた照れた顔も、次々に浮かんでは、胸の穴にストンと落ちて消えてしまう。そこに手を伸ばしても、彼女が帰ってくることは決してなく、ただただ苦しく鈍痛を生むばかりだった。
「お前は、人と関わるのが怖くなったんだろう。誰かに関わり、仲間を失うんじゃないかって。仲間を守るために、見ず知らずの誰かを殺してしまうんじゃないかって」
ガストンの両肩は細かく震え、小さく嗚咽を漏らしていた。
俯いた顔を伺うことはできなかったが、両頬を伝い落ちて行く雫を見れば、今どんな顔をしているのかは想像に難くなかった。
「……外は危険だ」
嗄れた声で、ガストンは言った。
「分かってる」
「子供を連れて、サーマルまでたどり着けるかなんて分からない」
「そうだ」
「この街の施設に預けた方が安全だって、分かっているだろ」
「ああ」
ガストンの乾燥した声は震えていて、徐々に湿気を帯びてきた。
怖いのだ。恐ろしいのだ。そして何より、そんな自分が惨めで仕方がないのだ。
自分を犠牲にしてでも他者を守ろうとするガストンが、最愛の笑顔を守れず目の前で失った。その喪失感はパーティの誰よりも色濃く、重くのし掛かっていることだろう。
だからこそ、ここでガストンを動かさなければならないのだと、俺はそう思う。
理由など、何でもよかった。背中から感じる小さな鼓動を利用しているのなど、百も承知だ。きっと、この子の家族はもう、この世のどこにもいない。それも分かっている。
重要なのは、赤子の家族を見つけ出し、この子を家に帰す事ではない。現実を直視させ、そして未来の話をしなければいけないのだ。
(この子は俺が責任を持って育てます。だからどうか、顔も名前も知らないこの子のご両親方。今だけは目を瞑っていて下さい。死んだ後で、いくらでも謝罪します)
背中の熱を胸に空いた空洞で受け止めるオルソは、ガストンに一歩詰め寄った。
「お前が一緒に来てくれれば、危険は覆る」手を差し伸べ、俯き確認できないガストンの青空を、オルソは探す。「頼む。お前の力が必要だ」
静まり返った宿屋の一室で、オルソはただ待っていた。肩を並べて戦う友人を。信頼し合い、背中を預けることのできる仲間を。
「約束しろ。…………サーマルに着くまでの間に、誰かが助けを求めても手を出さず、最短で向かうと」
オルソは絶句した。自分の身を平気で犠牲にして、他者を助けてきた男が、たった今、困った人を見かけても見捨てろと言ったのだ。
「……そんなにか。そんなに怖いか。冒険者が本分を全うするのが。人としての責務を全うするのが」
「当たり前だ! 全うした結果、何が残った」扉を拳で叩いたガストンは、唾を混ぜた自身の叫びをこちらにぶつけてくる。「何もだ! 冒険者の中で頂点と持ち上げられる英級になっても、命を落とせば何も残らない。そんな生に、何の価値がある。冒険とは、捨て石を耳心地のいい形に変えたまやかしだ」
肩で息をするガストンの瞳には真っ黒な雨雲が立ち込め、その瞳を薄暗く濁らせていた。
俺は、何も言い返せなかった。ニアを失ってから、ガストンの冒険は常に“自棄”を孕んでいた。普段ならば、魔物の単調な攻撃をいなして反撃するのに、防ぎもせずに徹底抗戦を見せた時など、温厚なトルシアが唇を尖らせて詰めていたほどだ。
「それでも、俺は冒険したい。お前たちと、この子の親を探す冒険に、行きたいんだ」
ガストンの絶望を覆せるのもまた、冒険の中にしかないのだから。
「……分かった。お前に着いて行こう」
しばらく見つめ合い、ガストンが先に視線を外した。そうして部屋を後にしたガストンの背中は、とても小さく見えた。背中に乗せた赤子よりもずっと小さく、風が吹けばどこかに飛んでしまいそうな軽さを感じた。
コーラルの石壁の下を潜り外に出たオルソたちは、馬車が踏み固めた大きな轍に従い林に侵入した。
陽が沈んで間もない時刻、こちらの気分に寄り添おうとしているかのように、空には分厚い雲が増えていた。もしかしたら、一雨来るかもしれない。そんな風を頬に感じた。
「ちょっと待ってね」
のほほんとした口調でトルシアは言いつつ、手にしていた短杖を一振りする。と、杖が形を変え、一つの大きなランタンへと姿を変えた。
曇り空に日没後の暗さは、街と林の間の道程では足元を微かに映す程度だったが、林の中に踏み込んだ途端、闇へと変化し、足元も自分の指先も確認できなくなった。
「ギル、陽光石はあるかしら」
