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空と空の狭間で

 見知らぬ場所に立っていた。見上げれば空、見下ろしても空が広がる見たこともない不思議な空間。上下の空の違いは、ただ一つ。足を動かすと、足下の空は水面でのそれのように波紋が広がる。

 水は透明で掬い上げることはできず、上に浮かぶ空を反射しているのか、それとも水の中を自分が反転して立っているのか、波紋を広げ続けながら空を映していた。

 空はどちらも雲一つ無い快晴で、陽光が照りつけてくる。が、不思議と暑くはなかった。

「おや、お客とは珍しい」

 空の世界に一人佇むバベルの耳に、聞き馴染みのない声が届いた。真夏の石壁の外から流れてくる涼風のような声だった。

「誰?」

 バベルは周囲を見渡したが、この世界にはバベル以外にはいないらしく、声はどこにも届かず、空と空の間で溶けてしまった。

「誰かいるの?」

 もう一度声を飛ばす。が、やはりバベルの声はどこにも届かずに空気に溶け込んだ。

「見えていないのかい?」謎の声が、バベルの目と鼻の先から発せられた気がした。「ふむ。まだ継承していないのか」

 続く声も目の前で発せられた。と思うが、静かな世界だ。反響が大きく、正確な位置がわからない。目の前から聞こえた気がしたが、もっと遠くから飛んできたようにも思える。

「近くにいるんですか?」

 周囲をぐるぐる回りながら、バベルは声の主を探す。

「どこにいるんです!」

 孤独に耐えきれなくなったバベルは、悲鳴にも近い声を出した。それすら虚しく、バベルは空を仰いだ。頭上に広がる方の空を。

「すまない。君にはまだ、僕が見えないらしい」

 声の主は心底申し訳なさそな声を、広い空間に響かせた。

「ここは本来、君がこられる場所ではないんだ」

 続く言葉の意味が理解できず、バベルは叫んだ。「あなたは誰です! ここはどこなんですか!」

「君が本当の継承者となれば、いやでも知ることになるよ」

 突如、バベルは両足の力が抜けるのを感じた。バシャリと、掬うことの出来ない水面へ仰向けに倒れ込んだ。痛みは無かった。水飛沫もなかった。冷たそうだと感じた透明な水に、温度もなかった。

「時間だね。こう言うのは不謹慎かもだけど……またね。空の目に選ばれた、枠外の若人(わこうど)君」

 姿の見えない誰かにそう言われたのを最後に、バベルは水中に体を引っ張り込まれた。見下ろしていた時にはどこまでも突き抜ける空の青さを持っていたはずが、引き込まれて見渡せば、黒一色の真っ暗な世界へと変貌し、バベルの体は、沈み続けるこの世界に放り出された。

 短時間で幾つもの世界を見せられると、自然と夢だとわかるようになるらしい。そうなると、さっきまでの空色の一幕も夢だったのでは? と思う自分もいた。しかし、夢にしては聞き馴染みのない声だった。タンゴに似ていた気がしたが、あの友人を元に作った、夢の中の住人なのかもしれない。

 この世界も、きっともう時期終わる。考え事は多々あれど、バベルの脳にそれだけは明確に弾き出されていた。

 きっとタンゴが起こしてくれる。そして元の世界に戻り、がっかりするんだろう。崩れた建物、あちこちで立ち上る炎と悲鳴と怒号と黒煙。目の前には黒い鎧を纏った紫色の蠍。

 あの爆発は何だったんだ?

 思考を巡らせるバベルは、最後に見た白光と爆発を思い出した。

 最初に爆発した時も、白光はあった。次いで起きたのが、魔物の出現だ。この二つが無関係であるはずはない。恐らく魔物の出現の前兆のようなものと考えて良いだろう。だとしたら、ここで意識を失っているのは危険なのではなかろうか。

 気を失う直前、バベルは確かに感じた。周囲の石畳を全て吹き飛ばした衝撃を。あれは魔物だったのではないだろうか。とても大きな魔物。その考えが頭をよぎり、バベルは体を起そうと腕を大きく振ってみた。

 夢の覚め方など全く知らないバベルは、遮二無二腕を振り回し、足をばたつかせた。出ない叫び声を上げ、真っ暗な世界でのたうち回った。


 全身に響く衝撃、開いた目の先に敷かれた木張の天井。この光景を、前にも見た気がする。そこと違う点としては、外が明るく騒がしいことだろうか。

 上体を起こし、バベルはベットから落ちた事を理解する。夢の中で暴れたのが、現実の体もそうしたのだろう。ベッドのシーツが、牛が口を開いて伸ばしてきた舌のように、だらしなく床まで垂れていた。

