追憶のセレーネ
――何故こんな事になったのだろう……――
そう誰もが思っていた。
現実を突き付けられてしまった頃には、もう元の時間には戻れないくらいに此処は……この国は、既に戦火の渦の中だった。
周囲のどこを見渡しても辺りは騒然。
目の前に広がる無惨な赤い光景。
突然侵攻してきた魔なる獣と、それを従える非情な侵略者たち。
脅かす者たちの息巻く声に獣の恐ろしい怒号……、止まらない激しい業火の音や人々の悲鳴がずっと耳に鳴り響いている。
一刻も早く争いを止めようと、この国の戦う者たちは抗う術を探していた。
「……俺たちは北門を食い止めに行く! お前たちは火災の鎮火を急いでくれ!」
「くそっ!! あいつ等……ロア帝国の奴ら、許せねぇ! 和平を破った上にこんな卑怯なやり方で攻め込んで来るなんて!!」
「ちくしょう……畜生っ! よくも陛下を……っ、必ず仇を打ってやる!」
状況の混乱、焦り、哀しみ、憎しみ混じりの怒りの声と共に聞こえる忙しない足音……。
まだ戦う意思の残っている者たちはそれぞれの役割を全うしようと駆け回る。
それはこの国に準ずる兵士や騎士、あるいは街の男衆だったりと、持てる力の全てを使って目の前の悪に立ち向かっていた。
――そして、戦う力を持たない者たちからはどうすることもできない悔しさから悲痛な声が上がっている。
「……いやぁぁっ!! お願い、誰か! 誰か来て! うちの子が息をしていないの!!」
「ゲホッ、ゲホッ! ……うぅ……痛い……苦しい……」
「っ……ひっく、ひ……うぅ、どうして……どうしてこんな……」
重症を負い、死にゆく我が子を抱き抱えて涙ながらに助けを求める母親。崩れた瓦礫の下で血を流し、呻きを上げる男性。己の小さな力ではどうすることも出来ずにその場にへたり込み、涙を流す女性。
安寧を壊された嘆き、大切な物を奪われた悲しみ、痛みを訴え苦しむ声が街中から聞こえてくる。
この場に絶望する者たちは皆つい先刻まで平穏に過ごしていた。争いや不幸なんて起きる筈のない穏やかな空間で何気無い日々を過ごしていたのだ。
その平和がたった数刻の内に瞬く間に崩れ去ってしまっただなんて誰もが信じたくない現実だった。
侵略者によって四方八方から炎の手が燃え上がっている。周囲の建物は形を失くし、瓦礫があちらこちらに崩れ落ちていく。
そのあまりの状況下にその場で立ち尽くす者、泣き叫ぶ者、力を無くした者、逃げ惑う者、立ち向かう者……様々だった。
――そんな侵略者たちと周囲の光景を虚ろな瞳で呆然と眺めながら、燃え盛る炎の中で座り込む娘の姿があった。
「――……。」
その腕の傍らにはもう一人の娘が抱えられている。
娘が居るのはこの国で最も被害の多く出た街だった。
そこは侵略者たちが残酷な勢力を挙げて最も攻め落としたかった場所……この国の王都、そして王の居る王宮だ。
変わり果てた目の前の無惨な光景に娘は言葉を失い、ただただ絶望していた。
(――……どう……して……)
理解に苦しんだ。小さきものならいざ知れず、初めて目の当たりにする殺気を帯びた大きな獣たち。そんな恐ろしいものを従えて躊躇なく自分たちの命を殺めにくる無情な侵略者たち。
――彼等は何故、こんな非道を行っているのか……――
娘の髪や衣服はこの騒動の中で既にボロボロだ。そしてここまでで自身の周りの者たちが容易く殺戮されていく様に、心身共に耐えきれないショックを抱えていた。
……そしてその中には、娘が腕に抱える……既に息絶えてしまっている人物も含まれる。
(どうして……どうしてこんな事になったの……?)
