表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/17

新緑の香りを纏う新たな友

 薬師通りの入り口に建てられた二つの工房、グレアド工房とベルヌーイ工房。この二つの工房は、同じ師から鍛冶を教わった弟子達が、それぞれに建てた店らしい。中で売られている武具はどれも一級品で、コーラルにいる冒険者達からの評判も高い。そんな名店の跡地を前に、グリッドとバベルは立っていた。

 工房内で唯一残されていたのは、ガラス張りの展示ブースのみで、店舗部分とその奥にあったであろう工房は完全に崩壊していた。そんな二つの廃屋を眺めるグリッドの背中を黙って眺めながら、バベルは目の前にいる男の強さを再認識した。

 既に、元の軽薄な調子に戻っていた。中央広場ではあんなに顔面蒼白で、怯えた子供のようだったのに。

「早く行きますよ。さっさと買い出しを済ませて、この街から出てってください」

「何だよ。折角お前用の武器を探してやってたのに」

「はい?」

 ガラス窓の向こうに飾られた武具は、どれも一級品だ。他の店舗に置かれた同系統の物とは、価格が一桁も二桁多い。以前、この通りをタンゴと一緒に探索しに来た時、どちらの工房にも置かれていた、何の変哲もない短剣一つで五〇〇アギオスしたことに、タンゴと二人で顎が外れそうになるほど驚いた記憶がある。普通の短剣であれば、どんなに高くても五アギオスぐらいだ。

「なんだ? お前も冒険者なら、短剣一本ってのは格好つかないだろ」

「格好つかなくて良いんですよ。僕は冒険者じゃないんですから」

 バベルはため息を吐きつつ、先に薬師通りへと足を踏み入れた。

『薬師通り』誰が最初に呼び始めたのかは不明だが、その名の通りここに一歩でも踏み入れれば、大通りに流れ出ていた金属の匂いは薄れ、代わりに森にでも入ったのかと錯覚する植物の匂いが鼻をくすぐってくる。それだけなら、その日は幸運な日だ。薬師の店員が作る薬品によっては、激臭を放つものもある。日によって調薬するものが違うのか、悪い時には通りに入れないほどの刺激臭が、大通りまで漏れ出ていることもある。

「今日は大丈夫か」

 今日の薬師通りに漂うのは、安定の植物らしい青臭さと土。そして、何かの骨らしき乾燥した匂いが混じっているだけだった。

「おいおい、俺を置いていくなよ。それに、冒険者じゃないってのはどう言うことだ?」

 背後からグリッドが入ってきた。その巨体が起こした風で、バベルの鼻腔にほんの少し、金属の匂いが混じり込んできた。

「そのままの意味ですよ。冒険者ライセンスを持ってないですし」

「そういや、お前は臨時だったな」後から入って来たグリッドが、薬師通りを先行する。「でも、今回の事で正規のライセンスを貰えたんだろ?」

「いえ、まだもらってないです。それに、もらう理由もないですから」

 レインとの約束も、あの夜の喧嘩で有耶無耶になった上にグリッドの話を聞いた今、もう必要だとは思えなくなっていた。

「何でだ? 持っていて損になる物じゃないだろ」

 グリッドはこちらを振り返り、心底不思議そうな顔をした。

「持っていたら面倒事が増えるでしょ。今みたいに」

 バベルがなりたいのは、こんな非日常を送る冒険者ではない。毎日土をいじり、太陽に照らされ汗を流す中で、たまに顔を掠めて行く風を心地良く感じる。そんな農家だ。

「ここです。ここが目的の素材屋です」

 工房から入って四つ目の店舗前で足を止めたバベルは、その看板を指差した。

『アルノード薬材店:一元様お断り』木材を切り出した断面に描かれた、手書き文字を読んだグリッドは、その顔を懐疑に歪めた。

 言いたいことはわかる。『一元様お断り』その文字が読めていないのかと言いたいのだろう。しかし、バベルはちゃんと文字が読めいる。その上で、この店を選んだ。

 ここ薬師通りには、魔法薬や治療薬。他には農薬など薬と名の付く物が数多く揃えられている。そして、それらを作るために必要な素材も、この通りには数店舗で取り扱っている。これは単に、薬師が素材の補充を楽するため。というだけのものではなく、個人での調薬をする者に向けているものでもある。そうでなければ、いつかコーラルから研究者以外に薬を作る事ができる人材がいなくなり、薬の物価が上昇してしまう。それを阻止する目的もあるらしい。

