窯の中
「おらあ、明治の40年の生まれだがやあ」
老人は嘆息まじりに、煤けた天井を見上げて言った。目尻や口元の、ノミで彫ったような深い皺と、浅黒い肌が印象的だった。
時々白髪を両手でごしごしかき回す。
「おらあ、丈夫なだけが取り柄だがやあ」老人の口癖である。大柄で年の割には肌のたるみがない。
改めて部屋の中を見回す。天井に蛍光灯が1つあるだけ。東と南側に小さな窓が1つづつ。納屋をそのまま住まいにしている。
昔は部屋の真ん中で暖を取るために薪を焚いていたという。部屋中真っ黒である。
型の古いブラウン管の14インチのテレビが小さな机の上にあるだけ。東の方の土間に、タイルで作った流し台がある。風呂は湯を沸かして盥の中で済ますという。
「おらあ、生まれた時から、こんな暮らしをしとるだがやあ」
老人は快活に笑う。
「この前なあ、市役所が来てなあ、1人暮らしは危ねえから、老人ホームへ入れやとぬかしやがってなあ、何言っとるだあ、おらあ、役所の世話にならんでも、生きていけるがやと怒鳴たった」
一区切り、お茶を飲んでから
「ほしいもんはごみ箱をあさりゃ,なんでもあるがや」
あのテレビもそうだとか、そこの石油ストーブもまだ使えるがやと息まく。
大根や人参なんか農協で種買ってきて庭に植えればいくらでも食える。このトマトだって食い飽きる程できると笑う。
「何?、何か楽しみはねえのかって?」
そんなこと考えたこと無いという
若いころから朝から晩まで働きづめで、たまの休みや、盆や正月なんか、何をやって過ごしたらいいのか判らんで、1日中ボケっとして過ごしていた。結局は暇を持て余していただけだと言う。
しばらくして、
「そうだいなあ、楽しみといやあ、寝る事かいなあ、一杯飲んでごてんと横になるだわあ、明け方ごろ夢を見るんだわあ」
「夢?」
「おらあ,小せい時からなあ、よう夢を見てなあ、朝の4時ごろといやあ、冬なんかまんだ暗いやなあ。そんだけどなあ、夢の中なんかはものすごく明かるてなあ、空を飛んだり、海の上を歩いたりするんだがやあ、それだけじゃねえんだがや、空を飛んでるときはよう、つめてえ風が吹いとってなあ、海の上を歩く時なんか、水のつめてえのがようわかるんだわあ」
ここは老人の1人舞台である。私は聞き役に徹している。
「おらあ、いつも6時頃に起きるだがや、夢の世界が本当で、起きている時が夢じゃねえかと思ったりするんだがや」
一息つくと、老人は話すのが楽しくて仕方がないとばかりに喋り続ける。 「おらあ、まんだ、女を抱いたことがねえんだがや」値踏みするように私の顔をじっと見る。
「夢ん中ではよう、裸の女を見るだがやあ、きれいな肌してよう、別嬪さんでよう・・・」
老人の口から艶っぽい話が漏れた時、私は苦笑する。
分厚い唇、横に広がった大きな鼻、どろんとした眼、生真面目な口ぶりに私は笑わずにおれなかった。
「若けい時はよう、夢を見ることが楽しゅうてよう、そりゃ今でも変わらんがなあ、」
私は老人を“くいっさ”と呼んでいた。本名山本九一、小さいころから老人のことはよく知っていた。
私は今でこそ不動産業で飯を食っているが、20年ほど前までは土管を作っていた。くいっさは私のところで働いていた。
ーーお相撲さんにならんかーーといわれたくらいくいっさは大きな体をしていた。力仕事が楽しくて仕方がないと言った風だった。
時々私はくいっさの家を訪問する。快活な性格で昔の話を聞かせてくれる。息抜きになる。
「ぼっちゃ」と私のことを呼ぶ。
「ぼっちゃ、おらあ、昔なあ、人を殺しただがや」
「警察に捕まっただかや」思わず私も常滑弁丸出しで目を丸くした。
「もう50年も昔のことだがや」くいっさは何でもないように首を振る。
私はその話を聞きたいと言った。
くいっさの話は、いつもあっちへ行ったり、こっちに飛んだりでとりとめがない。
「おらあ、ぼっちゃのところで働く前は,関さあのところで働いておっただわあ」
関さあとは関製陶所の事である。
大正の初めごろから土管を作り出して、昭和の初期には常滑でも指折りの土管屋になっていた。終戦後間もなく工場が潰れて、今の大手タイルメーカーに買収されている。
くいっさは終戦後間もなく仕事を始めた私の工場で働くようになった。
「おらあ、小せい時から関さあとこで働いておった。50年前といやあ、ぼっちゃは生まれとらんかったわあ。ぼっちゃが生まれるずっと前だったわなあ」
くいっさは私に同意を求めるように話してる。
「関さあとこになあ、綾っていう嬢っちやがおっただがや・・・」
綾さんは色が白くて目鼻立ちがの整った鄙にまれな美人である。性格は抜けるように明るく、立ち振る舞いも男のようだった。
「あまてらすさまだったいなあ」くいっさの感想だった。
50年前といえば、昭和15年前後である。くいっさは34~5歳頃であろうか。
「おらあ、嬢っちゃに惚れとってなあ」くいっさは懐かしそうに笑う。
綾さんが生まれたのは、くいっさが15歳の時だったという。くいっさは尋常小学校を出るとすぐにも関製陶所に入った。まだ子供だったが体力は大人並みだった。顔に似ず性格は快活で素直で目上に対して従順だったので、関製陶所の上司にかわいがられた。
当時、関製陶所には50人ほどの職人がいた。窯は登り窯だった。しかし昭和10年代を境にして、関製陶所はかまぼこ型の単窯に切り替わりつつあった。登り窯より作業効率が良くて常滑の土管屋さんも単窯になりつつあった。
平成の3年の今日、窯もトンネル窯になり、ベルトコンベヤに土管を載せて、そのまま窯の中を通過させて焼き上げる方式に変わっていた。
私が18から28まで働いていた頃は単釜が一般的だった。昭和50年ころ、土管の製造は急速にしぼんでいったが、昭和30年ころはまだ盛んに作られていた。
今、思い起こしてみても楽しい思い出は1つもない。私はもともと体力がなく力仕事は苦手だった。
ほとんどが力仕事だった。体力に恵まれた者でもきつい仕事だった。
特に,窯焚きの終わった翌日は、窯場に生乾燥の土管を運び込む。乾燥を早めるためであるが、夏場などは温度が50度を超える。生乾燥の土管、これを生地というが、生地から水分が蒸発していくので温度も高くなる。土管は小さいもので3キロ、大きいもので50キロを超える。それを乾燥させるために窯場に運び入れる。
窯場に10分もいると滝のような汗が出る。牛乳の入った瓶を置いていくと10分くらいで牛乳は熱くなる。昭和30年代、仕事がきつく、給料が安いので人手不足に見舞われる。
くいっさの若いころは、こんなきつい肉体労働が当たり前の時代だった。ほかに仕事がなかったので、人手には不自由しなかった。
私のころは真空式土管機が普及していた。土管機に粘土を入れるだけで自動的に土管が出来上がっていく。
くいっさの時代は木型の中に粘土を張り付けて土管の形を作っていく。手間のかかる作業だった。昔の土管は厚く重い。常滑の町を注意深く歩いてみると、昔の土管が目に付く。
当時の窯は登り窯である。今では想像もできないような大変な肉体労働だったと思われる。
