鴉
ーーーこんな筈じゃない。こんな筈じゃなかった。
生まれたばかりの魔王の器を手に入れ、僕の魔法により魔王としての成長を阻害、連れ帰り人の子として育てる。
僕の計画は思っていた通りに進んでいた。
後は、魔王の器を魂ごと書き換え、人間としての教育を施し、完全に人間に作り変えれば、全てが終わる筈だった。
魔王と勇者は同等の存在。
それぞれの神からの寵愛を受け、その身に神の奇跡を宿す存在。
なら、器に魔が満たされるその前に、供給を止めてしまえばいい。
そして、その器を満たす魔すらも、魔の為に存在する神の寵愛すらも、僕のものにしてしまえば───
僕には、それだけの力と知識があった筈だ。
───様々な情報を集め、精査していくうちに
"唯一の真実"と"解決策"を見つけることが出来た。
魔王が目覚めつつあるのなら、その対となる勇者は?
そう、器の成長に伴い、輝きを増すは僕の娘。
サラに、"僕のための加護"が切り替わり始めていたのだ。
僕を、僕たらしめる為の"神の加護"
───返せ、それは僕の力だ。
この世の誰よりも、僕は神に愛され、世界を変えるという大義があるんだ。
魔などない、人の世界を取り戻す為───
僕は、眠っているサラの首に手をかける。
大丈夫だ、優しく聡明なこの子なら分かってくれる。
苦しむ事はない。
そうすれば、全ての力は僕に戻ってくる。
そして、目覚めかけの魔王を再び殺し
全てをやり直そう。
───自分の手に、力を込める。
サラの顔が、苦痛に歪む。
「哀れね、堕ちたかつての勇者というのは。実に、見るに耐えないわ」
突如、背後から声をかけられる。
振り返ると、まるで、サラの寝室の暗闇の一部の様に、魔王の器はその姿をぼんやりと現す。
その血の様に紅い、悍ましい瞳を揺らして。
「辞めておきなさい。その子を苦しませるような事は、私が許さないわ」
魔王の器は、静かに近づく。
まるでワルツでも踊る様な、無駄の無い動きで。
「……僕が堕ちている?堕ちただと?はは、違うだろう」
嫌な冷や汗が頬を伝う。
「仮にそうだとして、そうだとしてだ。今の君の力では、僕に対抗する事など出来ない」
そうだ。その為に器を人として育てた。
人の世の力は、全て人の為のものだ。
技術も、知恵も、魔法も、空気や水に至るまで。
それを数年以上摂取した魔王の器は、器とは言えど
そこらの魔物と、変わらない力しか有していない。
───ましてや、目覚めるなど有り得ないのだ。
「そう?そうかもしれないわね。だから、私は少し、"やり方を工夫してみたの"」
───人ならざる声がした。
有り得ない。有り得ない。有り得ない。
この"最悪の自体"だけは避ける為に
何重も、何年もかけて記憶の改竄や、魂そのものにも蓋をして
その力を封印していたはずだ。
しかし、そんな僕の努力を、人間を、人々の神を嘲笑うかの様に
器は、腕を横に広げ、その身を十字の如く魅せ
顔一杯に裂けた口は、寒気のする紅が浮かんでいる。
そして、僕の認識阻害魔法の影響で、白く染まったその髪は
まるで、日蝕のように、暗く黒く堕ちてゆく。
あの日出会ったあの時と同じ、いやそれ以上の
魔が、人類への、生命への最大の冒涜が、目の前に───
───酷い夢を見ていた。
暖かいお父様の手は、冷たい血に塗れている。
可愛い妹のリンネは、私の知らない貴女になっている。
2人は、私にいつもと変わらぬ笑顔を向けている。
私は、2人に剣を向けていた───
ぼんやりとした意識の中、身体にかかる暖かい"何か"を感じ、目を覚ます。
「……これは」
手のひらにべとっ、と付いた、それは月の明かりを反射し赤に輝いている。
粘り気があって、少し鉄臭い。
私は、叫び出しそうになる声を押し殺し、その元を見やった。
「……あ、あ……サラ……」
「お父……様……?」
お父様の胸から、剣が伸びている。
それは、余りにも鮮やかに心臓を貫かれていた。
───誰が?何のために?何故?
「ああ、サラ……御免なさいね、起こしてしまったかしら」
聞き覚えのある、声がする。
それは、いつもと変わらぬ優しい声で、私に話しかける。
「この男はね、哀れにも貴女に手をかけようとしたの……だから私はそれを止めるしかなかったの。そうしなければ、貴女が居なくなってしまうから」
聞き覚えのある声は、どこか興奮した様な
知っているはずなのに、知らない人の様な喋り方をしている。
「嗚呼、御免なさい。貴女の体を汚してしまったわ。全てが終わったら、またいつもの様に一緒にお風呂に入りましょう。次は、私が洗ってあげる番だったかしら?」
「……誰だ、お前は?お父様に、勇者に何をした」
脱力し、首を垂れているお父様の背後から、その声の主が顔を出す。
歪んだその笑顔から、息を呑むような美しい赤を浮かべながら。
「嫌だわ、サラ。私は私よ……状況は、先程説明した通りよ。賢い貴女なら分かるでしょう?それに、私が意味もなくこんな事する訳が無いでしょう?」
黒き影は、闇を落とし私に語りかける。
───嗚呼、嘘だ。嫌だ。信じたくない。
愛している家族が、愛している家族を殺そうとしているとでもいうのか。
しかし、彼女に指摘された通り、私の頭は冷静にこの状況を把握してしまっていた。
何故だ。何故壊れてしまった。
どこから、誰が間違えていたのだろう。
私はただ、私達が最初に家族になったあの日のように
あの時を取り戻したかっただけなのに。
お父様は壊れ、理由は今は分からないが、少なくとも私に加害しようとしたのだろう。
その事実は、私の首に沿えられたお父様自身の手、そして痛みがそれを告げる。
───きっと、もう2度と、3人で笑い合う事は無いのだろう。
私が逡巡していると、不意にお父様がその口を開いた。
その命の最後を振り絞るかのように。
「サラ……ああ、サラ。聞いて、よく聞いてくれ」
胸から、口から、大切な生命が零れてゆく。
「リンネは、魔王の……いや、魔王そのものの」
そこまで言った瞬間、リンネが勢いよく引き抜いた剣で、お父様の首を体から離した。
お父様の身体から、赤い華が咲いた。
「あ、ああ……お父様……」
───あははハハハはハハハはははッ!!
人とは思えぬ笑い声と共に
リンネは、その身を焼く、禍々しい炎のような魔力を放出する。
───私達が……私が育った館は、街は、人々は
彼女の炎に焼かれ、全ては焼き尽くされる。
祈りは堕ち、白は闇へ。
何もかも全てが無くなった、この場所で
私はただ1人、ただ呆然と、涙を流しながら
焼けた土に、積もる黒き羽と
見上げた空に、浮かぶ美しい闇を
見つめ、そのまま意識を手放した───