左掌を差し出したであろうトルシアに、ヨーギルは剣ダコだらけの無骨な指で摘み上げた一欠片の水晶を、ポトリとトルシアの白く瑞々しい手の上に落とす。そんな音が聞こえた。
「ありがと」
そう言って水晶をはめ込んだランタンを肩の高さに掲げたトルシアは一番前に進み出て歩き始めた。
月の光を思わせる青白い光がランタンから放たれ、トルシアの整った顔の輪郭に触れる。
「魔物の気配は私が探るから、あなたたちはその子が起きないよう静かにね」
口元にスラリと伸びた人差し指を当てがい、トルシアは微笑む。
ガストンとオルソは、どちらからそうしたのでもなく視線を反対に向け、歩幅一歩分ほど距離を離した。
林の中は虫の音ばかりが響き、獣たちは静かにこの合唱会を聴いてるかのように姿を隠していた。
「ここから道を外れて茂みを突っ切れば最短だ。途中で魔物が出るかもしれないが、注意していれば早々危険な奴とは出会さないはずだ」
茂みの奥を指差すオルソは、ガストンにひとつ視線を送ってから、トルシアとヨーギルを先頭に配置し、ガストンを後方に置き鬱蒼と広がる闇を踏み締めた。
サーマルは、林を抜けて徒歩十五分ほどの距離にある小さな町で、周囲を深い堀が囲んでいる。
日没と共に丸太を削って作った吊り橋を上げてしまうのだが、一日三交代で見張りが橋の脇に建てられた物見櫓に付いている。その一人が、こちらに手を振り声をかけてきた。
「あんたら、コーラルの人間かい?」
堀の向こうからの声に、ヨーギルは腕を振って応えた。
「いんや、冒険者だ。昼間こっからコーラル行って、今戻ってきたとこだ」
「そりゃあ随分な冒険だな。ちと待ってな、今橋を下ろすから」
ギリギリと、荒縄に吊るされた橋が下げられて行くのを、オルソは黙って眺めていた。
橋の向こうに、この子の親類はいないだろう。そんな予感めいたものを感じながらも、黙って橋を渡り名物など一つもない、商人の通過拠点に使われるだけの寂れた町の中に入った。
「まずは宿に行って、荷物を下ろしましょうか」
トルシアの提案に、全員が首を縦に振った。
宿は、街に入ってすぐの場所に三軒もあり、どこも空室が用意されていた。
木造宿の中は清潔に保たれていたが、築年数がそこそこ経っているからか、一歩ごとに床板が軋みの声を上げた。
この町の宿は、どこも商人が休憩がてら泊まるのが殆どらしく、冒険者が泊まりにくるのは珍しいと、恰幅の良い中年受付嬢に言われた。それを受け、オルソは曖昧な笑みだけを返し、そろそろと荷物だけを預けてすぐに外に出た。
ヨーギルとトルシアは少し休憩してから探しに出ると、ガストンとオルソ二人を先に行かせた。
見え見えの魂胆である。が、オルソはありがたいとそれを受け入れた。
「それで、どこから探す気だ?」
気の進まないガストンは街並みを見渡しながら、オルソに聞く。
「居酒屋だ。あそこは、情報収集にはうってつけだからな」
林の中では寝息を立てていた赤子も、十分に体力が回復したのか、今は元気に背中で手を叩いている。これなら多少騒がしい居酒屋に行っても、泣き出したりはしないだろう。
居酒屋は、町の中心に多く並んでいた。店ごとに飲み食いできる種類が異なっているようで、どこも似たような賑わいを見せていた。
ガストンは何も言わずについてくる。今はそれでいいと、オルソも何も言わず、二人の男と赤子一人の歪なパーティは、無言で居酒屋の一つに入った。
ここは魚料理をメインに、自国の蒸留酒を楽しめる店のようだ。
「らっしゃい! 悪いなあんちゃんら、今テーブル席は空いてないんだ。カウンターでいいなら座んな!」
威勢のいい筋肉質の店主が、にかりと白い歯を見せ笑って迎えてくれた。それを見たオルソの背に乗る赤子は、キャッキャと笑う。
「あんだ兄ちゃん、赤ん坊連れて酒飲みとは、感心しないね」
カウンター席に腰を下ろしたオルソを見た店主は、背中の赤子を見て眉根を寄せた。
「居酒屋の経営者にしては、随分と甘い考えを持っているようだな」
フッと挑発的な笑みを見せたオルソの顔に視線を移した店主は、一瞬ポカンとした表情を見せたが、またも白い歯を見せ笑いながら言ってきた。
「未来の客に対する営業活動だよ」
今度は、オルソが口を半開きにして固まる番だった。
「この子は、こいつの子じゃない。ましてや俺のでもない」
隣の席についたガストンは、無表情に店主を仰ぎ見る。