くいっさの話を聞いていると、常滑中土管だらけで煙突から出る煙の煤はすさまじく、洗濯物を外に出しておくと煤で黒ずんでしまう。常滑の雀は黒いと言われた。
「にぎやかだったがや」くいっさは目を細めて語る。
町中が活気にあふれていた。織布屋のガチャマンのように作っても作っても売れていった。
綾さんはそんな時代に生まれた。くいっさが尋常小学校を出て、関製陶所で働きだして3~4年たったころだった。
「変わった嬢っちゃだったがや」くいっさの眼は過去を見ている。
綾さんは4つか5つくらいになると、仕事場を遊び場としていた。窯の出し入れや土管の製造、どろ(粘土)を捏ねたりするするところをを見て育った。1つ所にじっとしているのが苦手らしく、あっちへ行ったり、こっちに来たりで目が離せなかった。
くいっさは顔に似ず優しい性格なので、綾さんに好かれていた。
「嬢っちゃは、いつもおらあの傍にべったりとくっついっとたんだわあ」
一服の時間に、肩車をしてやると、きゃっきゃっと笑って喜んでいた。くいっさはそんな綾さんの愛くるしい顔を見るのが何よりも好きだった。
関製陶所は昭和初期には、常滑でも有数の製陶所に成長していた。工場の敷地は3千坪を超え、最盛期には百人ほどの職人が働いていた。
土管の運搬手段は、開通間もない常滑駅から貨車で運んだり、港から船で運んだりしていた。窯出しの土管は検査を受けた後,牛車や馬車で運んだり、大八車で駅や港まで運んでいた。男も女も薄汚い作業服で働いていた。
余談だが、私は土管屋を辞めて、半田で不動産業の一歩を踏み出していた。貸事務所の2階を借りていた。家主はミシンの販売屋さん。彼の言うには半田ではミシンの販売だけで食っていけるが、常滑だとミシンを使う人が少なくてミシンのほかに兼業でないとやっていけないと言っていた。
「はっきりいやあ、常滑の人間はしみったれだわあ」家主さんは吐き捨てるように言った。
話をもとに戻す。
関製陶所は綾ちゃんが生まれて間もなく、それまでの登り窯から、単釜に切り替えつつあった。登り窯は1度に多くの製品を焼くことができるが、窯の出し入れに、人手がかかりすぎて、人的に効率が悪い。単窯が注目されだしていたのだ。
3窯あった登り窯の代わりに、4基の単窯が作られた。
綾さんが仕事場に出入りするころの関製陶所は3階建ての土管を作る所、4基の単窯を包み込んだ3階建ての乾燥場が接続していた。
山から粘土を採土して土管用の粘土にする。そのための土練機を置いた製土場もあった。いつもじめじめしていて夏場でも涼しかった。
3千坪の敷地のうち2千坪がこれらの工場に使われていた。千坪の土管置き場には、大八車や牛車や馬車かひっきりなしに出入りしていた。
「おらあ、旦那さんとは、めったに口を利かなかっただがや。弥っさあが全部取り仕切ってたもんでなあ」目が遠くを泳ぐ。
「それになあ、嬢っちゃがおらあにまとわりつくもんでなあ、弥っさあが、仕事はほどほどにしとけと言うんだがや。おらあそうもいかんもんでなあ。嬢っちゃをあやしながら、仕事に精出しとっただがや」
「綾!そうくいっさにくっついっとたら、邪魔だろが」奥さあが嬢っちゃを叱る。
奥さあは気さくな人だった。同じ常滑の関製陶所と同じほど大きな製陶所の娘さんで、若いころは男の中に交じって働いていた。そのため従業員の気持ちを汲み取って、何かと相談相手になるほど慕われていた。
旦那さんは工場にはめったに顔を出さなかった。奥さんと違って、近寄りがたい雰囲気を持っていた。たまに顔を出すと,皆緊張して卑屈なほどぺこぺこしていた。怖い存在だった。
綾さんがくいっさにまとわりついていても、旦那さんは何も言わなかった。無理に引き離すと、火が付いたように泣きだす。
一服の時間,ござを敷いただけの休憩室で、約百人の男女が、にぎやかに声高に雑談の花を咲かせる。お茶を飲みながら、時にはあけすけな話になる。
綾さんは大人の話は理解できない。皆の中に割り込んで、大きな目で話し手の口元を見つめるのみ。それもすぐに飽きる。また別のグループに割り込んでお茶を飲む。
「ゴミ溜めに鶴だったがや」くいっさは言う。奥さんに似て色の白い綾さんは、日焼けした薄汚い従業員の中で浮いて見えた。
綾さんは他の女の子の様にままごとには見向きもしなかった。一緒に遊ぶこともしなかった。
頭のいい子だった。学校の成績もトップだった。それほど勉強しているとは思えないと奥さんは不思議がっていた。家では勉強しなかった。
9歳、10歳になっても、綾さんの工場への出入りは続いた。さすがにくいっさにまとわりつくことはなかったが、くいっさの仕事ぶりを魅入られたように見つめていた。
綾さんの美しさはますます輝いていった。くいっさは懐かしそうに語っている。
「あんなきれいな目でよう、じっと見られると、おらあ、まあ、胸がドキドキしちまうんだがやあ。まんだ10歳というのによう、えれえ色気があったんだがや、目がなあ、鷹みてえでなあ、その割には口元がな笑ってるみていでよう、チュッとなあ、口づけしとうなるんだわあ」
くいっさは大きな口を開けて笑った。
「窯焚きなんか、窯んなかの日の色を見る穴があるんだわあ、その色目を見る穴をふさいどるレンガを取り除けてなあ、・・・くいっさ、今窯は何度くらいだや・・・おとなみていな口で聞くんだがやあ」
おらあ、10年くれいしてから、弥っさから窯焚きを任せられるようになっただがや。嬢っちゃはおらあと一緒に窯焚きをするだがや。きれいな顔がなあ煤で汚れとるだがや、それがなあ、まあ、色っぽくてよう・・・。
窯焚きは3日間かかる。温度を3百度まで上げるのに一昼夜かける。急激に温度を上げると、わずかに水分を含む土管がひび割れする。3百度を超えて7百度まで、12時間で上げていく。7百度を超えると、窯の中の土管は柔らかくなる。指で触っても穴が開くほどである。事実。鉄棒で突いてみると、その部分だけ穴が開いている。
700度から1050度までじっくりと温度を上げていく。1050度くらいで火を止める。窯焚きが終わる。
私が窯焚きを経験したころの昭和30年代の後半には温度計があった。針の動きで窯の中の温度が目で判断出来た。
くいっさのころはこんな便利な物はなかった。色見窓から火の色を見て温度を知る。経験と勘だけが頼りであった。
火の色は300度くらいまでは薄黒い赤味を帯びている。温度が上昇するにつれて純粋な赤味を帯びるようになる。
700度を超えて800度、900度になると赤味が橙色に変わってくる。それが桃色になって白色化していく。千度を超えると純白になる。とろとろとした炎が土管の中を走る。色具合で温度を計る。
製品の出来不出来は窯焚きに左右される。滅多な者には任せられない。くいっさは10年目にして窯焚きを任せられるようになった。
「嬢っちゃは色見から火を見ると、きれい!、と言ってなあ喜ぶだがや。十能で石炭を焚口からほうりこんだりなあ、男みてえだったなあ。嬢っちゃの白い顔が焼けてなあ、黒うなるんではないかと、ひやひやしたもんだがや」
作業服といっても別に制服があるわけではない。寝間着のような綿入れを着て帯で締めるだけである。扱う物が物だけに、皆つぎはぎだらけで足袋に草履姿である。夏は袖なしで、膝がしらも丸見えで男も女も同じ格好である。