「らっしゃい……なんだ小僧か」

 扉を開き、薄暗い店内へ入るバベルのすぐ後ろから、恐々と入るグリッド。ガストン達相手のあの威勢を持っていた巨漢はどこに行ったのやら。

 暗い場所が、苦手なのだろうか。

「アルロド。今日は僕じゃなくて、この人に素材を売って欲しいんだ」

 後ろで隠れるように身を縮めていた軽薄男を前に引っ張り出し、カウンター向こうの老人にグリッドを出した。

 店内は、天井からぶら下がったランプ一つが薄ぼんやりと照らしているだけで、店主の老人の顔に大きな影を作っていた。店の大きさは屋台二つを縦に並べたぐらいで、左右と入り口横の壁に並べられた棚からは、さまざまな素材が陳列していた。こう薄暗い中で目的のものを探すのは大変だが、幸いなことにここの店主は、とても細かい性格をしている。植物、鉱石、牙爪、血脂に骨と、種類毎に棚に並べられている。その配置を一度覚えてしまえば、割とすぐに本命を見つけられる。

「何だお前さん、表の看板が見えなかったのかい?」

 店主のアルロド・アルノードの声が、グリッドの顔面を叩く。彼の湿り気を帯びた声は、不思議な威圧感があるが、バベルはその店主の顔をちゃんと見た事が一度もなかった。それは買い物においてさして重要なことではなく、必要なものを手に入れられる事ができれば十分と考えるバベルとは、相性の良いものだった。

「ああ、いやその、こいつに連れられて来ただけなんだけど……」

 完全に臆している軽薄男は、棚を物色しているバベルを視線で差しそう言ったが、この暗さだ。その視線は、アルロドには見えなかっただろう。

「ふんっ、そうかい。んで? 何が欲しいんだい?」

「もう全部見つけたよ。これをお願い」

 棚から引っ張り出した草を四束と種子四つ。棚から拾い上げた石ころが三個に小瓶に入れられた粘性の液体二本をカウンターに置いたバベルは、またグリッドの背中に回った。

 数瞬固まったグリッドが、慌ててポーチから硬貨の入った袋を取り出した。やはり、暗いところが苦手なのだろう。その手は細かく震えていた。

「ふむ、ミントオイルとスライムジェル各一本。セント・プラタゴニスの種子四つに、ラプライトと苔胆石。それにアズルコ石がそれぞれ一個。こっちは、バンナマリーとヘラトリスラスが二束だな」

 カウンターに置いた品を一つずつ見て、枯れ草の編み袋へと丁寧に入れて行くアルロドの作業を、二人は黙って眺めていた。

「合計で3アギオスと89ティオンだ」

「2アギオン13フェノス67ティオンだよ」

 会計を口にしたアルロドの言葉を、即座に叩き落とすバベルは、グリッドにその分を支払うよう促した。

 ここの店主は、こうして一元客を間引いて行く。本人曰く「目を持たない者には、ここの商品は過ぎた物だ」らしい。傲慢なのか、それが薬師に必要な素質なのか。農薬しか調薬できないバベルには、てんで分からなかった。

「えっと…………」

 グリッドは、どちらが正しいのかわからず、硬貨の詰まった袋を片手に首をふりふり、慌てふためいていた。

「ほら、アルロドが吹っかけるから」

「ふんっ! ちゃんと目を持っていれば、こんなことにはなっておらん」

「この人は農家でも医師でも、ましてや錬金術師でもないんだよ。冒険者」

「そうかいそうかい、冒険者かい。だったらこうなって当然だ。ほら、さっさと支払いな」

 編み袋をカウンターに置いたアルロドは、左手をグリッドの前に出し催促した。グリッドはどうしたものかとへどもどしていたが、バベルが肩を叩き、言っ多分だけ出せと首を振ったことで、ようやく動き出した。