「目、覚めた?」

 歳の近い女性の声が耳に届いた。

 バベルはベットに体重を預けながら立ち上がり、声のした方へと顔を向けた。部屋の扉の前、そこにレインが立っていた。両手に桶を抱える彼女の顔には、疲労が濃く浮かんでいて、今にも倒れそうな病人の風貌をしていた。

「レイン、無事だったんだ」

 昨夜からのこれとで、二人の間には気まずい空気が漂う。

 そもそも、ここはどこなのか。何故、屋外にいたバベルが、どこかの天井を眺めていたのか。聞かなければいけない事がたくさんある。しかし、バベルの口は、脳に浮かべた言葉を口の中でモゴモゴと暴れさせるだけで、口の外へは出せなかった。

「下で、タンゴ君が待ってるよ」

「あぁ、うん……ここって」

 どこ? そう聞こうとしたが、言葉が詰まり、それ以上は何も出てこなかった。

「管理局。知ってるでしょ。昔忍び込もうとした、馬車小屋の隣だよ」

 レインはそう言うと、先に一人部屋を後にした。

 一人残されたバベルは、窓の外を見る。空の茜色に負けじと、地上からも明々と光が伸びていた。その周囲からは人と人ならざる者の声が混ざり合い、大変賑わっている。

 祭りの後夜祭だろうか。そんな馬鹿げた考えが頭をよぎり、思考が正常に戻ってきたことを感じた。

 

 大通りに面した建物が、よくて半壊状態ばかりが並ぶ中で、ここまで綺麗に残っている幸運にバベルは少し驚いた。

(運、か……)

 少年時代の自分が嘲笑を向けてくる。まるで、それが栄養であるかのように、獣は釘の刺さった胴体をバタバダ動かした。

 胸がズキズキと痛む。これは、戦闘で負った傷のせいだろう。決して、トラウマと胸の中の得体の知れない獣のせいではないと、繰り返し繰り返し口内で呟いた。

「……行くか」

 暫くうずくまってから、バベルは部屋を出た。


 レインの言ったとおり、タンゴは一階の入り口付近のソファーでくつろいでいた。この状況で、外に飛び出さないことに少し違和感を覚えた。昼間の喧騒と比べれば落ち着いたと言っても、それでも外では未だ魔物が住民を襲っているらしき声が聞こえる。突き刺すような悲鳴や鳴き声が飛んでくる。大通りに面しているからなのか、それらの声が大きくはっきり聞こえる。

「タンゴ、何やってるの?」

 四人掛けソファーで寝そべったタンゴが、顔だけをこちらに向ける。

「おぉ、バベル。目が覚めたんだな」見るからに元気がない。「聞こえるだろ、外の悲鳴」

「うん、まだ魔物がいるみたいだね」

 こんなに萎れたタンゴを見るのは、冒険者ライセンスの発行禁止を言い渡された時以来だ。あの時も、こうして脱力状態になっていた。「俺は、もう駄目だぁ」なんて言って、長時間寝そべったまま。それから暫くしてから、タンゴはバベルへと冒険者になったらしたい事を語ってくれた。

「どうしたの?」

 タンゴが、今回そうなった理由を聞く。

「外に行くなってさ」

「危険だからね」

「聞こえるだろ、あの悲鳴。俺が行けば」

「助けられた?」タンゴの言葉を先回りして、バベルは口にする。「タンゴ、念願のライセンス発行にのぼせ過ぎだよ」

 ため息混じりのバベルの言葉に、タンゴは『不愉快』と書いた顔だけを向けた。しかし、バベルはそれを無視して続ける。タンゴの気持ちなど、この際関係無いのだから。伝えなければいけない事は、しっかり伝える。

「冒険者ライセンスを貰ったからって、僕らは英雄になったわけじゃないんだよ」

「そんな事!」ソファーから飛び起きたタンゴが、こちらへ睨みを飛ばす。「わかってるよ」

 見れば、タンゴの体の至る所に包帯が巻かれていた。森でもそうだったように、今回も右腕を吊っている。骨までいっているようだ。

「そんな体じゃ、餌になるだけだよ」

 バベルの正論など、とっくにタンゴは自力で自分の頭から引き出している。だから、管理局のソファーの上で悔しそうにうずくまっていたのだろう。他人の言いつけを守ることのない友人が、律儀に守っている。それだけでバベルは、そこまでを理解していた。

「ガス爺達が、戻ってる」

 ソファーに座り直したタンゴの声が、バベルの耳を打つ。

 ガストン達が森から戻った。この事実は、この街の騒動を早くに収めてくれる何よりの吉報だった。だと言うのに、タンゴの顔は依然暗いままだ。一緒に戦いたかった。といったことなのだろうか。

「ここの談話室にいる」

 続いたタンゴの言葉に、バベルは数秒口を開いて固まった。

 ガストン達がいるのは街中ではなく、この木張りの古臭い建物の中?