現代ではそれほどでもないが、昔は男も女も汚い言葉使いで、けんかをしているような喋り方だった。
綾さんは抜群の成績で尋常小学校を卒業し、中学校に入った。14~5にもなると、背丈も伸びて胸のふくらみも目立ち始めた。うりざね顔の吸いつきくなるような色気を漂わせる。
「女っぽっくなってもなあ、窯焚きを手伝ってなあ、仕事場で曲がりもんを作ったりなあ、色気のねえことばかりしとっただがや」
曲がりもんとは曲形の土管を言う。主に女の仕事であった。
ーー変わった子供ーーというのが綾さんへの近所の評判だった。
当時、百人以上従業員がいる工場はまれだった。2~30人が普通だった。
関製陶所の旦那さんといえば、町の有力者だった。そこの1人娘がどろんこになって仕事をしている。事務の仕事ならともかくもと、奇異な目で見られていた。その上尋常小学校だけで充分なものを、中学校までいくとは・・・。
綾さん本人は世間の噂を知ってか知らずか、相変わらず泥んこになって力仕事に精を出していた。とはいっても朝から晩までというわけではない。昼過ぎの3時から夕方の6時までである。学校の成績が飛びぬけて優秀ときているから旦那さんも奥さんも文句を言うわけにはいかない。あきらめ顔で綾さんのやりたいようにやらせている。
「嬢っちゃはおらあのあまてらすさまだがや」くいっさの口癖である。
「おらあ、嬢っちゃのはだかを見ただがや」くいっさは大きな目をパチパチさせて、私の顔を伺うように言う。
そのいきさつは以下のようである。
綾さんが15歳の時、くいっさは弥っさから、
「おいっ、くいっさ、おめえ、何か悪さをしでかしたんじゃねえだかや」どやしつけられるように言われたことがある。
弥っさあは根がまじめで旦那さんの信頼も厚く、ほかの従業員も信頼が厚かった。滅多なことで人をどやしつける男ではない。
「なんだいねん」心配顔のくいっさ。
「旦那さんがなあ、くいっさを事務所に連れてこいといっとる。おめえ、旦那さんに叱られるよなことしたんじゃねえだかや」
弥っさあは部下の不始末は自分の責任とばかりな、暗い顔で言った。
「おらあ、何もしてねえだがや」くいっさも不安になってきた。
ともかく、弥っさあと一緒に事務所に出向いた。給料をもらいに来るとき以外は事務所に来ることはない。3人の女の子と男の人1人がそろばんをはじいている。事務所の奥の長椅子で待つこと15分、大きな体を小さくして腰掛ける2人の前に、眼鏡をかけて髪を七三に分けた、端正な顔の旦那さんがどっかと腰を下ろす。
「旦さん、くいっさが何か悪い事でもしたんなら、許してくれやあ」
弥っさあが口を切る。
「何言っとるだあ、だれもくいっさが悪さしたとは言っとらんがや」
「ほんじゃあ・・・」
「釉薬を研究してえんだがや。そんでなあ、それをくいっさにやらさてはと思ってなあ」
旦那さんは間髪をいれず、
「そんでなあ弥っさあ、窯焚きを2つ、くいっさに任せとるだらあ、どうだよ、くいっさの窯焚きを1つにできまいかなあ」
旦那さんは4基ある窯の内、2基をくいっさに任せている。それを1基だけにして、くいっさに釉薬の研究をさせたいがっどうだと、相談したのである。
釉薬とは焼き物のうわぐすりである。土管の場合、直径8寸の土管の中に6寸土管を、6寸の中に4寸と3寸の土管を入れて焼く。当然、8寸土管の中に入れた土管は火の通りが悪くなる。焼きもあまい。それを焼きが良いように見せるために、釉薬の一種としてマンガンを塗り付けて焼く。うまく焼けたように見える。
旦那さんの意向はこれからは花瓶や茶碗など、生活用品にいろいろな陶器や磁器が出回るようになる。いまから釉薬の研究をしていきたいう。
「旦さん、結構なことだがなあ、くいっさの弟子のよっさあはまんだくいっさの代わりは無理だがや」
「よっさあが無理なら、こりゃ、もっちと先に延ばした方がええかなあ」
旦那さんは困ったなあという顔をして言った。
「実はなあ、綾が言い出したことでなあ、釉薬をくいっさにやらせてくれやと言うだがや」
「えっ、嬢っちゃあが?」くいっさは胸がときめいた。
「弥っさあ、おらあこの仕事やりてえがや。よっさあは一人前になるまでおらあが面倒を見るだがや」
旦那さんはくいっさの決意を聞くと満足そうに頷いた。
今の仕事は朝の7時半から夕方6時までである。その上に一基の窯出しは月に2回。くいっさは二基任せられているので月に4回の窯出しとなる。1週間に一回の割合で寝ずの番で窯焚きをする。窯焚きは2人で行うが、3日間の窯焚きの内、最初の2日間は窯焚きの経験が1年ぐらいの者でも務まる。。要はあ2日目の夕方から3日目の午後3時ごろまでである。この間が山場となる。窯場の温度も7百度から千度を超える。石炭をくべるのも2人がかりになる。
この間の温度の上昇の仕方によって、窯の中の製品の良しあしが決まるのである。2日目の夕方から窯焚きはくいっさのような熟練者に任せられる。寝ずの番の作業となる。体力的にきつい日となる。窯が一基だけでも大きな負担となる。それをもう一基引き受けたが、くいっさは嬉々としてこなしていた。
工場の北の裏山にまんじゅう型の窯がつきあがる。綾さんがうわぐすりの配合に専念した。
いろいろの種類の釉薬を配合して,粘土の生地に塗り付けていく。窯に入れて焼く。うわぐすりは配合の割合、窯の温度などによって、いろいろな色となる。窯焚き、窯出しはくいっさの仕事の都合もあって大抵は夜となる。くいっさの休みはほとんどない。それでもくいっさの眼は輝ている。
窯焚き、窯出しは綾さんと2人で行う。人の頭がつっかえる程の高さしかない窯である。窯入れだしを2人でやっても1日もかからない。
窯出しの後の焼き物の色具合は旦那さんも見る。窯出しが夜だから、焼き物は大八車に積んで、工場の西側にあるお屋敷まで運ぶ。
お屋敷の10帖の和室に焼き物を並べる。綾さんが色具合を記録していく。くいっさは焼き物を並べるとき晴れがましい気分になる。お屋敷には滅多な者でも上がれない。弥っさあでも1年に一度あるかないかである。綾さんがお茶を出してくれる。疲れも吹っ飛んでしまう。幸福なひと時である。
釉薬は配合の仕方が判ってくると。焼き上がった後の色が予想できるようになる。綾さんは白色をだしてみたいと切望していた、何度かの試行錯誤の後、綾さんが渇望していた白色が焼き上がった。くいっさは一刻も早く綾さんを喜ばせようと、大八車に積んで坂を下って屋敷に運んで10帖の広間に持ち込んだ。
「綾、焼き上がっただがや」旦那さんが大声で叫ぶ。
くいっさは畳の上に手のひらぐらいの大きさの焼き物を並べた。白色ばかりである。電灯の光に照らされて、白磁器のような冷たい感じの白、赤味がかった白、少し茶がかった白,いろいろな白が並べられた。
ばたばたと慌ただしい音がして、白の下着1枚をひっかけただけの綾さんが駆け込んできた。慌てて駆けこんだものだから下着の袖を戸棚に引っ掛けた。下着がするりと滑り落ちる。