「へ? だったらこの子は……」一瞬、考えるように口を閉じた店主は、人の良さげな丸い瞳を細め、二人の冒険者を睨め付けた。「まさか、攫ってきたんじゃないだろうな?」
声色の下がった店主の雰囲気は、とても重かった。店内の喧騒が、息を吹きかけられ消化した蝋燭の火のように唐突に消えた。眼前でその空気を受けたガストンとオルソも、通常時ならば臨戦態勢に入っていたほどだ。
店内に静寂が落とされ、客の視線がオルソとガストンに向く。
「そんなわけあるか」
ガストンがカウンター席に頬杖をつき、ため息を一つ。それから視線だけをオルソに向けた。
とっとと話を聞け。曇り空の瞳が、そう言っていた。
「この子は、この町とコーラルの間に広がる林の中で見つけたんだ。レギュルの巣の中に一人でな」
「魔物に攫われてたってのかい!?」
店主の驚きは、店内に瞬く間に広がった。テーブル席のそこここからざわめきの声が上がる。
「保護した俺たちは、コーラルの街中で親探しをしたんだが——」
「見つからなかったから、わざわざこっちに来た。と」
オルソの言葉を遮り、店主がその言葉の続きを口にした。それに頷いたオルソは店内に視線を向け、声を張った。
「誰でもいい。この子を見たことがある者はいないか」
店内のざわめきが、風によそぐ青草のように揺れる。と、サワサワとなっていた音が徐々に消えて行った。
「どうやら、空振りのようだな」頬杖を突いていたガストンは、そう言って席を立った。「邪魔したな。今度来るときは、ちゃんと飯を食いに来る」
そう言って、ガストンは一人、店の外に行ってしまった。
「いないか?」
オルソは一人残り、最終確認をした。が、やはり結果はガストンの言う通りだった。
「どこにもいなかったな」
残りの居酒屋も周り、念の為流通管理局にも顔を出した後、宿への帰り道をオルソとガストンは隣り合って歩いていた。
この結果は、オルソにとっても想定していたことだ。が、ここまで手がかりがないとは思っていなかったために、少々落胆が大きい。
「明日、陽が登ったら町の人にも話を聞いてみようと思っている」
雲の裏に隠れた月を見上げ、オルソは呟く。
雨は来なかったようだが、町の中にはほんの少しの湿気が漂っていて、それらがこちらの脳をゆるく締め付けてくる。
重い足取りで帰り道を辿るオルソとガストンの間には、夜の闇よりも暗く重い沈黙が広がった。
「二人とも。ちょっと」
二人の背後から、トルシアがのんびりと呼ぶ。それに応えゆったり振り返ったオルソとガストンは、その視線をトルシアとヨーギルの間で立ち尽くす、肩を窮屈そうに縮める一人の女性に止まった。
年齢はオルソ達と同じか、少し上くらいの線の細い女性だった。服装を見るに、この女性が勤めているのは、男性客を相手にしている飲み屋だと推測できた。
「その方は?」
ガストンの質問に、目元に皺が刻まれた女性本人が答えた。
「その子のこと、妹から聞きました」
聞けばこの女性は、聞き込みをしていた居酒屋の一つの従業員の姉だと言う。
「私たち、その子を見たことがあるんです」
女性は自身をケルニと名乗り、事の一部始終を話し始めた。
「昔、妹と一緒にパン屋で働いていたんです。元々は料理人を目指していて、パン屋での仕事は私たちにとって、修行期間って感じだったんです。今からだから、二十年は前かしら。まだ見習いで、会計係をやらされていた時に、その子を連れたご夫婦が来たんですよ。なにやら急いでいる様子で、長持ちする堅パンをたくさん注文されたのを覚えています」
「そのご夫婦は、この町の住民ではなかったのですか?」
オルソの質問に、ケルニは首を横に振った。
「見たことがありません。と言うより、見えなかったんです」
酒気を帯びた息を吐きながら、ケルニは言った。
「見えなかった?」
ガストンの疑問に頷く。
「長旅用の重そうな外套を羽織っていて、そのフードを鼻先まで被っていたんです。私が見たのは、若妻っぽい雰囲気を纏った女性が抱えていたその子の顔だけで、ご夫婦は口元だけしか確認できませんでした」
「記憶力が、良いのですね」
ガストンの疑わしげな言葉に、オルソは肩肘を脇腹に入れて牽制する。しかし、ガストンの疑問も確かだと、オルソは思っていた。
町のパン屋の従業員で、不思議な見た目をした客が来たと言っても、そこまで詳細に覚えているものだろうか。それも、二十年も前の話で、生まれて数ヶ月のこの赤子には関係のないようにも感じる。