「えっ? だって、まだ魔物が街に——」

「勇者一行と、会議しているのよ」受付カウンターから姿を見せたレインが、情報を補完してくれた。しかしそれによって、バベルの脳は完全に思考を停止した。

 勇者一行とガストン達が戻っていながら、集まった場所が管理局の談話室。魔物を相手にしているとは思えない。

「……………あり得ない」

 この街を何よりも大事にしているガストンが、この騒動を無視して部屋に引き篭もっているなど、考えられなかった。

「談話室って、どこ?」

 バベルの質問は、レインの想定通りだったのか、カウンターの横手に伸びる廊下を指差した。

「突き当たりを左に曲がった、二つ目の部屋」

 それを聞いたバベルは、廊下を走る勢いで進んだ。

 ガストン達が街を守らないことに腹が立ったわけではない。いつものガストンらしからぬ行動に、バベルはガストンの身を案じたのだ。

(ガストン、無事に帰ってきたんだよね) 

 レインの言っていた部屋の前まで来たバベルは、中の様子を確認した。中で一体どんな話をしてるのか、他に誰がいるのか、それらを確認しなけらばならなかった。

「——から、何度も言っているように魔王の仕業なのです」

 声が聞こえる。英雄の一人。あの眼鏡——ウィリアムだ。

 今更ながらに、バベルが何故ウィリアムを毛嫌いしているのかは、自分でもわかっていなかった。ただただ不快。そう感じるだけだ。しかし、そんな彼は丁度、バベルの知りたかった事について、話しだしているようだった。

 街に、魔物が現れた理由。

 ガストンに会うつもりでここまで来たバベルだったが、予定を急遽変更しこれ幸いと、気配を殺して壁と同化した。

「では、あなた方は魔王を取り逃した。と?」

 オルソの声だ。そこには怒りが込められ、部屋の外にいるバベルにまで、その言葉に乗せられた威圧が届いた。こんなに怒ったオルソを、バベルは知らない。

「それは、街の安全を第一に考えた事でして——」

「六〇〇〇人以上の負傷者が出ましたが、一体どこの街の安全を考えておられたのでしょうかな?」

 コーラルには現在、一万と二千人余が住んでいたはずだ。その約半分が怪我、もしくは死んだ。確かに、街を大切にしているオルソが怒るのも頷ける事なのかもしれない。しかし……。

「そもそも、お主らはずっと森におったろうが。何が街の安全が第一だ? 森で縮こまっとったんだろう。えぇ?」

 ヨーギルも怒り心頭のようで、いつもの穏やかな声色はどこへやら。この言葉を発したのは、あの農夫では無いと感じた。一人の冒険者の声だった。

「んだと! 俺たちは、森の主を相手にしてたんだぞ! そのおかげで、街への被害が減ったと言ってもいい!」

 若い男の声、あの軽薄そうな男だろうか。森の主と戦っていた。その言葉に、バベルは胸の中に冷水を流し込まれた気分だった。しかし、ガストンの放った次の言葉で、その冷水も急速に温度を下げて氷となって固まった。

「その主の死体が、冒険者区画の一画で横になっているのは何故かの?」

 恐らく談話室の中で、唯一冷静な者はガストンだけだろう。いつもの好々爺然とした雰囲気こそ失っているものの、冷静な声が耳に届く。だからこそ、ガストンの言った事が冗談などでは無いと、バベルは理解した。

 信じたくはない。フラクシスが死んだ。そんなの、何かの間違いだ。しかし、バベルには思い当たる節があった。

 ガストンは、「冒険者区画の一画で横になっている」と言った。では、気を失う前に感じたあの衝撃は? 人影のようなあの者らは?

 考えたくない現実から目を逸らそうと、バベルは目を閉じた。胸がズキズキと痛む。戦闘で負った傷とは別の何か。それが胸の中で、獣と同居を始めたように感じる。

「そうだ! 危うくうちの孫が、ペシャンコになる所だった!」

「そのお孫さんと街長。あなたのお子さんを安全なこの場所まで運んだのは、私達です」

 ウィリアムが微笑んだのが伝わってきた。バベルの胸が、一層強く痛んだ。

 あれに、助けられた。

 バベルは、今までの人生で屈辱だと思ったことなどなかった。だから、今この感情がそれだと気付くのに時間がかかった。

「率直に申しまして、今回の町の被害は我々のせいではありません。この状況を作り出した魔王と、防衛意識を怠ったこの町の皆さんではないでしょうか?」

「何じゃと!」

「ふむ」

「それは! いくら勇者御一行といえど、聞き逃して良い物ではありませんぞ!」

 ヨーギルとオルソは、既に沸点を超えていた。いつ殴り合いになってもおかしくない。それに対して、ガストンは変わらず静かに、一人何かを考えているようだった。

「確かに、町の防衛を怠った我々にも、責任はありましょう」ガストンはゆっくりと言い放つ。「しかし、今回の一件を無かったことにしようとするのは、受け入れられぬ話ですな」