裸体の綾さんは「きゃっ」と叫んで体を手で覆った。びっくりしたのはくいっさである。
「おらあ、見ただがや、こんもりとしたおっぱいをなあ」くいっさはため息をつく。
風呂上がりの綾さんの肌はうっすらと桃色がかって輝くような白さだった。畳の上のどんな釉薬よりもきれいだったとくいっさは語る。
「きれいだったがや。男みてえに働いとるだらあ,ええ体しとっただがや。ああ、あまてらすさんだがや」
くいっさの表情にはいやらしさはなかった。何度もため息をつきながら「あまてらすさんだがや」つぶやくのだった。
綾さんは素早く下着を羽織ると帯を締める。
「くいっさあ、見たあ」くいっさの顔を覗き込むように見ると、あけすけに言った。
「おらあ、何もみとらんだがや」くいっさはかわいそうなほど、おろおろして畳のヘリばかり見ていた。大きな体を小さくしてかしこまっていた。
「綾、何ちゅう言い方しとるだあ、男みてえに、ちったあ女らしくしれや」旦那さんが舌打ちする。
くいっさは上気した綾さんを見た。長い髪を無造作にかきあげてだけの瓜実顔が桃色に光っていた。
「おらあ、その時から心に決めただがや。死ぬまで嬢っちゃに仕えるとなあ」
嬢っちゃあはいずれ婿さんを迎える。おらあは嬢っちあのためにもっともっと頑張らなあかんと思っただがや。
くいっさの脳裏には綾さんの白い肢体が焼き付いた。
「あんなきれいな肌みたことねえだがや」
半年1年と経つうちに釉薬の数が増えていく。綾さんは丹念に資料を作り上げていった。くいっさな事務所の横のバラック小屋に棚を作った。棚に釉薬の焼き物を並べていった。
ある時、綾さんは赤色を出すことに精を出していた。純粋な赤色、綾さんの言葉で言えば血のしたたるような赤を出すことを希望した。
「ねえ、くいっさ、赤を出すって、むつかしいわねえ。死体を窯の中に入れて焼いたらどうかしら」
「えっ!死体って、あの人間だかや」くいっさは驚いて綾さんを見る。
綾さんは何でもないかのようにこくりと頷く。
「そりゃあ無理だがや」「そうねえ、無理よねえ」
話はそれで終わったが、くいっさの心に深く刻み込まれていった。
綾さんは中学校を出て数年後、西洋の陶磁器、主にタイルや便器、洗面器などの釉薬について勉強するために、関製陶所の取引先の問屋さんの招きで、東京に行くことになった。3年ばかり東京で西洋の陶磁器のことを学ばせて、婿養子を迎える。そのうえで関製陶所を土管屋から脱皮させようとするのが、旦那さんの計画だった。
綾さんの立ち居振る舞いは男みたいだが、鄙にもまれな美貌で、おつむもずば抜けている。旦那さんは綾さんに関家の将来を託そうとしたのだった。綾さんに異論があるはずもなく、くいっさに後を託して東京へ行った。
くいっさは寂しかったが仕方がない。
綾さんに言われたことを忠実に守って、仕事に精を出していた。
1年が過ぎ2年目になった。くいっさは色のついた夢を見る男だった。
「嬢っちゃの裸をみてえから、おらあ、嬢っちあの肌の色ばかり夢に出てくるんだがやあ」
綾さんが1日も早く帰ってくることばかりを念じていた。
2年目に入っての間もなくのこと。工場をの裏手にある、納屋を改造したばかりのくいっさの住まいに、奥さんが血相を変えて飛び込んできた。
「くいっさあ、起きてくれやあ!」奥さんの金切り声にくいっさはぱっと跳ね起きた。
「奥さあ、何だあ」
「東京から電報が来ただがやあ。綾がなあ行方不明になっただがや」
旦那さんは警察へ行っている。奥さんは取り乱して要領を得ない。
今と違って、東京へは気軽に行けない。電話とてまだ通じていない。旦那さんは奥さんを伴ってあたふたと東京に行った。くいっさは気が気ではなかった。仕事も手につかなかった。何がどうなっているのか、皆目わからない。
綾さんが行方不明になったというニュースだけがたちまちのうちに広がった。関製陶所内でも、人さらいにさらわれたとか、神隠しにあったとか、一服の時間に、大きな声のひそひそ話で綾さんの事でもちきりだった。
悪いことにならなければよいが・・・。くいっさの心配は現実のものになった。1週間後、綾さんは遺骨となって奥さんの胸に抱かれて帰郷した。
くいっさの悲嘆は大きかった。それ以上に旦那さんと奥さんの悲しみは大きかった。
奥さんは寝込んだ。3か月後、綾さんの後を追うようにして亡くなった。旦那さんも精彩を失っていった。
東京で何があったのかは知らされなかった。旦那さんも口をつぐんだままだった。関家の名誉を守るため、警察も綾さんの死因を公表しなかった。憶測が憶測を呼ぶ、綾さんの死因が怪奇的な、いかがわしい風聞になって人の口に登るようになった。
くいっさは黙々と仕事に励んでいた。
釉薬の焼き物も、綾さんのメモ帳に従って続けていた。うわぐすりの配合も、綾さんの指示通りにメモしていった。
綾さんが死んだ今、そんなことはやめとけと、弥っさが言うが、くいっさは耳を貸さなかった。釉薬の研究や窯焚きをしていると、綾さんが側にいるような気になるのだった。
綾さんが亡くなって半年後、おかしな男が関製陶所にやってきた。
常滑は田舎町である。従業員はその周辺の者か、町内の者に限られている。どこぞの誰と言えば大抵判ってもらえる。雇うほうも安心できる。
そのおかしな男はどこから来たかも不明だった。職人を雇う場合旦那さんが面通し(面接)する。しかし旦那さんは精気が抜けたようで、1日中屋敷内をぶらぶらしているだけ。時たま事務所に顔を出して銀行屋さんと話をするが、すぐに屋敷内に引っ込んでしまう。
仕方がないので、弥っさあとくいっさが面通しする。
男は小柄で瘦せていた。目だけがぎらついている。寡黙で側にいるだけで息が詰まりそうだった。
「おめえ、どっから来たんだや」弥っさあが聞く。
土管造りはほとんどが手作業である。人手はいくらあっても足りることはない。
4基ある窯をさらに2基増やしている。窯焚きのできる者が3人4人と増えていく。仕事場も増設している。声をかければ人手は集まるが、関製陶所は拡張を重ねていたので人手はいつも不足していた。
弥っさあは人使いもうまく、今は番頭の役目も兼ねて、面通しも任せられていた。
町内の者なら、いちいち仕事のことを教えなくても判っている。要は手当てをいくら出すかである。
この痩せた男はここで働きたいというだけで給金をいくらほしいとは言わない。住むところと飯だけ食わしてくれれはそれでよいというだけ。
「国はどこだや」言われても答えない。
弥っさあは思いあまって、警察へ突き出すかやとくいっさに相談した。よそ者や流れ者を嫌うのである。
「お前、本当に金要らねえのかや」くいっさが念を押す。男は頷くのみ。
「警察へはいつでも突き出せるしなあ。それに警察に突き出すとなあ、なんだかんだと,お上がいちいちうるせえ事言うだらあ。ここは1つ使ってみまいか。人手がたらんしなあ」くいっさは弥っさあの顔を見る。
くいっさは続ける。
「使いもんにならんかったら、追い出したらええがな。おらあ警察やだだよ」
弥っさあはいちいち頷く。
「使うのはええが、くいっさ、おめえが面倒みるだがや。ええだかや」
くいっさは了解した。
「おめえ、名前ぐらい言えや」