しかしなぜだろう、婦人の話を聞き始めてから、オルソはなんだか嫌な予感を覚えていた。
首筋を冷や汗が流れ、服の中に入り込んできた。湿気を含んだ夜風が、その汗を急速に冷やし、体から熱を奪って行く。
「その二人がこっそり話しているの聞いて、覚えていたんです」
「何を話していたのですかな?」
詰め寄るように聴いたガストンの肩を掴んで止めるオルソは、服の中に侵入した冷や汗が背中に回るのを感じて、その背中から伝わる鼓動と熱を確かめた。
トクントクンと、小さく揺れる心臓の音が、なぜだか不気味に感じた。
「全部は聞こえませんでした。大量の注文で、見習いの私も厨房の方で手伝いをしてましたし、ご夫婦は小声で話していたので。ただ、私がパンを詰めた袋を持って戻った時に、旦那さんが口にしていた言葉が聞こえたんです。『魔族領までは、どれだけ急いでも二月以上はかかる』って」
ガストンもオルソも驚き固まった。どうやらヨーギルとトルシアは、先にこの話を聞いていたようで、二人とも俯き視線を下げているだけで、何も言ってはこなかった。
「魔族領……本当に、そう言っていたのですか?」
震えながらに口にしたオルソの言葉に、ケルニの首が今度は縦に振られた。
足元が崩れたような気がした。体がフラフラと揺れ、奇妙な浮遊感を覚える。背中に感じていた鼓動が、嫌に大きく耳元に届いた。
魔族領を目指す人間など、この大陸に一人もいない。もしいたとすれば、それは人間ではない。
——魔族だ。
そして魔族の子供は、人間の子供とは成長速度が異なる。二十年も前の赤子が、その当時のままの姿でいたとしても、なんら不思議ではなかった。
居酒屋で聞き込みを行った時に、ケルニの妹が口にしなかった事にも合点がいく。店内に魔族の子供を連れ込まれたなど、店側には損害しか与えられたないのだから。
「もしそれが本当なら、この子供は」
「……魔族の子供じゃ」
ヨーギルの弱々しげな言葉を受け、オルソは素早く横に飛んだ。次いで、オルソの立っていた場所で何かが砕け散った。
「キャッ!」
ケルニが小さく悲鳴をあげ、その場で腰を抜かし倒れた。
「ケルニさん。貴重な情報をありがとうね。これはほんの気持ち。これを持って早く離れて」
ゆったりとした動作でケルニを抱き起こしたトルシアは、懐から硬貨の詰まった皮袋を取り出し、それをケルニの水仕事で荒れた手の中に押し込んだ。
「ガストン!」
その目の前で、横に飛んだオルソは怒声を飛ばした。
ガストンが、腰に刺していた空色の短剣を抜き放ち、土が剥き出しになっている地面に突き刺していた。地面が抉れ、土煙の中から、真っ二つに割れた石がこちらを見ていた。
狙いはオルソの背負った魔族の赤子で、それを察知したオルソに躱された短剣の切先が、地面の中で眠りこけていた抱えるほどの大きさの岩を真っ二つにした。瞬時にそう理解したオルソは、腰に刺していた解体用のナイフを逆手に抜きガストンに向けた。
「オルソ、何やっちょる!」
「まあ」
ヨーギルの驚きの声と、トルシアの間延びした声が重なりオルソの耳に届く。
「何を考えている。この子はまだ赤子だぞ」
「だからなんだ。いずれは人を殺す怪物になる。そうなる前に芽を摘み取るのは、至極当然だとは思わないのか?」
曇り空の下、ガストンの空色の瞳が殺意を宿し、妖しく輝いていた。相対するオルソは、どうするべきかと思考を加速させる。
まさか、助けた子供が魔族の子供などと誰が予想できる。
「この子を殺して、お前は満足するか? また、昔のお前に戻れるのか?」
背負っていた魔族の子供を体の前に抱え直したオルソは、解体ナイフを右手に握りしめ、ガストンと向かい合う。
「戻れるわけ、ないだろ!」
絞り出したガストンの声は、震えて湿り気を帯びていた。
「ニアが殺された。殺されたんだ……」
「ああ、そうだな…………」
ガストンにとって、ニア・イポメアという一人の人間は特別だった。一人の女性という意味だけでなく、ガストンの人生を大きく変えた恩人とも言えた。
「バルバルは死んだ。もういない」
「ああ、俺が殺した。だけど、ニアは戻らない。帰ってこないんだ」
ガストンの怒りと悲しみの両方を抱えた瞳が、揺れていた。今にも雨が降りそうなその顔を、オルソは見ていられなかった。
「約束してくれ」オルソは赤子を地面に下ろし、数歩下がった。「この子を殺した後、お前は冒険者として、ニアが生きていた時のように、他者を救うと」