 これに反論しようと口を開いたのは、あの眼鏡だった。

「いえ、私共も今回の被害を重く——」

「即刻、この街を去って頂きたい。そちらの要件も終わった事ですしの」

 ウィリアムの話を遮り、ガストンはそう告げた。その声には、狩人が見せる鋭さが、垣間見えた気がした。

「おいおい爺さん。そりゃ随分と都合がいい話じゃねぇか? 俺達はこの街を守ってやったんだぞ!」

 軽薄男が、ガストンに噛み付いた。

 ここまで話を聞いたバベルには、一つの疑問が産まれていた。勇者一行からしたら、仕事をして文句を言われているこの状況。苛立ちもするだろう。しかし、そんな事ぐらいオルソもヨーギルも分かっている。その上でこんなに怒っているのには、何か別の理由があるのではないだろうか?

 今回のこの会議には、街の騒動の原因となった何かがある気がしてならなかった。

「守った? 壊したの間違いじゃろうが! よくも、そんなでかい顔ができたもんじゃ!」

 ヨーギルの怒声が廊下まで震わせた。よほど頭に来ているらしい。

 まぁ、危うく孫が死にかけたのだから、当然と言えば当然だが、その物言いが気になった。

 壊した? 勇者達が? 一体何を持ってそう言っているのだろう。

「爺ちゃんすげぇキレてんな」タンゴが静かに言った。

 いつから隣にいたのだろう。全く気づかなかった。

 タンゴも、バベルの隣で気配を殺している。この辺りは、学校を抜け出すために磨いた自信のある技能だった。

 学校長以外には通じる、多分。

「そりゃ街をあんだけ壊されれば当然でしょ」

 タンゴも死にかけたわけだし。と、口にせずに付け加えた。

「でも、あの人達は森の主と戦ってたんだろ? だったらしょうがなく無いか?」

 英雄に憧れる少年には、現実が見えていないのか。それともこの話の中での違和感に気づいていないのか。恐らく後者だろう。

「それだけじゃ無いとは思わない?」

「は?」

 やっぱり、分かっていない。

「ガストン達が怒ってるのは、勇者達の行動に何かあったからだ。それも、街を危険に陥れたような何かが。まぁ、それが何かはわからないけど」

「……………」

 タンゴは押し黙り、何か考え込み始めた。

 気付けば、談話室内も静かになっていた。もう会議も終了、という事だろうか。このままでは見つかってしまうし、受付まで戻った方がいいだろう。

「なぁ、やっぱりバベルは、ガス爺達の言い分が正しいと思うのか?」

 隣で俯いたままのタンゴが聞いてきた。

 この質問に、一体何の意味があるのか。タンゴの考えている事はいつだってこちらの想像の斜め上を行く。そもそも、考えて行動するタイプでもない。

「別にどっちでもないよ。僕からすれば、森に攻め入った時点であの勇者パーティとコーラルの住民全員が共犯なんだから」

 フラクシスは、魔王の仲間などではなかった。それを知らずに、勇者達とこの街の冒険者は森を荒らした。どっちもどっちだ。

「共犯?」

「魔王は、森の主を仲間になんてしてなかったんだよ」

「そんな事、あるわけないだろ!」

 タンゴの大声に、談話室内で何かが倒れた音が聞こえた。次いで、どたどたと扉の方に足音が近づいてくる。

 ——バレた。そう思ったバベルは、ぼんやり足音を聞きながら、他人事のように現状を眺めていた。

 ガチャッ! と過剰な力で扉が開かれた。そこからヌッと、ヨーギルの顔が飛び出してきた。つぶらな瞳が、パチパチリと何度か閉じて開いてを繰り返し、バベルとタンゴを交互に見つめると、「タンゴ! それにバベルも、こんな所で何しちょる!」と叫んだ。