「2アギオン13フェノス67ティオン。あい、確かに」

 掌の上に置かれた硬貨を、親指を数回弾いただけで勘定を終わらせたアルロドは、編み袋をこちらに差し出した。これで、賢者のお使いは完了である。

「あ、ありがとな」

 グリッドは、顔の見えない店主に頭を下げ、袋を引っ提げ店を後にした。

 バベルも出て行こうとしたその時、「小僧」とアルロドが声をかけて止めてきた。こうして退店時に止めて来るのは、なかなか珍しい事である。

「あの男、何者だ?」

「ただの冒険者だよ。英級の」

「そうかい。今度来たときは、何か買ってきな」

 返事をせずに、バベルは扉を閉めた。店主との関係は、この程度の雑さが丁度良い。互いが互いを縛らず、踏み込みすぎない。

「これで、買い物は終わりです。さっさと他のメンバーと合流して、出て行ってください」

 店の外で待っていた男に、バベルはそう言い、先に来た道を戻り始めた。

「なぁ、お前はこの後どうするんだ?」

 その背中を、グリッドが追いかけてくる。これで、本当にアウリス王国一の剣士なのだろうか。まるで大型犬だ。

「あなたには関係ない事じゃないですか。買い出しの手伝いはもう終わりましたし」

「そうだな。……じゃあ、これでさよならだ」

「はい。では、さようなら」

 大通りに出たグリッドは、簡単な別れを告げると、そのまま街の中心へと足を向けた。その背中がどことなく寂しげなのは、きっと街の住人体の冷ややかな眼差しのせいなのだろう。

「……僕も行くか」

  軽薄男の背中を見送ったバベルは、そのまま身を翻し、街の中心から離れるように歩き出した。


 街から徒歩三十分。緑が視界一面に広がる場所に、バベルは訪れていた。

 バベルの目的地は、コボルトの森の中心。フラクシスの棲家だった。

「ルシオン、いれば良いけど」

 タンゴの見つけた獣道を歩きながら、バベルは一人呟く。その声は誰に届けられるものでもなく、木々の葉擦れと混ざり、空気中へと溶け出した。森の中はとても静かで、鳥の囀りが一つも聞こえない。聞こえて来るのは、草木の擦れる音だけで、前に来た時よりもさらに寂れた空気が漂っていた。

 獣道の緩やかな登り道を、ただ先の景色を求めて歩く。あの時と違うのは、その歩きやすさだろうか。

 冒険者の探索において、最も重要なのは安全の確保だ。安全に探索する時間がなければ、未開の地に踏み入れたとしても、何の成果にもならない。だから冒険者は、複数で行動し各々の得意分野、もしくは才能からパーティの役割を決める。その短所として顕著に現れるのが、移動時間の著しい遅延だ。人数が増えれば増えるほど、移動にかかる時間も増える。これは、互いの報告の遅さが原因の一つなのだが、その他にも、最前線に置いた盾役の冒険者が原因の一端なっていることが多い。大盾を構えて歩く前衛は、その重量から素早い動きができず、また体力の消耗も激しい。そこに加え、狭い場所では身動きの取りにくさから、探索にも大きな制限が課されてしまう。その辺りをうまく捌くのが、できる冒険者パーティなのだろうが、バベルはそんな協調性をどこかに忘れてきてしまったらしい。だから、前回の探索よりも、今回の探索の方がスムーズに動ける。心身ともに、だ。

 警戒はしつつも報告の必要もなく、他の冒険者の体力を考えて休憩を取る必要もないこの状況。それがバベルの探索意欲を保ってくれていた。

「それにしても、何もいないな」

 獣道から、森のちょっとした広場に出たバベルは、周囲を改めて確認する。魔物も獣も見当たらないし、感じ取れない。どれも、巣に籠って息を潜めているようだ。もしくは、先日の騒動のせいで命を落としたか。

「あいつも、死んだのかな…………」

 ミルミクス。五年前にバベルへ釘を打ち込み、数日前に殺しにきた山羊頭の魔物。今なお残る釘に捕えられた獣もまた、こちらに嘲笑を向ける以外はおとなしくしている。この獣の正体も全くの謎だった。

 街にミルミクスが出たなんて話は聞かなかったが、そもそも様々な魔物が現れたのだ。その中で、的確にミルミクスだけを声に出す者もいないだろう。

 街に魔物が現れた。そして暴れて、多くの人の命が亡くなった。街で聞ける話など、これで纏められてしまうのだから。

 つまり、あの魔物の生死もまた不明のままだった。生きていれば、決着をつけなければ。なんて、そんな無謀な考えが頭の隅をよぎっては、バベルは頭を振った。

(魔物を殺すのは、冒険者の仕事だ)