「武藤伸夫と言います」
「東京もんか?ことばがきれいだがや」
くいっさは穴の開くほど男を見る。瞬間、くいっさの脳裏には綾さんの白い顔が浮かぶ。
「まあ、ええだわ、おめえ、これから“のぶ”よぶぞ。ええか、のぶ、仕事はきついぞ、怠けたら追い出すぞ、よう覚えとけや」
弥っさあはくいっさに注意する。
「ノブはくいっさの遠い親戚として、皆に紹介しろ。三河からの出とでも言っとけ。流れもんを雇ったとなると警察から呼び出しがかかるかもしれんからなあ」
くいっさは言われた通りに皆に紹介した。
「おめえ、そんなやせっぽちで仕事、できるだかや」
「国は三河のどこだや」
しばらくの間,のぶは無遠慮な好奇心の目にさらされた。のぶは石にように黙りこくったままであった。
1ヵ月が過ぎ、2か月がたった。のぶは工場の雰囲気にも慣れてきた。彼を変な目で見る者もいなくなった。
はじめのうち,くいっさはのぶに女の仕事をやらした。曲がりものを作らしたり、3寸、4寸の小さい土管を作らしたりした。
のぶは頭がよく、仕事の流れは一辺で覚えた。呑み込みも早く、手先も器用だった。くいっさはのぶを自分の手足として使うのに役に立った。
しばらくして、弥っさあは旦那さんに申し出てのぶの給料を出してもらった。給料をもらってものぶは嬉しそうな顔をしなかった。のぶに好感を抱いていただけに、くいっさはがっかりした。
朝7時から夕方6時までのぶはこまねずみのように働いた。どんなにきつい仕事を与えても根をあげなかった。釉薬の仕事も手伝わせるようになった。夕方仕事が終わると若い衆は盛り場に繰り出すが、のぶは風呂に入ると、お屋敷の女中さんが作ってくれる飯を済ますと寝てしまう。くいっさは色々質問するがのぶは沈黙を守り通すだけで、布団をかぶって寝てしまう。
「まあ、ええか」くいっさはそれ以上追及しない。
窯焚きの日は別として、くいっさは夕方6時に仕事を終えると一杯やって11時頃に布団にもぐる。6帖1間ののぶとの2人だけの生活だが,のぶは大人しく、おしの様に黙りこくっているので、話し相手にはなれない。くいっさは酒が好きだが、酒場までくりだす事はなかった。
くいっさにとって、女は綾さんだけだった。女に手を出したり、お尻を撫ぜることはしなかった。綾さんへの冒涜のように思われたのだ。
「おらあ、夢ン中で、嬢っちゃの白い肌を見るんだがや。手を触れるこったあ出来ねえ、たとえできたとしてもそんなことしたら嬢っちゃにど叱られるだあ」
酒を買ってきて部屋で飲む。酒は強い。肴は塩やみそ、干し魚などで、時間をかけてちびりちびりやる。
朝6時に、お屋敷の女中さんが「くいっさ、飯だがや」呼びに来る。それまでに寝ている。
お屋敷の台所で朝食を済ます。のぶはすでに起きて本を読んでいる。
「何だあ,何読んどるだあ」くいっさが尋ねてものぶは笑うだけでとりあわない。くいっさは平仮名や簡単な漢字の読み書きができるだけなので,のぶが何を読もうと取り合わない。
くいっさはのぶに好感を抱いていた。唖のように無口だが、仕事は真面目にてきぱきとやっていく。夕飯を済ますと寝込んでしまうが、手がかからず、気楽な奴だと思った。
のぶが来てから5か月がたった。端から見ても力仕事に慣れてきたのが判る。くいっさは釉薬の窯焚きの手伝いを任せていたので、そろそろ窯焚きを一任させようかと考えていた。
そんな矢先・・・。
「おらあ、あんときほど、ぞっとした事はねえだがやあ」くいっさは大きな目を一層大きくして話を続ける。
「あの日、窯焚きが終わってなあ、夕方の4時頃だっただわあ。火を止めてなあ。おらあ五右衛門風呂に入っただわあ、飯食って、そのまんまふとんにもぐりこんだんだがや。えらかったでなあ。なにせ昨日の夕方5時ごろから今日の4時頃まで仕事だらあ、眠らんで窯焚きしとったでなあ。布団に潜り込むとぐうすか寝ちまっただがや」
のぶは6時まで仕事。そのあと風呂入って飯食って寝てしまう。 その夜くいっさは真夜中まで気持ちよく寝ていた。1時過ぎ深く寝入ったので目が覚めた。
「おらあ、釉薬の窯焚きをするようになってから、嬢っちゃから古い柱時計をもらっただがや。ぼんぼんと時を打つもんで、ボンボン時計というただがや。目凝らして見ると1時半だがや」
隣を見るとのぶがいない。夜の8時9時なら別におかしいとはおもわない。
・・・あれ・・・と思うのが当然である。くいっさはまんじりともせずに布団の中でじっとしていた。
30分くらいして、ボンボンと柱時計が2つ鳴った。
ああ2時か、そう思ったとき、入り口の引き戸がガタガタ鳴って,のぶが入ってくる。そのまま隣の布団に潜り込んだ。
朝くいっさはのぶに真夜中にぞこに行っていたと詰問しようと思った。しかしのぶの顔を見て何も言わんことにした。
のぶはいつもと変わらむ表情をしている。それに釉薬の窯焚きを手伝わせたばかりだ。詰問してぱっと仕事を辞められたら困る。それにのぶだって、20代の男だ。女を買いに出かけているのかも知れない。
夜、のぶが布団に潜り込んでしまった後、くいっさはちびりちびりやって9時頃床に就いた。隣に寝ているのぶが気にかかって寝付かれずうつらうつら時間を過ごす。
ぼんと柱時計が1時になる。その音を合図にのぶが起き上がる。上着を羽織る気配がする。足を忍ばせて土間を降りて引き戸を開けて外へ出る。くいっさは耳を目にして気配を追った。
「出ていった」くいっさはのそりと起き上がって、上着を羽織るとすぐに引き戸を開けた。小柄なのびが首を縮めて裏山の方に歩いていく。
関製陶所は西の方に屋敷がある。3千坪の敷地の中央から北に工場が有る。東側と南側の空き地に土管が山積身になっている。
くいっさの住まいは屋敷の東側、工場の北側にあり、釉薬用の饅頭型の窯もある。
半月が輝いている。雲はない。のぶの後ろ姿がはっきりと見て取れる。裏山への道をのぶは軽々と登っていく。半年余の力仕事に耐えて、筋肉もついている。逞しさが後ろ姿からでもわかる。
くいっさはほどほどの距離をとって後をつけた。
・・・どこへ行く気だや・・・この方角に町はない。あるのは山や墓場だけだ。
のぶは丘の上の釉薬用の窯場を見向きもせずに歩いていく。窯の北東に墓地がある。常滑は小さな墓地が点在している。大抵はお寺の敷地内にあるのだが、ここは墓地がある。
くいっさの生まれたころは土葬だった。今は火葬が奨励されている。現在は火葬場は市役所が管理しているが、当時火葬場は墓所内にあった。火葬を専門とする者がいた。くいっさはその者をよく知っていた。よくしゃべる男で、人を焼く時の状況をうんざりするほど聞かされていた。
「おそがねえかや」誰もいないところで、ただ1人で死体を焼くのである。くいっさは薄気味悪がって聞いたことがある。
「なれりゃ、どうってことねえがや」彼はカラカラ笑う。
「焼きすぎると骨も粉々になってしまうだがや」男は喋るのが楽しいのかニタニタ笑う。
「焼きがあめえと、骨に肉がぶすぶすこげつきやがってなあ、えりゃ臭せいだがや」
要は人を焼くのも土を焼くのも火加減が大事というのだ。
くいっさは人を焼く時のありさまを思い浮かべて身震いした。