「バベル」

 ヨーギルの声に、ガストンが声を重ねて部屋から飛び出してきた。

「もう会議は良いの?」

 盗み聞きをしていたことなど悪びれた様子を見せずに、バベルはガストンに聞く。尤も、部屋の中はこれ以上話会議を続ける雰囲気では無さそうだった。

 部屋の中で、賢者が床に尻餅をついていた。さっきの物音は、彼女が椅子から落ちた音だったらしい。大声にびっくりしたと、小さなその顔が物語っていた。

「ああ、丁度終わった所じゃ。それよりも、体は大丈夫かの?」

 ガストンの心配が、胸の痛みを和らげてくれた。 

「うん、大丈夫。ガストンも無事で良かった」

 バベルはそう言ってから、ふと思い出した。今朝、言えなかった言葉があった。それは、この状況では使わない言葉だが、その反対の言葉をバベルは口にした。

「おかえりなさい」

 ガストンは目を見開いた。と思ったら、すぐにやんわりと目尻を緩め微笑んだ。

「うむ、ただいま」

 ガストンも嬉しそうに返して来れた。ここでそのままお開きであれば、どんなに良かった事か。ガストンとの会話を最後に気分よく帰れたのに、不快な声がその気分を台無しにしてきた。

「君のことは聞いていますよ。話によると、あのシックネススコーピオンを虫の息まで追い込んだとか?」

 眼鏡が眼鏡を指で押し上げ、鼻で笑ってきた。向こうもこちらを嫌っているようだ。有り難い。

「だったら何です? 別にあなた方のように、殺しを誇らしげに語る趣味はありませんが?」

 軽薄男が睨んで来た。だが不思議と怖く無い。笑顔で流せる程度だった。

「私達を犯罪者と同類であるかのように扱うのは、辞めて頂きたい。私達は、人類を救うためここにいるのですから」

「そうですか、ご立派な役目ですね」それだけ告げてさっさと帰ろうとしたが、バベルは一言付け足した。「あぁでも、犯罪者ならいるじゃないですか。貴族の内臓を道に広げた人が」

 バベルのこの一言は、彼には禁句だったらしい。眼鏡の奥の瞳が歪み、腹を剣で刺し抉られたような表情を見せた。

 言われた張本人は、どこ吹く風とこちらの会話を完全に無視していた。ここで殴り合いになれば勝ち目がなかっただけに、これはありがたかった。

「勇者様方は、今日の戦闘でお疲れの事じゃろう。今夜はここに泊まっていきなされ」

 バベルとウィリアムの間に立ったガストンはそう言うと、バベルの肩に腕を回し、管理局のロビーへと体の向きを変えてきた。

「ほいじゃ、儂らも帰るとしようや。なぁタンゴ」背後で、ヨーギルの陽気な声が聞こえた。

 肩越しにタンゴを見やれば、その顔が「さっきの話を詳しく」と聞いてきたが、バベルはそれを無視した。

(疲れたし、帰ろう)

 自分の家がどうなっているかはわからなかったが、ここよりはマシだろう。それに、なくなっていれば、ガストンの部屋にお邪魔すれば良い。

 老人の骨張った腕に抱かれて管理局の出入り口まで戻ったバベルは、そこで立ち止まった。ガストンが立ち止まり、肩から腕を下ろしたからだ。

「わしは、ちと彼らの部屋を彼女に頼まんといかん。先に帰っておれ」

 ガストンはそう言って、こちらの返答を待たずにカウンターの奥へと姿を消した。

 一瞬待っていようかとも思ったが、レインのことを考えると、ここにいては邪魔になる気もしてきた。

 彼女は今、別のことで手一杯のはずだ。そこにバベルが加算されれば、最悪爆発してしまう。

 

 竜巻がこの街の中で発生し、上下左右に揺れては動きを繰り返した後のような荒れた大通りを、広場に戻るように進む。砕かれた石畳と崩れた建物。それらを眺めて、今回の騒動の大きさを実感していた。

 大通りなどの人通りの多い場所には、魔物の死体がちらほらと確認できた。しかし、それに群がるものは何もいないようだった。魔物も人も、今は息を潜めて隠れているのだろうか。

 人通りの少なそうな細い路地や、光の届かない暗がりからは、魔物の臭い渦を巻いていた。

 一騒動が終わりを迎えているからか、騒音や土煙に臭いが薄れ、バベルの五感が正常に戻りつつあった。

 荒れ果てた街の中で、一番賑わっているであろう中央広場。そこには、住民達が陽光石のランタンを片手に集まっていた。

 まるで何かの祭りをしているように賑やかだ。あるものは手を叩きはしゃぎ、あるものは何かを指差していた。

 場所は、丁度集会所の置かれた位置。南西の角。大きな人垣が完成し、それぞれに盛り上がっていた。

 耳に届く喧騒の中で、バベルは最も聴きたくないものを耳にした。

「これが森の主か、気持ち悪りぃ」

(フラクシス——ッ!)