「………………約束する」
ガストンの呟きが耳を穿った。
オルソは唇を噛んだ。口の中に鉄の臭いを含んだ生暖かい液体が流れ込むほどに。
林の中で助けた命を、己の欲のために利用し、それが危険だとわかった途端にゴミを放るように簡単に手放した。
なんと身勝手なのだろう。自己嫌悪が頭のてっぺんから爪先までを蝕んだ。
ガストンは、逆手に握った空色の短剣を頭上に構え、鋭く振り下ろす。その一連の動作が、焦点の合わない瞳でも確かに見た。
はるか上空で、雲の裏に隠れていた月がこちらの蛮行を咎めるように、もしくは監視するように、雲の切れ間から顔を覗かせた。
青白い月明かりが辺りを照らす。暗闇が、路地の一本一本から撤退する。ガストンの握る短剣の刃に光をぶつけ、こちらにその輝きを反射させる。そして、地面に寝かされた一人の赤子が、キャッキャと目尻を下げて笑っているその顔を照らし出した。
「——っ!」
その顔を見た途端、ガストンの殺意に染まった瞳が歪み、振り下ろした凶器の切先は、赤子の数センチ横に突き刺さり、地面を抉った。
「ガストン……」
誰かが、彼の名を呼んだ。俺だったかもしれないし、トルシアかヨーギルだったかもしれない。
ガストンは静かに短剣を引き抜くと、刃についた土を振り払い、音も無く鞘に納めた。
騒動から、一夜が明けた。
かなり昔の事を夢に見たオルソは、ぼんやりと活動を拒む脳を揺さぶり、ぼやける視界を無理やり修正してから動き出した。
陽が登って間もなく、協会職員に街中の魔物の後処理を指示してから、流通管理局へと向かう。
「お疲れ様です支部長」
その道中、ネリネがいつも以上に跳ね上がった髪を撫で付けながら、疲労を隠した笑みをこちらに向けてきた。
それに応えつつ、部下の身を案ずる。これも、支部長であるオルソの仕事だった。
「これほどまでに街を壊したこと、どう責任を取るべきだと思う?」
正面に顔を向けたまま、隣を歩くネリネに言葉だけを飛ばす。上の立場の人間が、こんなことを口にしてはいけないと分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。
抗いようのない圧倒的な暴力に晒されたコーラルの街並みは、走り回って疲弊した隣の一職員の心をそのまま映しているのではないかと、オルソはそんなことを夢想した。
「何を言ってるんです。これは魔王の仕業で、支部長の所為ではないですよ!」
必死にこちらを持ち上げる職員の顔を見て、オルソは寂しげな笑みを浮かべた。
若手にここまで気をつかせるとは、自分も歳をとったものだと。懐かしい夢を見たからか、その考えはオルソの胸に重く引っかかった。
「朝早くにすまないな、レイン」
管理局に着き、ネリネに魔物焼却と負傷者の手当ての指示を送り別れたオルソは、大きく角張った石造りの施設内で、一人の女性に声をかけた。
見かけだけ見れば、昔拾った赤子と同年齢のレインは、眼鏡の奥に濃いクマを作った顔でこちらを振り返った。
肩まで伸びた白い髪は少しくすんでいるように見え、一瞬老婆のように見えた。が、それを言ってはいけないと、オルソは首を振って頭の中からその考えを捨て去った。
「お疲れ様ですファルフジさん。勇者様方は先ほど外に行きましたよ」
「そうか。では私も掃除に出るとしよう。彼らが出てさえくれれば、この騒ぎも少しは落ち着くだろう」
濃いクマに目を取られて見落としていたが、よくよく見てみれば、目尻が赤く腫れていた。
泣いていた? 何故? 考えても思い当たる事はなく、この街の惨状を憂いてのことだろうと納得し、その場を後にした。
コーラルの北西に位置する農業区画では、街に現れた魔物の死骸を焼却処分しようと、大きな穴が掘られ、そこに放り込まれている。
灰色の空に、一本の黒い煙が伸びて行く。それを目印に、オルソは農業区画に足を踏み入れた。
「支部長、何故こちらに!?」
厚みのある体と、そこから伸びる線の細い手足。平べったい頭部に、薄いパーツを散らせた顔をしたこの青年は、確かここから北東に半月ほどの距離にある小村、ローセン村出身のワイビルという名だったはずだ。
木柵で仕切られた農道を、荷車を引いて歩いていたワイビル。オルソの存在に気づいた彼は驚き、その場で飛び跳ねていた。
ワイビルは体格の良い青年だ。飛び跳ねた衝撃は荷台に伝播し、乗っていた魔物の死骸が二、三体転がり落ちた。