「のぶのやつあ・・・」くいっさは肌寒さに身を縮めた。6月も上旬、少し寒い夜だった。
のぶは墓地の中に入っていく。墓地は南北に細長く、墓地の中央に焼き場があった。のぶはためらいもなく墓地の中を歩いていく。ひときわ大きな墓の前で止まる。関家代々の墓である。
のぶはその前でうずくまった。石になったように身じろぎもしなかった。
くいっさは後ろの方で,のぶの動きを見守っていた。
「のぶのやつあ・・・、いってえなにしとるだあ・・・」くいっさはのぶの不可解な行動に胸が高鳴る。
大の男でも、こんな真夜中、こんな場所には来ない。背後から幽霊にでも抱きつかれやしないかとびくびくものだった。
「のぶのやつ、何やっとるだあ」声を駆けて、側に寄ってみたい気がする。
しばらく身動きしなかったのぶが、ゴソゴソしだした。墓の前で何かやっているらしい。くいっさは見え隠れしながらのぶの背後に迫った。
うずくまったのぶは手に白いものを持っていた。夜目のきくくいっさは目を凝らした。
「あっ!」思わずあとずさりした。のぶは骨をしゃぶっていたのだ。
「誰だ!」のぶの鋭い声。手に骨を持ったまま、のぶは幽霊のような姿で1歩1歩近づいてくる。その口には白い骨の塊がこびりついていた。
「くいっさ!」のぶは口から骨をプイっと吐き出す。
「のぶ、てめえ・・・」くいっさはようやくこれだけを言い放つ。骨の白さが墓石の下に浮いて見えた。
「くいっさ、何で・・・」のぶの細い声がする。
くいっさはようやく人ここちがついてきた。
「のぶ、何やっとっただあ」くいっさは日ごろの大声を出した。
のぶは無口になって顔を伏せた。
「骨をしまえ!」くいっさの怒鳴り声に、のぶは慌てて、散らばった骨を墓石の中に収めた。
くいっさはのぶを引っ張るようにして、丘の上の窯場まで連れてきた。裸電球をつけたとき、さすがのくいっさもほっと息を抜いた。
「ノブ、何やっとただあ」
のぶはしかし答えなかった。
「今のまんまじゃ警察に連れていくしかねえがや。そんでもええだかや」くいっさは声を落として、語り掛けるように言った。
のぶは不安そうな顔をくいっさに向けた。警察が怖いのか「このままにしてくれるか」哀願するように言った。
「話の中味によっちゃ、このままにしておいてもええがや」
くいっさは一息ついてから、「おらあ、てめえがよう働くもんで、窯焚きを教えてやらんとなあと思っとったとこだがや」優しい声で言った。
のぶはうつむいたまま、黙りこくっている。
「しゃねえなあ、警察へいこまいか」くいっさはのぶの腕をつかむ。
「言うからこのままにしてくれ」のぶは意を決したように話し出した。
「俺は東京から来た」のぶは言う。
「ほんじゃあ、おめえ・・・」
「綾さんを殺したのは俺だ」
「何だと、嬢ちゃあを殺しただと!」くいっさはのぶをぶん殴る。のぶは口から血を出しながらも抵抗しなかった。くいっさの荒い息使いが収まるのを待った。
「おれは綾さんが好きだった」くいっさの気持ちが昂るのを知りながらのぶは淡々と言った。
「あんたら田舎もんだから、東京と言えば金持ちばかりが住んでいると思っているようだが、むしろ貧乏人のほうがはるかに多い」
のぶが何を話だすのか、くいっさはこぶしを引っ込めてのぶの口元を見入った。これほど喋るのぶを見た元がない。
「俺みたいな貧乏人を搾取する金持が憎くて仕方がなかった。日本が共産主義にならなきゃ、俺たちは仕合せにならないとな。こんなことをあんたに話しても仕方がないけどな」のぶの顔に軽蔑の色が浮かんだ。くいっさは怒りを抑えてのぶを見ていた。
「おれが綾さんを初めて見たのは、チンチン電車の中だった」のぶは懐かしそうに天をみあげる。
俺は綾さんが美しい人なので一辺に心を奪われてしまった。そう言いながらのぶは以下の様に話した。
東京広しといえどもこれほどの美人は見たことがなかった。
その美しさをどう表現したらよいのか、綾さんの服装は質素だった。俺たち労働者が着ている作業服だった。髪も後ろに無造作に束ねているだけだった。美人というそぶりも見せずいつも本を読んでいた。
俺が綾さんをじろじろ見ていると、俺の視線が気になるのか、俺の顔をチラリとみるがすぐにも本に目を向ける。
俺は下町の鉄工所に通っていた。鉄工所と言っても鍬や鋤、馬車などの金具を作っている町工場だった。仕事はきついことはどこも同じだ。
俺は小さいころに両親を失って、おば夫婦に育てられていたが、相性が悪くて、浮浪者の様に仕事を転々としていた。。俺みたいな者はまともな会社じゃ雇ってもらえなかった。仕事も住まいも一定していなかった。鉄工所も働きだしてから半年も持たなかった。仕事が嫌になれば給料をもらって遊び歩いて、金がなくなるとまた仕事を探す。そんな毎日だった。東京ってところはこんな俺みたいな奴が大勢いるところなんだ。
俺は綾さんの後をつけた。
綾さんは焼物の問屋に住んでいた。朝8時頃そこを出る。チンチン電車に乗って、ハイカラな洋館に入っていく。そこはヨーロッパの焼き物ばかりを扱う輸入商社だった。裏庭に工場が有って、綾さんはそこで焼き物の勉強をしていたのだ。
俺は給料をもらうと、仕事をやめて毎日綾さんの後をつけた。
彼女は東京の風景には目もくれなかった。彼女が常滑という片田舎から来たっていうことが信じられなかった。田舎もんは馬鹿丸出しで東京見物をする。だぶだぶの新調の服を着て、金魚のうんこみたいに、ぞろぞろ列を作って歩く。一見して田舎もんと判る。
綾さんは着飾った女が歩いていても目もくれなかった。
東京の女、と言ってもすべてがすべてというのではないが、自分を美しく見せようとあくせくする。ちょっと身ぎれいだと鼻にかける。他の女とは違うんだばかりに意識しないと生きる甲斐がない連中が多い。ちょっと学があるとそれを誇ろうとする。
綾さんは他人が自分をどう見ようと意に介そうともしない。自分が絶世の美人だと思っていないのか、俺は綾さんを見ながらそう思っていた。
俺は綾さんにキスしたい、抱きしめたいと思っていた。こんな素晴らしい女を抱くのは男冥利に尽きると思った。一緒になれれば、いくら貧乏でもよいと思ったのだ。
のぶは今にも食いつきそうなくいっさの顔を見て薄笑いを浮かべた。殴るなら殴れ、不敵な面構えだった。今まで見たことのないのぶの表情だった。くいっさは圧倒されてのぶの話に聞き入るのみだった。
綾さんは夕方8時になると、近くの銭湯に出かける。風呂上がりの綾さんの顔は夜目にも白く浮かんで見えた。俺の胸は高鳴った。
綾さんの住まいから銭湯まで歩いて10分。その間に曲がり角があり、暗い路地がある。彼女を拉致するのはそこしかない。俺は計画を練った。クロロホルムを薬局で買った。脱脂綿に含ませて待ち伏せした。
クロロホルムを沁み込ませた脱脂綿で彼女の口と鼻を覆って、羽交い絞めにする。この計画は案外簡単に進んだ。ほんの数秒、彼女は抵抗したが、すぐにもぐったりした。
俺はあらかじめ探しておいた空き家に彼女を運び入れた。そこは周囲に人家もなく1年くらい前から空き家になっていた。東京の下町近辺ではこうしたところがあちこちに点在していた。仕事がうまくいかず夜逃げする者もおおかったのだ。