 木々が立ち並ぶ小道を通り、円形に開かれた森の中心に到着した。木々が己の意思で丸く開いたようなこの場所は、深い盆地になっている。

 盆の底では巨大な古木が一本だけ、その枝葉を自由に広げて立ち、存在感を放っている。古木の足元からは根っこが盆地の縁まで伸び、地面を覆い隠していた。木の根の絨毯だ。

「ルシオンは、いないか」

 盆の縁に立ったバベルは奥底を覗き込み、フラクシスの古巣を見渡した。

 木の根につけられた幾つもの傷。あれはフラクシスの異なる足の痕跡だったのだろう。

「ダ、レダ」

 縁に立ったバベルの耳に、聞き覚えのない声が届いた。聞き取りににくいくぐもった声。

 言葉を変なところで区切り、木の洞に反響させれば、こんな声になるだろうか。

「ナン、ニノヨ、ウダ」

 またも聞こえた声は、古木の裏側から聞こえる。しかし、その姿は未だ確認できない。意思疎通ができるのならば、ルシオンのことを聞いてもいいのかもしれない。

(いや、それは危険だろ)

 脳内でもう一人のバベルが警告を発する。魔物の中には、人の言葉を使って誘き寄せる種類だっている。今声を飛ばしているこれも、その類かもしれない。

「キコエ、ヌカ」

 反響して届く声は、まるでアトオミケの人語に似た鳴き声に聞こえて、バベルの心を揺さぶってきた。 

 警戒を強めたバベルは縁から離れ、囲っている木立の影へと身を隠した。息を潜め、気配を殺す。しかし、いくら隠そうとも、無駄だと本能が告げている。今の森は、草木以外の音は聞こえない。この距離では、勘の良い魔物なら気づくだろう。

 木の影から、盆地の縁を覗く。ここからでは中は見えないが、まだ声の主は動いていない。そう思った。が、それは姿を現した。縁の向こうの盆地の中へと視線を向けていたバベルの背後に。一頭のバングルディアが立っていた。いや、バングルディアに似た何かが、背後に立っていた。後ろ足のみで立っているその体躯は軽く二メートルを超えていて、地面に突き立った後ろ足は、鹿の蹄などではなく鳥の鉤爪をしていた。

 前足の二本に蹄は残っているが、その内側にトカゲのような鱗の貼られた五指が生えている。そして最も不気味に感じたその頭部。ヒビだらけの鹿の顔はお面を感じさせ、生を感じない。目が虚だからなのか、顔面に血が通っているようには見えないからなのか。

 それとも、脇腹から伸びた若木が、全てそう見せているのかもしれない。

 植物寄生型の魔物。しかし、魔物を部位ごとに繋ぐ特性など、バベルは知らない。ただわかることは、この魔物は知能が高いということだけだ。なんせ、人語を理解しているのだから。

 木の陰から動けず中途半端に振り返ったバベルを見下ろすナニかは、一、二回喉を鳴らした。

「オ、マエ、ナニモ、ナニモノ、ナニヨウ、ダ?」

 言葉の区切りや文脈に違和感が残るが、フラクシスよりも直接的な言い回しは、バベルの耳でも簡単に聞き取る事ができた。

(この森に、ここまで高知能の魔物が残っていたとは)

 冷や汗の止まらないバベルの体が、ぶるりと森全体から流れてきた風に煽られ震えた。

 「ナニ、ナニシ、キタ?」

 お面のような鹿の頭に取り付けられた虚な瞳は、こちらを向いてはいないが、それ以外は全てこちらに向けられている。そう感じた。それに、何やら物騒なこと雰囲気を纏っていた。それが殺気だとバベルは気づいていたが、気づかないふりをして、目の前のナニかを凝視した。