 急いで人垣を掻き分け、集まりの中心地を目指す。足元の石畳が剥がれて砕けて、何度もつまずき転びそうになる。

 人垣をわけてようやく出た真ん前で、バベルの頭の中が真っ白になった。

 緑の山。目の前に広がる景色を一言で例えるとそれ以外には見つからない。枝葉が絡まり折り重なった外套、姿形の異なる多種多様な八本の足、ここまで引きずられてきたであろう無数の傷を見せる岩肌。何より、牛の頭部が、青白い舌を、口元からこぼして地肌の見えている地面に横たわっていた。

「俺初めて見たよ! 森の主って、結構気持ち悪りぃんだな」

「ホント、魔物というより化け物だよ」

……見るな。

「おとうさん。あれが、わるいまもの?」

「ああ、魔王っていうわるい奴の仲間だよ」

……………止めろ。

「さっさと解体しちまえよ」

「協会職員は何やってんだ?」

「冒険者区画から、わざわざこっちに運んでくるなよな。気持ちわりぃ」

「あの素材なら、高く売れるんじゃね?」

………………黙れ!

 バベルの胸につながれた獣が、大きく吊り上げた口をぱっかり開き、血のように真っ赤な口腔内をこちらに見せてきた。まるでこちらが獲物であるかのように、口を近づけてくる。

 呼吸が荒くなる。心臓の音がうるさい。拳が震える。目の前にしている獣よりも、周囲を取り囲むコーラルの住民の方が醜く見えてくる。魔物よりも醜い、怪物だ。目に見えるその姿が、捻じ曲がり歪み、耳に届く声が別の言語のように聞こえた。

「だいじょうぶ? おにいちゃん」

 隣にいた子供が、袖を引く。さっきフラクシスを悪だと言った子供だ。袖を引くその手が、こちらを見るその瞳が、バベルの目に映るその姿が、別の何かに変わって映った。

『ダイジョーブ? オニイチャン』耳に届いた声は、虫の羽音に、石を擦り合わせたような、低くて不快な声だった。

「——ッ!」

 無意識に、バベルは引っ張られた袖を振り解き、おぞましい異形の子供を睨み付けていた。

「ひっ!」

 子供は短く悲鳴をあげ、隣の父親の腕にしがみ付く。その様子を見ていた父親が、こちらへと怪訝な顔を向けてきた。自分の子供が優しく接しているのに、その態度は何だと目で訴えてくる。

 化け物どもが。

 胸の中で、獣の隣に座った自分が毒を吐く。そして続ける。お前らと一緒にするな、と。

「ほらほら! どけてめぇら!」

 大きな鋸や金槌を引っ提げた、上っ張りを裸の上に着たガタイの良い大男が人垣を掻き分け集会所前へと大股で近づいてきた。その背後には、似たような筋肉質の男達がついて来ていた。その誰もが、汚れた上っ張りや前掛けをしていた。

 その出立を、バベルは知っている。冒険者区画の鍛治師連中だ。

「ほう! こりゃ確かに見た事も無い化け物だ!」 

 大きな声でそう叫ぶ。刈り上げた坊主頭をペシペシ叩き、男は彫りの深い顔に笑みを刻んだ。

 その顔が、こちらに向いた。「ぁんだよ、兄ちゃん。俺になんか用か?」

 「……………何をする気ですか?」

 何をするのか。そんなこと、聞かずともわかる。

「ぁあ? そりゃおめぇ、解体に決まってんだろ」

 解体。その言葉に、周囲の人垣から歓声が上がった。魔物の解体。フラクシスをバラバラにする。そして、ここに集まった人間どもはそれを見世物として楽しもうとしている。

……殺せ

 胸の中で、獣がつぶやいた。その声は、バベル自身のものだった。

……………殺せ

 視界が真っ赤に染まる。

…………………殺せ!

 右手が短剣の柄に掛かったその瞬間、「待って下さい!」と、人垣の歓声に負けないよう大声を出した者が現れた。大声に慣れていないのか、その声は裏返っていた。

 誰もが視線を背後へと向ける。バベルも、短剣を握りしめた体勢でそちらを見た。

「森の主の解体は、待って下さい!」

 再度の大声に、鍛治師の大男が怒鳴り声を返した。

「ぁんだてめぇ! このままじゃ腐って、街が汚染されんだろうが!」

 汚染ならすでにされてるよ。バベルは胸の中で、大男を嘲笑った。

「その死体は、我々研究所が引き取ります」

 死体を回収しようとする研究所連中と、解体を進めようとする鍛治師の争い。人垣の中でざわざわと声が上がった。続いて、声を発した者の正面にいた人垣が左右に分かれ、道が作られた。