「何、私も手伝おうと思ってな」
地面で四肢を広げて落ちた死骸を手早く荷台に放り込んだオルソは、ワイビルから荷車を奪い引き始めた。
「し、支部長! そのような雑務は、私たちが行いますので!」
「気にするな。今の私には、できることがないからな」
荷車を引きながらも、オルソの心は、こことは別の場所を眺めていた。そのまま眺め続ければ、帰っては来れなくなるのではないか。そんな不安が頭をよぎる。だから、今だけは仕事が欲しかった。どんな雑務でも、下っ端の行う面倒な後処理でも良かった。
広大な土地を耕した畑の一画、居住区に影響が出ないよう、石壁の近くに掘られた焼却穴は、直径約十メートル、深さ三メートルの大きさで、中から炎が赤々と登っていた。
「支部長、わざわざこのような場所にいらっしゃらなくても……」
職員の誰も彼もが協会職員の制服である紺の上着を脱ぎ、白いシャツの腕を捲って死骸を担いでいた。中には血が付着してしまったのか、赤いシミが腕や腹の辺りに広がった者もいた。
「私がここで作業すれば、皆の手が空き、街の復興がより速まるだろう。そのための采配だ」
オルソも、他の職員に倣い上着を近くの木柵に引っ掛け、コボルトの死骸を担ぎ穴の中に放り込んだ。
「し、しかし……」
上司からの指示に歯向かえる者はここにはおらず、結果、ワイビルを残し、他の職員らは死骸の回収と瓦礫の撤去に向かった。
袖をまくり、筋肉質な腕を晒すオルソは、その左腕でドレッドボアの牙を掴み、右腕にはアトオミケの細腕を引っ掴んで引きずった。
巨大な穴から這い出ようと登る炎の頂上は、魔物が口から舌をチロチロ見せる動作のようにも見え、そこに死骸を放り込む作業は、餌付けをしている気分にさせられた。
焼却作業に没頭する事数時間。思考に耽る暇がないほど大量の魔物の死骸が、焼却穴の横で今も山を築いていた。
「こんなにもたくさんの魔物が、どうしてあの一瞬で現れたのでしょうか」
無言での作業に耐えかねたワイビルが、そんな疑問を投げてきた。
爆発と白光の原因は、まだ公表していない。彼らが疑問に思うのも当然だった。
「まだ調査中だ。とにかく今は、街の復興を最優先させねばいかん」
バングルディアの角を手でへし折りながら、オルソはそう返す。
バングルディアの角の強度は中々のもので、粉にして石材用の接着剤と混ぜ合わせれば、頑強な家屋が建てられる。街の惨状を見れば、これらの素材はいくらあっても足りないくらいだろう。
その後、ワイビルは居心地悪そうに、オルソは淡々と魔物の焼却処理を続けた。
灰色の雲の厚みが増した空へと、真っ黒な煙が一条伸びる。
「少し、休憩しませんか?」
ワイビルが音を上げた。が、それも仕方がないことだった。朝から働き詰めで焼却作業をしていた。だのに、魔物の死骸の山は一向に減る気配を見せず、それどころか数が増えていた。
そんな状況で、黙々と作業を続けるオルソを横に、一人休憩などできるはずもない。結果、休憩を促す形で自分も休みたいと言うしか、ワイビルには選択肢がなかった。
不甲斐ないと思われただろうか。上司からの評価が下がるのではと、そんな不安げな瞳を向けるワイビルに、オルソは笑みを返した。
「そうだな。こんなに大量の死骸をたった二人で処理できるはずもないしな」
夕方ごろには増員するか。そんな事を考えながら、オルソは上着をかけた木柵に寄りかかり、空を見上げた。
今にも雨が降りそうな分厚い雲が、頭上一帯を覆っていた。
コーラルを囲む石壁には、解明不可能な技術が組み込まれている。
外からの光を透過し、涼やかな風を流す。文献が残っていないほど昔に建てられた何らかの施設。その残骸。それが研究者らの見解だった。そんな過去の遺物の内側で、オルソは目を閉じ、解明不可の風を肌に感じた。
汗が流れる服の内側に風が入り込み、熱った体を冷やして行く。
「ワイビル」と、オルソが職員の名を呼んだ時、木柵の支柱に寄りかかって座っていた本人は、心底驚いたと肩を弾ませた。
「何故、この街に来た?」
驚き固まる部下を気にするでもなく、オルソは目を瞑ったままそう聞いた。寝言だと思われても仕方のない姿勢での質問だ。解答はそこまで期待していなかった。が、ワイビルは律儀に解を投げた。
「私の父が冒険者だったんです。現役時代この街を訪れ、そして、絶望と落胆をいっぺんに味わったそうです」