「こっちには、戦う意志は、ない」

 両手を頭の高さに上げたバベルは、ゆっくり木の影から、盆地の縁へと下がるように動いた。

 話が通じるのであれば、戦闘を行う必要はないかも知れない。

「オマ、エハ、ナカハイッテキタ、コトリ、カ?」

 小鳥? なんの話だ? やはり、魔物の舌の構造では、そう簡単に人語を扱えないのだろうか。それでも、ここまで聞き取れること自体、凄いことだ。

「ココ、ナンノヨウ、コトリ」

 ナニかは敵意を全く見せない。端にバベルが弱すぎて、いつでも殺せると考えているだけか、それとも別の思惑があるのか。前者の方が、可能性としては高いと思えるが、次の寄生先を無傷で捕らえたい。そんな考えもあるのではないかと、バベルは考え、この場をどう凌ぐかと思考の回転を速めた。

「ルシオン、えっと、耳が長い、エルフ、魔法族、人の形をした……に会いにきた」

 ルシオンと名前で通じるかわからないし、エルフなどもっと分からないだろう。そもそも、目の前の魔物とルシオンに、交流があるのかも不明だ。

 バベルは相手に伝わる言葉をいくつも並べ、ルシオンについて聞いた。鹿のお面は、盆地の方へと歪な体を向けて言った。

「コッチ、ダ」

 そう言った魔物は姿を揺らがせ、盆地の底へと姿を消した。

 慌てて縁まで駆け寄ったバベルだったが、底でこちらを見上げている虚な目と視線が絡み、少しの間固まってしまった。

 盆地は深い。しかし、飛び降りられない高さではない。登ってくるのが少し面倒なだけだ。それ以上に今危険なのは、降りた瞬間に殺されないかの方だろう。ここはあいつの棲家。つまり今、バベルはあいつの家へ侵入しようとしている。と、いうか既にしている。

「行くしかないか」

 下で待っているあの魔物を放置して帰れるわけがない。下手すれば、背中を見せた瞬間に腹に穴が開く。

「よっ……た、たっか——!」

 重力に従い、両足を盆地の縁から離したバベルは、重力によって盆地の奥底へと運ばれる。その高さは、集会所の屋上を二倍にした位で、下から拭く逆風は、バベルの不安感を煽るように上へ上へと登って行った。

「——っ! 生きてる……」

 予想外に木の根の絨毯が柔らかく、着地したバベルの足の形に少し沈み、衝撃を和らげてくれた。しかし、着地の想定外の事態に、バベルは体勢を崩して危うく顔面も木の根に突き刺すところだった。足を持ち上げると、ゆっくりと元の形に戻って行く。木の根を痛めたかと思っただけに、これには安心した。

「コッチ、ダ」

 ようやくか、と言った様子を見せナニかは、右手(右前脚といったほうがいいのか?)を振り、先を進む。その背中は無防備だった。ここでアルマを引き抜き突き刺せれば殺せるかも知れない。そんなことはしたくないが、目の前の魔物がいつこちらに牙を剥くかわからない今、こちらも無防備とは行かなかった。

「タタカウ、シナイ、キナイ」

 古木を目指して歩く魔物は、こちらへ視線を向ける事なくそう言い放った。人間だけでなく、魔物にもバレるほど顔に出ているのだろうか。

「ねぇ、君はその、魔物なの?」

 無言では気まずいバベルは口を開き、脳に任せた言葉を紡いだ。

 自分で考えた言葉の羅列ではなく、無意識に引っ張り出した言葉は、ちゃんとした質問の形を取っていた。とても幼稚的な質問だ。

「ソウ、キイテ、イル」

「そうなんだ。じゃあ、名前は?」

「ナマ、エ?」

 虚な瞳が、こちらを捉えた。微かに、首を傾げているようにも見える。

 そんな仕草までできるのか。勿論、これはバベルの勘違いかも知れないが。

「名前。えっと、君を表す……言葉?」

 名前の意味を聞かれるのも、また難しかった。人間の文化では当たり前だが、魔物もそうだと考えるのは、良くないものだ。

「僕はバベル。バベル・アルカナム。ルシオンは、ルシオン・ラビフット……君の名前は?」

「ルシオン、クレタ。ハ……ハ、ゲト——ゲテ……ゲテン…………」正面を向き直った魔物は、そのまま歩き出した。「ハル、ハーゲル……ハー」

 なかなか発音が難しいらしく、何度も言葉を詰まらせては言い直すを繰り返していた。

「ハゲテン? ハゲトン?」

 バベルが聞き取った言葉を繋げ、幾つかの名前モドキを列挙する。そのどれもに、魔物は首を横に振る。何かが足りていないのか、単に言葉が間違っているのか。

「ハ、ハーゲン……テ、ト…………テ、——イ、ウ」

「………………ハーゲンティ?」

 それまで口にした、どの言葉よりも名前らしいものが出てきた。発したものの中で、一番口元が心地良く、新緑の香りを纏ったハーブティを口に含んだかのような清涼感があった。