 白衣を着た眼鏡の中年。鍛治師の大男とは違い、こちらは運動とは無縁の見た目をしていた。

「なんだ、メガネザルどもが。お前らは研究室にこもって、瓶でも振ってりゃいいんだよ!」

 大男の言葉に、他の鍛治師と人垣から大きな笑い声が上がった。対する中年研究者は、眼鏡を押し上げ、笑いが収まるのを無表情に待っていた。

「まったく。脳まで筋肉で出来た筋肉猿が。こちらは、未来の話をしているんです」

 研究者の強い言葉に、人垣と白衣の集団から笑い声が上がった。これに対し、鍛治師連中は皆顔を真っ赤にして、人垣の作った道を進む。それに答えるように、白衣の集団も道を進みだした。

 これから起きることに苛立ちを覚えるバベルは一人、誰にも見られずにフラクシスの方へと近づいた。

 言葉はわからないが、誰かの怒鳴り声が聞こえた。そして続く歓声。この一瞬で、ここでの騒ぎがお祭り騒ぎへと変貌した。

 この喧騒の中、バベル一人を気にする者など誰もいない。少なくとも、ここでお祭り騒ぎをする者たちには気づかれなかった。

 バベルは気配と足音を殺して歩き、フラクシスの頭部へと辿り着いた。その瞳には、何も浮いていなかった。以前浮かんでいた無数の星々はフラクシスから離れたのか。バベルが覗き込んだ今、そこには空っぽ夜空が見えるだけだった。それも、快晴とは程遠い曇り空だ。

 人垣からの歓声から逃げるように、バベルはフラクシスの頭部を回り込む。集会所の入り口とフラクシスの頭部の間には、人一人が入るのにちょうどいい隙間ができていた。足元に散らばる木片と瓦礫を避けて歩き、バベルは大きめな瓦礫の上に腰を下ろした。

 こちら側ならば、誰かに見られる事も無いだろう。

「フラクシス……」

 呼びかけても、返事はない。わかってる。ここで横たわっているのは、フラクシスだった物だ。もう、フラクシスじゃない。それがわかった上で、バベルは話しかけていた。

「フラクシス。何があったの?」

 向こうの歓声が一段と大きくなった。

「森で、何があったの?」

 バベルの声に湿り気が混じり、声が滲む。視界が揺れ、目頭が熱くなる。

「あの魔物達は、森の子達だったの?」

 ルシオンとフラクシス。それ以外では魔王ぐらいしか、魔法を使える者をバベルは思いつかなかった。

「……………ごめんなさい」その言葉が、虚しく宙に溶けた。何に謝っているのか、何故謝っているのか、バベル自身わからないまま。

 森の魔物でも、そうでなくても変わりはしない。バベルは、まだ赤子の魔物に手をかけた。確実に息の根を止めるつもりだった。それでも刃は届かず、死の間際を見ることもできなかった。

 森の住民はみんな被害者だと言っていながら、バベルは暴力を振るった。己のエゴで。

——何が街の人間も共犯だ。本当はどこかで思ってたんだろ?自分だけは違うって。

 少年バベルが、剣の切先をこちらに向けている。バベルは何も言い返せなかった。その通りだったから。

 自分だけは全てを知っていると街の住民を見下し、自分は関係ないと高みの見物をしている気になっていた。それに気づいた今、バベルは自身の傲慢さに吐き気を催した。

——この偽善者が。

 自己嫌悪が加速する。一人分かった気になっていた自分を、殺してしまいたいとすら思った。

——お前のせいだ。フラクシスが死んだのも、森の魔物がこの街に現れたのも。

 そう、これはガストンに違うと言えなかった、自分のせいだ。ガストン達に全てを打ち明けていれば、免れたかも知れない。今更遅いとわかっていても、そう考えずにはいられない。