家は50坪くらいのひろさ。夜具から台所用品までそろっていた。部屋を閉め切って、建具などで窓をふさぐ。ローソクの明かりが漏れないようにする。
食料は4~5日分ため込んである。俺は彼女と生活で出来ることがうれしくて仕方がなかった。
綾さんを後ろ手に縛り上げて,猿轡をかましておいた。しばらくすると彼女は息を吹き返した。俺の顔を見て、大きく目を見開いて声を挙げようとする。
「俺を知っているだろう。チンチン電車でいつも一緒だった。俺はあんたが好きだ。あんたを抱きしめたい」
俺は包丁をちらつかせながら
「猿轡を解いてやるよ。声をたてるなよ。そのかわいい顔に傷がつくぜ」俺は凄みを聞かせた。彼女は眉を寄せながら頷いた。俺は猿轡を解いてやった。
「あなた、だれ、なぜこんことをするの」彼女は歯切れのよい声で言った。
「俺が怖くないか」
「怖いわよ、体がふるえているわよ。お願いだから縄をといて、逃げないから」
「そいつあ駄目だ、あんたが心底俺に惚れるまではなあ」
綾さんは泣きだしそうな顔で俺を見ていた。歯を食いしばり、涙の溜まった目で俺を睨んでいた。
・・・なんて楽しんだろう・・・俺は奮いつきたくなるのをこらえて、彼女の白い頬に触れようと指を採出した。彼女は俺の指をかんだ。
「痛い!、このアマ!」俺は彼女の頬をひっぱたいた。
「あっ!」倒れかかった体を身構えるように、俺の方に向き直った。後ろに束ねた髪がほどけた。長い髪が半分顔を覆った。
「近づくと舌を噛み切って死ぬわよ」憎悪のほとばしった顔はぞくぞくするほど美しかった。
「死にたけりゃ死ねよ、裸にひん剥いて道端にほっぽりだしてやるから」俺はせせら笑った。
彼女の眼からは大粒の涙がぽたぽたと、こぼれ落ちた。
「お願い帰して・・・」
俺は彼女を裸にしてやろと思ったが、本当に舌を嚙み切られるたらかなわないと思って、そのままにしておいた。
深夜になった。俺はパンを取り出した。
「食べるか」俺は彼女に突き出した彼女はかぶりを振って俯いたままだった。
俺は彼女を無理やり犯すのには気が引けた。出来ることなら彼女の気持ちが落ち着いてから抱きしめたかった。
俺は色んなことを喋った。彼女は俯いたまま身じろぎもしなかった。それでも俺は自分の生い立ちから今日までのことをとりとめもなくしゃべった。
明け方になった。さすがの俺も眠気のためにうつらうつらしかけた。
「誰か、助けて!」突然彼女は金切り声を挙げた。
「このあま!」俺は彼女の口の中に布切れを押し込んだ。
「大声を出すなと言っただろうが!」俺は気持ちが高ぶっていた。彼女も普通ではなかった。俺は彼女の気持ちが落ち着くまで気長に待つことにした。食料はたっぷりある。
俺は仮眠することにした。彼女は俯いたまま大粒の涙を流していたが、俺は無視して横になった。
朝早く、牛乳配達の牛乳瓶の音で目を覚ました。遠くの方で、ガチャガチャなる音は小さかったが澄んだような静かさの中では大きく聞こえたのだ。
彼女はうつらうつらしていた。しばらくの間、彼女が目を覚ますのを待った。1時間くらいして彼女は顔を挙げた。
「猿轡を解いてやるが、声をたてるなよ」
猿轡を解くと彼女は大きなため息をついた。
「どうだ。パンを食べるか」彼女は頷いた。俺はパンを食べさせて,水を飲ませた。
俺は彼女がゆっくりと食事を済ますのを見守った。白い顔に髪がまとわりついて妖美なな美しさだった。俺は彼女を抱きしめたい衝動にかられた。
パンを食べ終わると彼女はもじもじし始めた。
「便所か?」俺は無遠慮に聞いた。彼女は顔を赤くして小さくうなずいた。
「お願い、縄を解いて」
「駄目だ、その代わり、手を前に縛りなおしてやる」俺は慎重に後手に縛った縄をほどいて前縛りにし便所に行かせた。便所から出ると再び後手縛りに縛り上げた。
俺は綾さんにいろいろなことを聞いた。故郷のこと、くいっさ、あんたのことも聞いた。綾さんは渋々喋っていたが、夕方頃になると、俺がどんな人間で何をしているのか、彼女の方から聞くようになった。俺が何もしないのに安心したのだろう。
夜は多少深い眠りをむさぼることができた。
翌朝早く俺は彼女に食事をさせると、きつい口調で言った。
「あんたを抱きたい、裸になってくれ」
綾さんは大きな目で俺を見ていた。次に肩を落として俯いたまま、答えを拒絶した。
「服を脱がないなら俺が脱がしてやる」俺は彼女の傍に寄った。
「待って、自分で脱ぐから、縄を解いて」彼女は観念したように言った。
俺は彼女の縄を解きながら「いいか、逃げるなよ」出刃包丁をちらつかせながらすごんで見せた。」彼女は素直に頷いた。
そしてーー、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
くいっさの話は熱を帯びていた。
私は話を聞きながら、綾さんが裸になる場面を想像した。
綾さんがどんな服装をしていたかはわからない。当時はブラジャーやパンティなどがあったのだろうか。
私は塑像を逞しくして、頭の中で思い描くのだった。
綾さんは裸になった。
のぶは話す。
乳房と陰部を両手で覆い隠して、彼女は俯きながら耐えていた。立っているのがやっとのようだった。
・・・ミロのビーナス・・・絵画で見たことがある。その美しさがあった。
白く輝くばかりの裸体が恥ずかしさに耐えかねるように波打っていた。神々しいばかりの美しさだった。
綾さんは肉体労働に耐えてきている。均整の取れた、はち切れんばかりの肉体が両手から惜しげもなく零れ落ちていた。
綾さんは観念していた。身動きすらしなかった。
・・・美しい・・・俺は抱きしめたい感情から目が覚めたように彼女に見惚れた。思わず出刃包丁を取り落とした。
包丁が畳に突き刺さった瞬間、綾さんは上着を鷲づかみすると、脱兎のごとく逃げだした。玄関の戸を思いきり開けると、外へ飛び出した。
俺は慌てて包丁を拾った。彼女の後を追った。彼女は裸足だった。庭は草が生い茂っている。彼女は必死になって逃げたが、草に足を取られた。門を出た。道路のところで彼女に追いついた。
俺は彼女の肩を掴んだ。彼女は俺の手を振りほどこうとした。俺はかっとなった。彼女の肩を掴んだまま「このあま!」彼女の腹部にふかぶかと包丁を差し込んだ。たちまち彼女の腹部はあけにそまった。
「どうして・・・」綾さんは俺に抱き着くようにして崩れた。
俺はしばらく呆然としていた。牛乳配達の音が聞こえていた。俺は我に還ると一目散に駆けだした。どこをどう走ったか覚えていない。駆けながら俺は泣いた。
・・・ミロのビーナスを壊してしまった・・・何とも言えない無念さがこみあげてくる。犯してはならないタブーを犯してしまった。後悔とみじめさが身を締め付けてくる。
綾さんの光輝くような裸体が脳裏に焼き付いて離れない。彼女の傍に行きたい。俺は矢も楯もたまらずに汽車に飛び乗った。
のぶはここで1息ついた。
「くいっさ、俺はあんたの気持ちがよく判るさ。でも綾さんは俺のものだ。綾さんのものなら何でもいい、俺はこの胸に抱きしめたい」