「ハ、ハー……ゲン、テ、テイ……」

 どうやら、まだ発音が難しいらしい。振り返った首が縦に頷かれながら、言葉を詰まらせていた。

「ハーゲンティか、いい名前だね」

「ナマエ、イイ?」

 首を傾げるハーゲンティは、まるで子供だった。さっきの考えが、後者の気がしてきた。別の思惑。それは、子供ならではの好奇心。それだけのことで、こちらに近づいてきたのかもしれない。

「ルシオンは、向こうに、いるの?」

 まるで、幼子に話しかけるような口調に苦笑いが止まらないバベルだったが、ハーゲンティは気にした様子を見せず、首を縦に振った。背丈は向こうの方が高いのに、精神年齢はこちらが上とは、少し戸惑ってしまう。木の根の絨毯を隣に立って歩くバベルは、ハーゲンティの発音練習に付き合うことにした。盆地は上から見た時にはそう見えなかったが、結構広かった。古木までたどり着くのに、そこそこかかりそうだ。

「バベル」

「バル」

「違う。バ・べ・ル」

 一言一言区切りつつ、バベルは自分を指差す。まずは、短い言葉で詰まらずに話せるようにしようとしたのだが、

「バル」

 ダメらしい。

「ルシオン」

「ルシ、オン」

 こちらは問題ない。何の違いだろう。

「ハーゲンティ」

 鹿のお面を指差し、バベルはその名を呼ぶ。

「ハ、ハーゲ、ゲン……」

「ハー・ゲン・ティ」

「テイ……ト、ウ……………テ、ト」

『ティ』の発音が難しいのか、上手く言葉にできても『ハーゲン』までで詰まってしまう。 

「ティ」

「テイ?」

「ティ」

「テ、ト……イ、チ?」

「難しいか」

「ムズ、カシイ」

「難しい」

「ムズカシイ」

 他の言葉はそんなに難しくないようで、一度正しく発音を聴かせれば、大体は話せるようになった。苦手なのは拗音の辺りらしい。

「バベル」

「バル」

 後は、バベルの名前が何故か、略される事ぐらいだ。

「ツイタ。コノウシロ」

 随分と練習していた気がする。それは、流暢に話せるようになったハーゲンティを見て思ったことだ。

(それにしても。上から見た時と、大きさが変わってないか、ここ)

 古木の大きさも、盆地の縁から見た時よりも巨大で、さらに年季を感じる。樹皮の質感なのか、色からなのか、それとも、この不思議な空間に佇んでいるが故なのか、バベルには判断が付かなかった。

 「ココ」

 ハーゲンティが蜥蜴のような五指から人差し指を伸ばして差したのは、古木をぐるりと回った裏手の木の根の一部だった。

 ここにルシオンがいる? 

 唐突に不安が背筋を駆け上って行った。これで木の根に絡められたルシオンが出てきらどうしよう。ハーゲンティは、先程言っていた。『木の養分』と。彼もそうなってしまったのかもしれない。そんな妄想が、脳の中で広げられて行った。

 一人額に汗を浮かべるバベルは、のっそりとハーゲンティが指差す木の根を覗き込んだ。

 木の根の絨毯は、根が幾重にも重なってできている。しかし、そこだけは触れてはいけないとでも言うように避けて伸ばされていて、土肌を露出させていた。

 何もない。茶色の木の根が避けて見せているのは、根より一段明度を落とした、暗めの茶色の土だけだった。そこにルシオンは居ない。

 まさか、土の中?