かつてのコーラルは、街としての機能をここまで発展していなかった。
冒険者らの休憩場。そう呼んだ方が適正だった頃がある。
税金を横領する貴族が享楽で始めた違法賭博に、規定年齢以下の少女を働かせる娼館。何でも金でやり取りできる闇市。その他諸々。
混沌の全盛期だった頃のコーラルは、アウリス王国が制定する法律の全てに背いていると言っても過言ではかった。
無法防衛街コーラル。そんな呼び名が広まっていた時期もある。それほどまでにこの街は荒れ果て、混沌を極めていた。
もし、この時に魔物や魔族が攻めてきていたら。そんな嫌な想像は、今でも夢として見ることがある。
「そんな無法地帯を、ジニアレス街長は一代でひっくり返した。又聞きでしたが、それを知った時の父の顔は、今でも覚えてます。昨日のことのように克明に」
オルソら冒険者パーティがこの街を訪れた時には、ある程度落ち着いた後のことだった。が、この青年がそれを知るわけもなく、わざわざ訂正するものでもないと、オルソは黙って話に耳を傾けた。
「父のそんな明るい顔を見た時に、私は思ったんです。私も誰かの役に立ちたい。人々の希望となれるような、そんな人間になりたい。と」
「だから、ここに来たのか」
「はい。まぁ、現実はこんな有様ですけど」
「こんな有様の組織しか管理できずに悪かったな」
不機嫌そうに鼻を鳴らしたオルソは、薄く目を開きワイビルを見下ろした。そんなオルソに、ワイビルは「あ、いえ、そんな……」と、何と返せば良いのかわからず、両手をぶんぶん顔の前で振ってへどもどした。
「フン、冗談だ。……そろそろ作業に戻るぞ」
「あっ、はい!」
オルソとワイビルは木柵から離れ、焼却穴の隣でうず高く積まれた魔物の死骸へと近づく。と、突然、背中から正面へと吹き抜けていた風が、ぴたりと止んだ。
「——止まれ」
何を思ったわけでもなく、隣に立つワイビルを手で制した。
「いかがなさいました、支部長」
疑問符を浮かべて首を傾げるワイビルを放置し、オルソは肌で感じ取った空気に変化の正体を突き止めようと、意識を街中に向けた。
風の向かったその終点。街の中央で、何かが動いた気がした。
——ドンッ! と何か大きな音が鳴った。小さな爆発だった。
中央広場に向かった風が逆流し、乾燥した畑の土を巻き上げ迫ってきた。
「うわっ、風が!」
突風など、石壁の上から流れ込んでくる以外にないコーラルで、街中から壁際まで駆け抜ける突風。警戒するに値するものだった。
中央広場があるであろう辺りの上空で、白い星が打ち上がった。
全身の産毛が総立ち、心臓が緊張に絞られる。体内を巡る血液が、その流れを激しくしてさらに心臓に負荷をかけた。
街の中央で浮かぶ白い星が、その身を小さく萎ませる。それに合わせて、服の裾や襟から侵入して身体をくすぐる風が、吸い込まれるように風向きを変えた。
「ワイビル、伏せろ——っ!」
必死の叫びが本人に届いたのか。そんな心配が生まれたのは、小さく萎んだ白い星が再び大きく膨らみ、耳を引きちぎらんとする爆発音と、体を地上から攫う暴風を吐き出し、それらがどこかに飛び去ってしばらくしてからの事だった。
両耳からは甲高い金属音が断続的に脳を揺らし、視界は白く滲み、輪郭が正確に捉えられなかった。
「くそっ! ……ワイビル、無事か?」
頭をふりふり、視覚を取り戻したオルソは周囲を確認し、愕然とした。
荒れ放題になっていた畑にあった畝は全て平らにならされ、内に抱えていた種や根が地上にその姿を晒していた。さらに、木柵やどこかの石材が突き刺さり、畑の土を汚していた。
遠くに見えていたはずの居住区が綺麗に片され、向こうの石壁が目視できた。
側にあった焼却穴の火は完全に消され、たなびく黒煙が、悠々とその身をくねらせる。
茶色の土煙と、腐臭を孕んだ黒煙が隠すその向こう側で、何かが動いた。
「ワイビ——っ!」
てっきり、職員の好青年だと思った。が、違った。魔物の死骸の山があった場所で動いていたのは、形容し難い、生物と呼ぶには悍ましい一体の化け物だった。
半分白骨化したバングルディアの頭に、肋骨が飛び出した胴体。そして、清流近辺かその源泉でしか見ることのできない、綺麗好きの代名詞であるリグリザードの前足。
子供の落書きから生み出された合成獣。そんな印象を受ける死体モドキの体を支えていたのは、大きな鉤爪を生やした鳥類の足、ガスが噴出する腐敗した泥沼に生息するマドロッグウェザーの足だった。