のぶはさらに続ける。
ここに来て、俺は綾さんの事をどんなに思っていたか・・・。俺は仕事に慣れてくると、毎晩、墓の前で綾さんをしのんで泣いた。
「この中に綾さんの骨がある」そう思うともうたまらなかった。
骨は綾さんのお母さんのものかもしれない。そんなことどうでもよかった。俺は骨を取り出すと、いとほしく口付けしたり、なめたりかじったりした。
その時の何と幸福なことか。綾さんは俺のものだ。俺は心底からそう思った。
のぶは不敵な笑いを浮かべていた。挑発するような顔でくいっさをみていた。
「くいっさ、綾さんは俺のものだぜ」のぶはくくっと喉の奥を震わせっように笑った。
「この野郎が・・・」くいっさの大きな拳骨がのぶの顔に飛んだ。のぶは避けなかった。地面にたたきつけられて、顔を挙げる。くいっさを見上げる。口から血が滴った。
のぶの不敵な笑いはくいっさの神経を逆なでした。
「綾さんは俺のもんだ」
「まだ言うだかや」くいっさの拳骨は2つ3つとのぶの顔に飛んだ。
「殺してくれ。俺は綾さんのところに行きたい。くいっさ、俺を殺せ」のぶは虫の息だった。大粒の涙をためてやがてがっくりと首を垂れた。裸電球の光がのぶを包み込むように反射していた。くいっさの息は荒かった。
「坊っちゃあ、おらあ、人を殺しといてだがなあ、どえらい事しといてだがなあ、おらあには、その時はそんな気持ちはなかっただがや」くいっさは語る。
綾さんがのぶに汚されたのではないかと思った。すごく腹が立った。のぶを殺して、綾さんの仇をとったと信じていた。のぶを殺して、くいっさは清々した。
しかしくいっさの気持ちは寂しかった。
くいっさはのぶの死体を窯の中に隠した。
翌朝、くいっさはのぶがどこかに行ってしまったと触れて回った。誰も驚かなかった。
「やっぱしなあ。よそもんだがや、しゃねえだがやあ」
くいっさは釉薬の色見本を作るために3日間仕事を休んだ。釉薬の研究はくいっさの仕事の1つだから、だれも怪しまなっかった。
「おらあ、嬢っちやの言ったことを思い出しただがや。人間を焼いたらどんな色が出るか、嬢っちゃの霊がおらあをけしかけているように思っただがや」
くいっさは色んな色の釉薬を調合した。
窯は饅頭型である。一番高いところで1メートルほどしかない。直径2メートル足らずの窯である。釉薬の見本は1枚1枚タイル状にして、釉をかけていく。その1枚1枚をダンべという四角いおわんのような蓋で覆う。燃料の石炭の煤が釉薬の見本にかからないためである。一回の窯焚きで百枚程の見本しか製造できない。
くいっさはのぶの死体を色見窓から見える位置に置いた。この為に色見本は3分の2くらいしか入れることが出来なかった。約80枚の色見本を10枚単位で作った。
窯焚きは一昼夜で終わる。夕方5時ごろに火を入れると翌日の夕方5時ごろに焼きあがある。
人間の死体は2時間くらいで骨になる。くいっさは聞いたことを思い出す。一昼夜焚き上げれば骨も何もかもが残らないと推測したのだ。死体の窯焚きの要領は色見本の窯焚きと同じだと思った。
くいっさは薪で約2時間窯の中をいぶした。温度は百度くらいしか上昇しないが、窯の中の水分を抜くことが出来る。それから翌朝まで約10時間くらい3百度くらいまで、温度をゆっくりと上げる。急に上げると色見本の下地の粘土がひび割れする恐れがある。
のぶの死体は2つに折り曲げている。2~3百度までは窯の中は暗い。のぶの死体は目を凝らさないと見えない。
深夜中、肉の焼ける臭いが漏れてきた。幸い周りに誰もいない。くいっさは肉の焼けていく場面を想像して、窯焚きの間背筋が寒くなった。
「嬢っちゃあのためだ」くいっさは勇気を奮い起こして窯焚きを続ける。。
朝になる。窯の温度が8百度くらいに上げていく。正午ごろになると、窯の中は美しい橙色になってくる。のぶの死体はすでなかった。
くいっさは色見窓を見て舌打ちした。ダンベのいくつかが倒れている。
・・・人間の死体はなあ、するめと同じでなあ、百度くらいになるとなあ、手足があっちこっちと動くんだがやあ,生きかえって、もがき苦しんでるみたいだがやあ・・・
くいっさはその場面を見ていなかった。暗くて見えなかった。このことを考慮に入れていなかった。迂闊さに舌打ちしたのだ。
窯焚きが終わる。
くいっさは窯出しで色見本を出した。のぶの骨すらなかった。いくつかのダンベ倒れていた。それがかえって功を奏したのか、くいっさが狂喜するするような色見本が何枚かあった。
「おらあ、びっくりしただがや、白いようで白くねえ、桃色のようで桃色でねえ、嬢っちゃあの肌のぴったりの色が5枚でてきただがや」
何度窯焚きしても出来なかった色が出来上がった。人間の死体を焚いたからかと思った。のぶの魂がのり移ってこんなきれいな色が出来たのかと、いろいろ考えたりした。
・・・・・・・・・
それから数年足らずして、窯は放置された。戦後跡片もなく破壊された。
くいっさは兵隊にとられなかった。
「軍隊のえれーさんがきてなあ、焼き物で砲弾を作れと言うんだがや。まあいばりくさってなあ・・・」
弥っさが、そりゃ無茶だがやと言ってもなあ、無茶でも何でも作れというんだがやあ。
飛行機に乗せてなあ、飛行機ごと船に体当たりさせるから、焼き物の砲弾でいいとぬかしやがってなあ。
どっちが無茶言っとるだと、おらあ、腹んなかで言っただわ。
瀬戸でも有田でも作らせるよう命令したというんだがや。砲弾を作るためになあ、おらあ兵隊に行かずに済んだだがや。
砲弾?そんなもん出来るわけねえだがや。
常滑市内の窯屋さんの多くの職人が兵隊にとられた。そのために多くの窯屋さんは窯の火を止めるしかなかった。関製陶所も例外ではなかった。
終戦後間もなく関製陶所はつぶれた。工場はそのまま大手のタイル製造メーカーに買収された。くいっさは土管を作る事しか知らない。私の工場で働く事になった。
「くいっさが死体を焼いて作った色見本はどうなったんだや」
「おらあ、いまでも大事に持っとるだあ。おらあの宝物だがや。坊ちゃあでも見せられんだがや」
くいっさは笑っていった。
それから半年過ぎたころ、風邪がもとで、くいっさは死んだ。葬儀の後、くいっさの遠い親戚に当たるというおばさんから、これをあんたに渡すようにと頼まれたと、新聞紙に包んだ四角いものを手渡された。包みを開けると数枚のタイルがあった。
肌色というのか、薄い桃色というのか、桃色のタイルが出てきた。暖かみのある何とも言えない不思議な色だった。
・・・綾さん・・・すぐにも私は悟った・。
しかし私はそのタイルを持つ気にはなれなかった。くいっさの墓の中に入れてやった。
「くいっさ、綾さんといつまでも一緒でなあ」
くいっさの墓は関家の隣にあった。
--完ーー
お願いーーこの小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織は現実の個人団体組織とは一切関係ありません。
なお、ここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の想像であり、現実の地名の情景ではありません。