 不安が大きくなり、引き攣った顔をハーゲンティへ向けた。

「トビ、オリル」

 ハーゲンティはそう言うと、鳥の鉤爪を持った後ろ足で木の根を蹴ると、土肌を見せる隙間に着地した。と思ったが、実際にはハーゲンティの鳥足は、土に触れるその瞬間、土が揺れ動きその中に足がスッと入って消えた。まるで泥に足を突っ込んだようで、ハーゲンティはそのまま身を沈めて行った。

「ツイテ、キテ」そう言ったハーゲンティは、完全に土に飲み込まれてしまった。飲み込んだ土肌を見下ろすと、泥沼のようにその表面を揺らして、そして、元の地面の姿へと戻った。

「ついてこいって…………」

 覗き込んだ体勢で固まったバベルは、そのまま瞬きを何度か繰り返した。何も変化はなく、土肌はこちらを待っているように静寂を向けていた。

「よし、行くか。 …………行くぞ」

 絨毯に張り付いた足を引き剥がしたバベルは、その方足を土肌に押し当てた。

 音にするなら、ドプンッ! だろうか。そんな音が聞こえそうなくらいに、土を宙へ撒き散らして入ったバベルの片足は、何の感覚もせず空に投げ出したような錯覚を覚えた。その足を、徐々に土の中へと埋めて行く。膝くらいまで沈んだ所で、もう片方の足も入れて、そちらも足首まで見えなくなった所で、覚悟を決めた。

「ほいっ!」

 軽い掛け声と共に、バベルはその身を木の根から離した。

 全身が沈む土面はハーゲンティの時のように、沼と化してその身をぐねぐね揺らした。

「ルシオン、バル、キタ」

 無意識に目を瞑っていた。その事に気がついたのは、真っ暗闇の中でハーゲンティの声が聞こえて来たからだった。

「……ここは、ルシオンの家?」

 閉じた瞼を開けて見渡した世界は、記憶に残っている場所だった。ミルミクスに負け、目を覚ましたルシオンの木造豪邸宅だ。

「いらっしゃいハーゲンティ。バルとは、誰のことを言っているんだ?」

 男性と女性の声を混ぜたような不思議な声が聞こえた。ルシオンの声だ。

 声のする方へと行こうとして、バベルはその体を前へつんのめさせた。思わず「うっ!」と短い悲鳴を上げ、前のめりに倒れそうになる。自分の体がどうなっているのか、見下ろしてようやっと気がついた。

 バベルの体は、木の根に絡め取られていた。

「うわっ!」

 ルシオンの家が見えていた視界を左右に移すと、木の根が視界を塞いでいた。まるでここは、木の根の棺桶だ。幸い、正面は空いている。バベル一人くらいならば通れる隙間だ。ただ、その隙間を埋めようとするかのように、木の根の一本が、横に渡ってバベルの腹を巻き取るように捩れていた。

 バベルは体を横にして、木の根が絡まり作られた天然の棺桶から、その身を引っ張り出した。

「これは…………凄いな」

 自分が入っていたのは、一本の木の下だった。バベルが知っている木は根っこを地面に入れ、そこから養分や水分を吸収する。しかし、棺桶をしていたこの木は、根の張る力だけで、その身を空中へと持ち上げていた。その姿はなかなか不恰好で、ノッポ男が足を大きく開いて踏ん張っているようにも見えて、バベルは一人、静かに顔を引き攣らせた。

「バベル!」

 声が近くで響く。振り返れば、ルシオンがこちらを見ていた。マゼンタの瞳が、バベルを捉えて大きく見開かれていた。

 二日前に初めて会ったはずなのに、何故か懐かしく感じた。ルシオンとの再会に、嬉しさが込み上げて来た。

「ルシオン! 無事で良かった」

 棺桶の樹木から離れたバベルは、ルシオンの方へと駆け寄った。

「なぜ、ここにいるんだ?」

 当然の疑問だ。

「ルシオンに聞きたい事があって、その、あの子の事とかも」

 ルシオンの肩の向こう、ぼうっと佇むハーゲンティをバベルは視線で示した。

「そうだな。とにかく、中に入りなさい。ココアでも淹れよう」

 そう言ったルシオンは、急な来客を歓迎してくれた。家の中に連れられるまで我慢ができなかったバベルは、ルシオンと別れた後の事を細かく語った。その話を、ルシオンは黙って静かに聞いてくれた。

 話に興味があるのか、はたまた言語学習の為か、ハーゲンティもバベルの後ろにピッタリくっ付き、バベルの発した言葉を何度も反芻して家の中へと鳥足を上げた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