「なんだ、こいつは……」
夢か幻かと思った。しかし、それは現実に存在し、今目の前で、魔物の死体を貪っていた。——血で汚れた冒険者協会職員の制服だった布切れを、右前足の爪に引っ掛けながら。
バングルディアの蹄が手の甲から伸びた、緑の鱗に覆われるリグリザードの指から血に塗れた布切れがべチャリと落ちた。
「ま、まさか……貴様、喰ったのか。私の部下を……」
オルソの声が聞こえたからか、気配を感じ取ったからなのか、バングルディアの頭部が直角に曲げられ、樹木の洞のような黒目がオルソを捉えた。
腐った肉が削げ落ちた頬から、口内に入れた魔物の血肉がボタボタと溢れた。
——来る。オルソの直感がそう警鐘を鳴らしたのと同時に、オルソの体は歪な合成獣へと肉薄した。
握りしめた拳を、紫の色味が強い肝臓を覗かせる胴体に叩き込んだ。
土や砂利が絡まった毛皮を貫き、死体特有の脆くなった骨が折れ、乾燥した内臓の潰れた感触が、右拳の節々から流れてきた。
手応えはあった。しかし、鼻先にまで迫った腐臭を纏う合成獣には何ら変化が見えず、洞のような黒目を見ていると、霧の壁に拳を叩き込んだかのような空虚さを感じた。
「くっ!」
右拳を引き抜きながら、左足を軸に体を回転させる。勢いを殺さず、拳を引き抜いたその反動を右足に乗せ薙ぎ払った。
そこでようやく、合成獣は動きを見せた。制服の切れ端の引っかかったリグリザードの右前足を持ち上げ、オルソの放った回し蹴りの軌道に差し込んだ。
鱗が砕ける陶器の割れるような音と、骨が折れる音が重なりオルソの耳にそれらが飛び込み、右足からは不快な感触が登る。
防ごうとした。その思考は分かる。しかし、その後の思考を読み取ることが、オルソにはできなかった。
直角に曲がった自身の右足を気にした様子もなく、左前足を上から振り下ろしてきた。
冒険者時代から、たくさんの魔物と戦ってきた。そのどれとも異なる感覚に、オルソは困惑し思考が鈍った。
右足に激痛が走る。見れば、五本の赤線がふくらはぎから踵に渡って走っていた。
右足が地面についたと同時に、オルソは大きく飛び退く。合成獣は、その場から動かなかった。
「死体のくせに、随分と動きが速いのだな。——なっ」
右足を庇うように体を斜めに構えるオルソは、合成獣の次の行動に戦慄した。
自身の右前足を、左前足で掴むと捻り切っていた。緑の鱗が剥がれ落ち、真っ赤に染まった筋がブチブチと千切れる音がここまで届いた。
「何を、している……」
緑色の鱗が鈍く光っていた両腕が真っ赤に染まる。そんな状況でもなお、バングルディアの瞳には一切の感情が浮かばず、ただ一点を見つめ続けていた。
「お前は、本当にこの世の生物なのか?」
オルソは、自分が見ている現状が、実際に起こっていることなのか分からなくなっていた。本当は、あの爆発で気を失い、今夢をみているのではないか? そんなことを考え、即座に否定する。
肌に感じる風も、鼻先に絡みつく腐臭も、右足の痛みも、これが現実だとオルソに鋭く突きつける。
合成獣は右肘から先を失った体を揺らし、オルソから視線を外す。その体を動かし向かったのは、さっきまで貪っていた魔物の死体が積まれた山へだった。
山から飛び出した灰色の毛皮で覆われた右足。コボルトのものだと分かる。それを引っ掴んだ合成獣は、勢いよく引き抜いた。
「まさか、貴様……」
血が滴るコボルトの前足と、己の引きちぎった右足の断面を合わせて押し当てる。この後訪れるだろう結果を想像して、オルソの全身が粟立った。
グチャグチャと、種族の異なる魔物の血が混ざり合う。同じ色の異なる血が、畑を濡らしてぬかるみを作った。
力なく垂れ下がっていたコボルトの指先が痙攣を始め、確かな力で握り拳を作った。
——こいつ、自己修復が可能なのか。
種族の異なる肉体でも、つなぎ合わせることができる。そんな生物、この世のどこにも存在しないと思っていた。が、それは今、確かに目の前にいる。
「オ前、バルの匂イ、スる」
オルソの思考が停止した。
——今、喋ったのか? 魔物が? これは、本当に現実なのか?
戦闘中の思考。それに伴う筋肉の硬直。冒険を通して知っている。今の状況に陥った冒険者は、誰一人として生きてはいない事を。
気づけばオルソの若草色の瞳は、空を覆い隠した分厚い灰色の雲を捉えていた。