「バベル。こんなところで何をしておる?」

 気配も音もなく、言葉だけをバベルに飛ばしたのは、ジロ学校長だった。バベルの背後に、風に流されてきた霞のように現れた。集会所から出てきたのだろうか。

「校長先生……」

 涙声のまま、バベルは目尻の赤くなった顔を向けた。

「なぜ泣いておる?」ジロは驚いたのか、大きく見開いたように見える。「言ってみなさい」

 ジロはバベルの肩に手を置き、砕けた石畳に片膝を突いた。

「もう、今更、遅いんだよ」

 バベルの喉は嗚咽を漏らし、目からは止めどなく涙が溢れた。

 生を感じさせる熱を持った涙が視界を奪い、震える喉からは、これ以上言葉が出てこなかった。

 そんなバベルに、ジロはただ肩に置いた手を浮かせては乗せてを繰り返すだけだった。何も言わず、何も聞かずにそばにいてくれた。

「ここにいると、他の者たちに見つかってしまうな」ジロは肩から手を離した。「中に入るとしよう」

 そう言って、ジロは泣き伏すバベルを抱き上げ集会所の中へと姿を隠した。

 集会所一階は、昼間読書をした時に見た場所と同じとは全く思えない廃墟と化していた。

 床も壁もボロボロ。綺麗に並んでいた椅子やテーブルは、あっちへこっちへと吹き飛ばされていた。受付カウンターはどこにも見つからない。あの高価な日割り時計も。

 崩れた床の上に、倒れていた椅子を起き上がらせたジロは、そこにバベルを座らせて、もう一脚を引っ張り起こして傍に置いた。

 どれくらい泣いただろう。今まででの人生で一番泣いたと言えるくらい、バベルの喉と目は赤く腫れ上がっていた。涙が枯れた後も視界は安定せず、喉から出る声も掠れてしまっていた。

 その間、ジロは黙って椅子に座り、片手をバベルの背中に置いて視線は集会所の外へ。フラクシスの死体を捉え続けていた。

 掠れた声は休息を求めていたが、それでもバベルは話した。時々言葉に詰まると、ジロは優しく手を握ってくれた。ガストンとは違う、老人らしい骨張った手だった。ガストンよりも脆そうな手で、強く握り返せば、折れてしまいそうだった。

「僕が悪いんだ。フラクシスが死んだのも、この騒動も何もかも」

 掠れた声で、バベルは自分を責めた。

「そうか、それはなかなか——」胸くらいまで伸びた白髭を撫でつけながら、ジロは開いていない目尻を下げた。「傲慢な考えを持っておるな」

「何を——」

 バベルにはわからなかった。何故ここで微笑んでいるのか。ガストンが見せた父親のそれでも、胸の中で吊り上げている獣の嘲笑でもない。無垢な子供を見る、教職者のそれだった。

「バベル。お前さんは勘違いをしておる」

 教壇に立った教師のような声で、ジロはバベルを見た。

「勘違い?」

「まず、この騒動はお前さん一人ではどうにもできなかっただろう。森でエルフと森の主と話したなど、誰にも相手をされん。ワシですら、あの時の会議室で話されても信じなかっただろう」

 髭を撫でていた手を胸に当て、視線を外へと向けて続けた。

「今は、こうして現物を見ているから信じられるがな」

「校長先生でも、魔族や魔物との友好はないって思っているの?」

 バベルの質問に、ジロは首を横に振った。「そんなことは無い」否定するその言葉に嘘はなかった。と、思う。何故なら、その瞳は真っ直ぐだったから。瞼は開いておらず、瞳は確認できないが、そう感じた。

「この騒動だけでない。あの者、フラクシスと言ったか。彼ら魔物を、人間と同じに見てはいかん」

 ジロはそう言って微笑みを消し、真剣な顔になった。

「バベルが今日相手取ったのが人間の赤子であれば、それは取り返しのつかないことだったろう。明確に殺めようとしたのだから」ジロは続ける。「しかし、魔物の世界でのそれは至極当然のことだ。自分より劣ったもの、自分を殺そうと襲いくるもの、それらに牙を剥くのは人間同士で言えば、あいさつみたいなものよ」

 挨拶で殺されてはたまったものではない。しかし「それがどうしたの。そんな事、とっくの昔から知ってるよ」と、バベルの中で苛立ちが募った。

 自分の傲慢さなど、目の前の老人に言われるまでもなく自覚している。そして、他の人間の傲慢さと怠慢さだって、知っているつもりだ。

 人間と魔物の違い。その最たるものは、危機管理能力だと、今なら分かる。魔物の日常は、常に死と隣り合わせだ。故に、死ぬことを常に構えて日々生きている。

 少なくとも、バベルにはそう見えた。それに比べて人間は、目の前に危険が迫ろうとも自分だけは大丈夫だなんて、何の根拠もなく考える。だから避難も遅れる。

「ならばわかるはずだ。人間と魔物とでは、見ている世界が違うことに」

「見ている世界?」

 言い回しの問題だろうか。何かの表現として言っているのだろうか。わからない。

「さぁ、いつまでもここにはいられんぞ」

 ジロは一方的に会話の幕を閉じ、集会所の扉へと向かった。その所作の一つひとつが風に揺れる霞のようで、バベルは引き止めることができなかった。

 外の喧騒は、いつの間にやら落ち着いていた。フラクシスの死体はそのままに、広場に集まった人の気配がなくなっていた。

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