受け止めきれない現実に娘は未だ理解が追い付けずにいた。どれだけ頭の中で思考を巡らせてみても、やはり答えが分からない。
――娘はつい数刻前までこの平穏な国で、それも最も安全とされる筈の王宮で、普段通りの生活と仕事をしていた筈だった。
普段と同じ時間に起床し、ささやかな食事を摂り、仕事着を着用して、課せられた働きをこなす。
大切な方の傍で……。
それが娘の「日々」だった。
けれどそんな日はもう二度と訪れない。
全てあの侵略者たちによって奪われたのだから。
「……起きて……下さい……。」
震える声で娘は傍らで目を閉じている人物へ……娘がこの世で最も敬愛する人へ語りかけていた。
「起きて下さい…………――姫様……。」
けれど、その人はもう誰の声にも応えることができなかった。
「……姫……様……」
娘は信じたくなかった。自分の腕の中で目を閉じ、横たわる彼女がもう二度と話すことも、聞くことも、笑うことも、泣くことも、動くこともないということを。
彼女はもう目覚めることはないのだ。
彼女の心臓の鼓動は、既に止まっているのだから。
その腹部には痛々しいほどの傷痕と致死量の血が流れており、彼女を抱き抱える娘の腕と衣服に滲み広がってしまう程だった。
呼び掛けにピクリとも反応せず息絶えている姿に、娘は静かに口をつぐむ。
――娘はこの日……大切な日々を、人を……生きる理由そのものを失った。
抱き抱えた自身の主をゆっくりと横たわらせた後、娘はその場からフラフラと立ち上がった。少なからず負傷した自身の身体をおぼつかない足で支え、一定の方角へと歩き始めていく。
辺りはまだ燃えていた。どこかでまだ戦っているのか、人々の争う声と恐れる悲鳴、獣たちの叫び声。
道の至るところに傷を負い、力尽きていく者たちが倒れている中、娘は徐に足を運ぶ。
――辿り着いたのは、とある神殿。
そこは白亜の神秘的な建物。この国が、王宮が、信仰してきた神様の祭壇が奉られている場所。……だった。
昔から国民の手で綺麗に手入れをされ続け、煤一つもなかったその場所もこの襲撃の影響なのか、一部の建物が半壊しかつての美しさは見る陰も失くしていた。近くには何人かの神官たちが力無く地に伏せていたり、瓦礫の下敷きになってしまっている者もいた。
娘はそのまま足を進め、傾いてしまった神殿の扉をそっと開けて中に入り礼拝堂の道を歩いていく。
祭壇は無事だった。辺りに比べ傷一つもなく、煤や血の一滴も浴びていない様子に、こんな現状でもその神秘さは少しも失われていなかった。そんな祭壇の前まで来ると、掲げられた大きな十字架をゆっくりと見上げた。
十字架を見ると同時に、娘はふいに力を無くすかのように膝を地に着けその場にくずれ落ちてしまう。
「……どうして……」
声に出して呟いたのは、心の中で答えを探してもただただ理解できないこの悲劇に対する問いだった。
「どうして……こんな事になってしまったの……? どうして……私たちは殺されなければいけないの……?」
無情な侵略者たちへか……はたまたこの国を創造した神に対して問いかけているのか……娘は理解に苦しむ声を発せずにはいられなかった。
「どうして……姫様は死ななければならなかったの……」
先程看取った彼女の死が頭から離れない。
娘にとって「姫様」と呼ばれる彼女はいつも側で笑ってくれて、優しい声で娘の名前を呼んでくれる……かけがえのない敬愛する存在だった。
彼女の存在は娘の生きる全てだったのだ。
改めてそんな大切な人を失った悲しみに娘の眼からはらはらと涙が零れ、頬から伝う雫はぽたぽたと床に落ちていった。
娘は行き場のない哀しみを訴えることしかできない……。残酷な結末を理解することもできず、大切な人さえ守れなかった自身の無力さを嘆いた。
――終わりが来る時は、何時だって突然だ。
当たり前の様に続く日々に永遠なんて保証はないのだと、思い知らされてしまった。
(……私は、何て無力な存在なのだろうか……。
考え付く頭もなければ、成し得る力すらもない……。もう全部失っているのに、まだ可能性を捨てきれないなんて……。)
絶望しても尚、娘は僅かな希望を捨てきれずにいた。それが例え、御伽噺だけの伝承だとしても、無意識に一縷の望みを賭けていたのかもしれない。
この悲劇を覆すほどの、奇跡を。
自身ではどうすることも出来ず、誰かが変えられる程の状況でもなく、最早死を待つだけのこの結末を変えられるなら、願わずにはいられない。いや……願うことしか出来ないからこそ、娘はこの神殿にやって来たのかもしれない。
「神……様……」
弱々しい声で、娘は両手を胸の前に組み、祭壇で静かに祈りを捧げた。
「……神様、どうか……お願いです。
私たちに、あの方に、もう一度未来をお与え下さい。せめて、この悲劇が起きる前……に……っ……」
その声は呼吸が浅く、次第に息が乱れてきた。
「戻れ……たら……」
眉をしかめる娘は必死に絶えていた。頭から流れる赤い雫が床に流れ落ちていく度、気を失いそうな激痛が押し寄せて来るからだった。
娘は最後の力を振り絞ってこの神殿へ赴いている。
その身に負った傷もまた、もう助からない程の出血だったのだ。
「……! ……うぅっ……っ」
頭部に受けた痛みは徐々に身体の自由を奪い、ついに娘はその場に倒れてしまう。呻き声を上げ、再び涙が頬を伝いながら、そのままただ一つの願いを呟いた。
「――戻り……たい……、もう一度……貴女に会いたい……っ、姫様……――」
もう二度と会えない、大切な人と過ごした日々を懐かしみながら次第に呼吸は小さくなっていき、娘の鼓動はゆっくりと脈を止めていく。その脳裏に浮かぶのは、彼の人の優しい笑顔。
……そうして、娘は最期の力を失った。
この悲劇が始まってから早数刻後のこと。半壊してしまった神殿の祭壇の前でまた一人、命が儚くも消えていく。
一体どれほどの民の命が無情にも奪われていったのだろうか……。
何故この様に残酷な事態に陥ってしまったのかも分からないまま、多くの命が終わりを迎える。
刹那の間に祈った者たちは何を唱えただろう。
無慈悲な死に対する恐怖と拒絶、生への懇願。侵略者たちへの恨みや復讐心。奪われた家族や友、愛する者への想い。
ここに力尽きる娘は大切な人への想いを。
例え叶わない願いでも、届かぬ祈りでも、人々は神に願っていた。
尽きた命は戻らない。頭で理解はしていても人々はこの世界の伝承に縋るしかなかった。
……そして幾千、幾万の祈りを捧げたからこそ、その伝承は応えることができたのかもしれない。
――神秘なる声は、娘の祈りが捧げられた時に地上へ届けられた。
神殿の祭壇から奇跡の光が輝き、声は言葉を発した。
《――その祈り、確かに聞き届けた――》